第二日目・昼
一人目のお客様が到着します。
朝が来た。
彼は起き出した。
カーテンを開けると、まだ陽は昇っていない。やっと薄明るくなって来たところだ。
顔を洗って、階下に降りる。
「おはよう」
声のほうを向くと、玄関口に、熊が立っていた。
出かける支度をしている。
「おはよう。どこかに行くのかい」
「ああ、お客さんを迎えにな」
「こんなに早くに……」
言いかけて、駅がどこにあるか思い出す。
「おーい、確か始発は七時十分くらいに着くんだったな」
「そうよ。だけど気をつけてね」
奥から、熊よりもいささか年齢の若い女性が出てきた。ちょっとだけ心配そうに微笑みながら、熊の少し乱れた襟を、少し背伸びをしながら直す。
「今日はかなり寒いから、きっと道も凍っているわ」
「おー」
熊は笑いながら、間抜けた返事をする。そして、その額に軽く口付ける。
「何か買ってくるものは無いか」
「別にいい。食料も充分あるし」
「そうか」
「それより、慌てないでね」
「はいはい」
笑いながら、熊は出かけて行った。
「さてと、朝ご飯、朝ご飯」
そう言って腕まくりする様は、ちょっと「おばさん」と呼び辛い。
「あら、おはよう。もう起きたの」
たった今、気づいたかのように挨拶する。実際、たった今気づいたのに違いない。彼はしきりに苦笑した。
「あら、顔が真っ赤……どうしたの」
その理由に一切思い当たらず、真剣におね-さんは心配する。
「風邪かしら」
「大丈夫だよ、風邪じゃないから」
「でも……」
「当てられただけだってば」
つい、からかう様に言う。おねーさんは首を傾げた。
「ま、いいから。何か手伝うこと、無い」
「え、いいわよ、お客さんはまだ寝ていても。食事は九時ぐらいになるから」
「もう、完全に目が覚めちゃった」
「まあ」
笑いながら、キッチンに入って行く。
「ゲームとかは持ってきてないの」
「いや、何も」
「そう」
そう言って、小さくあらっ、っと声を上げる。
「いっけなーい。大根持ってくるの忘れちゃった」
「どこにあるの」
「お外」
そう言って上目遣いに彼を見る。
「はいはい」
笑い出したいのをかろうじて堪える。
「裏でいいんだね」
「倉庫の横のね、土の中」
「うん、分かった」
「御免ねー」
本当に申し訳なさそうな、そうでもないような、どっちつかずの声。それを背に受けながら、彼の顔には満面の笑みが広がっていた。
小一時間ほどして、熊が帰ってきた。
「あら、変わってないのね」
中性的な声。
「そんなに簡単に変わってたまるか」
笑いを含んだ低い声は熊だ。
「そうね。まだ一年経ってなかったかしら」
「とにかくいいから、先に入っててくれ」
「そうさせて頂くわ」
ドアベルが、カランカランと音を立てた。
彼は朝食のテーブルセッティングの手を進めながら、そちらの方をちらりと見た。
彼の手が止まる。
それは確かに見覚えのある顔だった。それも道理、有名な俳優である。
本物を見るのは初めてだった。
「あら、お久しぶりです」
にっこりと笑って、おねーさんが出迎える。
「本当にお久しぶり。元気にしてた」
俳優がゆったりと微笑む。控えめな色使いのズボンにシャツ、そして真っ黒な革のコート。ロングブーツも確かに男物だ。しかし、その雰囲気はまるで男装の麗人だ。
「もう少し待ってて下さいね。朝食、今準備してますから」
言いながら、おねーさんはまたそそくさとキッチンに入ってく。
「ここ、どうぞ」
彼は椅子の一つを引いた。
「あら、有り難う」
妙に嬉しそうに腰掛ける。
「あなた、ここのバイトなの」
「いいえ」
「そう。じゃ、あなたもお客」
「えーっと……」
「俺の甥っ子だ」
車を回して帰ってきた熊が、口を挟んだ。
