居待月
湖の丁度反対側の森の、夜露が敷いた野原で、夜の空を眺めていた。
草の匂いと白百合の匂いがしっとりと辺りを包んでいる。今日は白百合の花を手折りに野原に来る人も少ない。ただただ夜の音がするだけだった。
うとうとと瞼が降りて来る頃に、草を踏む音がした。
「こんばんは」
「……よくここが分かったのね、ローラン様」
「……怒らないでください。申し訳ないと思っています」
「怒ってなどいないわ」
息をついて私は身を起こす。野原の隅では彼の馬がいて草をつついていた。
「町の人に聞いたら、ここを教えてくれた人がいたのです」
私もここで休んでいきます、そう言って彼は腰を下ろす。
「貴方の身体も服も、汚れや穢れとは無縁なのですね。そういえば雨の降っていた日も濡れていないようだった」
「そう、精霊だから。便利よね」
簡素な白い服を手で払う。何だか少しだけ頭が重い。夜市の日の疲れが残っているのかもしれない。しばらく二人とも黙りこんでいた。
「先日、貴方と二人で夜市を見た日に、貴方は幸運が込められているというブレスレットを私にくれましたね」
宵闇の中、彼が袖を捲って腕輪を取るのが分かった。私を見る目が細められる。
「付けていると、腕輪は冷たいのに何故だか熱を感じて仕方が無いのです。まるでこの腕輪にこの場所へ導かれているようだった。本当は全て分かっているのに……私は、引き返せませんね」
不思議な事を言う彼の顔は、何故か苦しそうだった。
「貴方の存在についてずっと考えていました。精霊というものが私には分からないのです。魔法でも使えるのか、神のようなものなのか」
いつになく生真面目な顔で言われるものだから、思わず苦笑いする。
「何もできないの。精霊の力は魔法みたいな便利なものじゃない。私自身にも分からないことがある。精霊を信じる誰かや精霊が思いを寄せる地、もしくは精霊を受け入れてくれる人や場所があって初めて力を発揮するものなの。そういう物への結びつきが強いほど力は呼応して大きくなる、と言われているわ」
この地がいつから精霊を受け入れるようになったのか分からないけれど、元々精霊にとって居心地のいい環境でもあったらしい。
「……言い訳ですが、あの日はどうしても行けない理由が出来てしまったのです。私も貴方の演奏を聞きたかった。どうか許してください」
「私に誰を罰する権利があるというの?」
来てくれなくて寂しかったといえば寂しかったけれど、それだけ。サミュエルを責める気にはなれなかった。
「……ねえ、月の精霊は何のために生まれたのだと思う? 私自身も知らないの」
サミュエルは私を見つめたまま、口を開こうとはしない。
涼しい風が丈高い白百合の花を揺らし、夜露が玉になって散った。
「この美しい野原で貴方がそんな憂鬱な表情をする理由は何ですか。出会った頃と人が違うようだ」
「貴方こそ、いつもと人が違うみたい。疲れてる」
何か言いたげだった彼は、結局溜息だけを吐いた。
「本当は、貴方に聞いて頂きたいことがあります。けれど、今はまだ迷っているのです」
「私もあるわ。けれど、今はまだ心の中に留めておきたい」
昇ってくる月を見据えながら、私は言った。
「また、月が昇ってから月が沈むまでの間、出来るならここに来て欲しい。その間なら私はいつでも待っているから。そして――その時にまた話せるなら、それでいいの」
「分かっています。貴方も、どうかそのままであってください」
約束ですよ、と彼が笑った。




