第五日目・夜
人が集まれば、いろんな人がそこには居るものです。
昼過ぎに降り始めた雪は、さらに辺りを白に埋め尽くしていた。
陽は落ち始め、辺りを寒い色に染めている。
彼は部屋の中から、その景色を眺めていた。
ついさっきまで、あの雪の中、おじぃちゃんたちと修行の真似事をしていたのだ。
「参ったな」
身体中がちょっとぎすぎすしている。
「明日は筋肉痛かな……」
そう呟きながら苦笑いを浮かべる。運動不足を痛感しながらも、不思議といい気分でもあった。
「お加減いかが、ボーヤ」
俳優がノックもせずに覗き込んできた。
「ちょっと、身体がぎすぎすしています」
「それはご愁傷様。マッサージしてあげましょうか」
「いいですよ。これくらい」
「なめてかかると痛い目に遭うわよ。そのままにしていると明日は動けなくなるわ」
「冗談でしょ」
「残念、本当よ。先達の言うことに間違いは無いわ」
「先達って、マダムも筋肉痛に苦しんだとか」
「当たり。かなり鍛えていたつもりだったんだけど、甘かったわ」
いいながら、くすりと笑う。
「あんまり想像できませんね。マダムのそういう姿」
ちょっとだけからかいを交ぜて、彼が言う。
「今日やった以上にハードだったんでしょう」
「そうねぇ……あれを、それこそ一日中かしら。朝の五時から夜の九時まで」
「……参りました」
「分かればよろしい」
一瞬の後、二人は同時に笑った。
「さぁ、分かったら観念しなさい。大丈夫、痛くしないわ……優しくしてア、ゲ、ル」
「不気味ですよ、マダム」
彼が一歩後ずさる。
「あら、失礼ね」
「いえ、そういう意味じゃなくって……ちょっとマダム、色っぽすぎます」
「お世辞言ってもだめよ。さぁ、覚悟ッ」
「わっ、やめてくださいってば、マダムッ」
「……二人とも何やってんですか、ドア開けっ放しで」
二人が振り向くと、物書きさんが呆れたような顔をして立っていた。
「あ、レディ、助けてください」
「何を情けない声出してるのよ」
そう言って再び二人は暴れ始める。
「楽しそうですね。私も混ぜてください」
「何言ってるんですか、レディ」
「だって、楽しそうだもん」
「楽しいわよ」
「やめてください。マッサージなんて要りません」
「ナルホド。じゃ、私も……と言いたいところだけど、そろそろ下に行きませんか。夕食がもうすぐできるそうですよ」
「あ、そう」
暴れる彼を抱きしめながらあっさり言うと、
「じゃ、後でね……今度は逃げちゃだめよ」
耳元でそう囁いて、俳優は彼を解放した。
「だから……もう、分かりました」
「よろしい」
「でも実際、マッサージはしておいた方がいいよ。かく言う私もおばぁちゃんにしてもらっちゃったし」
物書きさんが解釈の仕様の無い口調で言う。
三人がサロンに降りてくると、既におじぃちゃんとおばぁちゃんが暖炉のそばにいた。
おねーさんと熊が、手際良くディナーの準備を進めている。
「ああ、もう少しで夕食ですから」
おねーさんが三人に気付いてそう言った。
「僕、手伝いましょうか」
「いいのよ、お客さんは何もしなくて」
「そうだぞ。どーせ手伝ったってバイト代は出さんから」
熊がニヤリと笑った。
「どっかそこらに腰を落ち着けてろ」
「そうよ、ボーヤ。あなたには私達のお相手という大事な役目があるんですからね」
彼は軽く溜息をつくと、
「ウィ、マダム」
と言って、物書きさんの方に眼を向けた。物書きさんは遠慮なくケタケタと笑っていた。
「何もそんなに笑わなくても……」
「ごめん……でも、初めから勝負になってないから」
「ちぇ」
「そんなに拗ねないで。ね、あっち行ってみんなでお話ししましょう」
暖炉のそばで、おじぃちゃんとおばぁちゃんは、特別に会話をする訳でもなく、静かに向かい合って座っていた。三人が寄ってくると、おばぁちゃんが、
「身体の方はどうですか」
と、それぞれに気遣うように、視線を移した。
「なーに、あのくらいじゃ、そうそうくたばりゃせんよ」
おじぃちゃんが豪快に言ってのける。
「はいはい、おじぃさんは良いんですよ」
