(2)
第二十代星帝北斗帝の司る星座だった星座ウルサ・マヨールは今、星司がいない。大変な読書家だった北斗帝の死後、北斗宮は図書館に姿を変えた。以来、月界でつくられた書物はすべてここに収められ、月界一の蔵書数を誇る大図書館として多くの者が利用している。
少女もまた、その一人だった。最初は目の見えない祖母に読み聞かせる本を借りに来たのだが、今では自分の勉学目的で足しげく通うようになった。
少女には夢があった。宰相府の登用試験に一度で合格した二人の姫にあこがれていた。特に、自分と同い年の銀の姫に。
月界で最も難しいと言われている宰相府の試験まであと半年。初めての挑戦でどこまでできるか、期待と不安に揺れながら、少女は数冊の本をかかえて大図書館を出た。
停車場で客を待つ乗合馬車を一台見つけ、歩み寄る。扉の開いた馬車の中には先客がいた。帽子を目深にかぶった女性が、背筋をのばして座っている。
「また会いましたね」
女性の口元が優雅に弧を描く。たしか、行きも同乗した人だ。同い年の子供がいるということで話がはずんだ。今日初めて会ったばかりだが、少女はほっとした。
「ご一緒にいかが?」
「お願いします」
誘われて少女が馬車に乗り込むと、御者台の男が扉を閉めた。他に馬車はなかった。それを見ていた者も。
車輪がゆっくりと回りはじめる。そして少女と女性を乗せた馬車は星座ウルサ・マヨールを後にして――行方知れずとなった。
摩羯は団長の共同執務室の奥で、いつものように自分の持ち歩く茶を用意していた。好きが高じて、今では茶葉を組み合わせて独自の茶を作っている。たまに失敗もあるが、そこらの店の茶よりもうまいと周囲には好評である。
共同執務室内の小さな厨房も、摩羯が持ち込んだ茶葉の瓶で埋めつくされていた。ここで寝泊まりするほど仕事が積んでいるときも、皆に簡単な料理を出しているのは摩羯なので、この場所に立ち入る者はあまりいない。
壁を覆い隠すほどに背の高い棚の一番下から、摩羯は一つの大瓶を取り出した。ふたを取って匂いをかぐ。昨日混ぜあわせてつけ込んでいた茶葉がほどよく枯れ草色の汁を出し、いい香りになっていた。試しに茶器に少し移して飲んでみると、清涼感が口の中いっぱいに広がった。
上出来だ。摩羯は一人微笑むと、自分の水筒に茶をそそいだ。ふたを閉め、専用の袋に入れる。そこでふと手をとめた摩羯は、まだ一度も使っていない予備の水筒を二つ取り出して、それにも茶を入れた。
服の内側、胸のあたりにひやりと触れているものの感触に、眉をひそめる。先日猟戸皇子から押しつけられた首飾りを、あれからずっと摩羯は身に着けていた。迷いに迷ったが、へたに自分の星宮に置いておくよりも、これが一番安全かもしれないと思ったのだ。
中央棟の前の石畳に出ると、半月の一歩手前の月のもと、地使団に所属する八名の衛士が整列していた。氷綺と名づけた摩羯の愛馬も、主の登場に顔を上げて鼻を鳴らす。摩羯が騎乗するのにあわせて他の八人も各々の馬にまたがり、九人はうらやましそうな顔の居残り地使団員たちに見送られながら、衛府を出発した。
月明かりのもとで生きるこの世界では、東に月が現れて天頂にたどり着くまでを朝、天頂を過ぎた月が西に消えるまでを昼、そして完全に月が姿をくらまし、世界が暗くなる時間帯を夜と呼んでいる。
月のはじめは新月で、次の新月までを一月とする。また新月をはさんで前後三日間、つまり合計七日間は月の光が弱く過ごしにくいため、月界ではその七日間を休息日と定めていた。
