第五日目・昼
たまには身体を動かしましょう。
昼過ぎになって、急に空は掻き曇り始めた。
「うわぁ、急に寒くなってきた」
外でハスキーと遊んでいた物書きさんが、そう言いながら家の中に飛び込んできた。
「急にって、朝からも結構寒かったわよ」
暖炉のそばに座を占めた俳優が、お茶を啜りながら苦笑する。
「だって、さっきまで日が照っていたから、少しはましだったんですよ」
「結構寒さに強いのねぇ」
「そりゃ、まだ若いですから」
「……たいした根性だわ」
「でも私なんて、到底敵わないかもしんない」
物書きさんはにっこりと苦笑する。
「……どう言う意味」
「こういう事です」
招かれるまま、玄関から外を覗く。
「……ほんと、あれは根性あるわ」
「ね」
二人の視線の先で、おじぃちゃんと彼が向き合っていた。
「何か、まるで修行中、って感じねぇ」
そう言って身震いをして、俳優はドアを閉めた。物書きさんはくすくすと笑っている。
「レディ、何であんな事になったの」
「それがですねぇ……」
言いかけて、思い出し、くすくす笑いがひどくなる。
「ごめんなさぁい……で、あのですね、二人でハスキーくんと遊んでいたら、おじぃちゃんが出てきて、何か始めたんですよ……こう、こんな感じかな……何かの型の練習みたいな。で、一時見てたんだけど、これが結構様になってて……」
「それでボーヤが、それをやってみたくなってきた……なんて言わないわよね」
「あはは……まさか。引っ張り込まれちゃったんですよ。ボーヤって付き合いいいから」
「……納得」
「でも結構嵌っちゃってるかも。いまや真剣そのもの……本物の修行みたい」
「そりゃ、そうもなるでしょうよ」
「……どう言う意味です、マダム」
「……まぁ、知らなくても無理ないかしらね」
「えっ、えっ、どう言う意味」
俳優は、物書きさんの目が真ん丸になるのを楽しげに見つめていた。その視線をそっと階段のほうにずらす。
「ね、そうですわよね……先生」
「いやだわ、あなたからそう言う呼ばれ方をすると」
階段の側におばぁちゃんが立っていた。にこにこと柔和な笑みを湛えている。
「先生って……」
「いえね、書道をちょっとばかり教えているものですからねぇ」
物書きさんは、しばらく呆気に取られていた。
妙に威勢のいい掛け声が、外から聞こえてきた。
「あらあら、しょうがないわねぇ。家のおじぃさんときたら」
「あ……そう言えば、ねぇ、マダム、さっきの意味……」
「あの人……いいえ、あの方は私の先生よ」
「はぁっ」
「そうですわよね、先生」
「ほほほ……」
おばぁちゃんは柔和な笑みのまま。ただその眼が懐かしげに細められる。
「そうなるのかしらねぇ。でも、もう随分昔のこと」
「その頃の私ときたら……随分生意気で……」
「そんな事ありませんでしたよ。礼儀を弁えた、本当に良い子で」
「それも先生方のお陰ですわ」
「へぇ、マダムにもそんな時代があったんだ」
「なに、妙なところに感心してんの」
「だって、肝心なところが見えないんだもの。マダムったら意外に秘密主義」
「当てて御覧なさい」
「おばぁちゃんが書道の先生なのは、この前なんとなく話しに出てたけど……おじぃちゃんの正体も、もうなんとなく分かっちゃってたんですよね。でも、それじゃあ、あんまり話が出来過ぎてると言うか、何と言うか……」
「いいから言って御覧なさい。話の尾を引くことにかけては、レディも相当なものだわ」
「そりゃ、小説書いてますから……こうなったら結論見えてるでしょ。おじぃちゃんは何かの武道の先生、ってところじゃないですか。何かは判らないけど」
「何だと思う」
「いじめないで下さいってば。私、探偵の素質ゼロなんですから」
「でも、そこまで読めれば話は早いわね。そう、ちゃんと道場も構えていらっしゃるわ。その筋では結構有名な道場よ」
「なるほど、納得しました……でも、好きだな。そう言う夫婦って」
物書きさんは屈託の無い笑顔。
「そう……どうして」
優しい光を瞳に湛えて、俳優が尋ねる。
「言葉にしちゃったら、雰囲気壊れるでしょ……それよりここに新たな謎が生まれたわ」
