第四日目・昼
さて、ペンション『キャビン』のお客さんが出そろいます。
雪はまだ降り続いていた。
草原はすっかり雪化粧をしている。
熊は、今日もまた、新しい客を迎えに行く。その前に今夜の夕食の仕込をして、それから出て行く。
「今日の二組で、今週はおしまいか」
「うん。一つがキャンセルになったから」
「来週は月曜日にか」
「そう。来週からは忙しくなりそうね」
「ああ、シーズンだからな」
そんな朝の会話が聞こえる。
「おはよーございまぁす」
あくびに紛れた声が聞こえる。彼が振り向くと、物書きさんが、遠慮の無いあくびをしていた。
「おはようございます、レディ」
「やだなぁ、君に言われると……」
照れて、物書きさんは小さく舌を出す。そして軽く笑うと、
「まるでティファニーみたい」
「ティファニーで朝食を……うん、ムーンリバーね……」
歌うような声の後、本当に歌いだしたのは俳優だった。歌いながら階段を降りて来る。ワンコーラス終わった所で、物書きさんが、一緒に入って来た。彼はその曲をよく知らなかった。ただ彼は、その曲に聴き入るしかなかった。
オクターブで綺麗に調和して、曲が終わった。
「朝からいい曲、歌ってくれたな」
熊が笑うと、俳優もにっこりとお返しして、
「名曲ですからね。それに何より、私たちが歌ったんですもの」
「それはそれは、失礼しました」
「解ればいいの」
出てきた朝食に、物書きさんはすっかり感動してしまっていた。
「本当にティファニーみたい」
「ここではこれが基本になっていますが、ご要望があればおっしゃって下さい。和食も出しますから」
「それは良いわね。久しぶりに和食が食べたいわ。でもここだったら、魚はあまり期待できないけどね」
「海のはですね。川魚だったら新鮮なのが釣れるけど……」
「そうそう、岩魚ね。でもこんなに雪が降っていたら、川まで行くのは危険だわ」
「それはそうですがね」
「……私、お味噌汁って好きなんですよね」
「どんな具がお好みですか」
「何でも。ただ、あまりたくさん入っているのよりも、簡素な方がいいです」
「例えば豆腐だけ、とか」
「そうそう、そんな感じで……それにあげを入れたり、後は白菜だけとか」
「青菜汁も美味しいわよ。……でも、何よりワカメは必需品だわね」
「あ、それ言える。美味しいんですよね。赤にも白にも合っていて」
「……僕は、ワカメはちょっと苦手だな」
「あーっ、偏食はいけないんだ」
「そうよ、ボーヤ。海藻は美容と健康に欠かせないんだから」
俳優が軽く睨み付ける。
「それともアレルギーか何か、あるのかしら」
「あ、いや、その……単なる食わず嫌いです……」
「じゃ、明日の朝食は決まりですね」
物書きさんが指を鳴らす。
「ワカメのお味噌汁」
「味噌はどうしますか」
「私はどっちも好きですけど……」
「じゃあ、赤にしましょう。……お豆腐も入れて、ね」
「仰せのままに」
「横暴ですよ、マダム」
「泣き言は言わないの」
彼と俳優のじゃれ合いを見て、物書きさんが楽しそうに笑った。その眼がふと窓を向く。
「あ……雪、止みましたね」
「本当。晴れてきたわ」
「ね、雪合戦しませんか」
物書きさんが浮き浮きと言った。
「私、雪合戦ってした事無いの」
「本当ですか」
「だって、出来るほどに積もったことが無いんだもの」
「じゃあ、もしかして雪達磨も作った事が無いとか」
「自慢じゃないが、ありません」
「いさぎの良い子ね」
「でも、雪だるまで思い出したけど……昔まだ小さかったころに、一度だけ凄い大雪に見舞われた事があったんです。そのときに、町の商店街の……カメラ屋さんだったかな……
の店先に、凄い雪像があったんですよ」
「凄い雪像というと」
「そんなに凄い雪だるまだったのかしら」
「違いますって。そりゃ雪だるまも確かにあるにはありましたけど、やっぱり、あまり綺麗じゃなかったんですよね。泥まで一緒にかき集めてて。でも、その像ってそんなに大きくは無かったけれど、とにかくものすごく写実的だったんです」
「へえ、そんなに」
「ええ、子供心になんだか感動して。人の上半身の……胸像でしたっけ……石膏像みたいでしたよ」
そして物書きさんは、眼をふっと細めた。
「それも学校から帰って来るころには、すっかり溶けてしまっていたけど……」
「……いい思い出じゃない」