宙を駆け、宰相府のある星座ウルサ・ミノルの星座門をくぐった摩羯たちは、裏道を一気に駆け抜けた。約束の時間より少し早い到着だったが、天鵝皇女はすでに従者とともに宰相府の外で待っていた。
「お待たせいたしまして、申し訳ございません」
「かまわない。私も今準備ができたところだ」
ここに来るまで内心緊張していた摩羯は、天鵝が落ち着いた様子なのを見て安堵した。宰相府で対面したときの天鵝は明らかに動揺していたため、衛士が不審がるかもしれないと心配だったのだ。
気づかなかったと判断してよいだろう。喜ぶべきなのだと自嘲の笑みをたくみに隠し、摩羯は地使団員八人を紹介した。
衛士たちは高揚感を抑えきれないさまで挨拶をしたが、やがて天鵝の身なりに意識が及んだらしく、そろって首をかしげた。
今日の天鵝は宰相府官吏であることを示す緑色の袖なし衣をまとってはいたが、その下に着ているのはいつもの長袖長衣ではなく、武官が着用する股の分かれた服だった。しかも腰には剣をはいている。それが使い慣れたものであるのは、天鵝の身長にあわせた長さと、何より本人にしっくりなじんでいる点でわかる。
剣術をならっているというのは、どうやら本当のようだ。そしてその横では、鞍をつけた黒馬が一頭と、荷馬車だけが並んでいた。
「姫様、あの……まさかご自分で乗馬なさるのですか?」
押収物を載せる荷馬車はいいとして、人の乗る馬車がない。おずおずと尋ねる衛士たちの前で、天鵝は黒馬の面をなでた。
「馬車はあまり好きではないんだ。密室に閉じ込められているようで息苦しい」
摩羯も団長になる前は何度となく視察に同行したことがあるが、自分で馬に乗っていった役人は一人もいない。たいていの官吏は馬車の中で、訪れる星座についての資料を広げているか、居眠りをしているのだ。
服装にしても、ほとんどの役人は威厳があるように見せるため、宰相府の正装に近い重々しい衣装をまとっていくのに、天鵝はまったく正反対の装いだった。荷物も必要最低限といった状態だ。
今日まわる予定の星座は三つだが、これではかえってなめられるかもしれない。いくら賢いと評判でも、武器を携えていても、見た目は若い姫なのだから。
このまま出発して大丈夫なのかと、八人の懸念のまなざしが自分に刺さるのを感じ、摩羯はため息をついた。
「姫様の乗馬の腕は確かだ。前に三名、姫様の後ろに三名、馬車の両脇に二名つけ」
摩羯の指示に、天鵝の瞳が大きくなった。知らないのが前提だったと気づき、心の中で舌打ちする。細心の注意を払わなければならないのに、迂闊にもほどがある。
摩羯は素知らぬ振りで馬を進めた。一応天鵝の隣に馬を並べたが、小声では話せないくらいの距離をあけていたからか、もの問いたげだった天鵝もやがてあきらめたらしい。ようやく天鵝の視線がよそへそれたことに、摩羯は小さく安堵の吐息を漏らした。
宰相府を発った天鵝たちは、最初の目的地である星座ペガススに向かった。星司は飛馬で、六十年近く統治している。
月界でも広大な面積を誇り、人口も多いペガススは、星座門をくぐってすぐにある大通りに踏み込んだだけで、熱い活気が伝わってきた。
「さあ、どうだい、よーく見ておくれよ。この色、つや、味も申し分なしだっ」
露店商の威勢のいいかけ声が飛びかう。
「ぺガススのエニスの洞窟で採れた宝石だ。ここでしか買えない貴重な代物だよーっ」
「そこの宰相府のお役人の方、いいものそろってるよ。ちょっと寄っていかないかい?」
