(4)
仙王宮から輿が来るのとほぼ同時に、双子たちが戻ってきた。逃げられたと残念そうに報告する双子たちをねぎらい、摩羯は輿に乗せた天鵝と天狼に付き添って仙王宮に入った。
迎えに出てきた女官長に、摩羯が湿布の用意を頼み、天鵝を輿から下ろす。その際、摩羯の胸元に頭を寄せた天鵝は、服越しに伝わるかたい感触に気づいた。
自分を抱きかかえて歩く摩羯を見やる。視線を感じたのか、摩羯が首をかしげた。
「どうかなさいましたか?」
「これは、首飾りか?」
天鵝が摩羯の胸の中心に軽く触れる。摩羯がびくりとこわばった。
表情がかたくなる摩羯に、聞いてはいけないことだったのかと天鵝もうろたえた。
「……大切な方からいただいたものです」
摩羯がそっけなく答える。なぜか、胸がうずいた。
それ以上詳しく語らない摩羯から、天鵝も目をそらした。
もしかしたら、摩羯が自分の耳飾りを持っているのではないかという期待は、ここで砕けた。
心に訴えかけてくるものがあるのに、やはり摩羯は違うのだ。
では、あの者が牛宿だったのか。
わからない。先ほど出会ったときは牛宿だと思ったが、摩羯といるとその判断に自信がもてなくなった。
「摩羯は、牛宿を知っているのではないか?」
「……なぜ、そう思われます?」
「私があの者を牛宿だと言って追おうとしたとき、違うととめただろう」
天鵝が仙王宮で寝所にしている部屋に着いた。摩羯は天蓋つきの寝台に、天鵝を横たえた。
「お前と、あの者と、牛宿の顔が……私の記憶の中でかぶるんだ」
「姫様の耳飾りのお話は、私も聞き及んでおります」
薄い掛布を天鵝の体にかけ、摩羯は天鵝を見つめた。
「その牛宿という者が姫様の御前から去って、何年になりますか」
「八年だ」
「信頼の証を姫様より賜りながら、それだけの期間姿を現さないのであれば、その者はもはや姫様の耳飾りを持つに値しないとお考えになったほうがよいかと存じます。あるいはすでに……」
「死んでいると言うのか?」
あえて思考の外に置いていた可能性を指摘され、天鵝は震えた。
「失礼を承知で申し上げれば、牛宿という男は姫様がいつまでもお気になさるような者ではないかと。陛下も宰相も、そう姫様に説いておられるとうかがっておりますが」
「……それでも私は、牛宿に会いたい」
「なぜ、そこまで牛宿に執着なさるのですか」
天鵝は腕で目を隠した。
「私は、たぶん……恋をしたのだと思う」
あのとき自分を助け出してくれた牛宿に。
身を挺して守り抜いてくれた少年に。
「教えてくれ。先ほどのあの者は、牛宿ではないのか?」
腕をずらして摩羯を見ると、視線があった。
「――あれは、法に触れる行いを何度も繰り返している、手配中の男です」
衝撃に視界が揺らいだ。
「まさか……」
「姫様に危害を加える恐れがあります。絶対に近づいてはなりません」
牛宿に似ているあの者が、犯罪者?
