第四日目・夜
雪の夜は……
雪は小降りになっていた。
窓を開けると、少しだけ雪が降り込んで来る。外へ吐き出す息が白い。
彼は深々と息を吸い込んだ。そのまま暫く止めて、一気に吐き出す。
外の景色は暗いのに、なぜか眼に鮮やかだ。そして、風の音すらしない。
ふと、彼は下の方に眼をやった。
(……あれは)
物書きさんが、林の奥に消えていく。黒いコートに両手を突っ込んで、時々その足を止めては空を見上げ、しかし又すぐに歩き出す。灯りを持ってる様子は無い。
彼は、暫くは言葉も無く、それを見送っていた。
やがて物書きさんの姿は見えなくなっていった。
彼は夢から醒めた様に詰めていた息を吐き出した。
そのまま窓を閉めると部屋を飛び出し、一気に階段を駆け降りた。
「どうしたの、そんなに息せき切って」
呼び止めたのは俳優だった。
「レディが一人で林の方へ……」
「そう……」
「心配じゃないんですか」
「レディのことなら心配要らないわよ、きっと」
「どこに行ってるのか。知ってるんですか」
「知らないわ。だって必要ないもの」
「そんな……」
「……ボーヤは優しいのね」
「だって、なんか様子が普通じゃ無かったですよ」
「そうね、確かに何か訳有りで来たのだろうけど……」
俳優はその髪をかきあげた。彼の顔をちらりと見遣る。
「でも、レディは大人だわ」
「……」
俳優は微かに笑った。そして彼を暖炉のそばに招き寄せた。彼は迷いながらも、俳優の近くに寄った。
しばらくは二人とも無言のままだった。その間、彼はずっと俳優の横顔に視線を注ぎ続けた。俳優か炎を見つめたまま、彼を見ようともしない。
ややあって、俳優は小さな溜息を一つついた。
「ここで待ってなさい」
そう言って二階に上がっていく。やがて何かを持って降りてきた。
「何を持ってきたんですか」
「……ただね、これが聴きたくなったのよ」
そう言って小脇に挟んでいたものを見せる。
「……レコード、ですか」
「そう」
「でも、古いものですね」
「そうね。もう何十年前のものかしら」
俳優は手入れの行き届いたプレーヤーに、レコードをかけた。
その中のたった一曲だけをかける。
彼が耳にした事の無い曲……
「これはなんと言う曲ですか」
「……『クライム・エヴリ・マウンテン』……『すべての山に登ろう』」
それっきり眼を閉じて、曲に聴き入ってしまう。彼も付き合って耳を傾ける。意味はまるで解らない。だが、強い自信に満ち溢れたような、朗々としたアルトの歌声と、流れるように透明なオーケストラの演奏に、いつしか引き込まれていった。
俳優はただ眼を閉じたまま、表情も消え去っている。ただその右手だけが、微かにリズムを取るように揺れていた。
曲が終わり、俳優が大きな溜息をついた。そして、次の曲は聴かず、レコードをジャケットにしまった。
「それだけしか聴かないんですか」
「今はね……どうだった」
「いい曲ですね。歌詞は解らないけど」
「すべての山に登ろう……それだけの台詞よ。この中に歌詞も入っているわ。あとは自分でお調べなさい」
手渡されたレコードを見て、彼は戸惑った。しかし、俳優はただじっと彼を見詰めているだけだった。
それ以上は何も言わず、俳優は自室に戻った。彼は尚もしばらくそこに佇んでいたが、やがて二階へと上がって行った。
ベッドに腰掛けて、紙を開いてみる。
それを一通り読んでみる。
読んでみて、ふと、もう一度この曲を聴いてみたくなった。
再び一階に降りる。レコードをかけてみた。
何番目か分からず、そのまま聞き流していく。そしていつの間にかそれに聴き入ってしまっていた。
彼自身知っている曲が何曲もある。
「へぇ……エーデルワイスだぁ」
声に振り向くと、物書きさんが玄関のドアを閉めていた。
「あ……お帰りなさい」
「ただいま」
にっこり笑ってコートを脱ぐ。
「外、行ってたんですか」
「うん、お散歩にね。雪明りが凄かったわよ」
「そうですか。そんなに綺麗だったんですか」
「ええ……まるでこの世じゃないみたいに」
彼の手が、ぴくりと震える。手に持った紙が微かに音を立てた。
「……それは……良かったですね」
「……見てたんでしょ」
「知ってたんですか」
「見ていたのは、知っていたわ」
彼は黙り込んで、物書きさんを見つめた。物書きさんは、しばらくその眼を見返して、ちょっとだけ眉を吊り上げた。彼はつっと、その視線を逸らした。
「心配、かけちゃったのかな」
「あ……」
「有り難う……ごめんね」
「いえ……そんなつもりじゃ……」
横目で物書きさんを見る。暖炉のそばで、物書きさんは冷え切った手を温めていた。
「考えてみれば、レディも大人なんですよね」
「何よ、出し抜けに」
「いいえ……心配して損したみたいです」
「……そうね。大丈夫よ……」
物書きさんは、真っ直ぐに彼の眼を見つめた。
「まだ当分は……ね」
不意に黙る。そのまま耳をそばだてる。
「…………」
物書きさんが曲に併せてハミングを始めた。
『すべての山に登ろう』
「知ってる曲なんですか」
「この曲、大好きよ」
「この歌詞の意味、解りますか」
「そうね……大体は、かな」
「これ、マダムが貸してくださったんです」
「そう……」
物書きさんが僅かに視線を落とした。
「君、この歌詞の意味、知ってるのかな」
「いいえ、まだ良くは知りません」
「なら、調べたらいいわ」
「同じ事を言いますね」
「誰と」
「マダムと……あの人も自分で調べろって」
「そうするだけの価値があるのよ」
「……解りました」
「よろしい」
二人は顔を見合わせて笑った。
「何だか立場が逆転しちゃったな」
「甘いのよ、君は。これでも私だって一応君より年上なんだから」
「そうなんですよね。これからは肝に銘じておきます」
「それでよろしい」
「まるでマダムだ」
「あの人には敵わないわ」
「そうでしょうか。案外いい勝負だと思いますけど」
「どうかな」
物書きさんはそう言って、ただ、笑った。
サロンの鳩時計が静寂に割って入る。
「もうこんな時間……」
時計を見ながら、物書きさんが溜息をついた。
「なんか、不公平な気がするなぁ」
「なにがですか」
「だって、つまんない日って過ぎて行くの本当に遅いじゃない。なのに、ねぇ」
「ああ、なるほど」
「昔から言われているけど、確かにそうよ」
「だから、不公平、って」
「……本当はそんな言い方しないだろうけど」
「当て嵌まらない事は無いんじゃないですか」
物書きさんは声を殺して笑った。彼は少し唇を尖らせた。
「何か変なこと言いましたか」
「ううん……別に。ただ君って本当に素直な子なんだね」
「どう言う意味ですか」
「少なくとも、悪い意味では言って無いわ。後は自分で考えて頂戴」
「その言い方、ずるいですよ」
「ずるいかな、やっぱり」
二人は笑い合った。
物書きさんは、大きなあくびをした。
「さ、もう遅いし、部屋に帰って寝よ。昨夜はカーニバルで遅かったし、さすがにもう限界だわ」
「そうですね」
彼はそう言って、レコードをジャケットにしまった。
ペンション『キャビン』の夜更けは何事も無かったかのように更けていった……
映画の『サウンドオブミュージック』、好きな映画です。今も。