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ペンション『キャビン』物語(第一稿)  作者: 空花(沢 渉)
11/12

第六日目・終日

出会いがあれば、当然、別れがある……

でも、その意味はきっと一つじゃありません。

その日は朝から快晴だった。太陽の光を受けて、雪がきらきら輝いている。その景色に不思議と冷たさは無い。

彼は何気なく窓を開けた。一気に流れ込んできた冷気に首を竦める。

「やっぱり寒かったか」

 しかし彼は窓を開けたまま、その冷気に身体をさらしていた。空は真っ青で、ほとんど雲が見当たらない。

 溜息が無意識のうちに漏れていた。

 ……

 ドアをノックする音に振り向く。

「どうぞ」

 彼の答えを待っていたかのようにそのドアが開く。

「何してるの、ボーヤ。食事の時間よ」

「今、行きます。マダム」

 俳優が微かに眉をひそめる。

「どうしたの。熱でもあるのかしら」

 そう言って彼の額に手を当てる。

「大丈夫です。熱なんてありませんよ」

 しかしなおも俳優はその手を退けようとしない。その顔にだんだん深刻な表情が浮かんでくる。

「マダム……」

「やっぱり無いわね」

 突然けろりと言われてしまって、彼の身体から一気に力が抜けてしまった。

「もう、からかわないでくださいよ」

「ふふ……そんなに怒らないの。さ、行きましょう。レディが待ってるわ」

「あ……」

彼の表情の一瞬の変化を俳優は見逃さなかった。しかし何も言わず、先に部屋を出る。

「マダム、待ってください」

 その言葉を背に受けながら、その口元が自然に笑みを浮かべていた。

「やっぱり……」

 口の中でそっと呟かれる言葉。

「完全に熱があるわね」

 サロンの窓際で、物書きさんが外を見ていた。その眼はうっすらと細められている。俳優はそっとそのそばに近づくと、一緒に外を眺めた。

 気配に気付いて、物書きさんが俳優を振り仰ぐ。そして視線をすぐに彼の方へ向けた。

「あ、起きたんだ」

「おはようございます。レディ」

「うん、おはよ。今日はとてもいい天気よ」

「ええ、風はものすごく冷たいですけど」

「つれない女心みたいに……」

俳優が意味深長に言う。彼は苦笑すると、

「分かりませんよ。そんな経験無いから」

「えっ、じゃあ振っちゃう方なの……意外」

「違いますって。何言ってんですか、レディ」

「冗談よ」

 物書きさんと俳優が一緒になって笑う。彼だけが取り残されたように唇を尖らせた。

「何だ、楽しそうだな」

 食事の用意を終えた熊が、エプロンで手を拭きながら割って入って来た。

「お嬢さんとオカマに苛められてるのか」

「おじさんっ」

 彼の声が高くなった。だが熊は睨み上げる眼をものともせずに笑うと、

「さ、食事の用意が出来ましたよ。冷めないうちにどうぞ」

 とだけ言って、さっさと行ってしまった。

「何だよ、全く。皆して」

「ボーヤが可愛いからよ」

「僕は男ですっ」

「まだ男の子よ、海千山千から言えばね……さ、食事をしましょう」

 パンにハムエッグ、サラダとカップには熱いスープ。そして物書きさんと俳優。暖炉の火は赤く、熊はトレイを持って階段を上っていく。時々おねーさんが、パンやジュースなどのおかわりを聞きに来る。いつもと変わらぬ『キャビン』の朝……

