五日目と六日目の狭間
夜、雪明りに誘われるのは……
彼は、ただ独り、部屋で外の景色を眺めていた。
あの初めて来た日の夜のように、外は薄青い闇に包まれている。
ただ一つ違うのは、これが月夜の闇ではない事だ。あの時は雪が無かったが、今は草原も樹木も、白一色に塗りつぶされている。
なのにまるで景色が変わってないように、彼には思えた。
……
音が聞こえたような気がして、窓から下を覗く。
「レディ……」
物書きさんが、両手をコートのポケットに突っ込んで、空を見上げている。
彼は部屋を出ようとして、ふと思い留まった。俳優の言葉が蘇る。
「レディ」
物書きさんが彼の方を振り仰いだ。そのまま真っ直ぐ彼を見つめる。
彼は一瞬身を退けかけたが、一つ息を吐くとバルコニーに出た。
「寒くありませんか、レディ」
「ううん、少しも」
物書きさんは視線をそらすと、空を見上げた。
「綺麗な星……」
彼もつられて、空を見上げる。そこには一杯の星が冷たく輝いていた。
「ねぇ、君も出てこない」
「お邪魔じゃありませんか」
「寒いのが嫌ならいいのよ」
「……すぐ行きます」
彼はジャケットを引っ掛けると、部屋を出て行こうとした。その眼がコート掛けに引っ掛かったマフラーに止まる。彼は一瞬思案して、それを片手に出て行った。
暖炉のそばで俳優が、レコードを掛けながら読書をしていた。
しかし、彼がその横をすり抜けていっても、今度は何も言わない。
彼はなるべく静かに出て行った。その姿を横目でちらりと見て、俳優は微かな笑みをこぼした。溜息とともに小さな声が漏れる。
「まったく……若いっていいわね……」
物書きさんはその場所を少しも動かず待っていた。
「寒かったでしょう、レディ」
「ちょっとだけね。でも、これはこれで結構気持ちいいわ」
「本当ですか。とんでもなく寒いですけど」
「身を切るような寒さって、あまり経験したことが無いから」
「それは僕も同じです」
「なら、無理しなくても良かったのに」
「……」
彼はつと眼をそらして空を見上げた。部屋から見たよりも更に星が輝いている。
「あの時もこうやって星を見てたんですか」
「あの時……ああ、あの時は雪を見てたの。綺麗だったわ……ペンションの明かりにふっと現れて、静かに落ちていくの……」
「そしてふわりと地に落ちる……」
「そう、そんな感じ……降り積もる音まで聞こえてきそうだった」
物書きさんが一つ大きな息を吐く。それは白くふわりと夜の闇の中へと溶けていった。
「私、今からお散歩するんだけど、一緒に来る」
「ええ、お供しますよ、レディ」
二人は肩を並べて歩き出した。近くの森の奥へと足を踏み入れていく。
「あの時もここを通ったんですか」
「そうよ。この先にね、とても綺麗な所があるの」
「危なくないですか」
「大丈夫みたい。ずっと小道が続いているし。明かりは無いけど、ほら、雪明りが導いてくれるのよ」
彼は言われて辺りを見回す。
「本当だ。なんだか映画の中に迷い込んだみたいですね」
「ふふ」
「何ですか」
「ううん。ね、君は普段もそんな考え方するのかな」
彼はしばらく黙り込んだ。少しだけ首をひねる。
「多分、マダムやレディの影響ですよ」
「そう。でも、もともとちょっとロマンチストな所があるんじゃない」
「さぁ、今までそんなの言われたこともありませんよ。自覚も無かったし」
「現実の生活の中に埋もれてしまって、見えなかっただけかも知れないわね」
「そうでしょうか……そうかも知れませんね」
彼は一つ肩を竦めた。
「そう言うレディはどうなんです」
「私は普段もこんなものよ。何も変わりはしないわ」
「そしたら、レディは凄くロマンチストじゃありませんか」
「そうね。私は相当なロマンチストよ……だから時々現実に疲れるの」
「疲れる……もしかしたら、誰もがそうなのかも知れない」
物書きさんが彼を見上げた。視線に気付き、彼は慌てて、
「すみません……生意気な事を……」
「いいのよ。その通りだと思うわ……で、あなたはどうなの」
「僕は……」
