第六日目・終日
出会いがあれば、当然、別れがある……
でも、その意味はきっと一つじゃありません。
その日は朝から快晴だった。太陽の光を受けて、雪がきらきら輝いている。その景色に不思議と冷たさは無い。
彼は何気なく窓を開けた。一気に流れ込んできた冷気に首を竦める。
「やっぱり寒かったか」
しかし彼は窓を開けたまま、その冷気に身体をさらしていた。空は真っ青で、ほとんど雲が見当たらない。
溜息が無意識のうちに漏れていた。
……
ドアをノックする音に振り向く。
「どうぞ」
彼の答えを待っていたかのようにそのドアが開く。
「何してるの、ボーヤ。食事の時間よ」
「今、行きます。マダム」
俳優が微かに眉をひそめる。
「どうしたの。熱でもあるのかしら」
そう言って彼の額に手を当てる。
「大丈夫です。熱なんてありませんよ」
しかしなおも俳優はその手を退けようとしない。その顔にだんだん深刻な表情が浮かんでくる。
「マダム……」
「やっぱり無いわね」
突然けろりと言われてしまって、彼の身体から一気に力が抜けてしまった。
「もう、からかわないでくださいよ」
「ふふ……そんなに怒らないの。さ、行きましょう。レディが待ってるわ」
「あ……」
彼の表情の一瞬の変化を俳優は見逃さなかった。しかし何も言わず、先に部屋を出る。
「マダム、待ってください」
その言葉を背に受けながら、その口元が自然に笑みを浮かべていた。
「やっぱり……」
口の中でそっと呟かれる言葉。
「完全に熱があるわね」
サロンの窓際で、物書きさんが外を見ていた。その眼はうっすらと細められている。俳優はそっとそのそばに近づくと、一緒に外を眺めた。
気配に気付いて、物書きさんが俳優を振り仰ぐ。そして視線をすぐに彼の方へ向けた。
「あ、起きたんだ」
「おはようございます。レディ」
「うん、おはよ。今日はとてもいい天気よ」
「ええ、風はものすごく冷たいですけど」
「つれない女心みたいに……」
俳優が意味深長に言う。彼は苦笑すると、
「分かりませんよ。そんな経験無いから」
「えっ、じゃあ振っちゃう方なの……意外」
「違いますって。何言ってんですか、レディ」
「冗談よ」
物書きさんと俳優が一緒になって笑う。彼だけが取り残されたように唇を尖らせた。
「何だ、楽しそうだな」
食事の用意を終えた熊が、エプロンで手を拭きながら割って入って来た。
「お嬢さんとオカマに苛められてるのか」
「おじさんっ」
彼の声が高くなった。だが熊は睨み上げる眼をものともせずに笑うと、
「さ、食事の用意が出来ましたよ。冷めないうちにどうぞ」
とだけ言って、さっさと行ってしまった。
「何だよ、全く。皆して」
「ボーヤが可愛いからよ」
「僕は男ですっ」
「まだ男の子よ、海千山千から言えばね……さ、食事をしましょう」
パンにハムエッグ、サラダとカップには熱いスープ。そして物書きさんと俳優。暖炉の火は赤く、熊はトレイを持って階段を上っていく。時々おねーさんが、パンやジュースなどのおかわりを聞きに来る。いつもと変わらぬ『キャビン』の朝……
もう、ずっとここに居るような、そんな錯覚が起きる。
「どうしたの、ボーヤ」
「いえ、何だかすっかり馴染んじゃったなー、って」
俳優は優しい眼差しで彼を見つめ、それからゆっくりとまわりに目を向けた。
彼は、初めて、その俳優の眼差しの中にある光の優しさに気が付いた。
「そうね」
俳優がポツリと呟き、そのまま沈黙する。
しばらく穏やかな時間が流れて行った。
「雪……解けちゃうのかなぁ」
子供のような声で物書きさんが言う。俳優は喉の奥で笑いながら、
「そんなに心配しなくていいわよ。あれだけ降ったんですもの、ちょっとやそっとじゃ解けはしないわ」
「そうですよ。陽は射してるけど、風は凄く冷たかったし」
「そんなに力を込めて言わなくてもいいでしょ、ボーヤ」
「別に力なんか込めてませんよ。勘ぐり過ぎです、マダム」
俳優は更に楽しそうに笑うと、物書きさんの耳にそっと囁いた。
「ボーヤね、今朝から少し熱があるみたいなのよ」
「えっ、大丈夫なんですか」
「大丈夫、気にしなくていいわ……ね」
