第五日目・朝
『キャビン』に珍客が……さて、一体何でしょう。
翌朝は打って変わって青空が広がっていた。
「ねぇ、見て見て」
物書きさんが、サロンではしゃいでいる。何事か、と、彼と俳優が寄ってきた。
「ほら、見て見て」
物書きさんが大きな窓から身体を除ける。
「どうしたの。一体なにをそんなに喜んでいるの」
「軒下を見てくださいよ」
「何も無いですよ」
「もっと下……ほら、ハスキー君の餌の近く……そう、そこから林の方に眼を向けて……ね、居るでしょ」
いつの間にかささやき声になっている。二人も見を堅くして言われた通りにその眼を走らせていく。
「あ……」
彼が指をさした。
「もしかして、あれ、イタチじゃないですか」
「そう、そう」
「え、どこにいるの」
「ほら、今は林と小屋の間……走ったっ」
「……あっ、ホンと……へぇ、珍しい。あれ、テンじゃないかしら」
「あんなに小さいんですかぁ」
「ええ……この辺りの山の中にいるらしいわ。私も、ここではまだ一度もお眼にかかったことは無いけど」
「ええっ、じゃあ僕らは運が良かったって訳ですね」
「そうなるわねぇ」
「……なにを窓際ではしゃいでいるんだ」
「あ、おはようございます」
「テンが、今そこに来てたんだ」
「ほう……テンとは珍しいな」
「やっぱり、おじさんでも珍しいのかい」
「ああ、そうだな。あれは夜行性だから、普段、昼の間は出てこないんだがな」
「ハスキー君の餌を狙って来たのでしょうか」
「さぁ……でも確かに、冬の間は食べ物も減りますしね」
「……そうですか」
物書きさんの眉根が一瞬曇った。しかし、それをすぐに笑顔にすり替える。
「まぁ、あの子は運良く今日の糧を得たわけで……私達も、今日の糧を得なければ」
「はい、後ちょっと待ってて下さいね」
熊が調子に乗る。俳優は呆れた顔をした。
彼は物書きさんの横顔をじっと見つめていた。肩を叩かれ、我に返る。
「そろそろ席に行かない」
俳優がそう言って笑いかけた。
「雪、解けちゃうのかな」
物書きさんが心配そうに外を見ていた。
「大丈夫よ、レディ。外は相当寒いし」
「解けて欲しくないけど……でも、ここが大変ですよね」
その言葉を、熊が聞いていた。
「うちは、雪ぐらいだったらそんなに困りませんよ」
「そうですか」
「ええ。むしろそれ以上に厄介なことは多いですからね」
「そんなにですか」
「何かとですね。中でもとりわけ厄介なのが……」
「厄介なのが……」
「お客が全く来ない事ですね」
「……」
「……」
「…ぷっ、やだぁ」
「あははははは」
「うん、確かに客が来ない事には、何も始まらないわね」
「マダム、そこで納得しないで下さいよ」
「あら、でも本当の事ですよぉ。ねぇ、あなた」
そう言ったおねーさんはワゴン車を押していた。
「ルームサービスもするんですか」
彼と物書きさんが顔を見合わせる。
「ええ、しますよ」
「それはあの老夫婦のかしら」
「いいえ。あのご夫婦はもうとっくに朝食は終わってますよ。これはもう一組のお客さんのですよ」
「いらっしゃったんですか、後一組」
「それって、昨日、夕方に自分の車で来た人達じゃないですか」
「あら、ボーヤ知ってたの」
「ええ、僕の部屋の前を通って行ったから」
「そうよ。その人達」
おねーさんは階段の下までワゴンを運んで行った。
「後は俺がやるから、皆さんの食事の用意を頼むよ」
熊が横合いから銀盆を取り上げる。
「はぁい」
おねーさんは素直に台所に消えていく。食事を盆に載せ、熊は二階に上がる。
「みんなで食事しないのかな」
物書きさんが首を傾げる。
「誰にも干渉されたくないんでしょ、きっと」
俳優が言う。
