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ペンション『キャビン』物語(第一稿)  作者: 空花(沢 渉)
3/12

第二日目・夜

「ね、ボーヤ、一緒にお風呂に入らない」

 着替えを片手に、俳優がそう言ったのは日が没して間もなくだった。

「えっ、でもいいんですか、一緒に入っても」

「大浴場だもの。独りで入ってもつまらないでしょ」

「大浴場って……」

「なに驚いてるのよ。まさか個室のシャワーでも使うつもりだったのかしら」

 まるでいけない事でもあるかのように言われて、彼は口ごもった。

「ま、それはそれでいいけど、せっかくだから付き合いなさい。オーナー、もう入っていいわよね」

「いいけど、間の仕切りは越えるなよ」

「分かってるわよ。……まったく、覗いたって女の子なんて入っていないじゃない」

 盛大に唇を歪める俳優の表情を見て、彼は笑った。

「早く着替え持ってらっしゃいね。お風呂の場所分かるかしら」

「はい、先に行ってて下さい」

 確かにそこは大浴場だった。

「あら、もしかして初めて」

「ええ、ここに来たのも今回が初めてで……」

「でもあなた、甥でしょ……って、そうか……」

それ以上は何も言わずに、黙って俳優は服を脱いだ。

彼は一瞬どきりとした。分かっていても、なんだか気恥ずかしい。

「何照れてるの」

 くすくす笑い。

「先に行ってるわよ」

 彼は急いで服を脱ぐと、後を追って中に入った。

 意外に広く、きれいな浴場だった。贅よりも心を取った、それが風情となっている。本物の温泉、自然の岩を用いた浴槽……

「やっぱり、夏の泊り客が多いのも頷けるわね」

「この温泉に入るためですか」

「そうよ。結構ある筋では有名なんだから」

「……変な言い方ですね」

「そうだったかしら。業界用語は使ってない筈だけど」

頭を意外な豪快さで洗いながら、俳優が喉で笑う。

シャワーのお湯でシャンプーを洗い流すと、すぐに顔を洗いにかかる。

「あれ、持ち込みですか」

「ああ、石鹸かしら。そうよ。市販のなんて使えないわ」

「そんなものですか」

 彼は呆れた声を出した。

 身体を洗い終えると、俳優はまだ身体を洗い始めているところだった。

「あ、先に入ってて」

 言われて素直に湯に入る。

 湯船から外がよく見渡せる。

「いい景色……」

 柔らかく低い声が言う。

 彼の横に、細身の、贅肉の無い足が見えた。

「……わあ」

「どうかした」

 化粧を落とした俳優は意外に男らしい素顔を見せていた。

「忘れてました」

「私が男だってことを」

「ええ」

「あはは」

 横に並んで湯船に浸かる。

「あー、寒いと思ったら……」

湯に煙るその外では、雪が降り始めている。

「積もるかしら」

「ここらは積もるんですか」

「毎年ね。やっぱり今頃かしら」

「毎年来るんですか」

「そうね。でも今年は早いわ。リサイタルが入って、そのまま休暇よ」

「リサイタルですか。で、それはもう終わったのですか」

「明日よ。……そうだ、ボーヤもいらっしゃいな」

「でも、僕なんかが行って迷惑じゃありませんか」

「大丈夫よ。席なんか、作らせちゃえばいいのよ」

「結構、無茶を言いますね」

「そうかしら」

 惚けたようにそっぽを向く。それからしばらくは、互いに一言も交わさなかった。

「積もるわね、これは」

「おじさん、大変ですね」

「あの人はいいのよ。こんなの慣れっこだから。でも残念……夏だったら行きたいところがあったのだけれど」

「夏……ですか」

「そうよ。ここからしばらく行った所に雑木林があるの。その中にね、それはきれいな湖があるのよ」

「なんか、ロマンチックですね」

「退屈かしら、こんな話」

「いいえ、お付き合いしますよ」

「ありがとう。後でワインを奢らせていただくわ」

 俳優はそう言うと、再び外の景色を眺めた。

 外は暗闇に変わった。ただ白い雪だけが、不意に浮かび上がっては消えて行く。

