(7)
星宮に到着するとすぐに、烏鴉は男手を使って摩羯を空いている部屋の寝台に運んだ。
摩羯の白馬は主の移動を察したのか、大図書館の厩舎を飛び出してついてきたが、烏鴉の星宮の者が連れて行こうとすると大暴れして威嚇し、そのまま逃げていった。
烏鴉が治療の準備をする間、天鵝は摩羯のそばに座り、その苦しげな顔に浮かぶ大量の汗をぬぐってやった。
摩羯は時々まぶたを薄く開けては閉じている。自分の状況どころか、誰が近くにいるのかすらわかっていないようだ。
「姫様、手伝ってくださいますか」
塗り薬を持ってきた烏鴉が寝台脇の円卓に薬を置く。二人で協力して摩羯の体を横にし、服を脱がせた。血はまだ泡を噴いて垂れ落ち、背中にも胸にもできた傷口の黒ずみがまだらに広がっていることに、天鵝は悲鳴を飲み込んだ。
烏鴉が水を湿らせた布で一度傷をきれいに拭いてから、塗り薬を塗り込んでいく。丁寧というより堪能するかのごとき淫靡な指の動きに、天鵝は嫌な気持ちになった。
自分よりはるかに色気のある女性だから、うがって見えるだけなのか。しかし、それにしては……。
「さすがは衛士団長、惚れ惚れするほど男らしい肉体だわ。そう思いませんか、姫様?」
摩羯の背中に薬をつけ終えた烏鴉が、今度は厚い胸板のほうへ指をはわせる。時折小さく身震いする摩羯の反応に黒眸を細めて微笑みながら、ゆっくりとなで回す烏鴉に、天鵝ははっきり不快感をいだいた。
やはり、この薬師は楽しんでいる。
だが、治療には変わりない。天鵝は目をそらして苛立ちを心から追いやろうとした。
ようやく烏鴉は指を離すと、きれいな白布を傷口にあて、包帯を巻いていった。そして上衣をまた着せてやっていたとき、烏鴉の手が摩羯の首飾りに当たった。
バチッ
烏鴉が短く悲鳴をあげて手を引く。
「まあ、何かしら。ずいぶん危険なものを身に着けているのね」
烏鴉の細い眉がひそめられる。それすら美しいと思える動きだったが、天鵝はそれどころではなかった。
(今のは――まさか……)
「後で痛みどめをお持ちしますね。姫様、何か召し上がりますか?」
烏鴉が天鵝をかえりみる。
「いや、いい」とかぶりを振ったとき、星宮の外に複数の馬のいななきが響いた。
まもなく現れたのは、衛士団長の天蝎と双子、そして室女たち地使団員だった。
「姫様、ご無事でしたか」
部屋へ入ってきた衛士たちが、寝台で眠る摩羯を囲む。
「大勢で押しかけてくるなんて、いくら何でも無作法ですよ」
「失礼、急を要すると判断したので。摩羯の容態は?」
尋ねる天蝎に、烏鴉は流し目を送った。
「毒矢を受けられたようです。今、ひとまず治療を終えたところです」
「毒?」と双子が眉間にしわを寄せる。室女たちも動揺のさまで互いを見合った。
「赤冠薬師でなければ治療薬をつくれない毒でした。偶然私が通りかかるなんて、この方は運がいいわ」
部屋は空いているので、このまましばらくここで療養させましょうと言う烏鴉に、天鵝は「断る」と即答した。
あまりにも鋭い口調に、衛士たちが目を丸くする。天鵝はかまわず続けた。
「室女、お前の星座が一番近いな。そちらへ摩羯を移したい」
「承知いたしました。しかし姫様、治療は……」
「天箭を呼ぶ」
帝室の侍医の名を告げ、すぐに手配するよう天鵝が指示を出す。「私が参ります」と天蝎が手を挙げたので、天鵝は摩羯の状態を簡単に伝えて送り出した。
「今無理に動かすと、毒の回りが早くなって快復が遅れますよ」
馬車の用意も命じる天鵝に烏鴉が忠告する。一瞬天鵝はためらったが、じっと烏鴉を正面から見据えた。
「あとはこちらで対処する。世話になった」
烏鴉はそれ以上粘ることなく、ややあきれ顔で小さくため息をつくと、出て行った。
「よくここがわかったな」
「氷綺だけが衛府へ戻って参りまして、こちらへ案内してくれました」
双子の返答に、天鵝は感心した。自分で主を選ぶだけあって、白馬は本当に賢い。
