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銀色の北十字 壱  作者: たき
3/10

(3)

 天琴から同行者を三倍に増やせと命令されたが、大げさすぎると天鵝が断ったので、摩羯は二倍の十六人をつけることにした。人数が増えたことで地使団員は喜んだが、二度と天鵝の身を危険にさらすことのないよう、摩羯はくどいほど言い聞かせ、少しでも気を抜いた様子が見られた者はすぐに別の者と入れ替えた。

 一方で、宰相府から請け負った行方不明事件の調査も進めていた摩羯たちは、同じ年に生まれた子供が性別に関係なく過去に何人も姿を消していることに、関連性があると断定した。

「もしすべて一つの事件に結びついているとしたら……いったい何のために?」

 宰相府の小会議室で衛士団長四人と机を囲んだ天鵝は、まとめられた調査結果に目を通し、つぶやいた。

「同い年の者ばかりを狙った犯行となると、星魂略取が一番濃厚かと」

 星魂は星たちの額にある力の源である。星魂の輝きが強ければ強いほど、その星のもつ『輝力』は大きい。それは生命力にも比例しているため、薬師たちはまず患者の星魂の輝きを確認して治療にあたる。薬の効き目も回復力も、すべて星魂で判断できるのだ。

 さらに、他人の星魂をうまく吸収すれば延命につながる。特に同い年の者の星魂ならば拒否反応が出ることは少ないという。もちろん、星魂を奪われた者は命を落とすため、宰相府は星魂の取り出しを法で禁じているが、星魂をめぐる事件はいまだに後を絶たない。

「延命が目的なら、病をわずらっている者が関わっている可能性が高いな」

「それでは診療所をあたってみましょう」

 水使団長の天蝎の言葉に天鵝がうなずいたところで、扉がたたかれた。茶色い衣を着た小柄な青年が遠慮がちに入ってくる。

「お話し中、申し訳ございません。姫様、天狼様が……」

「天狼に何かあったのか?」

「はい、実はその……先ほど仙王宮の柱をお壊しになりまして、至急おいでいただきたく」

天狼の侍従の報告に、天鵝だけでなく四人の団長も目をみはった。

「なぜそのようなことになったのだ?」

「あー、それが、その……教育係が少々いらぬことを申し上げたようでして」

 侍従は非常に言いにくそうに体を縮めている。要するに、教育係の言葉に天狼が怒って爆発したということか。天鵝はため息をつきながら額を押さえた。

「宰相のお許しはいただいておりますので、なにとぞお急ぎください」

 青年が差し迫った顔つきで天鵝に頭を下げる。よほど危険な状態なのだろう。

「すまないが、続きはおって連絡する」

 腰を浮かした天鵝に、四人の団長も起立する。ほっとした表情を浮かべる従者を連れて天鵝は出て行き、見送った四人はあらためて座り直した。

「柱を壊したと聞こえたが、俺の耳がおかしくなったのか?」

 左耳に指をつっこむ双子に、天蝎が肩をすくめた。

「いや、確かにそう言っていたぞ」

 星宮の柱はちょっとやそっとで壊れるようなものではない。頑丈につくられているうえに術で保護されているのだ。星帝の星宮ならばなおさらで、それを破壊するとなると、よほど大きな輝力を放出しなければならない。

 皇子や皇女は通常、ある程度の年齢に達するまで母后の星宮で育てられる。しかし天鵝たちの母后は天狼を産んでまもなく逝去したため、まだ星宮を与えられる前の天鵝と赤ん坊だった天狼は、父帝の星宮で過ごした。その父帝も四年前に崩御したことで、天狼は兄であり現在の星帝である仙王帝の星宮に移った。同時に天鵝は星座キグヌスの星司となり、天鵝宮で暮らすことになったのだが、その頃にはすっかり天鵝になついていた天狼は、天鵝がいないと泣き騒ぐようになってしまった。そこで天鵝は今でもしばしば仙王宮に顔を出し、天狼の遊び相手になっているらしい。