 もう、ずっとここに居るような、そんな錯覚が起きる。

「どうしたの、ボーヤ」

「いえ、何だかすっかり馴染んじゃったなー、って」

 俳優は優しい眼差しで彼を見つめ、それからゆっくりとまわりに目を向けた。

 彼は、初めて、その俳優の眼差しの中にある光の優しさに気が付いた。

「そうね」

 俳優がポツリと呟き、そのまま沈黙する。

 しばらく穏やかな時間が流れて行った。

「雪……解けちゃうのかなぁ」

 子供のような声で物書きさんが言う。俳優は喉の奥で笑いながら、

「そんなに心配しなくていいわよ。あれだけ降ったんですもの、ちょっとやそっとじゃ解けはしないわ」

「そうですよ。陽は射してるけど、風は凄く冷たかったし」

「そんなに力を込めて言わなくてもいいでしょ、ボーヤ」

「別に力なんか込めてませんよ。勘ぐり過ぎです、マダム」

 俳優は更に楽しそうに笑うと、物書きさんの耳にそっと囁いた。

「ボーヤね、今朝から少し熱があるみたいなのよ」

「えっ、大丈夫なんですか」

「大丈夫、気にしなくていいわ……ね」

 そう言ってそっと目配せをする。物書きさんはちょっと目を見開いて、その後一気に爆笑した。

「……聞こえてたんですけど……僕は熱なんかありませんよ」

 彼の声が少々こわばっていた。物書きさんは笑いを収めると、

「解ってるわ……私も同じだもの」

「えっ」

「ゆうべの余韻が残ってるんでしょ」

「ゆ……ゆうべ」

「だって丸っきりこの世じゃないみたいな景色だったじゃない」

「え、あ……そうですね」

 その会話を、俳優が穏やかな表情で聞いている。その表情はマダムというよりも、マドンナを思わせた。

「あ、もうこんな時間……準備しなきゃ」

「あ、そうか。レディは今日……」

「そうお昼の便に乗るの。あーん、まだ何もしてない」

 物書きさんは急にジタバタしだすと、階段を駆け上がっていった。

「あ……」

 二人は呆気に取られながらその後姿を見送った。

「レディ……」

「忙しない子だこと」

 俳優は呆れ顔で飲み残した珈琲を啜った。

「あの様子じゃ間に合うかどうか……行ってあげなさい、ボーヤ」

「え、何で僕が」

「だって、あなたの出発は明日でしょ……それとも何、私の言うことが聞けないとでも」

「もう……解りましたよ」

「よろしい」

「全く、強引なんだから……」

 ぶつぶつ言いながら、彼が物書きさんの後を追うように階段を上っていく。その姿が消えた頃、ようやく珈琲を飲み終えた俳優が、喉を低く鳴らして笑った。

「……本当に、素直な子たち……」


「なーに、覗きに来たの」

「違いますよ。マダムが、一人じゃ大変だろうからって」

「手伝いに来てくれたの。いいのに。たいした量じゃないんだから」

「まぁ、いいですよ。何かありませんか」

「……本当に何も無いわね……何せ着替えしか持って来てない」

「僕も似たようなものです。で、確か十二時台の汽車でしたっけ」

「そうよ、十二時半過ぎの……って、あら」

 物書きさんは着替えを畳んでいた手を休めると、マフラーを引っ張り出した。

「あはは、これ、君の。危うく返すの忘れるところだったわ」

「ああ、昨日の」

「お陰で暖かかったわ」

 返そうとして、物書きさんの手が止まる。彼は首を傾げた。

「本当は洗って返すのが礼儀かな……って言っても暇ないか」

「いいですよ」

「でもそれじゃぁ……」

「あげますよ。そんなので良かったら」

「え、でも、これ結構新しいんじゃないの。柔らかくて暖かいし」

 物書きさんはしばらく考え込んだ。そして急ににっこり笑うと、一人大きく頷いた。

「よし、じゃあこうしよう。今度会う時に、洗って返すわ」

 そう言って彼に器用なウインクをしてみせる。ちょっとの間を置いて、彼が不器用なウインクをお返しした。そのまま笑いが上がる。

「解りました……じゃあ次に会う時に」

「そう、ここで」

「いつか、ですね」

 物書きさんは、着替えを全部バックにしまい込み、最後にマフラーを詰め込んだ。

 バックのファスナーを閉じる手が、ふと、止まった。

「また、初雪の頃に会えればいいね」

 微かな呟きは、しっかり彼の耳に届いた。そして彼の頷く気配が、はっきりと物書きさんに伝わった。

 ファスナーを閉じ終わったバッグを、彼が軽々と持ち上げた。

「荷物、これだけですか」

「う……うん、いいよ、自分で持っていくから」

「いいですよ、結局お役に立てなかったし……これくらい持って行かないと、またマダムにどやされます」

 物書きさんは、彼を見上げると笑って頷いた。

 そして、物書きさんの出発の時が来た。

「滑りますからね、気を付けてください」

 車を回してきた熊が、そう呼びかける。

 入り口には、ハスキーが座っていた。

「また来るからね、ワンワン」

「さよならは、言わないわよ」

 最後の挨拶に振り向いた物書きさんに、俳優は軽く手を振った。