「えへ、そう言われると嬉しいな」
物書きさんは頭の後ろを掻いた。
外へ飛び出すと、思いのほか雪は深く積もっていた。親切はふかふかと柔らかく、彼は見事に足を取られて、雪の中に頭から突っ込んでしまった。
「おいおい、そんなので転ぶか」
「うるさいなぁ。慣れてないから仕方ないだろ」
「甘い。そんな言い訳は通用しないぞ」
空はまだ雲が残っていたが、雪はすっかり止んでいた。
彼は立ち上がろうとして、思った以上に手が沈み込むことに気付いた。
「柔らかいなあ」
「降りたてだからな。気持ちいいだろう」
「うん……」
彼は座り込み、両手で雪を掬い上げた。
「あったかいや」
「え、本当に」
物書きさんが真似をして倒れこんできた。
そのまましばらくじっとしている。
「あらら。随分思い切った子だこと」
俳優は楽しそうに笑っている。熊もさすがに少し呆れた様子だ。
「元気のいいお嬢さんだな」
「溢れてるわね」
「…………っぷはぁ-っ」
顔を雪に埋めていた物書きさんが、息継ぎのように顔を上げた。
「気持ちいい。雪ってあんまり冷たくないんだ」
「濡れないようにして下さいね。幾ら冷たくないとは言え、濡れたら風邪引きますよ」
「はぁい」
うまく起き上がって、二人は雪を払い落とした。それはさらさらと落ちて行った。
じゃんけんで二組に分かれる。熊は審判を買って出た。
「そ―れ、頑張れ頑張れ」
「おじさんやめてよ、気が抜けちゃうよ」
「こんなので気が抜けててどうする。ほらほら、早く雪球作らないとぶつけられるぞ」
「うるさい、黙っててよ。それじゃなくても……マダム、僕ばっかり狙ってませんか」
「男の子でしょ、受けて立ちなさい」
「マダム、意外にコントロールがいいんだから」
言ってるそばで、物書きさんがどんどん雪球を製造していく。
「これ使って。どんどんいっちゃえ」
「じゃあ、遠慮無く……」
猛反撃が開始された。
「何の恨みも無いけれど……」
ターゲットを俳優に絞る。
「やるわね、ボーヤ達」
「あ、あれいい手ね」
おねーさんは何のためらいも無く、自分も雪球製造に着手する。
「おーっ、男同士の一騎打ちになってきました」
熊が実況中継を始める。
「これも勝負です。許してくだ……さいっ、と」
「まだまだ甘いわね、ボーヤ。そんな口は私と互角になってから吐くものよ」
俳優はにやりと笑った。
「それにっ、全然誠意が感じられないわ」
「ばれました……かっ、と」
「いいぞ、やれやれ」
「えーい勝手な事ばっかり言ってんじゃ……ないっ」
飛んでくる雪球を熊は軽々と避けた。
「甘い」
得意げに笑っていると第二撃目がきた。それも何の苦も無くかわした途端、
「おおっ」
雪球が四方から飛んできた。
そのほとんどをかわしたはずなのに、最後の玉が直撃する。
「あらっ、当たっちゃった」
「いいわよ、レディ。コントロールが無いのが幸いしたわね」
「ひっどーい」
「……確かにひどいビーンボール……ありゃあ自分から当たりに行ってるよ」
「もうっ、君まで」
「言えてる言えてる。完全な死角だったわ」
「こらあっ」
至近距離から物書きさんが、男たちに向かって雪球を投げつけ始めた。おねーさんも面白いから、物書きさんに加担する。
とうとう熊も、防戦をやめて参戦し始めた。もう、敵も味方も無い。
ただハスキーだけが、人間たちの遊びを、ゆったりと眺めているだけだった。
「ああーっ、生き返るわぁ」
温かい珈琲を両手で包んで、俳優が息をつく。
「でも雪合戦が、こんなに面白いなんて思わなかった」
「ホーンと、ねえ」
おねーさんが熊の方を見上げる。熊は頭に雪を乗せたままだ。
「……ったく」
苦笑いをしている。結局、最後には全員の集中攻撃に遭ってしまった。
「日頃から恨み買われてるものねぇ」
俳優が笑う。その頭にも相当の雪が乗っていた。
彼と物書きさんは、ココアを飲んでいる。皆、なぜか家に入ろうとしない。
「お、もうこんな時間か」
熊がガレージに向かう。
「お客さん、迎えにいらっしゃるの」
「おお、降り出さないうちに行っておいた方がいいだろうからな」
「また、降るの」
「降るだろうな。この空じゃ」
彼は空を仰いだ。確かにまだ昼過ぎだと言うのに、空は重く、暗い。
おねーさんが、熊の頭に乗った雪を払う。
「用心してね」
