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ペンション『キャビン』物語(第一稿)  作者: 空花(沢 渉)
2/12

第二日目・昼

一人目のお客様が到着します。

朝が来た。

彼は起き出した。

カーテンを開けると、まだ陽は昇っていない。やっと薄明るくなって来たところだ。

顔を洗って、階下に降りる。

「おはよう」

 声のほうを向くと、玄関口に、熊が立っていた。

 出かける支度をしている。

「おはよう。どこかに行くのかい」

「ああ、お客さんを迎えにな」

「こんなに早くに……」

 言いかけて、駅がどこにあるか思い出す。

「おーい、確か始発は七時十分くらいに着くんだったな」

「そうよ。だけど気をつけてね」

 奥から、熊よりもいささか年齢の若い女性が出てきた。ちょっとだけ心配そうに微笑みながら、熊の少し乱れた襟を、少し背伸びをしながら直す。

「今日はかなり寒いから、きっと道も凍っているわ」

「おー」

 熊は笑いながら、間抜けた返事をする。そして、その額に軽く口付ける。

「何か買ってくるものは無いか」

「別にいい。食料も充分あるし」

「そうか」

「それより、慌てないでね」

「はいはい」

 笑いながら、熊は出かけて行った。

「さてと、朝ご飯、朝ご飯」

 そう言って腕まくりする様は、ちょっと「おばさん」と呼び辛い。

「あら、おはよう。もう起きたの」

 たった今、気づいたかのように挨拶する。実際、たった今気づいたのに違いない。彼はしきりに苦笑した。

「あら、顔が真っ赤……どうしたの」

 その理由に一切思い当たらず、真剣におね-さんは心配する。

「風邪かしら」

「大丈夫だよ、風邪じゃないから」

「でも……」

「当てられただけだってば」

 つい、からかう様に言う。おねーさんは首を傾げた。

「ま、いいから。何か手伝うこと、無い」

「え、いいわよ、お客さんはまだ寝ていても。食事は九時ぐらいになるから」

「もう、完全に目が覚めちゃった」

「まあ」

 笑いながら、キッチンに入って行く。

「ゲームとかは持ってきてないの」

「いや、何も」

「そう」

 そう言って、小さくあらっ、っと声を上げる。

「いっけなーい。大根持ってくるの忘れちゃった」

「どこにあるの」

「お外」

 そう言って上目遣いに彼を見る。

「はいはい」

 笑い出したいのをかろうじて堪える。

「裏でいいんだね」

「倉庫の横のね、土の中」

「うん、分かった」

「御免ねー」

 本当に申し訳なさそうな、そうでもないような、どっちつかずの声。それを背に受けながら、彼の顔には満面の笑みが広がっていた。

 小一時間ほどして、熊が帰ってきた。

「あら、変わってないのね」

 中性的な声。

「そんなに簡単に変わってたまるか」

 笑いを含んだ低い声は熊だ。

「そうね。まだ一年経ってなかったかしら」

「とにかくいいから、先に入っててくれ」

「そうさせて頂くわ」

 ドアベルが、カランカランと音を立てた。

 彼は朝食のテーブルセッティングの手を進めながら、そちらの方をちらりと見た。

彼の手が止まる。

それは確かに見覚えのある顔だった。それも道理、有名な俳優である。

本物を見るのは初めてだった。

「あら、お久しぶりです」

 にっこりと笑って、おねーさんが出迎える。

「本当にお久しぶり。元気にしてた」

 俳優がゆったりと微笑む。控えめな色使いのズボンにシャツ、そして真っ黒な革のコート。ロングブーツも確かに男物だ。しかし、その雰囲気はまるで男装の麗人だ。

「もう少し待ってて下さいね。朝食、今準備してますから」

 言いながら、おねーさんはまたそそくさとキッチンに入ってく。

「ここ、どうぞ」

 彼は椅子の一つを引いた。

「あら、有り難う」

 妙に嬉しそうに腰掛ける。

「あなた、ここのバイトなの」

「いいえ」