「私はさっき、おばぁちゃんにマッサージしてもらったから……」
妙に嬉しそうに物書きさんが言う。
「後もう少し時間が長かったら、ちょっと自信が無かったですわね」
優雅な微笑を溜めたまま、俳優が言う。
「あなたはどう。おじぃさんの事だから手加減が無かったでしょう。御免なさいね」
「いえ、そんな事無いですよ」
そうは言ってみるものの、翌日筋肉痛必至なのは、さすがに隠し様が無い。
「まだ、ほぐしてはいないようですね。こちらにいらっしゃい……さ、ここに座って」
彼が素直に座ると、おばぁちゃんは慣れた手付きで、彼の肩から腕をほぐし始めた。
「あら、素直だこと。私のときとは大違いね」
「だって、マダムが迫るからいけないんですよ」
「失礼な言い方ね」
そう言いながらも、表情は笑っている。
彼は痛みに顔をしかめた。
「ちょっと我慢してくださいね」
「はい……でも、よく分かりましたね。僕が筋肉痛になりかけてたこと」
「そんなのは見ていれば判りますよ。どうです、もう痛みはそんなに無いでしょ」
「あ……凄い。ほんとだ」
「さ、今度は反対」
彼の肩を揉むおばぁちゃんの力は一定している。彼はしばらくは黙ってそれに身を任せていたが、やがてちょっとくすぐったそうに笑い出した。
「なに、どうしたの」
俳優がくすっと笑い、そう言うと、
「いえ、何だかちょっと……」
「あら、力が足りませんか」
「いえ、そうじゃないです。痛いのは痛いんだけど……」
彼は照れたように笑いつづける。その表情に物書きさんがニヤリと笑った。
「わかったぁ。わかっちゃったぁ」
「何です、レディ。気味が悪いなぁ」
「うふふ……だってぇ、ねぇ。何か気分がくすぐったいんでしょ」
「あ、ナルホド、そういうわけ。だったら私にも覚えがあるわ」
「もう……いいですよ。いくらでもからかってください」
照れた顔のまま彼がそっぽを向くと、一気に笑いが起こった。
「でも、おばぁさん、疲れませんか。僕はもういいですから……」
「私は良いんですよ。慣れてますから」
「やっぱりおじぃさんの……」
「おお、ばぁさんは上手じゃぞ。だから安心して任せい」
「でも、普通立場が逆のような……」
「ええい、男ならつべこべ言うな。ばぁさんは言い出したら誰が何を言おうが聞かん。なんせばぁさんには、わしでもちぃとも敵わんのじゃからな」
おじぃちゃんが豪快に笑う。結局迫力負けして彼は溜息をついた。
「解りました。じゃあ、後から僕もお二人の肩を揉みますよ」
「おほっ、良い心掛けじゃが、わしはいらん。ばぁさんにしてやってくれい」
「あらまぁ、急に孫が増えたみたいですよ」
おばぁちゃんが笑うと、若い三人が照れたように笑い合った。
「あ、こんばんは。お夕食はもうすぐできますから、お席の方へどうぞ」
熊の声に全員が振り向くと、階段から身なりの良い紳士と淑女が降りてきていた。
「ふむ」
紳士はぐるりとサロンを見渡す。淑女はその後ろでじっと控えている。
「こんばんは」
物書きさんが挨拶をした。それにつられて、他の者も口々に挨拶する。
しかし淑女がそっと会釈を返しただけ。紳士は一瞥をくれただけでそれを無視した。
「おい、君。まさか私達に相席などさせんだろうな」
「それはご自由にどうぞ。席はたくさん空いてますから。ご希望ならば……」
「勿論、そうしてくれ」
そう言い捨てて、暖炉の近くのテーブルに座る。
「ああ、それから、他の者たちはなるべく遠ざけてくれないかね」
熊は言われて、微かに眉を吊り上げた。その視線をちょっとだけ俳優に向ける。
俳優は余裕さえ感じられる笑みをこぼし、
「じゃあ、私達は窓際に参りましょ。ね、皆さん」
そう言って立ち上がった。その姿を眼に止めた紳士が、
「おや、貴方はもしかして……」
しかし俳優は皆まで言わせず、
「多分……お人違いですわ」
極上の笑みを浮かべて言い捨てると、さっさと席についてしまった。
「なに、あの人。凄く感じ悪い」
物書きさんが膨れて座り込む。彼も俳優の椅子を引きながら、
「そうですね」
と、不快な表情を隠せない。しかしそれよりもさらに不愉快そうに、