「解ってるよ。心配するなって」
そして額への軽いキス。
「あーらら、周りの雪が解けちゃうわね」
俳優が笑って言うのだった。
それから皆、各自の部屋へと引き上げて行った。彼は、暖かい部屋でしばらくぼんやりと壁を見つめていたが、やがてうつらうつらし始めた。
車のエンジンの音で、目が覚めた。
「叔父さん、帰ったのかな」
しかしエンジンの音が少し違う。彼は朝からの熊とおねーさんの会話を思い出した。
「そうか……確か自分で来るお客がいたっけ」
雪がまだ降り出していた。ぼんやりとそれを見つめる。
(……独りだな)
話し声も聞こえない。雪はふわりふわりと積もっていく。
柔らかい音を立てて、小枝から塊が落ちてくる。
彼は不意に立ち上がると、窓際へ寄った。
雑木林は雪を被り、時々その枝を震わせる。
その空気は、あの夜にそっくりだった。
暖かい炎の色が蘇る。静寂、湯の沸く音n珈琲をたてる音、立ち昇った湯気、そして広がる珈琲の香り……
雪はまだまだ止みそうにも無い。
廊下を誰かが渡っていく。
「随分長い旅だったな」
落ち着いた紳士的な声。それに答えたのは、淑女のような声だった。
「そうですわね。あなた、お疲れになりませんでしたこと」
「いいや」
彼は、唇をちょっと歪めた。
「だが、お茶が欲しいな。いつものは、ちゃんと持ってきてあるか」
「はい、それは確かに」
「では早速一杯入れてくれ」
「畏まりました」
ドアが開けられ、そして、閉まった。
彼は一旦ベッドに腰掛けたが、すぐに立ち上がり部屋を出て行った。
彼がサロンに降りて来たとき、ちょうど熊が帰ってきた。
「さぁ、どうぞ。段差に気をつけてくださいね」
そう言いながら、ドアを支える。
「すみませんのう」
「ご親切に、どうも」
入って来たのは、小さな小さな老夫婦だった。
本当に小さい。二人とも、熊の胸にも届かない。
しかし二人とも、杖もつかずチョコチョコと元気に歩いていた。
「こちらの方に……お名前をお願いします」
熊がフロントに導くと、
「はいはい、わしの名前だけでいいんかね」
と、意外にしっかりした手付きで名前を書き込んでいく。
「そちらの方も、ぜひお願いします」
「だ、そうだよ、ばぁさんや」
「あれまぁ、私も書くんですか」
「お名前だけで結構ですよ」
「それはそれは、どうも」
そう言うと、さらりと筆を動かした。
「……ご両人とも、達筆でいらっしゃいますねぇ」
感心して熊が言う。おじぃちゃんは胸を張った。
「わしの連れ添いはな、書道の教室を開いておるんじゃ」
「ほう、道理で」
「じゃがな、字ばかり教えとる訳ではないんじゃ……」
「はいはい、そこまで。すみませんねぇ、おじぃさんはすぐ話を大きくしちゃうから」
おばぁちゃんが、ほほほ、と笑う。その横でおじぃちゃんが子供のように、
「なんじゃい、人がせっかく……」
と、ぶつぶつ言っている。
「でも確かに達筆でいらっしゃいますよ。今までいろんな方の字を見てきましたが、こんなに素晴らしいのは初めてです」
彼は何気なく彼らのそばに近付いていった。
「僕も拝見していいですか」
「あらまぁ、いやだ。こんなお若い方に見せるものでもありませんよぉ」
「ほりゃ、これじゃ」
熊から宿帳をひったくって、おじぃちゃんは指までさして見せた。
彼はそれを覗き込んで、頷いた。
かくしゃくとした字の下に、流麗な文字がしたためてある。
それは、誰が見ても確かに『達筆』だった。
「なんだか、暖かい字ですね」
彼は思った通りのことを言った。
「ほう、お若いの。この字の良さが判るのか」
彼は微かに笑った。
「だめですよぉ、おじぃさん。この方も困ってらっしゃるじゃないの」
「さ、長旅でお疲れでしょう。あちらに、どうぞ座って下さい」
おねーさんが、二人の背中に手を添えてサロンに導く。そこには既に俳優と物書きさんが降りてきていた。
「まぁまぁ、お若い方がいっぱい……」
「わしらが入っては迷惑かのう……」
「そんな事ありませんよ。こちらへどうぞ」
物書きさんが一番良い席に二人を導く。おねーさんが椅子を引きながら、
「お茶は何がよろしいですか」
「そうじゃのう……やはり緑茶が良いのう」
「何か、どこのがいい、とかはありませんか」
「何でも結構ですよ」
笑みを湛えながら、おばぁちゃんがそう言った。
「緑茶ねぇ……たまには良いかもしれないわね」