「はい、湿った別れは無し、ですね」

「そうよ」

 そして軽くその小さな身体を抱きしめる。

「負けたら駄目よ……マイ・フェア・レディ」

「はい。私も立派なマダムになって見せます」

「それでいいわ。だからあなたが好きよ」

 笑いながら抱擁を解くと、俳優は一歩下がった。物書きさんの眼が、彼に向けられる。

「レディ……」

 彼は戸惑ったように唇をなめた。その耳に流れてきた曲があった。

「あ……『クライム・エヴリ・マウンテン』」

「すべての山に登ろう……高いところも、低いところも……」

「訳したんだ」

「正確かどうかは判りませんけど……でも、一つだけ解ったような気がします」

「何……」

「レディ、すべての山に登るんですよ」

「……そうね、その通りだわ。そして君も」

彼は力強く頷いた。物書きさんは踵を返し、ドアを出て行った。

その足が車の前で止まる。物書きさんが、空を振り仰いだ。

「レディ」

彼の呼びかけに振り向いたその顔に、鮮やかな花が咲いた。

「じゃあ、また」

元気な声で、力いっぱい片手を挙げると、大きく一振りした。

 そして物書きさんは去って行った。

 その後を追うように、ハスキーの遠吠えがこだましていった。


 ちょっと寂しい夕食が終わり、彼は自分の部屋で物思いにふけっていた。立ち上がり、窓辺によって下を見る。

 彼は頭を振ると、部屋から出て行った。

 サロンでは、いつものように俳優が読書をしていた。ただ一つ違うのは、その傍らにブランデーが置かれていることだった。気配に気付き、顔を上げる。

「どうしたの、ブルーな顔して」

「何でもありませんよ」

「その格好で外に出るつもり」

「出ませんよ」

 俳優はいつもの微笑を湛えたまま、傍らのグラスにブランデーを注いだ。

「付き合いなさい」

 もう一つのグラスに少し注ぐと、彼に差し出す。

「……」

 彼はしばらくそれを見つめ、黙って受け取った。近くの椅子を引き寄せる。

「静かな夜ですね」

「たまにはいいものよ。こんな音の無い夜も」

「でも静か過ぎます」

「独りを感じる時はね」

 俳優はゆっくりとグラスを回すと、一口含んだ。彼は自分のグラスに視線を落とすと、少しだけ口を付けてみた。

 途端に顔をしかめてしまう。しかし俳優は笑わなかった。

「まだ、お酒の味が解らないみたいね」

「す……すみません」

「いいのよ、誰だってそう。初めから慣れてる人なんていないわ」

「でも、おじさんには笑われました。高校の時にはビールがジュースだったって」

「ああ、あれは別。人間じゃないから」

「ひどい言われ様だなぁ、おじさん」

 二人はくすくすと笑った。そして彼は今度は少し多めに口に含んでみる。そのまま飲み下すと、熱いものが喉から胃へ駆け降りていく。

「う……」

「さすがにストレートはきつかったかしらね」

 そう言いながら、砕いたチョコレートを乗せた皿を彼に渡す。彼は顔をしかめたまま、それを一欠けら口に入れた。

「すぐに収まるわ」

「……あ、本当だ」

「効いた」

「効きました。これ強いんですね」

「わりとね」

「こんなのよく飲めますね」

「慣れね。もうずっと飲んでるから……って、あらあら」

 彼はもう一度、今度は長く味わってみた。しかしやはり顔をしかめ、チョコレートを口に入れる。

「やっぱり男の子ね。でもそんなに慌てなくていいわ。ゆっくり慣れていきなさい」

 彼は大きな溜息をつくと、少し椅子を暖炉から遠ざけた。

「そういえば、おじぃちゃんたち……」

「今日、朝早くに発たれたわ。誰にも会わずに」

「え……マダムにも」

「……そういう方たちなのよ。そしてそういう別れ方もあるの」

「……」

「明日ね。ボーヤも」

「はい」

「ふふ……楽しかったわ」

「マダム」

「有り難う」

「マダム……もし、僕が酒の味が解るようになったら、その時は僕は大人になってるでしょうか……マダムやおじさんみたいに」

 俳優は彼を真面目な目付きで見つめた。微笑がその口元から消える。

「そうね、順序が逆かしらね。若いうちは若くていいの。その若さで壁にぶち当たらなければ大人にはなれないわ。そしていつか解るものなの……お酒の味も、大人の強さも……

そして弱さも。そしてやがて自然に身に付けるのよ……好きな人を守る強さを……」

 俳優は一つ息をつき、眼を閉じた。次に眼を開いたとき、微笑が戻って来た。

「……ね」

「……」

「楽しみにしているわよ。ボーヤがそうなる日を」

「マダム……」

「そしたらまた一緒に飲みましょう」

「……はい」

彼はそう答えて微笑んだ。

ペンション『キャビン』の夜には、また、雪が舞っていた……

微かに心に残る寂しさもまた、経験として降り積もっていくのでしょう。

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