「全く、人が挨拶してるのに……簡単なことすらできんらしいの」
おじぃちゃんがまだ立ったまま口を思い切りへの字に曲げている。
「どうですかね、私達もご一緒させてもらっても構いませんか」
おばぁちゃんは、相変わらずおっとりとした口調のまま尋ねる。
「勿論どうぞ。窓際は寒いから、少しでも火に近いほうに」
物書きさんが妙に嬉しそうに言う。
「おじさん、良いよね」
「おお、狭くないか」
「大丈夫だよ。ここの椅子借りるね」
彼が隣から椅子を持ってくると、物書きさんが自分の椅子を横へずらす。
「あ、席換わりましょうか、レディ」
「別に良いけど、何故」
「僕、マダムが怖いんです」
「あら、失礼ね、ボーヤ」
「知らなかった。じゃ、換わってあーげない」
「そんな殺生な」
「情けない声」
物書きさんは遠慮無く笑う。彼はわざと口を歪めて見せた。
俳優はそんな彼らをしばらく暖かい眼で見つめていたが、
「まぁ、良いわ。レディ、隣にいらっしゃい」
物書きさんは元気の良い返事をして席をずれた。その後に彼が座る。
「そこ、寒いでしょ、本当にいいの」
「別に、僕は大丈夫ですから」
「なら、いいけど」
物書きさんはちょっと小首を傾げると、彼を見つめた。その眼が笑みを湛える。
「有り難う」
「え……」
彼が返す言葉を見つける間もなく、食事が運ばれてきた。前菜の皿を並べながら、熊が俳優にそっと耳打ちをしてきた。
「あちらのお客様が、一緒に食事をどうか、と」
「私に」
熊は答えの変わりに一つ頷く。俳優はちょっとだけ眉を吊り上げた。
「……確かここのワインセラーには、ほとんどのワインが揃っていたわね」
そう呟くと、熊が表情を変えずに、
「では、あちらのお客様に……」
「そうね、一本お送りして。値段は問わないわ」
「……畏まりました」
芝居がかった調子で熊が言うと、
「マダム、行かなくていいんですか」
眉をひそめて彼が俳優を見た。
「私にだって、食事の相手を選ぶ権利くらいあるわ」
そう言って俳優は口元だけで笑った。熊はいつの間にかその場を離れていた。
「でも、解るのかしら。ワインを送っただけで」
物書きさんが単純な疑問を口にする。
「さぁ。解らなくてもいいんじゃない」
極めてあっさりと俳優が言ってのける。
「それともなぁに。一緒に歌でも送って差し上げた方が良かったかしら」
「あはは、それいいかも知れない。でも、マダムは、歌、と言うより黒薔薇の方かも」
「それとも銘柄を指定して、年代物か何かを贈った方が良かったとか」
「それじゃあ、一緒じゃないですか」
「あんなのには、出がらしでも出しとったらいいんじゃ」
「あ、それ名案だわ」
「マダム……いくら何でもそれはあんまりじゃないですか」
「あら、面白いじゃない」
何の屈託も無く俳優は笑う。しかしその笑いをすぐに収めると、
「でも、ボーヤにはまだ無理かもね」
「……何がですか」
「こんな意地悪を、許せないでしょ」
「……」
「そんなに怒らないで。別に悪い意味で言ってるんじゃないわ」
「それだけ純粋だ、って言うことでしょ」
事も無げに物書きさんが言う。彼は何故か急に恥ずかしそうに俯いた。
前菜の皿を熊が下げに来た。代わりにメインディッシュの皿を置いていく。
「ナイフとフォークがお嫌なら、お箸もございますが」
「じゃあ、お願いしましょうか」
「おう、そうじゃな」
「それでは、少し切りましょうか」
そう言って、おじいちゃん達のメインディッシュに手際良くナイフを入れていく。そして箸を置くと、そっと俳優に近寄った。手に一枚の紙を握っている。
「これを」
それだけ言って、紙を俳優に手渡す。俳優はちらりとそのカードに眼を落とすと、微かな笑みを浮かべた。そのままカードを左手の方に置く。
「……」
全員の視線に気付き、俳優は笑みを浮かべたまま。
「マダム……」
「皆さんに、失礼をお詫びします……ですって」
その笑みに皮肉の影は無い。皆は顔を見合わせると、同じような笑みを浮かべあい、食事を再開した。
ペンション『キャビン』の夜が、再び戻って来た……
彼と俳優さんって意外によくドタバタしてますね……