「牛宿のことはもう……お忘れになったほうがよいと存じます」
摩羯がきびすを返す。
「摩羯……!」
はね起きようとして尻が痛んだ。両手をつき体を折り曲げて耐える天鵝の背中に手をあてて支えながら、摩羯は天鵝を寝床へ戻した。
「急に動かれてはなりません。それとも、本当に患部を私が治療いたしましょうか」
敷布と背中の間にある摩羯の手が、するりと腰のほうへ滑る。羞恥にびくりと身を縮める天鵝に、摩羯は色違いの瞳を細めた。
「まもなく女官長が湿布を持ってくるでしょう。私は解熱剤をつくってまいります」
今度こそ、摩羯が背を向ける。遠ざかる靴音に唇をかみ、天鵝は敷布を頭からかぶった。
夜も更け、星宮の内外の明かりも最小限にとどめられた時分、薬瓶と杯を手に、摩羯は天鵝の寝所を訪れた。
帝室専属の赤冠薬師を呼ぶと仙王帝に言われたが、自分に看病させてほしいと願い出た。仙王帝は少し驚いた様子だったが、快く許可を与えてくれた。
室内は寝台横に立てられた燭台で燃える炎が一つだけ、ゆらゆらと周囲を照らしている。足音をできるだけ響かせないように近づくと、案の定、薬が切れた天鵝は息を荒くしながら重たげに体を寝返らせていた。
開かれた窓から心地よい風が入ってきている。寝台の脇の小卓に摩羯が薬瓶と杯を置くと、気配に気づいたのか、天鵝が薄く目を開けた。
普段は涼やかな光を放っている青紫色の瞳が、今は熱でとろけていた。その手が何かを探すように敷布をさまよっているのを見て、摩羯は笑みを漏らした。
女官長が天鵝の尻と足首に湿布を貼り終えるやいなや、廊下で待っていた天狼が部屋に飛び込んできたらしい。そのまま天鵝の寝台に上がり込もうとした天狼を女官長が叱りつけたため、天狼はふてくされたようだが、さすがにけがをして横になっている姉に迷惑はかけられないと思ったのか、おとなしく注意を聞き入れたという。
天鵝と天狼は夕食を一緒にとり、その後は長い時間話をしていたのだが、いつも騒がしい天狼が静かにしているのを見て女官長たちは驚き、感心していた。
「天狼様でしたら、姫様に寄りかかって眠ってしまわれたので、寝所にお運びいたしました。お気になさらずお休みください」
それを聞いて安心したのか、天鵝の表情がやわらいだ。摩羯は薬を杯にそそぐと寝台の端に腰を下ろし、天鵝の上体をゆっくりと起こした。
「姫様、解熱剤です」
天鵝は受け取った杯に乾いた唇をつけた。少しむせた天鵝の背中をさすり、落ち着いたところでまた寝かせる。それから摩羯は足元の掛布と寝着のすそをめくり、天鵝の足首に巻いている包帯と湿布を取り除いた。まだかなり熱をおびているようで、湿布はすっかり温かくなっている。
冷たい水に浸した新しい湿布を貼ると、天鵝がぶるっと震えた。落ち着くのを待ってからまた丁寧に包帯を巻きなおしていた摩羯は、ふくらはぎより少し上のあたりに黒ずんだ点のようなものがあるのを見つけた。
ここも打っていたのかと一瞬思い、違うと気づく。痣かホクロのようだ。人の目に触れる場所ではないが、シミ一つない白い肌に浮かぶ小さな黒ずみに吸い寄せられ、ついそっと指をはわせてしまい、摩羯は我に返った。
尻のほうは、さすがに手を出すわけにはいかない。いくら天鵝の意識がうつろでも。
「次にお目覚めのときには、楽になっておられますよ」
再び寝台の端に座り、天鵝の髪をすくようにして額に触れる。
「……冷たい……気持ちがいいな……」
天鵝の星魂を確認していた摩羯の手に、天鵝が自分の手を重ねてきた。
「…………牛宿」
ぽつりとつぶやき、天鵝はまた眠りの淵に沈んでいった。
少しずつ穏やかになっていく天鵝の寝顔を、摩羯は見つめた。仕事をしているときは十六歳とは思えぬ顔つきとまなざしだが、今は年相応の、まだ少し幼さの残る表情をしている。