そう言ってそっと目配せをする。物書きさんはちょっと目を見開いて、その後一気に爆笑した。
「……聞こえてたんですけど……僕は熱なんかありませんよ」
彼の声が少々こわばっていた。物書きさんは笑いを収めると、
「解ってるわ……私も同じだもの」
「えっ」
「ゆうべの余韻が残ってるんでしょ」
「ゆ……ゆうべ」
「だって丸っきりこの世じゃないみたいな景色だったじゃない」
「え、あ……そうですね」
その会話を、俳優が穏やかな表情で聞いている。その表情はマダムというよりも、マドンナを思わせた。
「あ、もうこんな時間……準備しなきゃ」
「あ、そうか。レディは今日……」
「そうお昼の便に乗るの。あーん、まだ何もしてない」
物書きさんは急にジタバタしだすと、階段を駆け上がっていった。
「あ……」
二人は呆気に取られながらその後姿を見送った。
「レディ……」
「忙しない子だこと」
俳優は呆れ顔で飲み残した珈琲を啜った。
「あの様子じゃ間に合うかどうか……行ってあげなさい、ボーヤ」
「え、何で僕が」
「だって、あなたの出発は明日でしょ……それとも何、私の言うことが聞けないとでも」
「もう……解りましたよ」
「よろしい」
「全く、強引なんだから……」
ぶつぶつ言いながら、彼が物書きさんの後を追うように階段を上っていく。その姿が消えた頃、ようやく珈琲を飲み終えた俳優が、喉を低く鳴らして笑った。
「……本当に、素直な子たち……」
「なーに、覗きに来たの」
「違いますよ。マダムが、一人じゃ大変だろうからって」
「手伝いに来てくれたの。いいのに。たいした量じゃないんだから」
「まぁ、いいですよ。何かありませんか」
「……本当に何も無いわね……何せ着替えしか持って来てない」
「僕も似たようなものです。で、確か十二時台の汽車でしたっけ」
「そうよ、十二時半過ぎの……って、あら」
物書きさんは着替えを畳んでいた手を休めると、マフラーを引っ張り出した。
「あはは、これ、君の。危うく返すの忘れるところだったわ」
「ああ、昨日の」
「お陰で暖かかったわ」
返そうとして、物書きさんの手が止まる。彼は首を傾げた。
「本当は洗って返すのが礼儀かな……って言っても暇ないか」
「いいですよ」
「でもそれじゃぁ……」
「あげますよ。そんなので良かったら」
「え、でも、これ結構新しいんじゃないの。柔らかくて暖かいし」
物書きさんはしばらく考え込んだ。そして急ににっこり笑うと、一人大きく頷いた。
「よし、じゃあこうしよう。今度会う時に、洗って返すわ」
そう言って彼に器用なウインクをしてみせる。ちょっとの間を置いて、彼が不器用なウインクをお返しした。そのまま笑いが上がる。
「解りました……じゃあ次に会う時に」
「そう、ここで」
「いつか、ですね」
物書きさんは、着替えを全部バックにしまい込み、最後にマフラーを詰め込んだ。
バックのファスナーを閉じる手が、ふと、止まった。
「また、初雪の頃に会えればいいね」
微かな呟きは、しっかり彼の耳に届いた。そして彼の頷く気配が、はっきりと物書きさんに伝わった。
ファスナーを閉じ終わったバッグを、彼が軽々と持ち上げた。
「荷物、これだけですか」
「う……うん、いいよ、自分で持っていくから」
「いいですよ、結局お役に立てなかったし……これくらい持って行かないと、またマダムにどやされます」
物書きさんは、彼を見上げると笑って頷いた。
そして、物書きさんの出発の時が来た。
「滑りますからね、気を付けてください」
車を回してきた熊が、そう呼びかける。
入り口には、ハスキーが座っていた。
「また来るからね、ワンワン」
「さよならは、言わないわよ」
最後の挨拶に振り向いた物書きさんに、俳優は軽く手を振った。
「はい、湿った別れは無し、ですね」
「そうよ」
そして軽くその小さな身体を抱きしめる。
「負けたら駄目よ……マイ・フェア・レディ」
「はい。私も立派なマダムになって見せます」
「それでいいわ。だからあなたが好きよ」
笑いながら抱擁を解くと、俳優は一歩下がった。物書きさんの眼が、彼に向けられる。
「レディ……」
彼は戸惑ったように唇をなめた。その耳に流れてきた曲があった。