黒馬にまたがる天鵝にも商人たちが呼びかける。どうやら皇女だと気づいていないようだ。
天鵝は荷馬車だけを人けのない裏道から星宮に向かわせ、自身はそのまま大通りに入った。店頭に売られているものや商売人の顔を馬上からちらちら見ながら黙々と進んでいく。あちこちからかかる誘いにも天鵝は瞥見するだけだったが、ある店の前でだけは馬の脚をとめた。玩具屋だった。
色とりどりの玩具が陳列されている中でひときわ目をひいたのは、一番高い台の上に置かれている透明の球だった。内側に赤や黄色、青に緑といろいろな色の光の粒が入っていて、好きなように飛びまわっている。大人が見ても興味をひかれるほどの美しい球だった。
「寄りますか?」
摩羯が尋ねると、天鵝の青紫色の双眸がふっと揺れた。
「仕事中だ」
天鵝は短くそう答え、また前を向いた。
飛馬宮は周りに堀をめぐらせ、澄んだ水をたたえていた。宮門前の橋は定期的に修理しているのか、それほど傷んではいない。門番の挨拶を受けて門を抜けると、白い建物が見えた。三角屋根の星宮は、入り口に太くどっしりとした円柱の柱を二本並べている。
天鵝たちが星宮前の石畳に到着すると、すぐに星司の飛馬が出迎えた。灰黄緑色の髪は量が減り、ほとんど白髪だったが、まだまだ現役でいける覇気がにじんでいる。
「お会いできて光栄にございます、天鵝皇女。ペガススの星司、飛馬と申します」
低く太い声で述べ、飛馬が丁寧に一礼する。長年大星座を司ってきた飛馬は背が高く骨太な体格もあって、威厳が感じられた。だが仕事柄、何度か顔をあわせたことのある摩羯は、飛馬に気さくな面があることも知っていた。飛馬も摩羯と言葉はかわさないものの、そのまなざしに親しみをこめてきた。
案内を受けて通された部屋の大机には、すでにこの星座の過去五年間の出納帳や記録などが積まれていた。天鵝は大机の前に用意されていた上等な椅子に腰を下ろすと、さっそく昨年一年分の冊子に目を通した。パラパラとかなりの速さでめくっていく。適当なところであたりさわりのない質問をする役人は多いが、天鵝はいっさい口をきかず作業に集中し、そんな彼女を飛馬も摩羯たちもじっと見守った。
本当に読んでいるのかという疑問はすぐに消えた。目の動きを見ればわかる。天鵝は間違いなく内容を確認している。
飛馬もその瞳に驚惑の色を浮かべている。やがて天鵝は満足したのか、冊子を机に置いた。
「いかかでしょうか?」
「申し分ない。管理が行き届いているな」
天鵝が立ち上がる。早くも帰り支度を始めた天鵝に飛馬が茶を勧めたが、天鵝は断った。
「次に時間をとられそうだからな」
飛馬は不審げに眉をひそめたがそれ以上は聞かず、視察に訪れた天鵝に感謝の言葉を述べて送り出した。
帰りは大通りを行かず、裏道を天鵝は選んだ。もしかしたら途中で玩具屋に寄るかもしれないと思っていた摩羯は、まったくその気のない天鵝に密かに苦笑した。公務と私用をきっちり分けているのはさすがと言うべきか。
そして星座ペガススを出た天鵝たちは、次の訪問先である星座デルフィヌスに向かった。デルフィヌスの首都はロタネヴ。星司は匏瓜で、デルフィヌスを三十年近く統治している。
星座門を越えた天鵝は、行きはやはり大通りを進んだ。勤務中に買い物をするつもりがないのなら裏道を走ったほうが早く着く。天鵝の意図を探っていた摩羯は、ちょうど店先に出てきた果物屋の女店主が天鵝を見上げた表情に引っかかった。
何か訴えようとしている――?
