三十月前
いつからそうしていたのか覚えていないけれど、湖を眺めていた。
夜明けが来る。燃えるような朝焼けだった。湖が空を映して赤く染まる。死んだように静まり返り、風の音だけが響いている。
後ろから茂みを掻き分けるような音が聞こえた。
「ルナ!」
サミュエルが湖畔にいた私を見て叫ぶ。いつものように私を見つけたというのに彼は酷く取り乱していた。
「今日はこんな早い時間に来てくれたのね。どうしたの、そんな顔して」
「何を言っているんだ、もっと前から来ていたさ。それなのに、今日は町にも野にも誰もいなかった。どんなに探しても誰もいないからもう一度ここに戻ってきたんだ。そしたら、君がいた」
君の仲間は、友達はどこに行ったんだ。私の肩を揺さぶって捲し立てる彼の言葉がよく理解できない。
「考えれば分かることよ……」
そう呟くと同時にほとんど重力のままに膝から崩れ落ちた私を慌てて彼が抱き留める。
「平気、少し調子が悪くて力が出ないだけ。新月の日は月の力が弱まるからいつもこうなの」
笑って見せたけれど、彼は青ざめた表情のまま首を振った。
「確かにここの所貴方の様子はいつもと違っていましたが、今までどうしてそれを言わなかったのですか。他の人達も月の力が弱まったせいでいなくなってしまったのですか。本当に貴方は大丈夫なのですか、このまま他の人のように消えてしまいはしませんか」
大丈夫だから、と手で彼を制しながら彼の左手に触れると、指先が微かにじんと痺れた。そうか、彼はブレスレットを持っていた。ここまで来られたのも、私が彼に会えたのも、精霊の力を持ったブレスレットのおかげかもしれない。
彼は私の気分がしばらく落ち着くまで黙って傍にいてくれた。紅い夜明けの色がやがて青に戻っていく。月に護られた夜は全く寒くないのに、新月に近い朝になると冷たい空気が身に染みる。
「こんな日はずっと眠くて。今なら、忘れていたことも思い出せそうだけど、でも、思い出してもどうにもならない」
訝し気にこちらを覗き込む彼に照れ笑いしながら私は言った。
「前に、話したいことがあると言ったでしょう」
「ええ。話してくださるのですか」
「町にあるあの城の領主様には御子息がいるの。結婚されて町を出て行ったわ。私はその方が好きだった……彼の存在と自分の気持ちを、夜市の日に思い出したの」
御子息は本当に良い方だったし、思いの一つも告げていたら優しい言葉も掛けてもらえたかもしれない。それでも叶わないであろう想いを口にすることはできなかった。精霊は身分に縛られない反面、人間の掟とは相容れない。何より、町の外の世界を知りたかったと明るい顔をして出て行く彼を止められない。
「この町の人は皆家族のようなものだったから、彼がそんな遠い人じゃないと思っていた。彼はこの間の夜市の日に私に声を掛けて、その翌日町を引き上げていく商人達と共に、祝福されながら町を出て行ってしまったわ。……でも、なぜ今までそんな大切な人のことを忘れていたのかしら。なぜ今までこんな気持ちを抱かずに過ごせていたのかしら……」
「……私は」
「そうね。この分だと、明日とその次の日はきっと今以上に力が抜けてしまうから、貴方が来ても私は会えないかもしれない。その腕輪をしていても」
私は横目で彼の手首で弱い白光を放つブレスレットの文様を見る。彼は私の肩を支えたまま、もう片方の手で私の髪に触れた。髪が辺りの闇を吸い込む程に黒い。
「これではまるで遺言のようです。私は貴方に出会ったばかりだというのに死んでしまったら困る」
彼は何だか怒ったような口調だった。私はすぐ首を振る。
「精霊が死ぬ所なんて、私一度も見たことがない。それに、もし本当に精霊としての力を失ったとしても、魂だけになって精霊の住む街に行くのだから大丈夫。また元気になったらこちらに戻ってくればいいだけ」
精霊は元々、人間の世界と精霊の世界を行き来するものらしい。精霊たちの話題に上る精霊の街は、雪のように白くて、温かい力に満ちているという話だった。
私も幼い頃そこから出てきたはずなのに、精霊の街の様子は古い記憶のどこにも無い。でも、みんながそういうのだから間違いはない。
「だから、ね。また……」
月が何回か巡ってくればまたいつものように会えるから。
だからそんな目をしないで、と言おうとしたが上手く口が回らなかった。
木立から太陽の光が差し込む頃、月の精霊の少女は彼の腕輪と共に、青年の腕の中から消えた。