第二日目・夜
「ね、ボーヤ、一緒にお風呂に入らない」
着替えを片手に、俳優がそう言ったのは日が没して間もなくだった。
「えっ、でもいいんですか、一緒に入っても」
「大浴場だもの。独りで入ってもつまらないでしょ」
「大浴場って……」
「なに驚いてるのよ。まさか個室のシャワーでも使うつもりだったのかしら」
まるでいけない事でもあるかのように言われて、彼は口ごもった。
「ま、それはそれでいいけど、せっかくだから付き合いなさい。オーナー、もう入っていいわよね」
「いいけど、間の仕切りは越えるなよ」
「分かってるわよ。……まったく、覗いたって女の子なんて入っていないじゃない」
盛大に唇を歪める俳優の表情を見て、彼は笑った。
「早く着替え持ってらっしゃいね。お風呂の場所分かるかしら」
「はい、先に行ってて下さい」
確かにそこは大浴場だった。
「あら、もしかして初めて」
「ええ、ここに来たのも今回が初めてで……」
「でもあなた、甥でしょ……って、そうか……」
それ以上は何も言わずに、黙って俳優は服を脱いだ。
彼は一瞬どきりとした。分かっていても、なんだか気恥ずかしい。
「何照れてるの」
くすくす笑い。
「先に行ってるわよ」
彼は急いで服を脱ぐと、後を追って中に入った。
意外に広く、きれいな浴場だった。贅よりも心を取った、それが風情となっている。本物の温泉、自然の岩を用いた浴槽……
「やっぱり、夏の泊り客が多いのも頷けるわね」
「この温泉に入るためですか」
「そうよ。結構ある筋では有名なんだから」
「……変な言い方ですね」
「そうだったかしら。業界用語は使ってない筈だけど」
頭を意外な豪快さで洗いながら、俳優が喉で笑う。
シャワーのお湯でシャンプーを洗い流すと、すぐに顔を洗いにかかる。
「あれ、持ち込みですか」
「ああ、石鹸かしら。そうよ。市販のなんて使えないわ」
「そんなものですか」
彼は呆れた声を出した。
身体を洗い終えると、俳優はまだ身体を洗い始めているところだった。
「あ、先に入ってて」
言われて素直に湯に入る。
湯船から外がよく見渡せる。
「いい景色……」
柔らかく低い声が言う。
彼の横に、細身の、贅肉の無い足が見えた。
「……わあ」
「どうかした」
化粧を落とした俳優は意外に男らしい素顔を見せていた。
「忘れてました」
「私が男だってことを」
「ええ」
「あはは」
横に並んで湯船に浸かる。
「あー、寒いと思ったら……」
湯に煙るその外では、雪が降り始めている。
「積もるかしら」
「ここらは積もるんですか」
「毎年ね。やっぱり今頃かしら」
「毎年来るんですか」
「そうね。でも今年は早いわ。リサイタルが入って、そのまま休暇よ」
「リサイタルですか。で、それはもう終わったのですか」
「明日よ。……そうだ、ボーヤもいらっしゃいな」
「でも、僕なんかが行って迷惑じゃありませんか」
「大丈夫よ。席なんか、作らせちゃえばいいのよ」
「結構、無茶を言いますね」
「そうかしら」
惚けたようにそっぽを向く。それからしばらくは、互いに一言も交わさなかった。
「積もるわね、これは」
「おじさん、大変ですね」
「あの人はいいのよ。こんなの慣れっこだから。でも残念……夏だったら行きたいところがあったのだけれど」
「夏……ですか」
「そうよ。ここからしばらく行った所に雑木林があるの。その中にね、それはきれいな湖があるのよ」
「なんか、ロマンチックですね」
「退屈かしら、こんな話」
「いいえ、お付き合いしますよ」
「ありがとう。後でワインを奢らせていただくわ」
俳優はそう言うと、再び外の景色を眺めた。
外は暗闇に変わった。ただ白い雪だけが、不意に浮かび上がっては消えて行く。
俳優が立ち上がった。