と、そこで天鵝が馬を下り、果物屋に入っていった。摩羯も下馬して店先から中をのぞくと、天鵝は店主の女と話していた。どうやら帳簿を見せてもらっているようだ。
ふくよかな体型の女店主が頭を下げ、天鵝がきびすを返す。出てきた天鵝は何も言わずに馬にまたがり、しばらく進むとまた別の店に入った。今度は靴屋だった。その後も天鵝はいろいろな店で立ちどまっては店主と言葉をかわし、帳簿をのぞいた。
あちこち寄り道をしながらようやく星宮に到着すると、星司の匏瓜が重たげな体を揺らしながらドタドタと駆けてきた。
「天鵝様、お待ちしておりました。デルフィヌスの星司、匏瓜にございます。なにとぞお見知りおきを」
以前に会ったのは二月ほど前だが、そのときよりまた一段と太ったようだ。贅肉だらけの顔もぶつぶつと吹き出物ができ、まぶたは腫れぼったくなっている。その薄茶色の瞳がいやらしい光を浮かべたのを、摩羯は見逃さなかった。心配したとおり、若い天鵝を小馬鹿にしたまなざしだった。
黒馬から下りた天鵝の前で匏瓜は両膝をつき、大仰なほど頭を下げた。しかし天鵝は匏瓜を一瞥しただけでにこりともしなかった。飛馬に対しても愛想らしい愛想はしなかったが、微妙に態度が違うのは気のせいだろうか。
すぐに案内を求める天鵝に、匏瓜はもみ手をしながら「こちらです」と歩きだした。
星司の執務室に入ると、飛馬の部屋と同じく冊子が山積みされていた。天鵝はそれに近づくとため息をついた。
「帳簿を順番に並べ直す。手伝ってくれ」
用意される書類は過去五年分だが、毎年視察しているので、たいていの官吏は昨年度の分だけを確認する。天鵝も飛馬宮では一年分だけを検めていたのに、今回は全部確かめるつもりなのか。疑問をもちながらも、摩羯は地使団員たちに指示して作業にあたらせた。
その脇で唇をゆがめていた匏瓜は、「天鵝様、道中でのどがお渇きでしょう。どうぞお茶を召し上がってください」と卓上の茶器を勧めたが、天鵝はそれには目もくれず、帳簿と日誌をめくり始めた。
しばらくすると天鵝は手をとめ、匏瓜を呼んだ。
「記載されている税収が少ないな」
「このところ売り上げが落ちていると町の者は申しておりまして」
「私が言っているのは流通のことではない。ここへ来るまでに町で売られている品を見てきたが、売値から計算された税率と、ここに書かれている税があわないと言っているんだ」
商品自体の基本価格と商人の取り分は月界で統一されている。そこから各星座ごとに決められた税がかけられ、その内の一部が宰相府に納められる。
匏瓜が宰相府に提出した書類に記されていた税率と帳簿の税はあっている。だが実際に売られている商品の値段から逆算すると、かけられている税は帳簿に記載されている金額より多かったのだ。
「それは……商人たちがこっそりと自分たちの取り分を上乗せしていたということでしょうか。なんたることだっ」
匏瓜は憤慨してみせたが、天鵝は冷ややかに匏瓜を見返した。
「商人たちに帳簿を見せてもらったが、上乗せされていたのは取り分ではなく税のようだが」
匏瓜の顔から色が消えた。薄茶色の目を見開き、たるんだあごの肉をしきりにさわりながら、匏瓜は言った。
「な……姫様は私を疑っておられるのですか? 星司を務めて三十年になるこの私より、一商人の話をお信じになると?」
「町の端から端まで、どの店も同じ税を帳簿に記していた。町の者全員が星司をだましていたというのなら、すばらしい結束力だな」
それから、と天鵝は帳簿のある箇所を開いた。
「宰相府に提出した日誌ではたしか去年のデルフィヌス祭は中止になったと書かれていたはずだが、帳簿に祭りの税が徴収されていた記録があるのはどういうことだ?」
「あうっ……そ、それは……」
「日誌の記録者と出納係の意志の疎通ができていなかったか」