“私は、たぶん……恋をしたのだと思う”
(あの日……)
天琴皇女が病に倒れたという知らせを受けた天鵝は、一人で見舞いに出かけた。そのときはまだ皇太子暗殺未遂の件で皆が慌ただしくしていたのはたしかだが、いくら星帝の星宮で守られていても、誰もそばにいなかったのは周りの落ち度だろう。
まさか八歳の、しかもそれまではおとなしく部屋で遊ぶか学問に励むことの多かった皇女が、馬に乗って抜け出すなど予想しなかったと、後で責任を追及された女官たちは真っ青になっていたそうだが。
だから、花の産地である星座コーマ・ベレニケスに、供も連れずに立ち寄る天鵝の姿を偶然見かけたときは、本当に驚いた。
同時に、天鵝を密かに追う妙な気配があることにも。
大きな店で花束をつくってもらった天鵝は、自分の馬が店先から消えていたことにとまどった様子であたりを見回した。そして暗い路地裏へ向かう馬を見つけ、走った。
そこで、捕まったのだ。
どこにでもいる茶色い外套をまとった男たちは、背負っていた大きなカゴに天鵝を押し込んで去ろうとした。
とっさに駆け出し、わざと体当たりしてみせた。倒れた男のカゴから銀色の頭がのぞくのを見て、あえて声をあげようとして、一緒にさらわれた。
気を失ったふりをして行き先を探った結果、連れて行かれたのは、星たちの墓場がある星座ケンタウルスだった。しかもほとんど人が寄りつくことのない、幻花の花粉が舞う時期だった。
天鵝とともに放り込まれた穴ぐらは細かく格子で仕切られ、子供たちが複数囚われていた。時折訪れる大人たちの会話から、主に臓器を目的とした人身売買の組織の拠点だと、察しがついた。
天鵝はまず、長かった髪を切り取られた。美しいつけ毛を望む買い手のために、高値で売られたようだった。これまであまり人前に出ることがなかったせいか、男たちは天鵝が皇女だと気づいていないらしかった。
ついでに閉じ込めたはずの自分のことはすぐに忘れ、質素な食事は天鵝一人分だけが格子の向こうから差し込まれた。
数日おきに誰かが連れ出され、二度と帰ってこなかった。体力的に弱るのを警戒してか、先にここへ来た者から優先的に引っ張られていった。
あちこちから泣き声や叫び声が響く中、しかし天鵝は決して泣かなかった。いや、泣きそうになるのを必死にこらえていたのだ。
見張りがいない間、摩羯は天鵝に話しかけた。少しでも気が紛れるよう、おもしろいこと、珍しいこと、いろいろな星座の特徴などを語って聞かせた。そうしながら、脱出の計画を心の中で練った。
相手は子供一人と侮っている。一度閉じ込めてしまえば、ここから抜け出せるはずがないとなめていた。
感覚で時間をはかりながら慎重に機会を待ち、決行の日を定めた。そして、天鵝を連れて逃げた。
とにかく天鵝を無事に帰すことが最優先だった。たとえ自分の体が欠けようと、今は天鵝を守り切るのが『闇使』としての使命だと。
どれほどの敵をほふったか、覚えていない。一時やんでいた幻花の花粉が舞いはじめる中、最後に馬を奪ったときには、腕も足も震え、もうほとんど力が残っていなかった。
それでも天鵝が花粉を吸い込まないよう、胸にしっかりかき抱いた。そして追っ手を引き連れる形で星座ケンタウルスを抜けたはるか先に、救いの手を見た。
父が馬で駆けてくる。衛士もいた。
途中で追っ手が向きを変えた。しかし、連中が父たちの追撃を逃れることは不可能だった。
天鵝と自分は保護され、まず体内にたまった幻花の花粉を吐き出させられた。その後、本格的に治療された。
天鵝は少し痩せてはいたものの、五体無事だった。自分に会いたがっていると聞き、しばらく寝台から動けず鬱々としていた自分の癒しになった。