「天鵝様のご苦労が忍ばれるな」

 上からは溺愛され、下からは尋常でない慕われ方をされ、姉弟に縛りつけられている天鵝に、獅子が同情顔で灰茶色の短い髪をかく。

「もっとも、ご本人はあまり意識されていないようだが。ま、婚期を逃されないことを祈るばかりだ」

 確かに、鬱陶しいとは感じていない気がする。大急ぎで部屋を出て行った天鵝の後ろ姿を思い出し、摩羯は頬をゆるめた。



 今日は乗馬のできる服装ではなかったので、天鵝はやむを得ず馬車で仙王宮のある星座ケフェウスを目指した。

 道すがら詳しい事情を聞く。ここ最近忙しくて天鵝が顔を見せなかったので、精神的に不安定になっていた天狼は、元よりやる気のなかった勉学にますます身が入らず、遊んでばかりだったのだという。それについていい加減腹を立てていた教育係が、「陛下も姫様方も優秀でいらっしゃったのに……そんなことでは天鵝様に嫌われてしまいますぞ」と叱ったとたん、天狼がためにためていた鬱憤が輝力のかたまりとなって一気に噴出してしまったらしい。

 教育係は吹っ飛ばされて意識不明。現在は駆けつけた兄帝が対応しているとのことだ。

 馬車も常より速度を上げている。そうしてようやく仙王宮の門をくぐったとき、ドォォォンッと地を揺さぶる爆発音がした。見ると星宮の左端――天狼の寝所のあたりから、煙とともに粉塵があがっていた。

「あそこか」

 天鵝は馬車を降りて走った。

「天鵝様がいらしたぞっ」

「ああ、よかった。これでもう大丈夫だ」

 廊下を駆けてきた天鵝を見て、女官や侍従たちが道を開ける。問題の部屋に近づくにつれて、大きな泣き声が聞こえてきた。

「来たか、天鵝」

 天狼の部屋の前で、白地に紫の衣装を重ね着した兄帝がふり返る。今年で二十五歳になる仙王帝は、鼻筋の通った端正な顔立ちをしていた。しかし、普段涼やかで温厚な色をたたえている双眸には今、疲労感があふれている。額からあごにかけては汗が光り、まとめて冠の中におさめている銀色の髪もほつれてきていた。

「頼む。そろそろ私もつらくなってきた」

 どうやら天狼の力が全方面に飛ばないよう、部屋ごと輝力で包んでいるようだ。先ほどの爆発は、ほんの少し仙王帝がゆるめてしまった輝力の壁を突き抜けて起きたのだろう。

 月界を安定させるほどの輝力をもつ兄がここまで消耗するとは。だがこれ以上兄に負担をかけて倒れでもしたら、月界の均衡が崩れてしまう。

「ずっとあの調子ですか?」

 天狼は部屋の中心で座り込み、わんわんと泣き続けていた。泣き声に同調するかのように、室内で輝力が渦巻いている。寝台も調度品も、何もかもが跡形もなく砕け散っていた。

 職に就いていない天狼は白い上下の服を着ているが、あちこちがすっかり破れてしまっている。まばゆい金の髪も乱れてぐしゃぐしゃだ。まったくもって力の無駄づかいだと、天鵝はため息をついた。

「入ります」

「気をつけて行け」

 仙王帝が入り口の力を弱める。天鵝は術の膜を慎重にかきわけて踏み込んだ。

 ビュッ

 いきなり飛んできた輝力の刃が天鵝の左頬を切り裂いた。ざっくりと割れた傷口から血が伝い落ちる。後ろで見守っていた女官たちから悲鳴があがった。

 続けて投げられた輝力のつぶては、天鵝も輝力ではじき飛ばした。ぶつかりあった際にメリメリッと危険な音が響く。天鵝は唇をかんだ。冷静さを失っているからか、天狼の攻撃に容赦はない。