「姫様、申し訳ありません。刺客を追い詰めましたが、味方がいたようで逃げられました」
畢子が悔しそうに天鵝に頭を下げる。
「かまわない。ご苦労だった。お前にけがはないか?」
天鵝のねぎらいに、畢子は「私は大丈夫です」と答え、痛ましい姿の摩羯を心配そうに見やった。
「畢子、天箭が来たら、お前には治療の手伝いを頼みたい」
「お任せください」
新しい任務を請け負ったことで畢子は少し落ち着いたらしく、弱々しいながらも笑みを漏らした。
衛士たちはここへ向かう間に、大図書館で起きたことを畢子から聞いていたようで、特に視察の護衛を担当していた室女たちは気落ちしていた。
「すまなかった。私が一人で出かけたばかりに……」
摩羯の言うとおりだった。室女たちに気を使わせないようにと思ってのことだったが、自分の勝手な行動のせいで、結果として摩羯にも室女たちにも迷惑をかけてしまった。
「もし許してもらえるなら、今後は誰かに付き添いを求めることにする」
「ぜひお願いいたします。我々はいついかなるときも喜んで、姫様のお供をいたします」
しょんぼりする天鵝に室女がにこりと笑う。後ろで大きくうなずいている地使団員たちを見て、天鵝は胸が温かくなった。
衛士は皆、優しく自分を受け入れてくれる。それがとても嬉しくて、だからこそしっかりしなければと思った。
彼らの好意に甘えすぎないように。当たり前だと軽んじないように。
やがて、馬車が到着したとの知らせが来た。双子と地使団員が大きな板にゆっくりと摩羯を乗せて運ぶ。板ごと乗るくらい大きな馬車に摩羯と一緒に乗り込んでから、天鵝はようやくほっとした。
室女が天鵝の隣に腰を下ろし、双子の号令で馬車と衛士たちは出発した。
「無理を言ってすまない。だが、あそこに摩羯を置きたくなかった」
「何か問題がありましたか」
「……単なるわがままだ、私の」
摩羯の体をなで回していた烏鴉の細い指先を頭から振り払いたくて、天鵝は馬車の窓外へ視線をそらした。
星座ヴィルゴに入った馬車は、できるだけ振動が大きくなりすぎない程度の速さで、室女宮を目指した。
痛みどめをもらう前に発ったので、摩羯の呼吸はどんどん乱れ、汗が流れ続けている。途中で双子の水筒を借りて水分をとらせたが、摩羯はむせて茶をこぼしてしまった。
不安ばかりがふくらんでいく中、ようやく室女宮に到着した。馬車を下りると、天箭はすでに来て待っていた。
「天箭、呼び立ててすまない」
「お気になさらず。水使団長殿より症状は聞いております」
もうかなり高齢だがまだ矍鑠としている天箭が、板に乗せたまま馬車から下ろされた摩羯の額に手を置いた。難しい顔つきで手早く摩羯の服をはいで包帯も取り、傷口を確認した天箭は、歯がみした。
「またやっかいな毒に当たりましたな」
摩羯の体を蝕んでいるのは、天の川の星屑に隠れ住む『ヒカリススマダラ』という毒蛇の毒だという。蛇自身の体は光り輝いているが、かまれると患部が黒くなり、そこから煤がまだらに散っていくように全身に黒ずみと痛みが広がる。
「命の心配はないのか」
「体力のない者であれば危険ですが、衛士ならば安静にさえしておけばもちこたえるかと。ただ、これ以上は動かさぬほうがよいでしょう」
斑点が広がれば広がるほど完治は遅れるのだという天箭の言葉に、天鵝は唇をかんだ。
「まあ、烏鴉のもとに置いておくのは問題でしょうから、多少無理をしてでも引き取ってよかったかもしれませんな」
そのまま慎重に部屋へ運ぶよう天箭が指示し、双子たちが摩羯を連れて行く。
「あの女は頭も腕もよいのですが、好色が過ぎるところがありまして。いい男がいるとすぐちょっかいをかけようとしますので、地使団長殿など格好の獲物だったでしょうな……いや、失礼。姫様にお聞かせする話ではありませんな」
苦々しげに毒を吐いてから、天箭は思い直したように天鵝に苦笑を投げ、長いあごひげをさすった。