しかし、天鵝に会うことは許されなかった。自分は闇使だったから。
素性を伏せ、人知れず動くのが任務の闇使は、表に出れば解任される。
犯罪者たちと派手にやりあった自分は、もちろん任務を解かれた。
『牛宿』は存在を消されたのだ。
そのまま何事もなかったかのように日々が過ぎるはずだったが、天鵝はずっと牛宿を探していた。天鵝の耳飾りは誘拐の際に落としてなくなったのだろうと考えていた父たちは、自分が天鵝から下賜されたことを知り、眉をひそめた。
牛宿として会うことはできない。天鵝が牛宿に授けたものは一度返すべきだと諭され、やむなく従った。
ところが天鵝は、手元に戻ってきた耳飾りを突き返したという。牛宿にやったのだから、牛宿に持っていてもらいたいと。
相談の末、ひとまず父が預かることになった。
そこへ、事件が起きたのだ――。
摩羯は嘆息した。
あの男が天鵝の前に現れた以上、なおのこと自分は天鵝と距離を置くべきだ。
天鵝との間には今、心の結びつきはない。そう示しておかなければならない。
立ち上がり、もう一度天鵝を見やる。
八年のうちに、あどけないかわいらしさに満ちていた顔立ちは変化し、徐々に成熟の匂いを広げはじめている。
女性、なのだ。これからますます、やわらかな色香をまとうようになるだろう。
好ましいと思うだけでは、きっとたりなくなる。
すっかり落ち着いた寝息の天鵝にかがみ込み、摩羯はその額にそっと触れた。滑らせた手で頬を軽くなで、最後に唇を親指でなぞる。
天鵝は目覚めない。安心しきった表情で眠る天鵝への思いを苦渋とともに断ち切り、摩羯は足音を立てず、部屋を出ていった。
翌朝、目覚めた天鵝は汗びっしょりになっていたので、まず着替えてから食事をとった。足も尻も動かす角度によっては痛むが、昨日のように熱くうずいてはいない。夜中までは寝苦しかった気もするが、今は気分もすっきりしていて、たまりにたまっていた疲労感も幾分軽くなったようだった。
「入るぞ、天鵝」
食後の薬を飲み終えたところで、仙王帝が姿を見せた。今日からは『休息の七日間』のため、兄も星帝としての仰々しい衣装ではなく、楽な服装だ。そのそばには天狼もいて、兄の服をにぎりしめていた。
「姉上っ」
天鵝の顔を見るなり勢いよく走りかけた天狼の襟首をつかんだ仙王帝は、「叔父上に言われたことを忘れたのか?」と真顔で弟と視線をあわせた。
天狼がぐっと口をつぐむ。仙王帝は天狼の髪をなでてから天鵝に近寄った。
「具合はどうだ?」
「昨日よりずっとよくなりました」
「そうか。摩羯の薬が効いたのだな」と微笑んで、仙王帝は猟戸からの言葉を伝えた。
「七日間はきちんと休息して、くれぐれも仕事を進めようとは思うな、とのことだ。もし休み明けにまだ青白い顔をしていたら、宰相府への出仕を禁じると」
「……私のけがが、叔父上の耳に入ったのですか」
「かなり怒っていたぞ。私だって、お前が昨日体調不良で早退したと知っていれば、天狼と外出するのを許可しなかった」
いつも穏やかな笑みを浮かべている兄にしかめ面で注意され、天鵝は気まずさに視線を落とした。
「この機会に体力も完全に回復させておけと言っていた。元気になって出てくるのを待っていると。叔父上の気遣いをむげにしてまで頑張ることがお前のためになるとは、私も思えない」
わかっている。叔父も兄もいたわってくれているのだ。それでも素直にうなずくことができない。
もっとできるはずなのに。こんなところで立ちどまっている場合ではないのに。もやもやした気分をかかえながら唇をかんだ天鵝は、仙王帝に肩をたたかれた。
「お前の気持ちはわかるぞ。だが無理して飛ばして途中で息切れすれば、急いだ意味がなくなってしまう」