「天狼、やめるんだ」

 聞こえていない。泣きわめいている天狼は、天鵝が来たことにもまったく気づいていないのだ。天鵝は一歩一歩ゆっくりと進んだ。

 長い銀の髪が風にあおられ、もつれてはほぐれる。その毛先にも天狼の輝力はビリビリと伝わってきた。同じ強大な輝力でも、月界を優しく包む兄帝とは違う、破壊的な力だ。

 これでは兄も手こずるはずだ。自分の輝力がどんどん削られていく――いや、奪い取られていく恐怖がある。まさか天狼にこんな力があったとは。

 また一歩近づく。早く片付けなければ自分もやられてしまう。

 そのとき、ブワアッとふくらんだ嵐が天鵝を吹き飛ばしにかかった。腕で顔をかばった天鵝は、嗚咽まじりに自分を呼ぶ声を聞いた。

「ひっく……うえ……姉上え……」

 消え入りそうな、だが切実な訴えだった。ずっと呼んでいたのか。

 これだから憎めない。突き放せないのだ。天鵝はさらにもう一歩踏み出した。

「天狼」

 今度は言葉が届いたらしい。天狼はびくりと体をはね上げ、ふり返った。薄紫色の瞳をいっぱいに見開く。大粒の涙がこぼれた。

「姉上……姉上えっ」

 立てないのか這ってこようとする天狼に天鵝も近寄った。小さな両手を懸命にのばしてくる天狼を思いきり抱きしめる。

 しゃくりあげる声が一段と大きくなった。天鵝が来たことで負の感情が溶けたのか、力の放出が急激に減少していく。だがすでに乱れ飛んでいる輝力は、まるで意志をもっているかのように変わらず荒れ狂っていた。

「早く力をとめるんだ。星宮が壊れてしまう」

「だめ。消えないんだ」

 天鵝は歯がみした。完全に暴走してしまったのか。これではいずれ天狼自身をも巻き込んでしまう。

「お前が放ったものだから、お前が抑えないといけない」

「でも、姉上」

「私が補助するから、やってみろ」

 天鵝は天狼を背中から包み込むようにして抱くと、天狼の腕を外側からそっとつかんだ。

「大丈夫、お前ならできるから」

肩越しに天鵝と見つめあった天狼は、唇をかたく引き結んでうなずいた。

「目を閉じて、意識を集中するんだ。もとはお前の力だ。必ず捕まえられる」

 天鵝が耳元でささやくと、天狼は目を閉じた。まだ時々しゃくっているが、気持ちは落ち着いてきているようだ。

 まもなく周囲で乱舞していた輝力の嵐に異変が起きた。ぐぐっと抑え込もうとする新しい力に抵抗を示している。

 ミシッ、ギギギギッ、バリバリバリッ!

 白い壁に大きな亀裂が走る。ドォン、ドォンッと床が揺れ、天井から白粉が降ってきた。天狼が一瞬おびえた表情を浮かべたため、天鵝は天狼の腕をさらに強くつかんだ。

 やがて嵐が静まりはじめた。天狼があらたに放った輝力が、先に暴走していた輝力をのみ込み、小さく小さくしていく。間で逃れようとした輝力は、天鵝が少し力を貸して封じた。そしてついにシュンッと音を立て、制御不能だった輝力は消滅した。

 長時間大泣きしたうえに輝力を飛ばしまくって疲れたのか、天狼がふっと気を失う。倒れ込む弟の体を抱きとめた天鵝に、仙王帝が近づいてきた。

「力を使いすぎたか。まったく、困った奴だ」

 仙王帝は天狼をひとまず来客用の寝室へ運ぶよう命じた。遠巻きに見守っていた侍従が走り寄ってきて天狼を抱き上げる。

「急に呼び立ててすまなかった。だがお前でないと抑えられない状態だったからな」

 そろそろ天狼にも星宮を与える頃だが、これでは難しいなと仙王帝が嘆息する。

「私は、もう少し厳しく接したほうがよいのでしょうか?」

 このままでは、いつまでたっても天狼は自分の後を追いかけるばかりだ。

「少しずつ慣らしていくしかあるまい。それに天狼にとってはお前が母代わりだからな」

 本来無条件で愛情をそそいでくれるはずだった母后は、天狼を産んですぐに逝去してしまった。天狼が思いきり甘えられる相手である天鵝までが今突き放すような態度をとるのは、好ましくない。そう言って仙王帝は天鵝の肩をたたいた。