彼の瞳がしばらく何も映さなくなる。そして出てきたのは呟くような声。
「僕は……よく解らないな。もしかしたら、僕が疲れているなんて言っても、生意気にしか聞こえないかも知れない……」
「そんな事は無いわ。若い時には若い時の、何かしらの悩みもあるから」
「何だか、自分がもう若くないような言い方ですよ」
「……ふふ、そうね。でも私はまだ若いわよ。もしかしたら幼いくらいかも」
「あ、それ言えてるかも知れない」
「こらぁっ」
「ははは、自分で言ったんでしょう。墓穴掘ってる」
「もうっ」
物書きさんはついと横を向いた。しかし怒った顔も長くは続かない。二人は笑いながら雪の小道を歩いて行った。
「もうすぐすると森が開けるわ」
いくぶんも経たないうちに、唐突に森が開ける。
「……うわぁ」
素直な感動の声が彼の口から漏れた。雪明りの中に、玄い湖がたゆたっている。
彼は思わず身震いした。
「寒いの」
「いいえ……その、寒いのは寒いけど……」
「凄い景色でしょう」
「ええ」
彼はそっと腕をさすった。鳥肌が立っている。
「まるでこの世じゃないみたいだ」
「やっぱり……そう思う」
物書きさんらしくない、低い声。彼は思わず物書きさんを見た。物書きさんはじっと湖を見つめている。その表情は淡々としていた。
「レディ……」
呼びかけながら、彼は片手を伸ばそうとしてためらう。物書きさんは何も気付かないかのように、湖に向かって歩き出した。
「レディ」
何かを感じて、彼はその後を追った。
湖のほとりで物書きさんが振り向いた。その顔が泣いているように彼には見えた。
「レディ……」
「なーに……どうしたの、そんな顔して」
笑いを含んだ声。彼がその声にホッとした瞬間、こちらに足を踏み出しかけた物書きさんが足を滑らせた。身体がグラリと後ろに傾ぐ。
「危ないっ」
彼はとっさに手を伸ばすとその腕を掴み、力任せに引っ張った。
意外なほどの軽さで彼の腕の中に小さな身体が倒れ込んできた。勢い余ってそのまま後ろに倒れ込む。
「あ、危なかった……大丈夫ですか、レディ」
「……有り難う」
声が弱々しい。彼は思わず腕の中の彼女を見た。
「どこか打ったんですか」
「ううん、どこも。君こそ、怪我しなかった」
「僕なんかよりも、あのまま転んでたら……」
「見事湖にホールインワン、だったわね」
「お気楽に言わないで下さい。こんな寒空に水に落ちたら、心臓麻痺を起こしかねませんよ」
「そうね。でも足が滑っちゃったんだもの。しょうがないわ」
「レディ……」
物書きさんを助け起こす彼の眉がひそめられた。その意味に気付いたのか、物書きさんは肩を竦めると弱々しく笑った。
「何故、君を誘ったりしたのかな」
「え……」
「ここを見つけた時にね、私、ここを自分のものにしたかったの……正確に言えば、この一瞬の景色を……でも何故かな、無性に君に見せたくなって」
「……でも、その気持ち、嬉しいです」
「それが結局命拾いになったわけね」
「何だか残念そうだ」
「そうね、どっちでも良いような気がしていたわ」
「駄目ですよ、そんな言い方」
「……何故」
「何だか、死にに来たみたいな言い方に聞こえます」
「だとしたら……」
再び声が低まる。雪明りの中、物書きさんの眼が同じような色をしていた。
彼は息を一つ呑んだ。そして身震いすると、
「冗談はやめてください」
「……」
尚も同じ色で見つめる瞳。彼の顔が引きつった。
「レディ……本当にやめてください。何があったかは知らないけど、お願いだから馬鹿な真似だけはしないでください」
「大丈夫よ、君が心配するようなことはしないわ」
「約束してくれますか」
「ええ、いいわ」
請け合って、物書きさんは声を立てて笑った。
「なんだか泣きそうな顔してるわよ」
「……」
「……本当に心配してくれてるんだ」
「……ええ、だって……」
「だって……何」
彼は沈黙した。そっと首を振ると、やっとその表情が緩んだ。
「何でも無いです……冷え込んできましたね」