「私が言うのだから間違いはない」と仙王帝が笑う。そこに自嘲の響きを感じて、天鵝は兄を見つめ返した。
きっと父帝の跡を継ぐために、兄も駆け足で努力したのだ。そして何度もつまづきかけたのかもしれない。
「わかりました」
必死になりすぎて、余裕を失っていたようだ。少し肩の力を抜かなければと天鵝も考えなおした。兄の言うとおり、あせっても仕方がない。
「ここではゆっくりできそうになければ、天鵝宮まで送ろう」
仙王帝の提案に天狼が「ええっ!?」と泣きそうな顔になった。そんな弟をちらりと見て、仙王帝は苦笑した。
「一応、天狼には叔父上と私からよく言い聞かせておいたから、邪魔はしないと思うが」
「絶対邪魔しないよ。だから姉上、帰っちゃ嫌だっ」
「ここにいようよ」と腕をつかんで揺さぶってくる天狼があまりにも切実な面持ちなので、天鵝も笑ってしまった。
「兄上のご迷惑でなければ、しばらくここで療養させてください」
「では女官長をつけよう。それから、後で北冕も見舞うそうだ」
義姉が来ると聞いて、天鵝はぱっと顔をほころばせた。
仙王帝は皇太子の頃、妃を一人迎えた。仙王帝より二歳年上の北冕は、先々代星帝の妹皇女の末姫で、非常におっとりとした優しい性格をしている。幼い頃から仙王帝と親しく、月界一の楽器の奏者として『楽仙』の称号をもつ南魚にともに師事し、今でもよく二人で演奏しているという。
北冕は先月二人目の子を出産し、天鵝も宰相府に入ったことで多忙が続き、最近は顔をあわせる機会があまりなかった。大好きな義姉に久しぶりに会えるとわかり、天鵝は嬉しくなった。
仙王帝が出て行くと、残った天狼はすぐに寝台に上がりかけた。しかし兄と叔父の忠告が効いたのか、近くの椅子を引きずってきて座った。
まもなく仙王宮の女官長が入室してきた。長年仙王宮を取り仕切ってきた女官長は、天鵝や天狼に対しても遠慮しない。だめなときはだめだと厳しく注意し、ほめるときは大げさなほどほめる。よく叱られている天狼は女官長が苦手のようだが、天鵝はいつもどっしりとかまえている女官長に好感をもっていた。
「姫様、先ほどとれたばかりのものです。おいしゅうございますよ」
きれいに剥かれた果物を差し出され、天鵝はさっそく口に運んだ。甘い匂いと味は一度食せばくせになりそうだ。天狼も「うまいうまい」とほおばり、天鵝よりたくさん食べようとしたので、女官長にぴしゃりと手をたたかれた。
「摩羯はもう帰ったのか?」
「はい、姫様のご容体が落ち着かれたのを確認して、明け方に発たれたようです」
「まさか、夜通し看病していたのか?」
「そのようでございますね。あの方は衛士ですから、多少の睡眠不足には慣れておられるでしょう」
むしろ、天鵝の部屋にこもってくれて助かったと女官長は言った。
衛士は月界で人気がある。団長ともなればなおさら騒がれるのだという。
「浮名がたえないのは獅子様ですが、双子様は姿勢のよい長身が目を引きますし、すでにご結婚されている天蝎様もいまだにもてはやされていて……中でも摩羯様はあの若さとご容姿ですから、昨日姫様を抱きかかえられて星宮へ入ってこられたときは、女官たちが皆のぼせあがってしまって、大変だったのです」
薬をつくるために薬草庫への案内を求めた摩羯に、名乗り出た女官たちが見苦しくもめ、通り過ぎるだけでぼうっと熱い視線を送り、仕事が手につかない者が続出したという女官長のぼやきに、天鵝は弱々しい苦笑を漏らした。
皆の様子を想像するとおかしいが、同時にもやもやしたものが胸の奥でこごりはじめる。
摩羯の評判は、実は護衛をする室女たちから話を聞いて知っていた。あの色違いの目を恐れたり残念がる者もいるようだが、もとの顔立ちがよいので、かえって魅力的に映るという声が大きいのだ。