「お前には苦労をかけるがな。今のままということはない。いずれは自立するだろう」

「そうですね」と返したものの、天鵝は大人になる天狼を思い描くことができなかった。

 天狼もいつか兄帝のように背がのび、自分の手を離れていくのか。そう考えると何だか不思議で、天鵝は笑ってしまった。

「今日はここへ泊まります」

「そうしてくれ」

 仙王帝も微笑む。天鵝は兄と別れると、天狼が連れて行かれた部屋へと爪先を向けた。



 仙王宮を破壊して気絶した天狼は、それから半日眠り続けた。目が覚めたときに天鵝がいたほうがいいだろうと仙王帝に言われ、ずっと天狼に付き添っていた天鵝は、やっと起きた天狼が自分の破壊行為を覚えていなかったことに脱力した。反省もしていない様子だったので、天鵝は壊された寝所に天狼を連れていった。穴のあいた天井はすでに修復されていたが、まだ壁などは亀裂が残っていたので、どんな状態だったかを詳しく語り、迷惑をかけた兄帝にあやまりに行かせた。

 その日は一日天狼と過ごし、翌日天鵝は宰相府に出仕した。私用で休んだことを宰相である叔父に詫び、すぐに仕事にかかる。まず中断していた行方不明事件について衛士団長たちと打ち合わせをし、それから星座の視察を再開した。読まなければならない調査書が山積みだったが、げんなりしている暇はない。食事もそこそこに天鵝は処理に没頭し、三日後には何とか遅れを取り戻すことができた。さらにまた暴れられては困るので、天狼の機嫌が悪くならない程度に時々帰りに立ち寄り、相手をする。ゆっくりくつろぐ余裕がない天鵝はいつしか、湯浴みや食事の最中にうたた寝をしてしまうことが多くなった。

「大丈夫ですか、姫様?」

 視察を終えた帰り道、知らず知らずのうちに何度もため息をついていた天鵝は、隣に馬を寄せてきた摩羯の言葉に我に返った。

「お顔の色が悪いようですが」

「そうだな、少し体がだるいかもしれない」

「どうぞ。お飲みください」

 天鵝が暴漢に襲われてから、摩羯は視察に毎回同行するようになった。仕事の都合がつかないときも、途中で必ず合流している。

 摩羯に差し出された水筒を受け取ったものの、天鵝は首をかしげた。今日の分の水筒は、すでに出発のときにもらっていたのだ。

「体力回復剤です。眠気は出ないようにしてありますから」

「そういえば、お前は薬師の資格ももっていたんだったな」

 納得して、天鵝はさっそく水筒に口をつけた。やや甘いがのどごしは悪くない。ふうっと息を吐き出してから、天鵝は礼を言って水筒を返した。

「資格は青冠か?」

「赤冠です」

 摩羯の返事に天鵝は目をみはった。薬師の最高位は皇族に与えられる紫冠で、民間で一番上位にあるのが赤冠なのだ。

 赤冠の位に就くには生半可な勉強量では不可能なため、薬師の職を生業にしている者でも数少ない。ほとんどの者はその一つ下の青冠でとまってしまうのだ。それを、衛士団長の務めをはたしながら赤冠にまで到達するとは。