物書きさんは、その真意を測るように彼を見つめた。しかしやがて諦めたように溜息をつくと、上着の襟を寄せた。
「さすがにそうみたい。もう足先の感覚が無いわ」
「どうします」
「戻りましょう」
二人は元来た道を戻り始めた。
「あ、見て……月が出てる」
真っ直ぐな小道の真正面に、月がしらしらと光を投げかけていた。
「今まで建物の陰になってたんだ」
言いながら彼は、再びあの夜のことを思い出していた。幾分欠けてはいるものの、その光はやはりあの時と同じように星の光を隠している。
やがて二人も前にペンションの明かりが見えてきた。
「レディ……今度は僕に付き合ってくれませんか」
「え……」
「ちょっとの間だけでいいですから」
「構わないわよ」
「有り難うございます」
そう言って彼は首に引っ掛けていたマフラーを、物書きさんの首に掛けた。
「付き合ってくれるから、お礼です」
物書きさんは一瞬目を丸くした。が、すぐにその眼に笑みを湛える。
「暖かいわ……ふふ、何だか映画の主人公になったみたい」
「ちょっと格好つけ過ぎましたか」
「うん、今時流行らないくらい」
「悪かったですね」
「怒らないで。個人的には好きなんだから……でも、今の、小説に使えないかしら」
「レディって、そうか……小説家だったんでしたっけ」
「失礼な、私は現役……って、どうしてそれを」
「推理です……なんて言うのは冗談で、宿帳に書いてたでしょう」
「ええ、確かに。でも一体何時……って、あ……」
「そう、おじぃちゃんが……」
「おばぁちゃんの字を見せびらかしたとき」
物書きさんは一気に吹き出した。彼も一緒になって大笑いする。
「やだぁ。びっくりしちゃったなぁ、もう」
「そんなに驚く事はないでしょう」
「じゃあ、私の名前も知ってるんだ」
「それが、名前はよく見てなかったんです」
「そう」
玄関の近くまで来ると、
「こっちです」
彼が先に立って歩き出した。あの日と同じ場所に立つ。
「……凄い眺め」
遠くを見つめるような眼をしながら、物書きさんが溜息をついた。
「丸っきり昼とは別世界……」
「……」
彼はただ黙って物書きさんを見つめ、、その眼を草原に移した。
二人はしばらく言葉も無いまま、その景色を眺めていた。
「ここに来て良かった……こんな素晴らしいものが、こんなに沢山あって」
「気に入っていただけましたか」
「とても……今まで気付かなかったわ。こんなに近くにこんなものが潜んでいたなんて」
「大袈裟だな」
「そうかしら。あなたはこれを見せるために、ここに連れてきてくれたんでしょう」
「それはそうですが」
物書きさんはうんと伸びをすると、一気に息を吐き出した。その口元が自然とほころんでいく。
「あなたに感謝しなきゃね。私、いつの間にかこんな変化を忘れていたわ」
「変化、ですか」
「そう、自然の変化……もう、ずっと殆ど外に出ていなかったから、頭の中固まっちゃってたみたい。何を書いても何だか一本調子で……」
「小説が……ですか」
物書きさんが頷く。
「私ね、小さい頃から夢だったのよね、いつか小説家になることが。でも、いざなってみると、結構現実が厳しくって……」
「それで疲れて、ここへ来た……と」
「そうよ。逃避行」
「……それだけですか」
言ってしまって、はっと口を塞ぐ。その彼を横目で見てから、しかし物書きさんは何も言わなかった。
「小説書いてるときはね、いつも現実なんて忘れられたのよ……嫌な事も、苦しい事も、みんなどこか遠いところに行ってしまって……」
物書きさんの眼がふと曇る。
「でもそれって、結局逃げなのよね。多分、自分に対する……」
「……」
「私、結局弱いから、何かあっても、いつも口に出す事も出来なかったのよね」
そう言って一つ肩を竦める。
「言い出せなくて、悔しい思いした時とか、そんな時の逃げる手段になってしまってたのね……書く事が……解ってたんだけどね。本当は直接口に出した方が良いって事は……でも、言い返されるのがいつも怖かった……」
彼はその呟きを黙って聞いていた。物書きさんはしばらく黙った後、ポツリと言った。