同じく見目のよさでほめそやされている仙王帝にはさすがに手が届かずとも、衛士団長ならばと期待を寄せる娘が多いということか。
何だかおもしろくないとむくれかけて、とまどう。
別に摩羯は恋人ではないのだ。
自分のものではない――自分が耳飾りを渡した牛宿ではないのに。
(お前はどこにいるんだ……)
摩羯とあの者と牛宿に、どんな関係があるのか。
天鵝は窓外へ視線を投げた。月の光は薄れ、ほの暗い室外を照らす灯火は数を増している。
目を閉じれば重なる三人の面影に、天鵝は心さざめき、胸に手をあてた。
昼食を終えて、のんびりと体を休めていた天鵝は、女官たちの悲鳴のようなものを聞いた気がした。まもなく苦い顔の女官長がやって来て、衛士団長の訪問を告げる。摩羯かと鼓動が速まったが、入ってきたのは獅子と天蝎と双子だった。
「失礼いたします。姫様、お体の調子はいかがですか?」
「大丈夫だ、心配をかけた。天狼、摩羯と同じ衛士団長たちだ」
そばの椅子に座って天鵝に絵本を読み聞かせていた天狼が、警戒心丸出しで三人をにらみつけていたので、昨日のように早とちりして蹴り飛ばさないよう、天鵝は先に紹介した。
まず獅子が花束を差し出した。品よく清楚な配色に、天鵝は顔をほころばせて礼を言った。
廊下がやけにざわついている。かすかに届くのは女官長の叱責か。
星帝の星宮ともなれば、仕える女官の教育は徹底される。それなのに、摩羯一人だけでも浮ついた女官たちを抑えるのに苦労したと言っていたから、今頃女官長のこめかみには、はみ出すほどにたくさんの筋が入っているに違いない。
「それから、摩羯からこれを預かってまいりました」
室外の騒がしさなど気にもとめていないさまの双子に渡されたのは、匂い袋だった。
「安眠効果のある薬草を入れているそうです。枕元に置いてお休みくださいと申しておりました」
「摩羯の手製なのか」
「おそらく」
匂い袋はいい香りがした。薬草には苦いとか癖がありそうな印象があったが、いろいろな種類があるようだ。
あのとき牛宿からもらった匂い袋は、目くらましの作用があった。あの袋を持っていたおかげか、敵の目は牛宿に集中し、天鵝は身動きしなければなぜか襲われることはなかったのだ。
その袋は今、思い出の宝物として大事にしまってある。
「もう一つ、こちらは天狼様に」
今度は天蝎が少し大きな袋を天狼に贈った。
いぶかしそうに包みを開けた天狼が「うわあ」と喜びの叫び声をあげた。天鵝も目をみはる。
「これは……」
「摩羯より話を聞いて探してまいりましたが、お間違えないですか?」
「きれい。姉上、これ何が光ってるの?」
中でさまざまな光が踊り輝く透明の球を、天狼がのぞき込んでいる。星座ペガススの洞窟で採れた光の結晶だという天蝎の話を聞きながら、天狼は光の動きを目で追いかけた。
「すまない。実は天狼に買ってやろうかと思っていた」
大はしゃぎで球を持ち上げたり放り投げたりしている天狼を見ながら、天鵝は驚きが消えなかった。
視察の途中で少し意識を向けただけなのに、摩羯は気づき、誰に対する贈り物かをも読んだのか。
と、きらきら光る球で遊んでいた天狼が、戸口をかえりみた。また一人、来客が現れたのだ。
「姉上」
赤紫色の衣を優雅にまとった天琴は、案内の女官も連れずにずかずか入ってくると、衛士団長三人をじろりと見た。
「女官がやけにうるさいと思ったら、原因はこれね。たりない一人は徹夜でここにへばりついていたんですって?」
何もされなかったでしょうね、と言われ、天鵝はうなずいた。摩羯の薬はよく効いたのだ。
遠慮のない言いぐさの天琴に、団長三人が場を譲って下がる。
天蝎が寝台脇にさっと用意した椅子に座った天琴は、天鵝の手を取って両手でにぎりしめた。