「なら、いっそ、皆お茶にしますか」
「私はいいけど、他の皆はそれでいいのかしら」
「私はお茶好きだからいいですよ」
「ボーヤはどうなの」
「僕は……そうですね。僕もそれでいいですよ」
「はい。では少々お待ちください」
そう言っておねーさんが台所に消えると、
「お荷物は部屋にお持ちしておきましょうね」
熊がトランクを一つ持って入って来た。
「すいませんねぇ、わざわざ」
おばぁちゃんが小さく頭を下げた。そして、急に思い出したように、
「そうだ。お茶請けにと思って、お菓子を持ってきたんでしたっけ。たくさん持ってきたから、皆さんも食べてくださいな」
そう言ってトランクの中から、幾つか出して並べる。
「わぁ、綺麗……」
物書きさんが、その内の一つを手に取る。薄紅色の茶巾絞り。
「ばぁさんが作ったんじゃ」
おじぃちゃんが、ふぉっふぉっと笑う。
「他に煎餅なんかも焼くんじゃよ」
「お上手ですのねぇ」
「そりゃぁ、年季が違うわい。わしゃ、ばぁさんの作ったものでないと、どうもなぁ、こう、食べた気が……」
「はいはいそこまで……御免なさいねぇ、本当にしょうがない人だから」
「何が悪いんじゃい」
「仲がお宜しいんですのね。おばぁさん、今日だけは大目に見てあげてくださいな」
「そうしたいんですけどねぇ。おじぃさんは放っておくとどこまでも増長するんですよ」
「良いじゃありませんの。たまには思いっきり言わないと、ほら、おじぃさん、つまらなそうにしてますわよ」
「おお、おお、いい事言うのう、別品さんや。ほれ、ばぁさんや、たまには存分に誉めさせてみぃ」
「ほんにこの人は」
おばぁちゃんがまた小さく笑う。
「わぁ、綺麗なお菓子ですねぇ」
お茶の準備を済ませたおねーさんが、並べられた和菓子を見て感嘆した。
「ねぇ、この作り方教えてもらいましょうよ」
「そうだな」
せがまれて、熊が苦笑する。
「解ったから、早くお茶をお出しして。俺はこれを部屋に届けてくるから」
「はぁい」
熊は一階の奥の方に消えて行った。
「あんなところにも部屋があったんだ」
「あら、知らなかったの、ボーヤ。一階にも確か二部屋か三部屋有ったはずよ。ね」
「ええ、和室が二つに洋室が一つ。結構これでも自慢の部屋なんですよ」
「それを言うなら、ここはみんな自慢の部屋になりませんか」
「確かにそうとも言えるけどね。だって不公平でしょ。料金一緒なんだもの」
「……あはは」
彼はただ笑うしかなかった。俳優は何も言わずにお茶を啜った。物書きさんはしきりに頷いている。
「良い心掛けじゃて」
「ほんに」
おばぁちゃんが、にこにこと笑ってお茶を飲む。おじぃちゃんは和菓子を口に放り込んだ。
物書きさんも、茶巾絞りを半分かじってお茶を啜った。
「やっぱり和菓子にはお茶ですよねぇ」
その言葉に促されるように、彼も物書きさんの真似をする。
「……本当だ。とってもおいしい」
「そうでしょう。私ねぇ、こう言うのとっても好きなのよ。そりゃ、ケーキに紅茶もいいし、クッキーも大好きだけど、やっぱり最中とお茶とか、もうぴったりでしょう」
「そ……そうですか」
「そうよ。それに……」
「お茶と羊羹……ね」
「そうそう、それってもうたまらない」
「あとは梅漬けなんかもいいわよ。紫蘇漬けじゃなくて、塩だけで漬けてあるのとか」
「ええーっ、マダムってそんな趣味があったんですか」
「なによ、そんな趣味って。失礼ね。美味しい物には古今東西は関係無いのよ」
「でも、何だかマダムって、あんまり日本人らしくないものだから……」
「そうでしょうとも」
「しかし、このお嬢さんの言う通りじゃのう。別品さんは垢抜けておるわりには、古風なお人じゃ」
「ほんに、大和撫子ですねぇ」
「それは誉めすぎですわ」
俳優が口元に笑みを湛える。
「私はそんな上等な者ではありません」
「いいえ、確かにあなたは……いいえ、あなた方は礼儀を弁えた方達ですよ」
おばぁちゃんは、ただにこにことそう言った。他の者達は、互いに顔を見合わせると、くすぐったそうな顔をしあった。
ペンション『キャビン』の夕暮れは、穏やかな笑いに包まれていた……
雪玉は新雪ではまともにできないようですね。
きっと当たってもすぐに砕け散ることでしょう。
にしても、和菓子と緑茶はよく合います。