「それに否が応でも会えるわよ。どうせディナーはここでいただくんだから」
「そうですね」
朝食は、約束通りワカメに豆腐の味噌汁がついていた。
「げっ……」
「好き嫌いは許さないわよ」
「そう言われても……」
「あ、おいしい」
早速物書きさんが味噌汁を啜っている。
「ね、一口でいいから食べてごらんよ。ほんとにおいしいから」
「そ、そうですか」
彼は眼を瞑って一口啜った。そして、
「あ……ほんとだ」
「ね」
彼は味噌汁を二杯おかわりした。
「こんなに味噌汁がおいしいなんて、初めて知りました」
「あら、その言い方、まるで味噌汁そのものが嫌いだった見たいな言い方じゃない」
俳優がそう言って笑うと、彼はちょっとだけばつが悪そうに、
「正直言って、あまり好んで飲んではいなかったですね」
「勿体無いなぁ、こんなにおいしいのに。やっぱり現代っ子って違うのかなぁ」
「そういうレディだって、僕とそんなに歳変わらないじゃないですか」
「そうだったか」
そう言って物書きさんは舌を出す。俳優がそれを見て笑った。
「もしかしてボーヤは、コーンスープとかの方が舌に馴染んでるんじゃない」
「どっちかと言うと……母はあんまり味噌汁は作りませんから」
「ふぅん。うちなんかそれこそ毎日だったな。それが結構辛くて……一時期減塩にも凝ってたけど、結局長続きしなかったな」
「あら、高血圧とかは心配じゃないの」
「それでもだいぶ薄味になりましたから。あのままだったら危なかったかも」
「おやおや」
「でも、確か塩分の取り過ぎだって、バナナ食べれば大丈夫なんでしょ」
「……」
彼は二人の会話を聞きながら、ただ黙って味噌汁を飲んでいた。既に二人の会話は彼のついていけない次元に達している。
「もう、いいのか」
部屋に食事を持って行った熊が、彼の後ろから声をかけた。
「あ、ああ。もういいよ。おなか一杯だ」
「で、どうだった。ワカメの味噌汁は」
「おいしかったよ」
「ならよかった」
そう言いつつ、熊は思い出したようにニヤリと笑う。
「でも好き嫌いは良くないな。そんなんじゃ大きくなれないぞ」
「もう遅いよ」
「ばかやろ。根性入れればまだ大きくなる」
「根性でどうにかなるものかなぁ」
彼が呆れて言うと、
「あら、そうでもないかもよ。ボーヤは確かまだ高校生でしょ」
「と言っても、もう三年生ですけど」
「なら、まだまだだわ。私なんて二十歳過ぎまで背が伸び続けたから」
「マダム、そんなに遅くまで成長期があったんですか」
物書きさんは、ちょっとだけ首を傾げて、
「何かスポーツでもやってたんですか」
「ただ芝居の稽古をやっていただけよ」
「そんなにハードだったんですか」
「さぁ、どうかしらね。でもたまにいるわよ。たいして何もしていなくても」
物書きさんは、もう一度首を傾げてから、
「あ、でもそう言えば私も、二十歳過ぎて一センチ伸びたっけ」
「あら、根性あるわね」
「いやぁ、それほどでも」
「……照れますか、それで」
彼は少し呆れ顔で笑う。物書きさんはそれを涼しげに受け流して、
「あら、だって誉められれば嬉しいじゃない」
しかし、すまし顔は長く続かない。俳優が初めに吹き出すと、笑いが一気に広がる。
「本当にたいした子だこと」
「いいんじゃないか、このくらいあった方が」
熊までが調子に乗って言う。
彼だけが結局ついて行けず、しばらく呆れて見ていたが、やがて、
「これが大人なのかな」
その呟きが更なる爆笑を引き起こした。
「そんなに笑わないで下さいよ」
ちょっと唇を尖らせる。が、結局、彼もまた笑いの仲間に入った。
ペンション『キャビン』の朝は、いつものように過ぎて行った……
答えはテンでした。
わかめの味噌汁、好きなんですよね。