「落馬したと聞いて驚いたわ。兄上ったら今日になって伝えてきたのよ。あんたも、どうして私に連絡をよこさないの」
「すみません。私もすぐに薬を飲んで、ほとんど眠っていましたので」
「そうね、疲労で倒れる寸前だったと昨日叔父上も言っていたわ。それなのに、天狼とうろつくなんて。あんたは仕事をやりすぎよ。どうしてそんなに背負い込むのよ」
「それは……」
「とにかく少し削りなさい。私としては視察をやめるべきだと思うけど」
「視察は続けます」
「あんたがなぜそんなに視察にこだわるのか理解できないわ」
天琴があきれ顔でため息をつく。天鵝はうつむいていたが、やがて小さな声で答えた。
「月界の状況をきちんと把握しておきたいんです。姉上が宰相になられたとき、少しでもお役に立てるように……叔父上にも一人前だと早く認めてもらいたくて……ですから」
最後まで聞く前に天琴が天鵝をぎゅうっと抱きしめた。
「ああ、もう、あんたってば本当に、どうしてそんなにかわいいのっ」
そして天琴は、天鵝の額に自分の額をあわせた。
「嬉しいけど、無理はだめよ。体を壊したら意味がないんだから。いいわね?」
「はい、姉上」
微笑む天鵝に天琴もにっこり笑って、団長三人をかえりみた。
「あんたたち、用はすんだわね? 帰るわよ」
いつまでもあんたたちに居座られたら天鵝がゆっくりできないでしょ、と天琴が腰を浮かす。来たばかりなのにもう行くのかと天鵝が天琴を見上げると、「後でまた来るわ」と天琴が極上の笑みを浮かべて天鵝と頬をあわせた。
ほら行くわよ、と天琴に追い立てられ、団長三人が天鵝に退出の挨拶をして出ていく。体格のいい三人よりはるかに貫禄のある天琴を、天鵝は苦笑に尊敬をまぜて見送った。
女官長が皆を追い払ったらしく、廊下は不自然なほど静かになっていた。
しばらく天琴は無言で歩いていたが、やがて足をとめて三人をふり返った。
「例の行方不明事件だけど、大丈夫なの?」
「――と、おっしゃいますと?」
天蝎の問いに、天琴は腕組をした。
「天鵝が巻き込まれるようなことはないのかと聞いているのよ」
即答しない三人に、天琴の赤紫色の双眸が鋭くなった。
「もしまた天鵝がさらわれるようなことがあれば、衛士全員を縛り首にするわよ」
非常に物騒な警告に、三人はかろうじてうめき声を飲み込んだ。まさに今回は天鵝の身が危ういかもしれないのだ。だが正直に話そうものなら、天琴は怒り狂って手がつけられなくなりそうだ。
「宰相のご指示ですので……我々も慎重に最善を尽くす所存です」
文句があるなら猟戸皇子に言ってくれとは、誰も口に出せない。天鵝の過去の誘拐騒ぎを知る三人ですら、なぜ猟戸がこの件を天鵝に預けたのかと首をかしげているのだ。
調べれば調べるほど、天鵝にとってよくない方向へ進んでいるため、団長四人は昨日猟戸に進言した。この案件に天鵝を関わらせるのは避けるべきだと。
しかし猟戸は一蹴した。
一番不満を隠さなかったのは摩羯で、三人は荒れる摩羯をなだめるために、少し早いが一杯飲んでいこうと、星座ケフェウスに立ち寄ったのだ。新しくできた店で働く娘が美人ぞろいなんだと獅子の勧めで向かっていた途中、天鵝が落馬した場に遭遇し、手配中の者を追いかけるはめになった。
双子の返答に、天琴は鼻を鳴らした。
「本当に、よりによって行方不明事件を担当させるなんて、叔父上も何を考えてるのかしら」
ようやく矛先を猟戸へ向けてから、「ああ、そうだわ」と天琴が言いたした。
「あんたたちもわかってると思うけど、衛士統帥には天狼をつけるつもりよ。くれぐれも天鵝を引きずり込もうなんて妙な気を起こさないでちょうだいね」
「……心得ております」
三人が声をそろえる。それに満足したのか、天琴は再び歩きだした。