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ペンション『キャビン』物語(第一稿)  作者: 空花(沢 渉)
6/12

第四日目・夜

雪の夜は……

雪は小降りになっていた。

窓を開けると、少しだけ雪が降り込んで来る。外へ吐き出す息が白い。

彼は深々と息を吸い込んだ。そのまま暫く止めて、一気に吐き出す。

外の景色は暗いのに、なぜか眼に鮮やかだ。そして、風の音すらしない。

ふと、彼は下の方に眼をやった。

(……あれは)

 物書きさんが、林の奥に消えていく。黒いコートに両手を突っ込んで、時々その足を止めては空を見上げ、しかし又すぐに歩き出す。灯りを持ってる様子は無い。

 彼は、暫くは言葉も無く、それを見送っていた。

 やがて物書きさんの姿は見えなくなっていった。

 彼は夢から醒めた様に詰めていた息を吐き出した。

 そのまま窓を閉めると部屋を飛び出し、一気に階段を駆け降りた。

「どうしたの、そんなに息せき切って」

 呼び止めたのは俳優だった。

「レディが一人で林の方へ……」

「そう……」

「心配じゃないんですか」

「レディのことなら心配要らないわよ、きっと」

「どこに行ってるのか。知ってるんですか」

「知らないわ。だって必要ないもの」

「そんな……」

「……ボーヤは優しいのね」

「だって、なんか様子が普通じゃ無かったですよ」

「そうね、確かに何か訳有りで来たのだろうけど……」

 俳優はその髪をかきあげた。彼の顔をちらりと見遣る。

「でも、レディは大人だわ」

「……」

 俳優は微かに笑った。そして彼を暖炉のそばに招き寄せた。彼は迷いながらも、俳優の近くに寄った。

 しばらくは二人とも無言のままだった。その間、彼はずっと俳優の横顔に視線を注ぎ続けた。俳優か炎を見つめたまま、彼を見ようともしない。

 ややあって、俳優は小さな溜息を一つついた。

「ここで待ってなさい」

 そう言って二階に上がっていく。やがて何かを持って降りてきた。

「何を持ってきたんですか」

「……ただね、これが聴きたくなったのよ」

 そう言って小脇に挟んでいたものを見せる。

「……レコード、ですか」

「そう」

「でも、古いものですね」

「そうね。もう何十年前のものかしら」

 俳優は手入れの行き届いたプレーヤーに、レコードをかけた。

 その中のたった一曲だけをかける。

 彼が耳にした事の無い曲……

「これはなんと言う曲ですか」

「……『クライム・エヴリ・マウンテン』……『すべての山に登ろう』」

 それっきり眼を閉じて、曲に聴き入ってしまう。彼も付き合って耳を傾ける。意味はまるで解らない。だが、強い自信に満ち溢れたような、朗々としたアルトの歌声と、流れるように透明なオーケストラの演奏に、いつしか引き込まれていった。