まさにそのちょっかいを目撃したのだという愚痴を、天鵝は飲み込んだ。
「痛みどめはまだですか。それならばすぐに飲ませましょう。塗り薬は一日二回を朝晩に分けてつけますので、烏鴉がちゃんと治療を施したのであれば、今日は必要ありません。痛みが引くまで汗をかき続けますので、こまめに体を拭き、水分をとらせてください」
天鵝と並んで歩きだしながら、天箭が後ろをふり向いた。
「畢子、薬はわしが用意するから、地使団長殿の介護はお前がせい」
衛士の体をひっくり返すほどの力はないからの、と言う天箭に、畢子が小走りに寄ってきた。
「もとより姫様からそう命じられています」
「おお、そうか。ところで勉学は進んでおるだろうな?」
「ぬかりはありません」
「絶対はないんじゃ、馬鹿者」
天箭がじろりと畢子をにらむ。畢子は肩をすくめた。
「知り合いか?」
「孫にございます。子も孫も弟子も塵芥ほどいるというのに、赤冠薬師にまで届きそうなのがこやつ一人でして」
「爺様が誰も彼もをしごきすぎるからですよ」
「それなのに、衛士になりおって」
畢子の文句に耳を貸すつもりはないらしく、天箭はぶつぶつ独り言をこぼしている。どうやら、自分の跡を継いでほしかったらしい。
「私は団長の下で働きたいんです」
柔和な見た目のわりに、畢子はしっかりした意志があるようだ。
天箭がふんと鼻を鳴らしてすたすた歩いていく。不満顔かと思えば意外と誇らしげだった天箭を見て、畢子は自慢の孫なのだなと天鵝は笑った。
天箭の痛みどめが効きはじめてから、摩羯の様子は少し落ち着いた。数日間は痛みが続くとのことで、定期的に薬を飲ませる必要があるという。
今夜だけは自分に看病させてくれと畢子を退出させ、摩羯と二人きりになった室内で、天鵝は摩羯を見つめた。
寝台脇の灯火一つが時折こげた臭いを放つ。寝息を立てる摩羯の脇に静かに腰を下ろしたものの、なかなか勇気が出なかった。
それでも確かめたい。
意を決してそろりと摩羯に手をのばす。開いた胸元で鈍く光る、丸みを帯びた首飾りを前に、天鵝は生唾を飲んだ。
もし違っていたら。
がっかりはするだろうが、それはそれで仕方ない。
指が震える。おそるおそる触れた首飾りは――何の反応もしなかった。
鎖をはずし、首飾りをつかむと、カランと小さな音がした。
中が空洞になっているのか。何か入っている?
思い切って球の上部をひねってみると、動いた。
クルクルと回していくうち、ついにふたとなっていた上部がはずれる。
(ああ……)
てのひらにころんと落ちてきた小さな耳飾りを見たとき、天鵝の視界が涙でゆがんだ。
八年ぶりに出てきた耳飾り。
傷一つなく淡く輝く青紫色の玉は、間違いなく自分の耳にあるものと対になる玉だ。
自分と、これを下賜した者にしか触れることができない、信頼の証。
「お前だったのか」
やっと見つけた――右手で耳飾りを、左手で摩羯の手をにぎり、天鵝は目を閉じた。
なぜ、『牛宿』はいないと言うのかわからない。ずっと正体を明かさずにいた理由も。
しかしもう、二度と行方をくらましてほしくない。嗚咽を飲みながら、天鵝はずっと会いたかった存在に今触れたことに、歓喜した。
星宮内の薬草庫で、痛みどめの材料を再び棚に戻していた烏鴉は、背後から抱きついてきた相手に一瞬びくりとした。
「いきなりはやめてと言ったでしょう? 心臓に悪いわ」
「皇女もあの人も同時に捕まえる計画はどうなった?」
「仕方ないでしょう。姫様がここを出ると言ってきかなかったんだから」
賢い白馬のせいで衛士に二人の居場所がばれてしまったし、一度ここを去ってもらわないとむしろ困ると、烏鴉は肩をすくめた。
「わざわざ赤冠薬師にしか治療できない毒を使ったのにな。まさか、皇女が何か勘づいたのか?」
その心配はないわね、と烏鴉はおかしそうに笑った。