「さあ、あんまり入ってると茹で上がっちゃうわよ」
サロンでは、既に夕食の準備が調いつつあった。
「あら、いい匂いね」
俳優が嬉しそうに鼻をひくつかせる。その隣で彼のおなかが鳴った。
「まあ、正直なおなかだこと」
俳優の眼が暖かい。
「やだなあ」
彼は赤面して俯く。
「そろそろ食事ですから、もう少し待ってて下さいね」
おねーさんがこっちを向いてにこやかに言う。二人は頷いた。
彼はまた俳優の席を引いた。そしてにっこりと笑うと、
「どうぞこちらへ、マダム」
「メルシィ、ムシュウ」
俳優は慣れた発音で、微笑み返す。
座った途端、吹き出した。つられて彼も笑い出す。
「おいおい、お前はジゴロか」
「あら、そんな言い方は無いじゃない。オーナーだって一昔前までは似たような事やってたくせに」
「仕事だったからな」
「でも血は争えないわね」
「何が」
「さっきの仕草、妙にそっくりだったわ。ボーヤ、あなた結構立派な女殺しになれるかも知れないわね」
「僕が、ですか」
彼はゆるい笑みを浮かべる。そしてその隣に腰掛けた。
「さぁ、マダムはどのようなワインをお望みですか」
熊が恭しく頭を下げる。それを当然の態度と受け止めて、俳優が微笑む。
「お任せするわ。今日の料理に合った最高のものを選んで頂戴」
「ウィ、マダム」
落ち着き払って、熊が退出する。
くすくす笑いで見送る彼に、俳優が囁きかけた。
「ね、向かいにお座りなさいな」
「あ、すみません、気が付かなくって」
「馬鹿ね、そんな意味じゃないわ。いい男は、淑女に常にその顔を見せなきゃ」
「は……はぁ」
「それとも、こんな私ではお嫌かしら」
「そんなこと……むしろ光栄ですよ」
熊がワゴンを押してきた。そして何事も無かったかのように、二人の客の前に、オードブルを並べていく。そしてさりげなく、ナプキンとナイフの位置を直した。
「マダムはかなりお気に召したご様子で」
真面目な声で熊が冷やかす。俳優は微かに笑いながら、食前酒を啜る。
彼だけが、ただ呆然と二人を見比べていた。
そんな彼に流し目を送ると、
「ボーヤもどうぞ。これ、林檎酒だから初めてでも飲みやすいわよ」
「はい、では頂きます」
初めて飲んだ林檎酒は思った以上に甘かった。
「明日は、朝から出かけるわ」
「どちらへ」
「さっき言ったでしょ」
「ああ、リサイタルですね」
俳優は返事の代わりに、ちょっと眉を吊り上げた。
「ついでに買い物でもしようかしら」
「好きなんですか」
「ええ……尤も、ウインドウショッピングの方が多いけど」
二人が笑い合っていると、熊が皿を下げた。メインディッシュが登場する。
「でも、どうやって行くんですか」
「迎えが来るの。明日の朝六時」
「随分、早いですね」
「仕方ないわ。移動時間がどうなるか、判らないし」
「途中までお送りしましょうか」
抑揚の無い声で熊が問う。
「ひどく積もるかしら」
「慣れないなら、ここまで来るのは大変でしょうね」
「そうね……駅までお願いできまして」
「ええ、構いませんよ」
「では、お願いしますわ」
「連絡はどういたしましょうか」
「私から付けておきます」
熊は一礼すると、傍らを離れた。
「……どうしたの、ボーっとして」
からかうような声。彼は、はっとしてフォークをカチャリと言わせた。
「あ、いや……お二人とも、やっぱり大人なんだなぁ、って……」
「あら、そう。互いにそれが仕事だからでしょ。ふふ……恰好良かったかしら」
「ええ」
彼は急いでメインディッシュを口に運んだ。それを好もしい眼で見ながら、俳優も優雅に食事を進めた。
ペンション『キャビン』の夕食は暖かく過ぎて行った……
どんなコースが出たかは、ご想像にお任せします。
冬の寒い日の温泉、いいんですよね……