「そう。じゃ、あなたもお客」

「えーっと……」

「俺の甥っ子だ」

 車を回して帰ってきた熊が、口を挟んだ。

「あら、あなたに親類なんていたの」

「……俺は木の股から生まれたのか」

「キャベツよりは信憑性あるわね」

「バカヤロ」

 彼は息を詰めて笑っていた。それを妙に楽しそうな眼をしながら、俳優が見ていた。そのまま横目で熊を見上げる。

「あなたは紳士じゃないわね。お客に食前のお茶の一杯も出さないのかしら」

 意地悪そうに言ってから、ちらり、と彼のほうを見上げる。

「このボーヤの方が、よっぽど紳士だわ」

「育ちが違うんだ」

 そう言いながら、熊は朝食前のジュースを運んできた。俳優の好みは知り尽くしている。朝食にグレープフルーツジュースが欠かせないことも。

「憎ったらしいったら」

 心地よさそうに笑う。

「……いいんですか、ほっといても」

「何が」

 彼に言われて、おねーさんがきょとんとする。

「おじさん、取られちゃいますよ」

「大丈夫よ。慣れてるわ」

「慣れてるって」

「あの人ねえ、あれでも若い頃は結構モテたのよ」

「あれでぇ」

「失礼な子ね。確かに今は熊だけど、一昔前はすっごくキメてたんだから」

「アア、それ何となーく覚えてるような……」

「おーい、パンは焼けてるかぁ」

「はーい、今すぐ持って行くね」

「手伝うよ」

「アリガト。でももういいよ。先行って座ってて」

「そうそう、うろうろしないで座ってろ」

 熊がのっそり入ってくる。

 彼は一昔前の叔父の姿を思い出そうとしたが、失敗した。変わりにまた、笑いがこみ上げてくる。

「持っていこうか」

 片手にパンのバスケット、もう片手に食器を載せた盆。おねーさんのあまりの危なっかしさに見かねて、熊が手を貸す。

「いいよぉ」「いいよじゃない。ほらほら」

 彼は見ていられなくなり、そっと席を外した。

「当てられたわね」

 頬杖を付きながら、俳優が笑う。

「たまりませんよ」

「あーあ、独りって寂しいわぁ」

「実感、こもってませんよ」

「マア」

 俳優の目付きが変わる。

「坊やかと思っていたら、なかなか言うじゃない」

「何か悪いことでも言いましたか」

「そうじゃないわ。あなたのような会話ができる子は好きよ」

 ぞくりと来るような流し目。

「僕も、井戸端会議やってるおばさんたちより、ずっと素敵だと思いますよ」

「かわいい。……ねぇ、到底じゃないけど、あなたにはちっとも似てないわね」

「こいつは姉さんの血を濃く引いてるからな」

 朝食の準備を手際良く進めながら、熊が何でも無い事のように言う。

「確かに兄貴には似てない」

「本当のことなの、ボーヤ」

「ええ、よくそう言われますけど」

「じゃあオーナーは父方の叔父ね」

「ええ……でも、叔父さんは誰とも丸っきり似てませんけど」

「こらこら」

「あ、でもそれ納得」

「……はいはい」

 もうそれ以上は口を挟んで来ない。俳優は彼の耳元にそっと囁きかけた。

「ね、もし良かったら後で部屋にいらっしゃい」

「ええ、僕は構いませんが」

「嬉しいわ……そうだ、せっかく来て下さるんですもの。何かケーキでもご馳走しなきゃ……ね、オーナー、構わないわよね」

「……キッチンを貸して欲しいのか」

「いけないかしら」

「いや、材料もある」

「なら、文句なし。そうだ、いっそのことボーヤもやらない。どうせみんな付きっきりになるし、結構お菓子作りって楽しいわよ」

「お菓子って何を作るんですか」

「何でもできるぞ。クッキー、ケーキ、そうだ、クラッカー、焼いておかなきゃな」

「そうね。それにビスケットにサクリスタン、アップルパイ」

 朝食の準備は調い、スープが配られる。四人分だからすぐに終わった。

朝食が始まっても、会話は続く。

「アップルは揃っているのかしら」

「それは大丈夫ですよ。今年取れたてのがありますから。小ぶりでかなり酸味も効いてますよ」