「姫様は、地使団長のことがお好きなのね。私に嫉妬したの。かわいらしい方」
「皇女が嫉妬するようなまねをしたのか」
男の手が烏鴉の首をつかんだ。軽く締められ、烏鴉はうめいた。
「必要以上に手を出すなと言ったはずだけど」
「ほんのちょっとだけよ。仕事のできる一途な男って魅力的だもの……心配しなくても、あなたから奪おうとは思ってないわ」
私だって命は惜しいもの、と言う烏鴉の首を、ようやく男は解放した。
「皇女は、あの人の正体にまだ気づいていないのか?」
「今まではそうだったようね。知らずに二度も惹かれるなんて、すばらしいわ。そうそう、姫様の耳飾り、彼は今でもちゃんと持っているわよ」
どうやら首飾りの中に隠していたようだと、烏鴉は教えた。
「治療のときにうっかり触ってしまって、指先がしびれてただれるかと思ったわ。あれでもしかしたら、姫様も気づいたかもしれないわね」
男は鼻を鳴らした。
「あの人が接触を避けていたから見逃してやっていたというのに、愚かだな」
「本当にあなたはお兄さんが大好きね。その執着の少しでもいいから、私に向けてくれないかしら」
「もしあの人を篭絡させることができたら、奪いにきてやるよ……その前に、あなたを殺すけど」
男が烏鴉の首筋につうっと指をはわせる。烏鴉が身をくねらせてあえいだ。
「いっせいに仕掛ければ、あの人は動かざるを得ない。のんきに寝て過ごすような人じゃない」
「そんなことをしたら、大事なお兄さんが死んでしまうかもしれないわよ?」
「とどめを僕がさせるなら、かまわないさ」
冷笑し、男は自分の左目に手を当てた。両眼とも緑色だが、片方は兄から譲り受けたものだ。
いつだって、分け合ってきた。兄のものは自分のもの――兄は自分だけのものだ。
例外は許さない。手に入れられないなら、破壊してやる。
たとえ、それが兄の命であろうと。
仙王宮で仙王帝と話をしていた猟戸皇子のもとに、摩羯の負傷の知らせを天蝎が届けたのは、夜も遅い時分だった。摩羯は室女宮に移され、今は天鵝がそばについているのだという。
「それで、摩羯の容態は?」
「今は少し安定しているようですが、しばらく動けぬかと」
「矢を射た者はわからずじまいか」
「はい。ですが畢子の話によりますと、姫様を狙うように見せかけて、真の目的は摩羯だったのではないかとのことです。相手の技量がもし正確であった場合、摩羯が姫様をかばうのを見越して矢を放った可能性があると」
矢はちょうど摩羯の肩に刺さった。背の高さを考えた場合、天鵝には当たらなかったか、かろうじて頭頂部をかする程度だったということになる。
「毒矢を用いたのであれば、摩羯の足止めが濃厚だな」
「それから、摩羯が調べた病の中で気になるものがありました。現在獅子が火使を率いて捜査にあたっています。また、数日前に消えた十六歳の少年が馬車に乗るのを目撃したとの情報が入りました。こちらは我ら水使団が追っていますが、足取りがつかめそうです」
「そうか」と猟戸がうなずく。流れが見えれば、あとは早い。
報告を終えて天蝎が去るのを見届けてから、猟戸は仙王帝と視線をあわせた。
「闇使を使うか」
仙王帝の言葉に猟戸は唇を引き結んだ。天鵝と摩羯が再び接近したことで、あの男は天鵝に怒りの矛先を向けているのかもしれない。
今回の行方不明事件とあの男は関わっていないと思っていたが、どうやらそうとも言えないようだ。
度を越した執着が今もなお継続していることに、猟戸はうすら寒さを覚えた。
異常者の心理はまったくもって理解不能だ。わかりたいとも思わないが、自分の姪に害が及ぶのは見過ごせない。
「参宿」
天蝎が下がる際に脇を通った柱の陰に向けて、猟戸が呼びかける。ひそやかに応じる声が返ってきた。
「天鵝に誰かつけろ。念のため、摩羯にも一人」
「御意」
何者かが身じろいだ。そこではじめて存在感を示した闇使の頭領は、再び闇に埋もれていった。