「副団長以上は薬師の資格を取ることが、衛士の規約で義務づけられているんです」

「まさか皆、赤冠なのか?」

「いえ、現在は衛士で赤冠を取得しているのは私だけです」

 摩羯が苦笑する。

「もともと興味はあったのですが、カプリコルヌスをいただいてから、資格の取得に夢中になりまして」

「そう言えば、お前の星座は薬草の産地だったな」

 星座カプリコルヌスは薬草の生産量が月界一として有名だ。そのため、星司は薬師の資格をもつ者がなることが多い。

「……すごいな。もう効いてきた」

 体が軽くなり、天鵝は肩を回した。

「一時的なものですので、睡眠と食事はきちんとお取りください。それが一番有効です」

「わかってはいるのだが……」

 正直忙しすぎて、食欲がわかなくなっていた。

「皆も心配しております」

「……お前も」

 心配してくれているのか、とは口にできず、天鵝は「何でもない」と顔をそらした。

 ほぼ毎日話すようになったものの、摩羯との間には壁があるような気がした。不自然でない程度の親しさを見せてはくれるが、天鵝が必要以上に踏み込んでくるのを押しとどめている――そんな感じがするのだ。

 摩羯の瞳は色違いだ。牛宿(いなみ)とは違う。それなのに、まとう空気が似ていると思えてならない。その顔立ちが、記憶を刺激するのだ。

 もしかしたら、摩羯の親族に牛宿がいるのではないか。

 聞きたい。確かめてみたい。

 何度も口を開きかけては閉じることを繰り返してきた天鵝は、結局今もまた沈黙を選んだ。

 摩羯がすっとそばを離れた。先頭の衛士に声をかけている摩羯の横顔を、天鵝はやるせなく目で追った。


 

 翌日、天鵝は宰相府で視察の報告書の作成に励んだ。宰相に提出する第一次中間報告の期限が迫っていたためだ。

 明日からは『休息の七日間』だから、少しゆっくりできる。

 視察の大変さは自分の予想をはるかに超えていた。宰相府官吏が皆悲鳴をあげ、天琴がとめたのもうなずける。だが、こうして座って書類と向き合っているより楽しい気がするのはなぜだろう。

 自分は一日じっとしているよりも、動き回っているほうが性にあっているのだろうか。直接見て、聞いて、考えて行動するのが。

 そういう面では宰相府官吏より、衛士の役割のほうがあてはまる。ふと摩羯や室女、他の地使団員の顔を思い出し、天鵝は筆をとめた。

 同じ顔ぶれが視察に同行しているため、今では世間話もできるほど打ち解けていた。

 何より、摩羯が毎回用意してくる茶はどれもうまい。

 視察がすべて終了したら茶を教えてもらおうか。衛士の官府にも興味があるので、一度行ってみたい。薬草や薬を学ぶのもおもしろそうだ。

 ぼんやり考えていた天鵝は、自分の指から筆が滑り落ちたことに気づいてはっとした。

 今は急ぎの仕事を早くすませなければ。机の上に転がった筆をつかもうとしたところで、天鵝は不意にめまいに襲われた。

 ぐるっと天地が逆さになる感覚。頭の中が急激に熱くなり、吐き気がした。しばらくぎゅっと目を閉じていると、まもなくめまいはおさまった。

 床に落ちた筆が音を立てる。天鵝は長大息をついて、筆を拾おうとかがんだ。しかし、宰相である猟戸皇子が先に筆を取り上げた。

「すみません、叔父上」

 筆を受け取って礼を言う天鵝を猟戸皇子はじっと見つめ、口の端を曲げた。

「今日はもう帰れ、天鵝」

 天鵝は首を傾けた。

「まだ鐘は鳴っていませんが」

 勤務を終える時間になると、宰相府の最上階にある鐘が月界全土に響き渡る。それを合図に、星たちはその日の仕事を終了させて帰途に着くのだ。

「それに、今日中にこれを片づけておきたいんです」

「提出期限は延ばす。だから帰って休め」

 厳しい口調で言い、猟戸皇子は天鵝の額に手を当てた。ひんやりとした大きな手の感触が気持ちよくて、天鵝は目を細めた。

「摩羯の言ったとおりだな」

 現在帝室で唯一の紫冠薬師でもある猟戸皇子は、額の星魂に触れれば相手の体の具合を診ることができる。

「お前の様子を見てくれと頼まれた。そうとう疲れがたまっているな」

 ため息をつく猟戸に、天鵝は反論できなかった。

「これ以上無理をすれば倒れてしまうぞ」

「ですが、叔父上」

「天鵝、自分の許容量を越えてまで力をそそぐことは、必ずしも美徳になるわけではない。賢いお前にならわかるだろう」

 天鵝はうつむいて唇をかんだ。自分の体はこの程度で限界を迎えるのかと思うと悔しかったが、集中力を欠きつつあるのもまた確かだ。書類に不備が出るよりは、猟戸の言うとおり早めに切り上げたほうがいいのかもしれない。