 俳優が立ち上がった。

「さあ、あんまり入ってると茹で上がっちゃうわよ」

 サロンでは、既に夕食の準備が調いつつあった。

「あら、いい匂いね」

 俳優が嬉しそうに鼻をひくつかせる。その隣で彼のおなかが鳴った。

「まあ、正直なおなかだこと」

 俳優の眼が暖かい。

「やだなあ」

 彼は赤面して俯く。

「そろそろ食事ですから、もう少し待ってて下さいね」

 おねーさんがこっちを向いてにこやかに言う。二人は頷いた。

 彼はまた俳優の席を引いた。そしてにっこりと笑うと、

「どうぞこちらへ、マダム」

「メルシィ、ムシュウ」

 俳優は慣れた発音で、微笑み返す。

 座った途端、吹き出した。つられて彼も笑い出す。

「おいおい、お前はジゴロか」

「あら、そんな言い方は無いじゃない。オーナーだって一昔前までは似たような事やってたくせに」

「仕事だったからな」

「でも血は争えないわね」

「何が」

「さっきの仕草、妙にそっくりだったわ。ボーヤ、あなた結構立派な女殺しになれるかも知れないわね」

「僕が、ですか」

 彼はゆるい笑みを浮かべる。そしてその隣に腰掛けた。

「さぁ、マダムはどのようなワインをお望みですか」

 熊が恭しく頭を下げる。それを当然の態度と受け止めて、俳優が微笑む。

「お任せするわ。今日の料理に合った最高のものを選んで頂戴」

「ウィ、マダム」

 落ち着き払って、熊が退出する。

 くすくす笑いで見送る彼に、俳優が囁きかけた。

「ね、向かいにお座りなさいな」

「あ、すみません、気が付かなくって」

「馬鹿ね、そんな意味じゃないわ。いい男は、淑女に常にその顔を見せなきゃ」

「は……はぁ」

「それとも、こんな私ではお嫌かしら」

「そんなこと……むしろ光栄ですよ」

 熊がワゴンを押してきた。そして何事も無かったかのように、二人の客の前に、オードブルを並べていく。そしてさりげなく、ナプキンとナイフの位置を直した。

「マダムはかなりお気に召したご様子で」

 真面目な声で熊が冷やかす。俳優は微かに笑いながら、食前酒を啜る。

 彼だけが、ただ呆然と二人を見比べていた。

 そんな彼に流し目を送ると、

「ボーヤもどうぞ。これ、林檎酒だから初めてでも飲みやすいわよ」

「はい、では頂きます」

 初めて飲んだ林檎酒は思った以上に甘かった。

「明日は、朝から出かけるわ」

「どちらへ」

「さっき言ったでしょ」

「ああ、リサイタルですね」

 俳優は返事の代わりに、ちょっと眉を吊り上げた。

「ついでに買い物でもしようかしら」

「好きなんですか」

「ええ……尤も、ウインドウショッピングの方が多いけど」

 二人が笑い合っていると、熊が皿を下げた。メインディッシュが登場する。

「でも、どうやって行くんですか」

「迎えが来るの。明日の朝六時」

「随分、早いですね」

「仕方ないわ。移動時間がどうなるか、判らないし」

「途中までお送りしましょうか」

抑揚の無い声で熊が問う。

「ひどく積もるかしら」

「慣れないなら、ここまで来るのは大変でしょうね」

「そうね……駅までお願いできまして」

「ええ、構いませんよ」

「では、お願いしますわ」

「連絡はどういたしましょうか」

「私から付けておきます」

 熊は一礼すると、傍らを離れた。

「……どうしたの、ボーっとして」

 からかうような声。彼は、はっとしてフォークをカチャリと言わせた。

「あ、いや……お二人とも、やっぱり大人なんだなぁ、って……」

「あら、そう。互いにそれが仕事だからでしょ。ふふ……恰好良かったかしら」

「ええ」

 彼は急いでメインディッシュを口に運んだ。それを好もしい眼で見ながら、俳優も優雅に食事を進めた。

 ペンション『キャビン』の夕食は暖かく過ぎて行った……

どんなコースが出たかは、ご想像にお任せします。


冬の寒い日の温泉、いいんですよね……

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