「ありがとね。もういいよ」
「え……」
「あーあ、今宵限りでここともお別れかぁ」
夜空に向かって一杯に手を伸ばす。
「本当にあっという間だったな」
「レディ……」
「ふふふ」
彼と視線を合わせて、物書きさんは微かに笑った。
「何ですか」
「ううん……なんでも。そうか……そうよね」
今度は声に出して笑う。
「すっかり忘れてたわ……私ここではマイ・フェア・レディだったっけ」
「……」
「本名忘れそう」
「はぁ」
「で、何か言いたそうにしてるけど」
「……もういいです」
「よろしい」
顎を反らせて頷く。二人は顔を見合わせると笑い合った。
「何だかいつも、乗せられてばかりだな」
「誰が」
「僕が」
「誰に」
「皆に。自分の青臭さが、嫌になってくる」
「青臭さ、ねぇ。気にしてるのかな」
「いいえ……うーん……」
「気にしていないと言えば、嘘になる」
「……そうかも知れませんね」
「学校の成績、良いでしょ」
「え、ええっと、中の上、くらいかな」
「ふうん。で、自分の未熟さが気になる……ナイーブな年頃なんだ」
彼は言葉に詰まった。物書きさんは空を見上げた。
「あなたがここに来た理由……」
彼が呟いた。そして再び沈黙する。
「教えて欲しいかな」
「……いいえ、もう、いいです」
「ふふ」
物書きさんは視線を逸らしたまま、ふうっと息を吐き出す。彼はただ、その白い息の行方を目で追っていた。
「……それも優しさかも知れない」
「優しさ……ですか」
「そう……聞かない優しさ……ちょうどこんな夜のような」
「僕がここに来たばかりの日も、ちょうどこんな風な月夜でしたよ。雪は積もってなかったけど……でも雪明りの分、今夜の方が明るいかな」
「でも夜は……ううん、月は、昼間の太陽じゃないわ。どんなに明るくても、ね」
「……」
彼はじっと目の前の景色を見つめ続けた。小さな溜息を一つつく。
「解るような、解らないような……まだ子供なのかな」
「いいのよ、それで。忘れてくれても構わないから」
物書きさんは、そう言ってクルリと向きを変えた。
「さすがに冷えてきたわね。中に入ろう」
そう言って歩き出す。彼はしばらくその背を見つめていたが、
「待ってください」
「何」
物書きさんが振り向き、彼を見つめながら首を傾げた。彼は眼を閉じ、その乾く唇をなめた。
「確かに、今の僕にはその優しさは解りません……でも、もし……」
彼は息を飲み込んだ。
「でも、もし、それが解るくらい大人になったら……」
物書きさんは指を一つ立てて、彼の言葉を遮った。
そして、笑った。
「レディ……」
「いつか、また、ここで会おう……いつかきっと」
「いつかって、一体いつ……」
彼はそこで言葉を切った。
「分かりました。いつか、また、きっとここで」
「ありがとう……」
そう言って物書きさんは家の中に入ろうとして、ふと、立ち止まった。
「君の名前教えてくれるかな」
彼は立ち止まり、首を傾げ、微笑むと、物書きさんのそばに寄った。
その耳にそっとその名を囁く。
「そうなんだ。私の名前はね……」
「ストップ」
今度は彼がその言葉を遮った。
「あなたは、レディで良いんですよ」
「それじゃあ何だかずるいわ」
物書きさんがふいと顔をそらしてしまう。彼はすました顔のまま、
「お返しと思って諦めてください」
「お返しって、何の」
「いろいろです」
二人は顔を見合わせ、笑顔をかわした。そして肩を並べて、家に向かって歩き出した。
「随分長いお散歩だったわね」
暖炉のそばで、俳優は読書を続けていた。
「暖炉の火を消そうかと思っていたところよ」
そう言って二人に笑いかける。
「さ、火にあたりなさいな。お茶でも入れてあげるから」
二人は目を見交わした。ほぼ同時にくすりと笑う。
「有り難うございます……マダム」
掛かりっ放しのレコードは『すべての山に登ろう』を奏でている。
そして……
ペンション『キャビン』を夜が深く押し包んで行った……
昔、一度だけ見た雪明りが忘れられません。