 今日一日頑張れば、気兼ねなく休めたのに。

 情けなさに落ち込む天鵝を見ていた猟戸皇子が、紫黒色の瞳を弓なりにした。

「役に立たないから追い払うわけではないぞ。お前の仕事ぶりを認めているから、できるときにきちんとしてもらいたいだけだ」

 いずれ天琴の補佐をしてもらうことになるのだからと言われ、天鵝は「はい」と笑った。叔父に期待されているのは嬉しい。それに、姉のためにももっと仕事ができるようになりたい。

 今日はおとなしく帰って、力を蓄えよう。そして『休息の七日間』を終えたら、また全力で取り組もう。帰り支度を整えた天鵝は叔父に挨拶をして退出した。

「おや、姫様、お帰りですか?」

 天鵝が戸籍室の前を通りかかったとき、ちょうど室内から私物をかかえて出てきた老人が小首をかしげた。

「ああ、叔父上に病人扱いされて追い出された」

 戸籍管理長として長年勤めてきた佑角(ゆうかく)に冗談めかして答えると、佑角はじっと天鵝の顔を見てからうなずいた。

「それがようございます。このところお疲れのご様子でしたので」

「皆にわかるほど顔に出ていたのか」

 ふがいないなと苦笑ってから、天鵝は佑角の手元に視線を向けた。

「そういえば、来月に退職するんだったか」

「はい、身辺整理をぼちぼち始めているところでございます」

「お前がいなくなると寂しくなるな」

 仕事場に向かうときは必ずこの戸籍室の前を通る。朝夕に顔を合わせて挨拶する程度ではあったが、しかめっ面で書類と向き合っている者が多い中、いつも穏やかに笑っている佑角の存在に癒されることが少なくなかったのだ。

「私も姫様のお顔を拝見できなくなるのは残念ですが、さすがに年にはかないません」

 職務を離れたら、今一緒に暮らしている娘とのんびり過ごすのだと言っていた。その娘は夫と死別し、一人娘も六年前に病で亡くしてから、佑角のもとへ身を寄せているらしい。

 そこで天鵝はふと思いついた。

 摩羯の戸籍を見れば、家族構成がわかる。

 もしかしたら、そこに牛宿の名前があるかもしれない。

「佑角――」

 呼びかけたものの、いやだめだと天鵝はかぶりを振った。

 戸籍は個人的な興味で見ることを禁じられている。そもそも、宰相である叔父がそのことに気づかないはずがない。牛宿の名はきっと見つからなかったのだ。

「姫様?」

「ああ、すまない。何でもない。作業の邪魔をしたな」

 あふれる好奇心を無理やり飲み込み、天鵝は佑角の脇を通り過ぎた。

「お気をつけてお帰りください……決してお一人で動かれませんよう」

 かけられた言葉に天鵝がふり返ったときには、佑角はもう背を向けていた。

 宰相府の門を抜けてそのまま天鵝宮へ向かいかけた天鵝は、今日天狼と会う約束をしていたことを思い出した。天狼が心細くなってまた暴走しないよう、最近はいつ訪れるかを事前に伝えるようにしているので、約束を破ったとなればきっと怒り狂うだろう。

「少しだけ寄るか……」

 顔を見せて、それから帰ろう。ちょっとだけだと思って、天鵝は天狼の待つ仙王宮へ馬車の方向を変えさせた。



 部屋に行くと天狼の姿はなかった。乗馬の練習をしていると女官に聞いた天鵝が庭へ出てみると、右方向から天狼の声がした。

「姉上ーっ」

 仙王宮の広い広い庭の一角を、小さめの赤馬にまたがって行ったり来たりしていた天狼が大きく手を振る。そのまま天鵝のほうへ勢いよく馬を駆けさせた天狼に、付き添っていた侍従が慌てたさまで追いかけてきた。

