第三日目・終日
今日もまた新しいお客さんが一人やってきます。
まだ外は真っ暗だった。
揺さぶられて目を覚ますと、俳優が覗き込んでいた。
そしてにっこりと笑うと、
「ほらっ、いつまで寝てるの。もう起きないと間に合わないわよ」
「間に合うって……」
「今日の、私のリサイタルよ」
「えっ、まさか……」
「そう、そのまさかよ」
当然のように言い放つ。
「でも、着替え……」
「何でもいいわ。とりあえず着替えて降りてらっしゃい」
言われた通りにして降りていくと、既に俳優は外套を着込んでいた。そのそばには熊もいる。おねーさんの姿は見当たらない。
「上着は持ってきたわね。ん、上等」
言いながらちょっと小首を傾げる。
「マフラー、しなくていいのかしら」
「ええ、寒さには結構強いですから」
「そう……でも、この辺りの寒さは結構厳しいわよ」
「まあ、いいじゃないか。どうせあんまり外は出歩かないだろうし」
「そう……ね。じゃあ行きましょうか」
そうして一行は出掛けて行った。
午後を随分すぎて、熊が客を一人連れて帰ってきた。
「お帰りなさい」
「ただいま。何かあったか」
「別に何も。外はどう。雪、まだひどいの」
「ああ、結構激しい」
「あら、そういえばお客さんは」
「外にいる」
熊が低く笑い声を立てる。おねーさんの眼が、きょとんと熊を見上げる。
「心配要らない。ただ雪が珍しいから、しばらく見て居たいんだと」
「そういえば、確か南の……」
「おう、だからだろ。なんか温かい物でも用意しとこう」
「そういえば昨日のケーキ、まだ一杯残ってたね。でもお昼は……」
「済ませて来たそうだ」
「あなたは」
「まだだ」
「じゃあ、何か軽く作るね」
おねーさんは台所へ消えて行った。
しばらくして、一人の客が入って来た。
「また後でね、ワンワン」
その後ろで、ハスキーがしきりに吠えている。客はそれに向かって軽く手を振って、ドアを閉めた。
「人懐っこいですね、あのワンちゃん」
「そうですね。でも、結構人見知りする所もありますけど」
「そうなんですか。その割にはシッポ振ってましたけど」
「犬は好きでいらっしゃいますか」
「だーい好きです」
「ははは」
熊が明るく笑うと、
「へえ、よく通る声ですね」
「よく言われますよ」
「でしょう」
そう言ってまた笑い合う。
おねーさんがお茶を運んできた。
「いらっしゃい。外は寒かったでしょう」
「ええ、とても。でも雪が降っていて、とっても綺麗です」
「雪が積もったのを見るのは、初めてですか」
「前に一度だけ。例年に無い大雪のときに。凄かったんですよ。もう、辺り一面真っ白で、おまけに停電までしちゃって」
「えーっ、停電したんですか」
「南なものだから、慣れていないんですよね。でも、お陰でその夜、とても綺麗なものが見られました」
「綺麗なもの……」
「ほらほら、お嬢さん。話し込んでいたらお茶が冷めるぞ」
言われて、おねーさんは頭をぽんとたたく。
「きゃーっ、忘れてた」
「はいはい……紅茶でいいですか」
「わ、有り難うございます」
いい香りを立てて、ミルクティーが入った。それを啜りながら人心地つくと、
「こちらへ……一応宿帳だけ書いてもらえますか」
「あ……」
「お客は間抜けた声を出した。そしてすぐに吹き出した。
「そういえばここ、ペンションでしたね。すいません、うっかりしちゃって」
熊とおねーさんが、顔を見合わせて笑う。
「そんなのは気にしなくていいですよ。ペンションなんて、もともとはそれが目的でもあるんだし」
客はくすくす笑いながら住所と名前を書き込んでいく。職業の欄になって、お客の手が、ふと止まった。
「どうしましたか。何かわからない事でも」
「いいえ。けど、困ったなぁ……一応職業はあるんだけど……」
「書けないような、職業って……」
おねーさんは既に相手がお客であることを忘れているようだ。客は困ったように笑って見せた。
「やくざやさんとか」
「何ですか、そのやくざやさん、て言うのは」
言ってちょっと考え込むと、
「まぁ、いいか」
さらさらと書き込んだ。