「素晴らしいわ。マロングラッセはあるの」

「ああ、うまく出来てるぞ」

「最高。パイもいいわね」

「あの……とても美味しそうなのはいいんですが、僕もやらなきゃいけませんか」

「お料理、嫌いかしら」

「いや、嫌いと言うより、やった事が無いと言った方が……」

「誰だって初めはそうよ。ね、やってみない」

「……そうですね。僕に出来ることがあるなら」

「じゃあ、決まり」

 そう言う事になった。

 どちらにせよ、この辺りにはたいした娯楽も無い。スキーをするような山でもないし、天気は崩れかかっている。

 しかし、料理と言うのは、中学の時の調理実習以来のことだ。

「じゃあメレンゲを泡立てて」

白身の入ったボウルを渡される。

 彼はただそれを闇雲に掻き混ぜた。

「そんなに力まなくてもいいぞ」

 額に汗する甥っ子に、熊が軽く肩を叩く。

「ほれ、貸してみろ」

 そう言って、軽々とリズムに乗って泡立て始める。

 白身はあっという間に泡立っていく。

「ほい、逆に回すなよ」

「まだ泡立てるの」

「角が立つまでな」

 確かにメレンゲはまだ軟らかい。逆に回さないよう用心深く再び泡立て始める。

「まだなの」

 時々弱音を吐きながらも何とかメレンゲを泡立てると、今度はバターをちぎらされた。そしてそれをまた泡立て器で掻き回す。

終わるころにはいい加減、彼の手は真っ赤になっていた。

 肩が痛い。腕も手首も。しかしお菓子が目の前で出来ていくのを見るのは、これはこれでなかなか楽しいものがあった。

型を抜かせてもらった。初めは失敗した。が、次は上手くいった。

プチケーキとパイの飾りは俳優が器用にやった。

大型のケーキは、しっかりと冷ました後に熊が仕上げをする。

それは確かに彼にとって一大イベントだった。

「うん、いい出来」

 満足げに仕上がりを見ながら、俳優がきっちりとパイを切り分けていく。

「ベイクドパイは焼きたてがいいのよね」

「でもこんなに作って大丈夫ですか」

 彼が次々と出来上がっていくお菓子を見ながらつぶやく。熊が笑った。

「大丈夫。お客はまだ来るし」

「それに日持ちのしないものはそんなに作ってないし」

 しかし女性とは偉大だ。彼は素直にそう思う。確かに量も量だが、料理と言うのが結構体力を使うなどとは思ってもいなかった。

「にしても、おじさんたち、慣れてるなあ」

「そりゃあ、この人、もとはと言えばコックだもん」

 誇らしげにおねーさんが言う。しかし手並みを言えばおねーさんも負けてはいない。

 それを言うと、

「そりゃあ女だもん」

 と一言で返されてしまった。

「マダムは何か習ってたんですか」

「私は、ヨーロッパを周っていた時にね……よく作ったものよ」

部屋の中は甘い香りで一杯になっていた。それは何かしらホッとするような、ゆっくりとした時間だった。

午後のティータイム。外ではいよいよ雲が厚くなっていた。

「こりゃ、降るかな」

「午後から五十パーセントって言ってたわ」

「明日は雪か」

「でしょうね」

「お客さんは何時の汽車だった」

「確か昼の一時」

「チェーンの用意でもしておくか」

 熊はそう言って外に出て行く。その間に焼きたてのクッキー、パイなどが並べられていく。ティーはオレンジペコ、俳優が選んだ陶器に容れられて運ばれてくる。

「はい、ボーヤ。これ中央に置いてね」

花瓶を渡され、彼は思わず悩む。どう置いたら綺麗だろう……

俳優の指導のもと、四人分のティータイムの場が出来た。

「こう言うのも、たまには良いものでしょ」

俳優がニコニコと聞く。

「ええ、結構楽しいです」

 言って、まんざらうそでもないと思う。彼は暖かい紅茶を一口飲んだ。

 ペンション『キャビン』の午後は緩やかに流れて行った……

お菓子作りは大変ですが、時にはいいものです。

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