#1-6-2.明日への逃亡Ⅱ
矢風さん――いや、矢風との会話の後、暢気に矢風は眠ってしまったけれど、一方の私は、そんな簡単に眠れるはずもなく、暗くなった客室の中で、 一人悶々としていた。
この人を置いて、鎮守府に帰るべきなのではないか――それはもう何十回と考えた。けれど、いきなり連れ出されたものだから、手持ちのお金なんてあるはずもないし、帰って「矢風に拉致された」と説明したとて、あの上層部がおいそれと信じてくれるわけもない。 そうなると、やっぱり矢風の言う通り、私が帰る手段なんかないし、矢風が心変わりでもしてくれない限り、あそこに戻る方法もない。
もしそこまで考えて、この逃避行を実行したのだとしたら、相当の策士だ。駆逐艦として出撃していたなら、きっと今頃最前線に立っていたっておかしくない。
それにしても、私もまんまと矢風の思惑に嵌められたもんだな、と一人嗤う。土佐と会う前は話す対象は選んでいたから、その時から考えたら、よっぽどお人好しになりすぎてしまったなあ、と思う。いつまであるか分かない命だけど、まだこの命が続くなら、考え直さなければならない。
そんな事ばかり考えていると、余計眠れなくなってしまった。これからどうなるんだろう、っていう不安に心が押しつぶされそうになって、今の唯一の心の拠り所である、土佐に貰ったつつじの髪飾りを外して、そっと抱きしめた。
そんな私を乗せた電車は次の日の朝早くに、東京駅に到着した。
「本当に、帰す気は無いんですか」
一晩経って、心変わりしていないかな、と思って矢風にそう声かけてみるも、「えぇ。これっぽっちもありません」と、あっさり言われてしまった。
このまま駅員や誰かに、「矢風に誘拐されている」と助けを求める、という手段もあったのかもしれない。でも、これ以上大事にしたくない、という気持ちが勝って、そうしなかった。
それから、迷いなく歩いていく矢風の後についていくと、青森行きのホームに辿り着いた。
「これに……乗るんですか?」
「えぇ。……少し乗り気になりました?」
お茶らけたように聞いてくる矢風に、「そんな訳無いでしょう」と言い放つ。
「何かあったときの責任は、しっかり取って頂けるんでしょうね?」
「はい。それはもちろん」
私の問いかけに頷く矢風は、どことなく創作によく出てくる悪役のように見えた。
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十二時二分前に東京駅から出発した列車に揺られながら、「ところで矢風さん」と車窓をぼーっと眺める矢風に声をかけた。
「はい? 何でしょう」
「あなたの指示通り乗りましたが……どこまで行くつもりですか?」
すると、矢風は少し嬉しそうに「ほら、やっぱり乗り気なんじゃないですか」と笑った。それに「だから、そういう訳ない、と先ほど言ったはずですが」ともう一度言っておく。
「ただ、こうなってしまった以上、巻き込まれた私にも、それを知る権利はあると思うのですが」
それを聞いた矢風は「まあ確かに。それはあなたの言う通りですね」と頷いて、私に向き直った。
「分かりました。ひとまず今日は、泊るところを確保してありますので、そこに向かいます。それからの事については、そこで詳しくお話します。ここでは、誰が聞いているか分からないので」
「……分かりました」
なんだか釈然としないながらも、詳しく話してくれること自体には頷いてくれたので、とりあえず今はそれで良しとする。それすら破られるようなら、流石に出るところは出よう。
ひとまず、何も出来ない以上、目の前にいるこのいけ好かない船の後についていくしかない。
そんな矢風と、諦めを背負いこんだ私を乗せた電車は、陽が沈んだ頃、仙台駅に到着した。それまでの間、私も矢風も一言も喋らなかった。ただ、車窓を眺めている矢風の横顔は、どことなく寂しそうに見えた。
「それじゃあ、宿まで案内しますね……と言っても、そう離れたところではありませんが」
駅前から少し歩いたところに、ひっそりと佇んでいる民宿が、矢風の言う今日の宿だった。受付を矢風が済ませてくれて、そうして入った部屋は、畳敷きに布団が敷いてあって、端っこの方にちゃぶ台が置いてあるだけの、質素なものだった。
「それで、お話頂けるんでしょうね?」
入って早々、矢風に問いかけると、「えぇ、そうですね」と頷いた。そして、矢風に促されるまま布団の上に座ると、矢風は話し始めた。
「明日はもう少し北――青森に向かいます。そして、そこでもう一泊したのち、船を使って北海道、函館を経由して、内陸に向かいます。そこで、隠居しようと考えています」
「隠居って……それじゃあ、もう帰る気は無いと?」
「そういうことになりますね」
「そんな」
まさか矢風の考えている逃亡劇が、そんな終わりのないものと思わなかったから、驚いてしまった。
「まあもちろん、全てが上手くいけばの話です。函館には、要港はありませんが、それでも陸軍の施設がありますから、そこで捕らえられる可能性も無いわけではありません。もしくは、もうすでに、この民宿にいる……なんて事も考えられなくはないですしね」
「……怖いことを言わないでください」
「あはは。でも、実際ある話でしょう?」
相変わらずの笑顔で、さらりと怖いことを矢風が言う。一体どういう生き方をしたら、そういう事をそういう風に言えるようになるのか、疑問で不思議でならない。
でも、確かに矢風の言う通りではある。どこかで、最後まで逃げ切ってしまうんじゃないか――なんて、どこかで思っていたのは否定できない。というより、そう思わせるぐらいには、この二日間、怖いほど順調なのだ。矢風のこの飄々とした感じもあって、余計に。
でも、捕まった時の事を考えるとぞっとする。巻き込まれた側とはいえ、脱走したことには変わりない。最悪の場合は解体も考えられるし。
「そんな怖い表情しないで下さいよ。言ったでしょう? 万一の時の責任は、しっかり取らせていただきますよ」
矢風はそう言うけれど、未だにどこまで矢風の事を信じていいものか、決めかねているのは変わりない。そもそも出会ってばかりの船を、どんな理由であれ誘拐するような船を、そう簡単に信じられるわけがない。
「……本当に、頼みますよ?」
「えぇ」
……やっぱり、この薄っぺらい笑いに、私の信頼を預けることは出来ない。しばらく眠れない夜が続きそうだなと、内心ため息を吐いた。