「何だ、小説家ですか」
少しがっかりしたようにおねーさんが言うと、
「何を期待してたんだ」
熊が呆れたように、おねーさんの頭をぽんぽんとたたく。
「だってぇ、書き渋るから」
物書きさんは、くすくす笑うと、
「ほんと、仲がいいんですね」
「まあ、夫婦ですから。好きじゃなきゃお嫁になんかしてません」
「ハーイ、どうもどうも」
そして急に思いついたように、
「あ、そうだ。しばらくお世話になります」
「堅い挨拶は抜きにしましょ。まだ、ケーキはたくさんあるから、遠慮しないでね」
日が暮れた。まだ雪は降っていた。
「わぁ、日が暮れるのが早い」
「今日は特に曇ってるから」
「だいぶ積もってきてますよ。確か、他にお客さんがいるんでしょ」
心配そうに物書きさんが言う。熊が時計を見上げた時、フロントの電話が鳴った。
「はい、ペンション『キャビン』でございます……おー、で、どうするんだ……今から本番か……で何時に……」
それからしばらく熊は何かを話してから電話を切った。
「今の、俳優さんからだったの」
「おー」
「何ですって」
「今から本番なんだと」
「で、夕食はどうするって」
「要らないそうだ。ボーやともども」
「あらあら」
「じゃあ、こっちも夕食にするか」
「そうね」
「大丈夫ですか」
「何がですか」
物書きさんは窓の外を見ていた。
「ああ、雪ですか。心配要りませんよ。この程度だったら、毎年のことですから」
「なら、いいんですけど……」
「もうすぐ食事ですから……」
おねーさんがにっこり笑った。
「お風呂、入りませんか。料金の内だから、入らないと損ですよ」
極めて真面目な調子で言われて、物書きさんは頷くしかなった。
物書きさんが夕食を終え、しばらく談笑していると、もう一度電話がかかってきた。
「迎えに行ってくる」
そう言って熊が出て行くと、おねーさんが少し寂しそうな顔をした。
しばらくはお互い口も開かず、物書きさんは、積もっていく雪を見つめていた。
「なんかここ、日本じゃないみたい」
ポツリと物書きさんが呟いた。
「日本ですよ、間違いない無く」
おねーさんが答える。
「確かにそれはそうですけどね」
物書きさんが、肩を竦めて笑う。おねーさんも一緒に笑う。二人はかなり長いこと笑い合っていた。
「静かですね、この辺りは」
「何もありませんから。人里も遠いし」
「寂しくありませんか」
「うーん……」
おねーさんは考え込んでしまった。
「悩まなくても、別にいいですよ」
笑いを堪えて物書きさんが紅茶を啜った。盛り付けてあるお菓子に手を伸ばす。
「あら、これ変わった形ですね」
いびつな形のクッキー。一応真ん中にはドライフルーツが飾ってある。
「ああ、それ」
見た途端、おねーさんは思いっきり吹き出した。
「かわいいでしょぉ。あのね、本人は絶対人に見せるなって言ってたんだけど」
「……確かに、ひどくユニークで」
言葉は最後まで続かなかった。
「でも、慣れてないところが、なんともかわいい」
「ね、そうでしょ」
「でも、怒りませんか、その子」
「だって、なんか宝くじみたいで面白いから……」
「……なるほど。と、言うことは、もちろん断ってないでしょう」
「当たり前ですよ。教えちゃったらつまんないもの」
「……はいはい」
言って、ふと首を傾げる。
「でも、よく見つかりませんでしたね。このクッキー、自由に食べていいんでしょう。その子、クッキー食べないんですか」
「あんまり食べないみたい。ま、男の子だし」
「男の子……お客さん……じゃないですよね」
「お客さんですよ、もちろん。これ、昨日お客さんたちと一緒に焼いたんですから」
「ははあ……で、その人たちは今日もここに……」
「泊まりますよ。もうすぐ帰ってくるんじゃないかしら」
外で音がして、車が止まった。
「うわー、寒い。早く中に入りましょ」
「先に入っておけ」
「有り難う、おじさん」
賑やかな声が聞こえて、続いてドアが開けられた。
「ただいまぁ」
ハスキーな声。遠くではハスキーが吠えている。
「お帰りなさい。どうでした、リサイタルは」