「なぁに、新たな謎って」
「マダムが何故、道場に通っていたのか……」
「手ごわい子だこと」
「だぁって、そっちの方が謎じゃないですか。多分おばぁちゃんだって薙刀か合気道くらいやってそうだし」
「あら、何故そう思うの」
驚いた様子で俳優が物書きさんを見つめる。その表情に、かえって物書きさんの方が驚いてしまった。
「うーん、ただ何となくだったんだけど……あえて言うなら腰が伸びてるから、かな。失礼な話しかも知れないけど、私のおばぁちゃん、腰が曲がっていたんですよ。でもそんなに歳が変わらないようなのに、ぴんと背筋が伸びてて。それに足音がしないんだもの」
「……たいしたものだわ。私ちょっとレディを見くびっていたみたい」
「あのですねぇ」
「ほほほ」
「おばぁちゃんも、笑わないで下さいよ」
「いえねぇ、昔の話なんですよ。女学校時代の薙刀の稽古がそのまま身についてしまって、結局そのまま……でも、もう随分と薙刀は触っていないわ」
「では、あれから……」
「ええ……あなたにお教えしたのが最後……今は若い人が後を継いで下さっているのですよ」
「へぇ、マダム、薙刀習ってたんですか」
「演技に必要だったのよ」
「じゃあ、直接の先生っておばぁちゃん……ううん、この先生の方なんですか」
「いいのよ、おばぁちゃんで。それに薙刀だって、おじぃさんの方での修行の次いでみたいなものだったんですから」
「え、じゃあマダムが本当に習っていたのは……」
「空手と薙刀、そして書道よ」
「でもおじぃちゃん、マダムの事全然気付かなかったみたいでしたけど」
「無理はないわ……あの時は私、男の格好をしていたし、歳を取って雰囲気も変わってしまったから……」
「そんな事はありませんよ。おじぃさんも、ちゃんと覚えていましたとも」
「え、でも、マダムの事を別品さんって……」
物書きさんの言葉に、おばぁちゃんは口元を隠しながら、
「おじぃさんは芝居好きだから」
そう言ってほほほ、と笑った。
「お茶目なおじぃちゃん」
物書きさんの率直な感想。他の二人は、目を見合わせて笑い合った。
外では、いまだ威勢のいい掛け声が続いている。
「よく続くなぁ」
外を見つめる物書きさんの眼が、心持心配げに細められている。
「ほんと、困った人だこと……他人様を無理やり……」
笑みを絶やさずそう言って、おばぁちゃんは奥の部屋へと消える。二人が呆然としているとすぐに戻って来た。手に二枚のバスタオルを持っている。
「身体が冷え切ってしまいますからねぇ。帰って来たらさっさと二人を浴室に放り込んじゃいましょう」
そう言いながらにこにこと笑っている。
「あ、何だかうらやましいな」
「……そうね。私も何だか久しぶりに汗をかきたくなってきたわ」
俳優はそう言うとセーターを脱ぎ始めた。その下は薄手の半袖シャツ一枚。
「うわぁ、それで外に出るんですか……寒そう」
「初めのうちだけよ……下はこれでいいわね」
物書きさんは呆気に取られて凝視している。
「じゃあ、行ってくるわね」
外の声は相変わらず続いている。俳優は、優雅な物腰のまま外へ出て行った。
二人はそれを黙って見送っていたが、やがて夢から醒めた様に物書きさんが、
「忘れてたわ……マダムって男だったんだ」
「鍛錬を怠っていなかったんですねぇ」
事も無げにおばぁちゃん。そのままもう一枚タオルを取りに行こうとして、物書きさんの様子に気付く。
「心配ないですよ。ああ見えても無茶はしない人ですから」
その言葉に振り向いて、物書きさんは苦笑した。
「いえ、それは何も心配していませんが……」
「……が」
にこにこと聴き返すおばぁちゃんに、照れたように笑って、
「みんなが羨ましいなぁ、って」
数十分後……
熊が呆れていた。
「おい、いつからここは道場になったんだ」
外ではおじぃちゃんを筆頭に、彼と俳優が映画のアクションシーンさながらのことをやっている。その近くでは女性軍が威勢のいい掛け声を発していた。
「さぁ、知らない」
食事の支度をしながら、おねーさんがおっとりと答える。
「知らないって……」
「あなたもしたいの」
「……おいおい」