天鵝は日誌も手に取ると、問題の部分を開いて匏瓜に突きつけた。
「小細工をするならもっとうまくやることだ。書類をバラバラにしておけば、一番上のものだけを見ると思ったか」
匏瓜はうつむき、汗をたらしている。悔しげに唇をかみしめる星司に、天鵝は言った。
「隠している本当の帳簿を持ってこい。素直に渡せば、その分は考慮して報告する。それとも、おかしな点を今ここですべて追及されたいか?」
天鵝が別の冊子に手をのばしたところで、匏瓜が降参した。自分の側近を呼んで裏帳簿を持ってくるよう指示を出す。
普通の官吏なら、大量の書類がばらばらに重ねられていれば、一から直す手間を嫌がって適当に上のほうの書類に目を通したに違いない。あやしいと思っても見逃す役人も今までいただろう。
だが天鵝はきっちり指摘してみせた。どうやら視察する星座の情報を事前に頭に入れていたようだ。それならば荷物が少ないのもうなずける。
たいした記憶力と洞察力だ。見た目にだまされて侮れば、手痛い思いをすることになる。出発前にいだいていた不安があっさりと溶け、摩羯は眉一つ動かさず匏瓜と対峙している天鵝に感嘆の息をついた。
側近が持ってきた数冊の冊子を受け取った天鵝は中身を確認し、積まれていた全部の書類を外の荷馬車に運ぶよう衛士に命じた。匏瓜はすでに逆らう気力を失くしてしまったのか、呆然とした様子で衛士たちの動きを眺めている。
手分けして書類をかかえていく中、卓上の茶器のそばを通った摩羯は、ふと鼻をついた匂いに反応した。天鵝が口をつけずに置いていた茶だ。
茶葉や薬草に詳しい摩羯には、何が入っているかすぐにわかった。だが天鵝がまったく茶に興味を示していないので、この場は黙っておくことにした。
すべてを積み終えた摩羯たちは、匏瓜も捕縛するか尋ねたが、天鵝は逃亡の意志がないことを匏瓜の顔色から読んだのか、後日にすると答えて匏瓜宮を発った。
帰りは飛馬宮と同じく裏道を通った。行きだけ大通りを進むのは、やはり見るべきところを見るためだったようだ。黙って黒馬を操る天鵝は次の訪問星座のことを考えているのか、前だけを向いていた。
「姫様、喉は渇いておられませんか?」
摩羯は自分の白馬を天鵝の黒馬に寄せた。
「まだお飲み物を口にしておられないようですので」
「視察した場所で何か食して、あたっては困るからな。姉上にも忠告されている」
「先ほどの茶のようにですか?」
天鵝がはっとしたさまで摩羯を見返す。匏瓜が用意していた茶には思考能力を低下させる薬の匂いがしたことを告げると、天鵝は口の端を下げた。
「お前は薬に詳しいのか?」
「これでも薬師の資格をもっておりますので。それに茶には少々うるさいのです。いかがですか?」
摩羯は用意していた水筒の一つを差し出した。
「お気に召すかどうかわかりませんが、仲間内では私の茶はなかなかの評判なんです」
受け取った水筒を天鵝はしばし見つめていたが、やがて蓋を取った。
「……うまい」
一口飲んでから天鵝は目をみはった。
「お前が作ったのか?」
はい、と摩羯がうなずくと、天鵝は再び水筒に口をつけ、ごくごくと飲んだ。いい飲みっぷりに摩羯は目を細めた。
「気分がすっとするな。助かった。帰るまで持っていてもいいか?」
「どうぞ。たりなければまだ予備がございます」
初めて天鵝が笑顔を見せた。ぐらりと傾きかけた気持ちを無理やり引きしめ、摩羯はさりげなくそばを離れた。
それから天鵝は間で時々茶を飲み、最後の星座ヴルペクラの視察を終えて宰相府に着いたときには、水筒はからになっていた。
翌日から摩羯は山積みの仕事を言い訳に、天鵝の護衛を室女にゆだねた。
