三日月
「――という訳で、遊びに耽っていたその男は結局自分より身分が下の娘に恋をしてしまったのです。ところが日頃よりこの男を良く思っていなかった男がいましてね、また波乱が起きるんですよ」
「本当にどうしてそんな面白い話が出てくるの? それ、貴方の友人の話?」
町の中心へ歩きながら二人で話をする。彼の方は馬を引いていた。慎重で憶病だと彼は言うけれど、手入れされて美しい毛並の、賢そうな目をした子だ。
同伴者がふと話を止め、視線をやや遠くに飛ばす。
「あれが、貴方が仰っていた城ですか。随分近くに見えるようになった」
「そう、この町の領主様のお城」
柔らかな夕方の日差しが屋根にあたっている。城というより大きな邸宅に近いくらいの、小さなクリーム色の城を見ると、何故かいつも胸がざわめく。自分の身体に熱を与えてくるような感じがする。
「今日は、人通りがありますね。この前来た時は静まり返っていたから、太陽のいたずらが見せる無人の町かと思いましたよ」
「昼はそうだけれど……あの」
こんな言い方が失礼なのは分かっているけれど、と前置きして聞いてみる。
「ローランさん、って一応貴族の人でしょう。どうしてここに何度も来たりするの? この町に何か用事がある訳じゃなさそうだし、それに今日は猟銃も持っていないみたい」
質問した途端、サミュエルが視線をふいと逸らした。慌てて付け加える。
「ううん、違うの。何度来たって構わないし、責めたりしてる訳じゃないの。ただね。貴族の方ってもっと、うん、印象が違った。手の届かない人だと思ってた。それにこの町が山間の田舎町であることぐらい、ここから出たことの無い私でも知ってるから、どうしてかしら、と」
夜市に遊びに来るにはどう考えても早い。
「……貧乏貴族ですからね、私は」
振り返った彼が、ちょっと自嘲的な微笑みで肩をすくめた。「暇なんです。貴方はこの町から一度も出たことがないのですか?」
「一度も、というとよく分からないし、私はこの町で生まれたわけじゃないわ。でもここの周りは山や森でしょ。貴方は山を下りた先から来たのでしょうけれど、私なんかは境の湖の先の森へ不用意に行くと、迷ってしまうから……」
「あるようでないですよ、こんな町。風が通っていて穏やかで。今日見た境の湖は特に澄んで鏡のような面が美しかった」
飄々とした態度の中に、精悍な色がよぎる。
そう、数日前に初めて彼と会った時は、こんなに飄々とした人間だとは思わなかった。
その日は朝から小雨が降っていた。小雨は止んだり、糠雨のようになったりしていた。空はずっと濁ったままだった。
湖の水は、雨より冷たい。傍にある適当な岩場に腰掛けていると晒した素足に何度も打ち寄せてきた。いくら梳いても髪が輝きを得られなくて、その日の私の髪の色はほとんど黒だった。
一人水面を飽きずに眺めていたけれどその内うとうとしてきてしまって、少し湿った岩の上に半身を倒していた。岩の仄かな温もりが心地よかった。
鳥の群れが飛び立ち、森の奥から茂みが揺れる音がした時、風か、動物か何かだと思って一度は目を瞑った。けれど再び目を開けた時、湖の反対側の木立の中には一人の見知らぬ人間の姿があった。緑青の外套と半ズボン、カフスに銀の刺繍。
落ち着いているような様子だったけれど、知らない土地へ迷い込んでしまった心もとなさを表すかのように、彼は両手で猟銃を握りしめていた。
ゆっくりと起き上がって、私は声をかけた。
「どちら様?」
彼はずっとこちらを見ていた。口を開きかけ、やっぱりやめたと諦めたように木立に戻りかける。
「待って、この周りには森しかないし、よく迷子が出ます。きちんとした道も知らずに一人で迷ってしまうと大変だけど、大丈夫ですか? 余計なお世話かもしれないけれど、町へ行くならそっちじゃない」
町、という言葉に反応して彼が振り返る。
「町があるのか、この近くに」
「ええ、少し下りれば。案内しましょうか?」
返答を考えているような間があってから、彼は湖の方へ出てきた。少し明るみに出た彼の面差しは私とそう大差ない歳ぐらいに若く見えた。
「――失礼した。遠くまで足を伸ばして狩りに来たのはいいものの、この霧のような雨と慣れない道で他の者とはぐれてしまったんだ」
「町に行けば、誰か町に着いている人がいるかもしれないし、協力してくれる人がいるかもしれない。何より、休んだ方がいいと思うの」
「ああ、そうする」
気付けば雨が止んでいた。止んでいる内に他の人も見つかるといいな、と思いつつ、私は彼を町へ案内したのだ。
出会った時の彼は口調も声の固さも、目の鋭さも違った。時間が経つうちにやわらいだ表情になってきたし、その後無事元の町へ他の人と共に帰れたというから、それは役に立てて何よりだったのだけれど。
この人って、こんな人だったかしら。幻滅はしないけど拍子抜けする。