「うまいじゃないか」

 練習を始めたのは昨日からのはずだが、もう危なげなく乗りこなしている。

「勉強よりこっちのほうがずっと楽しいや」

 嬉しそうに言う天狼に、天鵝は苦笑した。

「姉上、街に行ってみようよ」

「今からか? 天狼はもう外へ出ていいのか?」

 天鵝がかえりみると、侍従がかぶりを振った。

「まだ陛下から許可をいただいてはおりません」

「すぐそこまでだからいいじゃないか」

 天狼がふてくされる。

「ねえ、姉上。行こうよ」

 しつこく粘られ、天鵝も侍従も根負けした。侍従が兄帝に許しを得るために離れ、その間に天鵝は乗馬できるよう服を着替えた。

 やがて承諾をもらったと、侍従が天鵝の馬を引いてきた。天狼は天鵝と一緒に馬を並べて散歩できるのがそうとう嬉しいようで、鼻歌を歌っている。

 二人は騎乗し、仙王宮を出た。徒歩の侍従を後ろに連れ、太い一本道をゆっくりと進む。まもなく、買い物客や家路につく者でにぎわう街の大通りに合流した。

 星帝の星宮がある首都のため、街には隠れた護衛や兵士が商人に身をやつして散っていると、兄から聞いていた。だから付き従うのが侍従一人でも大丈夫だろうと、天鵝は楽観視していた。

 やはり馬車から見る景色と馬上からでは違うのか、薄紫色の瞳を見開いてきょろきょろしている。あれは何だ、これは何だと質問攻めにしてくる天狼に、はじめ天鵝は丁寧に応じていたが、だんだん眠気がはい上がってきた。

 もともと、体調不良を心配されて早退の命令を受けたのだ。

 馬の振動がゆるやかに意識を奪いはじめたそのとき、突然目の前に何かが飛び出してきた。

 はっとして手綱を引く。驚いて棹立ちになった馬から、天鵝は振り落とされた。

「姉上!?」

「姫様!」

 周囲で悲鳴があがる中、馬を下りた天狼と侍従が駆け寄ってくる。しゃがみ込んで尻と左足首を押さえる天鵝に、落馬の原因となった人物が平伏した。

「申し訳ありません、姫様。おけがは?」

 中性的な声音だった。茶色い外套の下で、長剣が地面に触れて音を立てている。手袋をはめ、弓と矢筒も背負ったその人物は、「大丈夫だ」という天鵝の返答にわずかに顔を上げた。

「――お前」

 頭巾の陰からちらりとのぞいた緑色の双眸に、天鵝は息をのんだ。

「お前、牛宿(いなみ)……か?」

 たしかに覚えのある顔だった。あのとき自分を救い出してくれた少年が大人になると、きっとこうなるだろうという姿。

 同時に、誰かに似ていると思った。

 誰に。

(ああ……)