室女の報告によれば、初日の匏瓜のように不正をあばかれた星司が数人いたが、天鵝は相手が圧倒口をたたいてもひるまず、言い訳を始めればそれがどんなに苦しいものだろうと最後まで耳を傾けているらしい。感情に任せて話をしないので、相手のほうがどんどん追い詰められていく。長年星司の地位に就いてきた者たちが、まだあどけない顔容の天鵝に打ち負かされていくさまは、ある意味奇妙で滑稽だと、同行する衛士たちが我がことのように得意げに話すのも聞いた。
視察の任を負った宰相府官吏は、たいてい日ごとに痩せていく。だが天鵝は淡々と業務をこなしているようで、疲れた様子はないという。それが摩羯には逆に気がかりに思えた。
「摩羯、お前、最近顔が変だぞ」
ある日、衛士団長の共同執務室で書類整理をしながら、明日の茶は何にしようかと考えていた摩羯は、右隣の獅子からの呼びかけに視線を上げた。
「誤解するな。顔の造作のことじゃない。なあ、獅子?」
左隣の双子が獅子の援護に回る。ではどういう意味かと、摩羯は渋面した。
「そう、それだ。ぼんやりしていたかと思うと急に眉間にしわを寄せるし、短い時間に顔色がころころ変わっている。とにかく、心ここにあらずなのが丸わかりだ」
獅子が摩羯の顔面を指さす。その隣席の天蝎が書類をそろえながら苦笑した。
「姫様のことでも考えているんだろう。宰相からも指示が出ているなら、行けばいいだろうに。何を遠慮する必要があるんだ」
「姫様の護衛には十分な人員を割いているし、私までが張りつくと仰々しすぎる。それに、例の事件が獅子の期待したとおりの様相だからな」
依頼された行方不明事件は、ふたを開けてみれば一件どころの話ではなかった。消失した者たちを丁寧により分けていった結果、バラバラの年齢の中に共通点をもつ者が複数いることがわかった。
今年十六歳になる少年少女。いなくなった年も月日も場所も違うが、つながっている可能性がある。
「それならなおのこと、姫様についていたほうがいいんじゃないか? 姫様もたしか、十六歳になられるだろう」
天蝎の忠告はもっともだった。そのことでも、摩羯は案じていた。
もしただの家出ではなく、何者かが意図的にさらっているのだとしたら。天鵝がその条件に該当するのなら、最優先で守らなければならない。
また、追い詰められれば追い詰められるほど、天鵝は負の感情を人に見せなくなる。気丈な姿勢をとるようになるのだ。
室女に預けた水筒は、毎回きれいに飲み干されて返ってきていた。感謝の言葉を添えられて。
室女たちからできるだけ詳しく情報を得て、ちょうどよいと思える茶を選んで持たせているつもりだが、本当に助けになっているかどうか……。
気になるのだ。本音を言えば、自分の目で確認したい。天鵝がどのような状態でいるのか。本当に無理はしていないのか。
その周辺に、危険のきざしはないのか。
(……だめだ)
自分がそばに行けば、よけいに天鵝の身を危うくさせてしまう。
やはり、早く返してしまおうか。
ののしられるのを覚悟で――。
そのときだった。廊下に速い足音が響き、共同執務室の扉がたたかれた。入ってきたのは衛士地使団の一人――天鵝の視察に同行している男だった。
「団長、先ほど視察を終えて宰相府へ戻る途中、暴漢に襲われました」
肩で息をする団員の報告に、摩羯は椅子を蹴って立ち上がった。他の団長三人の表情もけわしくなる。
「誰に……姫様はご無事か?」
「姫様は副団長がお守りいたしましたのでおけがはありません。ですが、今日押収した荷に火をつけられました。暴漢は捕らえてこちらへ移送中。副団長は姫様の警護を続けて宰相府へ向かっておられます」
摩羯はすぐに壁にかけていた外衣をつかみ、報告者を連れて共同執務室を出た。厩で自分の白馬を引き出し、急ぎ宰相府を目指す。
おそらく今日視察を受けて不正の証拠を奪われた星司の仕業だろう。過去にも何度かそういう例はあった。