「あら、あなたに親類なんていたの」
「……俺は木の股から生まれたのか」
「キャベツよりは信憑性あるわね」
「バカヤロ」
彼は息を詰めて笑っていた。それを妙に楽しそうな眼をしながら、俳優が見ていた。そのまま横目で熊を見上げる。
「あなたは紳士じゃないわね。お客に食前のお茶の一杯も出さないのかしら」
意地悪そうに言ってから、ちらり、と彼のほうを見上げる。
「このボーヤの方が、よっぽど紳士だわ」
「育ちが違うんだ」
そう言いながら、熊は朝食前のジュースを運んできた。俳優の好みは知り尽くしている。朝食にグレープフルーツジュースが欠かせないことも。
「憎ったらしいったら」
心地よさそうに笑う。
「……いいんですか、ほっといても」
「何が」
彼に言われて、おねーさんがきょとんとする。
「おじさん、取られちゃいますよ」
「大丈夫よ。慣れてるわ」
「慣れてるって」
「あの人ねえ、あれでも若い頃は結構モテたのよ」
「あれでぇ」
「失礼な子ね。確かに今は熊だけど、一昔前はすっごくキメてたんだから」
「アア、それ何となーく覚えてるような……」
「おーい、パンは焼けてるかぁ」
「はーい、今すぐ持って行くね」
「手伝うよ」
「アリガト。でももういいよ。先行って座ってて」
「そうそう、うろうろしないで座ってろ」
熊がのっそり入ってくる。
彼は一昔前の叔父の姿を思い出そうとしたが、失敗した。変わりにまた、笑いがこみ上げてくる。
「持っていこうか」
片手にパンのバスケット、もう片手に食器を載せた盆。おねーさんのあまりの危なっかしさに見かねて、熊が手を貸す。
「いいよぉ」「いいよじゃない。ほらほら」
彼は見ていられなくなり、そっと席を外した。
「当てられたわね」
頬杖を付きながら、俳優が笑う。
「たまりませんよ」
「あーあ、独りって寂しいわぁ」
「実感、こもってませんよ」
「マア」
俳優の目付きが変わる。
「坊やかと思っていたら、なかなか言うじゃない」
「何か悪いことでも言いましたか」
「そうじゃないわ。あなたのような会話ができる子は好きよ」
ぞくりと来るような流し目。
「僕も、井戸端会議やってるおばさんたちより、ずっと素敵だと思いますよ」
「かわいい。……ねぇ、到底じゃないけど、あなたにはちっとも似てないわね」
「こいつは姉さんの血を濃く引いてるからな」
朝食の準備を手際良く進めながら、熊が何でも無い事のように言う。
「確かに兄貴には似てない」
「本当のことなの、ボーヤ」
「ええ、よくそう言われますけど」
「じゃあオーナーは父方の叔父ね」
「ええ……でも、叔父さんは誰とも丸っきり似てませんけど」
「こらこら」
「あ、でもそれ納得」
「……はいはい」
もうそれ以上は口を挟んで来ない。俳優は彼の耳元にそっと囁きかけた。
「ね、もし良かったら後で部屋にいらっしゃい」
「ええ、僕は構いませんが」
「嬉しいわ……そうだ、せっかく来て下さるんですもの。何かケーキでもご馳走しなきゃ……ね、オーナー、構わないわよね」
「……キッチンを貸して欲しいのか」
「いけないかしら」
「いや、材料もある」
「なら、文句なし。そうだ、いっそのことボーヤもやらない。どうせみんな付きっきりになるし、結構お菓子作りって楽しいわよ」
「お菓子って何を作るんですか」
「何でもできるぞ。クッキー、ケーキ、そうだ、クラッカー、焼いておかなきゃな」
「そうね。それにビスケットにサクリスタン、アップルパイ」
朝食の準備は調い、スープが配られる。四人分だからすぐに終わった。
朝食が始まっても、会話は続く。
「アップルは揃っているのかしら」
「それは大丈夫ですよ。今年取れたてのがありますから。小ぶりでかなり酸味も効いてますよ」