 俳優はただ眼を閉じたまま、表情も消え去っている。ただその右手だけが、微かにリズムを取るように揺れていた。

 曲が終わり、俳優が大きな溜息をついた。そして、次の曲は聴かず、レコードをジャケットにしまった。

「それだけしか聴かないんですか」

「今はね……どうだった」

「いい曲ですね。歌詞は解らないけど」

「すべての山に登ろう……それだけの台詞よ。この中に歌詞も入っているわ。あとは自分でお調べなさい」

 手渡されたレコードを見て、彼は戸惑った。しかし、俳優はただじっと彼を見詰めているだけだった。

それ以上は何も言わず、俳優は自室に戻った。彼は尚もしばらくそこに佇んでいたが、やがて二階へと上がって行った。

ベッドに腰掛けて、紙を開いてみる。

それを一通り読んでみる。

読んでみて、ふと、もう一度この曲を聴いてみたくなった。

再び一階に降りる。レコードをかけてみた。

何番目か分からず、そのまま聞き流していく。そしていつの間にかそれに聴き入ってしまっていた。

彼自身知っている曲が何曲もある。

「へぇ……エーデルワイスだぁ」

 声に振り向くと、物書きさんが玄関のドアを閉めていた。

「あ……お帰りなさい」

「ただいま」

 にっこり笑ってコートを脱ぐ。

「外、行ってたんですか」

「うん、お散歩にね。雪明りが凄かったわよ」

「そうですか。そんなに綺麗だったんですか」

「ええ……まるでこの世じゃないみたいに」

 彼の手が、ぴくりと震える。手に持った紙が微かに音を立てた。

「……それは……良かったですね」

「……見てたんでしょ」

「知ってたんですか」

「見ていたのは、知っていたわ」

彼は黙り込んで、物書きさんを見つめた。物書きさんは、しばらくその眼を見返して、ちょっとだけ眉を吊り上げた。彼はつっと、その視線を逸らした。

「心配、かけちゃったのかな」

「あ……」

「有り難う……ごめんね」

「いえ……そんなつもりじゃ……」

 横目で物書きさんを見る。暖炉のそばで、物書きさんは冷え切った手を温めていた。

「考えてみれば、レディも大人なんですよね」

「何よ、出し抜けに」

「いいえ……心配して損したみたいです」

「……そうね。大丈夫よ……」

 物書きさんは、真っ直ぐに彼の眼を見つめた。

「まだ当分は……ね」

 不意に黙る。そのまま耳をそばだてる。

「…………」

 物書きさんが曲に併せてハミングを始めた。

 『すべての山に登ろう』

「知ってる曲なんですか」

「この曲、大好きよ」

「この歌詞の意味、解りますか」

「そうね……大体は、かな」

「これ、マダムが貸してくださったんです」

「そう……」

 物書きさんが僅かに視線を落とした。

「君、この歌詞の意味、知ってるのかな」

「いいえ、まだ良くは知りません」

「なら、調べたらいいわ」

「同じ事を言いますね」

「誰と」

「マダムと……あの人も自分で調べろって」

「そうするだけの価値があるのよ」

「……解りました」

「よろしい」

 二人は顔を見合わせて笑った。

「何だか立場が逆転しちゃったな」

「甘いのよ、君は。これでも私だって一応君より年上なんだから」

「そうなんですよね。これからは肝に銘じておきます」

「それでよろしい」

「まるでマダムだ」

「あの人には敵わないわ」

「そうでしょうか。案外いい勝負だと思いますけど」

「どうかな」

 物書きさんはそう言って、ただ、笑った。

 サロンの鳩時計が静寂に割って入る。

「もうこんな時間……」

 時計を見ながら、物書きさんが溜息をついた。

「なんか、不公平な気がするなぁ」

「なにがですか」

「だって、つまんない日って過ぎて行くの本当に遅いじゃない。なのに、ねぇ」

「ああ、なるほど」

「昔から言われているけど、確かにそうよ」

「だから、不公平、って」

「……本当はそんな言い方しないだろうけど」

「当て嵌まらない事は無いんじゃないですか」

 物書きさんは声を殺して笑った。彼は少し唇を尖らせた。

「何か変なこと言いましたか」

「ううん……別に。ただ君って本当に素直な子なんだね」

「どう言う意味ですか」

「少なくとも、悪い意味では言って無いわ。後は自分で考えて頂戴」

「その言い方、ずるいですよ」

「ずるいかな、やっぱり」

 二人は笑い合った。

 物書きさんは、大きなあくびをした。

「さ、もう遅いし、部屋に帰って寝よ。昨夜はカーニバルで遅かったし、さすがにもう限界だわ」

「そうですね」

 彼はそう言って、レコードをジャケットにしまった。

 ペンション『キャビン』の夜更けは何事も無かったかのように更けていった……

映画の『サウンドオブミュージック』、好きな映画です。今も。

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