「あ……『クライム・エヴリ・マウンテン』」
「すべての山に登ろう……高いところも、低いところも……」
「訳したんだ」
「正確かどうかは判りませんけど……でも、一つだけ解ったような気がします」
「何……」
「レディ、すべての山に登るんですよ」
「……そうね、その通りだわ。そして君も」
彼は力強く頷いた。物書きさんは踵を返し、ドアを出て行った。
その足が車の前で止まる。物書きさんが、空を振り仰いだ。
「レディ」
彼の呼びかけに振り向いたその顔に、鮮やかな花が咲いた。
「じゃあ、また」
元気な声で、力いっぱい片手を挙げると、大きく一振りした。
そして物書きさんは去って行った。
その後を追うように、ハスキーの遠吠えがこだましていった。
ちょっと寂しい夕食が終わり、彼は自分の部屋で物思いにふけっていた。立ち上がり、窓辺によって下を見る。
彼は頭を振ると、部屋から出て行った。
サロンでは、いつものように俳優が読書をしていた。ただ一つ違うのは、その傍らにブランデーが置かれていることだった。気配に気付き、顔を上げる。
「どうしたの、ブルーな顔して」
「何でもありませんよ」
「その格好で外に出るつもり」
「出ませんよ」
俳優はいつもの微笑を湛えたまま、傍らのグラスにブランデーを注いだ。
「付き合いなさい」
もう一つのグラスに少し注ぐと、彼に差し出す。
「……」
彼はしばらくそれを見つめ、黙って受け取った。近くの椅子を引き寄せる。
「静かな夜ですね」
「たまにはいいものよ。こんな音の無い夜も」
「でも静か過ぎます」
「独りを感じる時はね」
俳優はゆっくりとグラスを回すと、一口含んだ。彼は自分のグラスに視線を落とすと、少しだけ口を付けてみた。
途端に顔をしかめてしまう。しかし俳優は笑わなかった。
「まだ、お酒の味が解らないみたいね」
「す……すみません」
「いいのよ、誰だってそう。初めから慣れてる人なんていないわ」
「でも、おじさんには笑われました。高校の時にはビールがジュースだったって」
「ああ、あれは別。人間じゃないから」
「ひどい言われ様だなぁ、おじさん」
二人はくすくすと笑った。そして彼は今度は少し多めに口に含んでみる。そのまま飲み下すと、熱いものが喉から胃へ駆け降りていく。
「う……」
「さすがにストレートはきつかったかしらね」
そう言いながら、砕いたチョコレートを乗せた皿を彼に渡す。彼は顔をしかめたまま、それを一欠けら口に入れた。
「すぐに収まるわ」
「……あ、本当だ」
「効いた」
「効きました。これ強いんですね」
「わりとね」
「こんなのよく飲めますね」
「慣れね。もうずっと飲んでるから……って、あらあら」
彼はもう一度、今度は長く味わってみた。しかしやはり顔をしかめ、チョコレートを口に入れる。
「やっぱり男の子ね。でもそんなに慌てなくていいわ。ゆっくり慣れていきなさい」
彼は大きな溜息をつくと、少し椅子を暖炉から遠ざけた。
「そういえば、おじぃちゃんたち……」
「今日、朝早くに発たれたわ。誰にも会わずに」
「え……マダムにも」
「……そういう方たちなのよ。そしてそういう別れ方もあるの」
「……」
「明日ね。ボーヤも」
「はい」
「ふふ……楽しかったわ」
「マダム」
「有り難う」
「マダム……もし、僕が酒の味が解るようになったら、その時は僕は大人になってるでしょうか……マダムやおじさんみたいに」
俳優は彼を真面目な目付きで見つめた。微笑がその口元から消える。
「そうね、順序が逆かしらね。若いうちは若くていいの。その若さで壁にぶち当たらなければ大人にはなれないわ。そしていつか解るものなの……お酒の味も、大人の強さも……
そして弱さも。そしてやがて自然に身に付けるのよ……好きな人を守る強さを……」
俳優は一つ息をつき、眼を閉じた。次に眼を開いたとき、微笑が戻って来た。
「……ね」
「……」
「楽しみにしているわよ。ボーヤがそうなる日を」
「マダム……」
「そしたらまた一緒に飲みましょう」
「……はい」
彼はそう答えて微笑んだ。
ペンション『キャビン』の夜には、また、雪が舞っていた……
微かに心に残る寂しさもまた、経験として降り積もっていくのでしょう。