「素晴らしいわ。マロングラッセはあるの」
「ああ、うまく出来てるぞ」
「最高。パイもいいわね」
「あの……とても美味しそうなのはいいんですが、僕もやらなきゃいけませんか」
「お料理、嫌いかしら」
「いや、嫌いと言うより、やった事が無いと言った方が……」
「誰だって初めはそうよ。ね、やってみない」
「……そうですね。僕に出来ることがあるなら」
「じゃあ、決まり」
そう言う事になった。
どちらにせよ、この辺りにはたいした娯楽も無い。スキーをするような山でもないし、天気は崩れかかっている。
しかし、料理と言うのは、中学の時の調理実習以来のことだ。
「じゃあメレンゲを泡立てて」
白身の入ったボウルを渡される。
彼はただそれを闇雲に掻き混ぜた。
「そんなに力まなくてもいいぞ」
額に汗する甥っ子に、熊が軽く肩を叩く。
「ほれ、貸してみろ」
そう言って、軽々とリズムに乗って泡立て始める。
白身はあっという間に泡立っていく。
「ほい、逆に回すなよ」
「まだ泡立てるの」
「角が立つまでな」
確かにメレンゲはまだ軟らかい。逆に回さないよう用心深く再び泡立て始める。
「まだなの」
時々弱音を吐きながらも何とかメレンゲを泡立てると、今度はバターをちぎらされた。そしてそれをまた泡立て器で掻き回す。
終わるころにはいい加減、彼の手は真っ赤になっていた。
肩が痛い。腕も手首も。しかしお菓子が目の前で出来ていくのを見るのは、これはこれでなかなか楽しいものがあった。
型を抜かせてもらった。初めは失敗した。が、次は上手くいった。
プチケーキとパイの飾りは俳優が器用にやった。
大型のケーキは、しっかりと冷ました後に熊が仕上げをする。
それは確かに彼にとって一大イベントだった。
「うん、いい出来」
満足げに仕上がりを見ながら、俳優がきっちりとパイを切り分けていく。
「ベイクドパイは焼きたてがいいのよね」
「でもこんなに作って大丈夫ですか」
彼が次々と出来上がっていくお菓子を見ながらつぶやく。熊が笑った。
「大丈夫。お客はまだ来るし」
「それに日持ちのしないものはそんなに作ってないし」
しかし女性とは偉大だ。彼は素直にそう思う。確かに量も量だが、料理と言うのが結構体力を使うなどとは思ってもいなかった。
「にしても、おじさんたち、慣れてるなあ」
「そりゃあ、この人、もとはと言えばコックだもん」
誇らしげにおねーさんが言う。しかし手並みを言えばおねーさんも負けてはいない。
それを言うと、
「そりゃあ女だもん」
と一言で返されてしまった。
「マダムは何か習ってたんですか」
「私は、ヨーロッパを周っていた時にね……よく作ったものよ」
部屋の中は甘い香りで一杯になっていた。それは何かしらホッとするような、ゆっくりとした時間だった。
午後のティータイム。外ではいよいよ雲が厚くなっていた。
「こりゃ、降るかな」
「午後から五十パーセントって言ってたわ」
「明日は雪か」
「でしょうね」
「お客さんは何時の汽車だった」
「確か昼の一時」
「チェーンの用意でもしておくか」
熊はそう言って外に出て行く。その間に焼きたてのクッキー、パイなどが並べられていく。ティーはオレンジペコ、俳優が選んだ陶器に容れられて運ばれてくる。
「はい、ボーヤ。これ中央に置いてね」
花瓶を渡され、彼は思わず悩む。どう置いたら綺麗だろう……
俳優の指導のもと、四人分のティータイムの場が出来た。
「こう言うのも、たまには良いものでしょ」
俳優がニコニコと聞く。
「ええ、結構楽しいです」
言って、まんざらうそでもないと思う。彼は暖かい紅茶を一口飲んだ。
ペンション『キャビン』の午後は緩やかに流れて行った……
お菓子作りは大変ですが、時にはいいものです。