あの男ではなかった。そのことにほっとしたものの、 はやる気持ちを抑えきれないまま、摩羯はひたすら馬を駆った。地使団員を大きく引き離して宰相府に到着すると、石畳の上で黒馬から下りる天鵝の姿が見えた。ちょうど帰ってきたばかりのようだ。
「姫様、ご無事でしたか」
長く息を吐き出した摩羯は、こげついてすすけた荷馬車に視線を投げた。紙は燃えるのが早い。書類はさわればボロボロに崩れそうなほど真っ黒になっていた。
「捕らえた者は何名だ?」
「八名ですが、五名はその場で自害しました」
答える室女の容相もかたい。摩羯は天鵝の前で膝を折った。
「申し訳ございません。地使団の手落ちです」
天鵝が口を開きかけたところで、女性官吏が一人、宰相府から小走りに出てきた。天琴皇女だ。
「天鵝、ああよかった。無事なのね? ちゃんと顔を見せてちょうだい」
天鵝の頬を両手ではさんでのぞき込んだ天琴は、大きく息をついて天鵝を抱きしめた。
「襲われたと聞いたときは心臓がとまるかと思ったわ。まだドキドキしてる」
「心配をかけました、姉上」
微笑む天鵝に「心配をかけたどころじゃないわよ」と天琴は叱りつけた。
「だから私は反対したのよ。視察の最中に殺された者だっているんだから。ほんっとに、叔父上はどうして許可したのかしら。今すぐかけあって誰かに代わらせないと」
「姉上、私が自分から受けた務めです。だから最後までやります。大丈夫ですよ。衛士もついていますし」
そこでようやく天琴は摩羯たちの存在を思い出したようだ。天鵝とは正反対のきつい目元が印象的な姫は、摩羯たちをにらみつけた。
「そうよ、あんたたち、今日の失態はどう責任をとるつもり? 天鵝を危険な目にあわせて、いったい何をしていたの?」
「申し訳ございません」
声を荒げる天琴に、室女たちも全員摩羯の背後でひざまずいた。
「姫様の御身をあやうくさせましたこと、深くお詫び申し上げます。衛士地使団、心身ともに鍛え直し、身命を賭して務めに励む所存です。処罰はいかようにも」
謝罪する摩羯に、天琴は赤紫色の瞳をすがめた。天琴が言葉を発するより先に、天鵝が口をはさんだ。
「姉上、衛士のおかげで私はけがもなかったんです」
自分が剣を抜くまでもなく、室女たちが守ってくれたのだと天鵝がとりなしたが、天琴はいっそう眉をつり上げた。
「当たり前よ。それがこの者たちの任務なんだから。護衛は何人なの?」
「九名です」
「少ないわ。三倍に増やしなさい」
そう命じると、天琴は宰相府内に入るよう天鵝をうながした。とりあえず今回の処罰は免れたようだ。だが次はない。唇をかたく結んで摩羯は深々と頭を下げた。
天琴と一緒に宰相府内に戻りかけた天鵝が、「ああ、そうだ」とふり返った。自分の黒馬にくくりつけていた水筒を取って摩羯に渡す。
「今日のもうまかった。お前の茶は飽きないな」
笑顔の天鵝を仰ぎ見て、摩羯は震える口元をほころばせた。
「明日からは、私も同行いたします」
「そうか」
青紫色の双眸に浮かんだのは驚きと喜色と、かすかな問いかけだった。
見つめ合う二人に天琴がけげんそうな顔をした。天鵝と摩羯を交互に見やり、最後に摩羯に冷ややかな一瞥を投げつけて、天琴は天鵝を連れて去った。
「申し訳ありません」
室女たちが摩羯に対し頭を下げる。
「よく防いでくれた。だがもしまた姫様の御身に何かあれば、地使団は解散だ」
こわばった顔でうなずく室女たちを連れて衛府への道をたどる。白馬に揺られながら、摩羯は水筒を返すときの天鵝の笑みと、別れ際のまなざしを思い起こしていた。
鼓動が激しく波打っている。
守らなければならない。
あの姫を傷つけようとする者は容赦しない。
絶対に。
胸元に手を当てる。服越しに首飾りをつかみ、摩羯は唇をかみしめた。