 摩羯だ。やはり彼に牛宿の面影が重なっていたのは間違いではなかったのだ。

 涙ぐむ天鵝をじっと映していた緑色の両眼が、きらりと光った。

「お会いできて嬉しく思います、姫様」

 天鵝の片方しかない耳飾りへとのびた男の手は、寸前で払いのけられた。

「姉上に触るなっ」

 二人の間に割り込んだ天狼が、摩羯と牛宿にそっくりな者をにらみつける。天鵝は慌てた。

「天狼、違う。牛宿は……」

「姫様から離れろ」

 侍従も剣を抜いて男に突きつける。さらに周辺の店からも警戒の気配が漂ってきた。

「待て、この者は私の――」

 そのとき、複数の蹄の音が近づいてきた。

 白馬でやって来るのは衛士団長の四人だ。とたん、男が腰を上げた。

「姫様、近いうちにまた」

「牛宿……!!」

「姫様!」

 一番に駆けつけた摩羯が、ずっと探し続けてきた相手に向かって身を乗り出した天鵝を抱きとめる。そしてその人物を見た摩羯が目をみはり、かたまった。

 一瞬の視線の交わり。薄笑いを残して男が走り去っていく。

「待て、牛宿! 待ってくれ!」

「姫様、いけません! 双子、あいつだっ」

 追いかけようとした天鵝の肩を押さえつけた摩羯が、次にそばに来た双子に指示を飛ばす。

 双子が獅子と天蝎にも呼びかけて、逃げた者を追跡した。

「放せ、摩羯! 牛宿が行ってしまうっ」

「姫様、落ち着いてください」

「やっと見つけたのに!」

「違います、姫様っ」

 もがいて摩羯を突き飛ばそうとした天鵝は、逆に力強く抱きしめられて、はっとした。

 違うんです、とつぶやく摩羯は、かすかに震えている。

 既視感がふわりと脳裏をよぎった。自分を包み込むぬくもりに、興奮と緊張が解けていく。

 と、そのとき摩羯が妙なうめき声をあげた。見ると、天狼が摩羯の顔をぐいぐい押して天鵝から引き離そうとしている。

「なんだ、お前は!? 姉上は俺の姉上だぞっ」

「天狼!」

 体格差には手数で勝負だとばかりに、今度はボカボカと摩羯の頭をたたきだした天狼に、天鵝はあせった。

「やめろ、天狼。摩羯は衛士だっ」

 制止は間に合わなかった。天鵝を解放した摩羯に対し、天狼は最後に強烈な蹴りまで食らわせた。

 摩羯が脇腹を押さえてうずくまる。その姿に、また記憶を揺さぶられた。

「大丈夫か、摩羯?」

 天鵝がそっと摩羯の背をさすると、摩羯は少し咳き込んでからうなずいた。

「これに懲りたら、姉上に気安くするなっ」

 怒り顔で鼻息荒く警告する天狼に、ようよう起き上がった摩羯は苦笑を浮かべている。天鵝は嘆息した。

「まったく、お前は……すまない、摩羯」

「参りました。頼もしい弟君です」

 本気でかかれば天狼などひとひねりだろうに、摩羯は天狼に頭を下げている。降参されて清々したのか、天狼は得意げににんまりした。

 ひとまず兄帝の星宮まで帰ろうということになり、立ち上がろうとした天鵝は、尻と左足首の痛みに短く悲鳴をあげた。

 落馬したときにけがをしたようだと告げると、摩羯はすぐに輿の手配を天狼の侍従に頼んだ。侍従が急ぎ走っていく中、摩羯は「失礼いたします」と断ってから、天鵝を横抱きにした。

「お前はまた!」

「皇子、このようなところで姫様をお待たせするわけにはまいりません。どうかご理解ください」

 怒鳴りかけた天狼は、摩羯にぴしゃりと言い返されて、口をつぐんだ。腹は立っても場所が悪いということだけはわかるようだ。しかも天狼では天鵝を支えることはできない。

 近くの茶店の店先に置かれていた長椅子へと天鵝を運ぶ摩羯に、天狼もついていく。その薄紫色の瞳は、悔しさと憎らしさと、天鵝を楽にかかえる摩羯の腕力へのうらやましさがないまぜになっていた。

 長椅子に天鵝を座らせた摩羯は、天鵝の前でかがみ込み、左足首にそっと触れた。

「骨は折れていないようですが、お疲れでもいらっしゃいますし、今夜は少し熱が出るかもしれません。もう一か所のほうはいかがですか?」

 尻を打っていることにも気づいているらしい。さすがに人前ではっきり言うわけにはいかないという配慮からか、言葉自体をぼかす摩羯がおかしくて、天鵝はくすりと笑った。

「痣はできるだろうが、数日もすればよくなると思う」

「後で確認いたしましょうか」

「……いや、いい」

 笑ったことへの意趣返しか。おもしろがるような口調で言われ、天鵝は顔を赤くしてうつむいた。


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