「もう一組のお客さんなら大丈夫よ。あの部屋一番遠いし、防音も効いてるし」
「……そう言う問題か」
「あ、そうそう。あなた、浴場の湯加減、見てくれない」
「湯加減……なんで」
「だってぇ、外から帰ってすぐ入ったら熱いでしょ」
「……わかりました」
結局、熊の負け。そのまま何も言わず、熊は湯加減を見に行った。
「あつ……あつつ」
物書きさんはお湯と格闘していた。手先が冷え切っていて、お湯が熱くて触れない。
「慌てないで。少しづつ慣れていけばいいですよ」
「はーい。でも、こんなにお湯が熱く感じた事、今まであまり無かったかも知れない」
「外はものすごく寒かったですからねぇ」
「終わってすぐは、身体がホカホカしてたからそんなに感じなかったけど」
「でもね、手足は冷え切っているものなのですよ」
「そうみたいです」
そう言いながら物書きさんは一旦湯船を諦め、シャワーで身体を洗い始めた。
「うわーっっっっっっ、な、何するんですか、マダムっ」
妙に威勢のいいような、悲鳴のような声が壁の向こうから聞こえてきた。
「あら、背中を流してあげてるんじゃないの」
意地悪で楽しげな声が、ややくぐもって聞こえる。
「男じゃろ、このくらい我慢せい」
そう言って豪快に笑うのは、間違いなくおじぃちゃんだ。
「あちっ、あちちちっ」
「すぐに慣れるわよ、ほら」
「……何だか、男湯は妙に楽しそうですね」
呆れて物書きさんが言う。その間も男湯での会話は筒抜けになっている。
「ほんに、おじぃさんったら……まぁ、あれがあの人の良い所でもありますけどねぇ」
「……おばぁちゃん、お湯、熱くないんですか」
「ちょうど良い湯加減ですよ」
身体を洗い終わったおばぁちゃんは、もう湯船に身を沈めていた。
「おばぁちゃんって……」
言いかけて、物書きさんは言葉を止めた。
「何ですか」
「あ、いや、その……怒りませんか」
「何です……遠慮せずに言って御覧なさい。私は大抵の事は気にしませんから」
おばぁちゃんはそう言ってにっこり笑う。物書きさんは安心したように笑うと、
「おばぁちゃんって、可愛いなぁって、そう思ったんです」
「おやまぁ、ほほほ」
おばぁちゃんが楽しげに笑った。
「へへへ」
ちょっと甘えるような笑みを浮かべながら、物書きさんはおばぁちゃんと並んで湯船に浸かった。
「綺麗な景色……でも、まだお昼だと言うのに、なんだか薄暗くなってきましたね」
「そうですねぇ。雲も厚くなって」
「こんなお昼からお風呂に入るの、随分久しぶり」
「たまには良いものですねぇ。私はこういうのは結構好きですよ」
「私もです。……あ、私ったら、おばぁちゃんのお背中流して差し上げればよかった」
「いいんですよ。こんな小さな背中じゃ流しにくいでしょうし」
「……私、そういうの、した事が無いんです」
「おばぁちゃん、早くにお亡くなりになったの」
「いいえ、何年か前まで……でも、疎遠で、結局何もしてあげなくて……」
「後悔してらっしゃるの」
「どうでしょうか……自分でもよく判りません。ただ、おばぁちゃんの死に顔を見た時、妙に小さく思えて……特に寝たきりだったおばぁちゃんの方は……」
そこでしばらく言葉が途切れる。物書きさんの眼はどこか遠くを見ていた。
「私、おばぁちゃんって、あまり関心が無かったんですよね。何も考えてなかったんです……どんなに孤独だったか、なんて」
「病院に入ってらしたの」
「ええ、その寝たきりのおばぁちゃんの方は……最後まで独りぼっちで」
「本当に独りぼっちだったの」
「……母は、よくお見舞いに行ってました。それをとても喜んでいて……でも私は……」
物書きさんの言葉が震えて途切れた。おばぁちゃんは、しばらく何も言わず外を見ていたが、やがて、
「背中を流していただけるかしら」
そう言って湯船から立ち上がった。物書きさんを見下ろす眼が暖かい。
「……はい」
物書きさんがはなをグスグス言わせたまま、にっこりと笑った。
外では、いつの間にかまた雪が降り始めていた。
ペンション『キャビン』は、静かに薄く暮れていた……
冷え切った手足にお風呂のお湯はなかなかに容赦ないです。