「うーん、結構乗ったかしら。客の入りもまずまずだったし」
「あっさり言うけど……」
少年らしさの抜けない声が、笑いを含んで言う。
「帰るとき、大変だったんですよ。奥様方が詰め掛けて……」
「あら、そう」
「もう、凄かったですよ……マダム、外套はお部屋にお持ちしますか」
「あらあら、すっかり紳士が板についちゃったわね」
俳優は笑いながら外套を手渡した。
「入り口のコート掛けに掛けておいて下さったらいいわ」
「ウィ、マダム」
にこやかな笑みを交わして、少年が二階へ上がっていく。
「お茶、入れましょうか」
おねーさんの声に、ちょっと立ち止まると、
「はい、頂きます」
サロンは賑やかになった。彼と俳優はそれぞれココアと珈琲を啜り、物書きさんはもう何杯目かのハーブティーを飲んでいた。
ハスキーも今夜は特別に家の中に入っている。それは玄関のドアの所でうずくまっていた。時折、ぴくりと頭を上げる。そしてそのまま、また元に戻る。
物書きさんは、ずっと雪を見ていた。
「雪が、好きなんですか」
「ええ、好きよ。こんなに積もったら、わくわくしない」
「そうですね。僕もこんなに積もるの見たのは、初めてです」
「へえ、君もなの。でもいいと思わない。季節が感じられて」
「あ、それ、解ります」
「でしょう。私が育った町は、特に雪が降らなくて」
「暖かいんですか」
「ううん……どうかな。氷は張ってたから、寒いのは寒かったかもね」
「……そういえば、氷が張るなんて見たこと無い……」
「都会に住んでるのね」
「なぜ、判るんですか」
「垢抜けてるのよ」
まるで冗談のように言って、物書きさんが笑った。彼は、物書きさんの隣に座を占めた。
自分も窓の外を覗き込む。
「明るいですね」
「そうね。雪明りって言うんでしょう」
それに答えたのは、おねーさんだった。
「そうですよ。いい時に来ましたね」
「感謝しなきゃです」
物書きさんがおどけて言うと、みんなが笑った。
部屋へ引き上げて、着替えを済ませた頃、彼の部屋のドアをノックするものがあった。
「ボーヤ、もう寝ちゃった」
ドアを開けると、俳優がお酒のボトルを持って立っていた。
「どうしたんですか、マダム」
「今から、お部屋にいらっしゃい」
「今から……ですか」
「もう寝るならいいけど」
彼はちょっと考えた。もう、寝巻きに着替えてしまっている。
「この恰好じゃ……」
「だからいいのよ。それにすぐには眠れそうに無いし」
「何か不安なことでもあるんですか」
「……ボーヤは本当に優しい子ね」
「そ、そうですか」
照れる彼を見ながら、俳優は微笑んだ。
「私はただ、カーニバルを楽しみたいだけ。こんな夜だから、寝るの勿体無いのよ」
その言葉に彼はその眼を輝かせた。
「あはは、マダムらしいですね。解りました。すぐに伺います」
「そのままでいいわ。すぐにいらっしゃい」
俳優の部屋には、先客がいた。
「あ、君も来たの」
「こんばんは」
「いいな、こんな感じ。カーニバルの夜みたいで」
「マダムと同じ事を言いますね」
「マダム、って、誰」
「あ、そうか」
俳優と彼が、顔を見合わせて笑った。
「ね、ムシュウ」
「ウィ、マダム」
「ああ、なるほど。じゃあ私はマドモアゼル、ってわけだ」
「飲み込みの良い子……でも、あなたはマドモアゼルよりも、レディかも知れないわね」
「……『マイ・フェア・レディ』、なーんて」
「そうね、確かにあなた、顔は幼いけど、多分心まではそんなに幼くない……」
「そうですかぁ。私、かなり子供っぽいってよく言われますよ。特に行動とか」
「外見はね……でも、どうでもいい事よ。その人自身でありさえすれば、それが一番魅力的。私はそう思っている」
「……さすがに凄いですね。今、思い出しましたよ、マダム。確かに貴方ならそれを言えるでしょうね」
「有り難う……さあ、飲みましょう。まだまだ宵の口。夜はまさに今からよ」
三人は円座になった。
ペンション『キャビン』の夜は、今からが本番だった……
クッキーの型抜き、慣れないと案外難しいですよね……