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ペンション『キャビン』物語(第一稿)  作者: 空花(沢 渉)
10/12

五日目と六日目の狭間

夜、雪明りに誘われるのは……

彼は、ただ独り、部屋で外の景色を眺めていた。

あの初めて来た日の夜のように、外は薄青い闇に包まれている。

ただ一つ違うのは、これが月夜の闇ではない事だ。あの時は雪が無かったが、今は草原も樹木も、白一色に塗りつぶされている。

なのにまるで景色が変わってないように、彼には思えた。

……

音が聞こえたような気がして、窓から下を覗く。

「レディ……」

 物書きさんが、両手をコートのポケットに突っ込んで、空を見上げている。

 彼は部屋を出ようとして、ふと思い留まった。俳優の言葉が蘇る。

「レディ」

物書きさんが彼の方を振り仰いだ。そのまま真っ直ぐ彼を見つめる。

 彼は一瞬身を退けかけたが、一つ息を吐くとバルコニーに出た。

「寒くありませんか、レディ」

「ううん、少しも」

 物書きさんは視線をそらすと、空を見上げた。

「綺麗な星……」

 彼もつられて、空を見上げる。そこには一杯の星が冷たく輝いていた。

「ねぇ、君も出てこない」

「お邪魔じゃありませんか」

「寒いのが嫌ならいいのよ」

「……すぐ行きます」

 彼はジャケットを引っ掛けると、部屋を出て行こうとした。その眼がコート掛けに引っ掛かったマフラーに止まる。彼は一瞬思案して、それを片手に出て行った。

 暖炉のそばで俳優が、レコードを掛けながら読書をしていた。

 しかし、彼がその横をすり抜けていっても、今度は何も言わない。

 彼はなるべく静かに出て行った。その姿を横目でちらりと見て、俳優は微かな笑みをこぼした。溜息とともに小さな声が漏れる。

「まったく……若いっていいわね……」

 物書きさんはその場所を少しも動かず待っていた。

「寒かったでしょう、レディ」

「ちょっとだけね。でも、これはこれで結構気持ちいいわ」

「本当ですか。とんでもなく寒いですけど」

「身を切るような寒さって、あまり経験したことが無いから」

「それは僕も同じです」

「なら、無理しなくても良かったのに」

「……」

 彼はつと眼をそらして空を見上げた。部屋から見たよりも更に星が輝いている。

「あの時もこうやって星を見てたんですか」

「あの時……ああ、あの時は雪を見てたの。綺麗だったわ……ペンションの明かりにふっと現れて、静かに落ちていくの……」

「そしてふわりと地に落ちる……」

「そう、そんな感じ……降り積もる音まで聞こえてきそうだった」

 物書きさんが一つ大きな息を吐く。それは白くふわりと夜の闇の中へと溶けていった。

「私、今からお散歩するんだけど、一緒に来る」

「ええ、お供しますよ、レディ」

 二人は肩を並べて歩き出した。近くの森の奥へと足を踏み入れていく。

「あの時もここを通ったんですか」

「そうよ。この先にね、とても綺麗な所があるの」

「危なくないですか」

「大丈夫みたい。ずっと小道が続いているし。明かりは無いけど、ほら、雪明りが導いてくれるのよ」

 彼は言われて辺りを見回す。

「本当だ。なんだか映画の中に迷い込んだみたいですね」

「ふふ」

「何ですか」

「ううん。ね、君は普段もそんな考え方するのかな」

 彼はしばらく黙り込んだ。少しだけ首をひねる。

「多分、マダムやレディの影響ですよ」

「そう。でも、もともとちょっとロマンチストな所があるんじゃない」

「さぁ、今までそんなの言われたこともありませんよ。自覚も無かったし」

「現実の生活の中に埋もれてしまって、見えなかっただけかも知れないわね」

「そうでしょうか……そうかも知れませんね」

 彼は一つ肩を竦めた。

「そう言うレディはどうなんです」

「私は普段もこんなものよ。何も変わりはしないわ」

「そしたら、レディは凄くロマンチストじゃありませんか」

「そうね。私は相当なロマンチストよ……だから時々現実に疲れるの」

「疲れる……もしかしたら、誰もがそうなのかも知れない」

 物書きさんが彼を見上げた。視線に気付き、彼は慌てて、

「すみません……生意気な事を……」

「いいのよ。その通りだと思うわ……で、あなたはどうなの」

「僕は……」

 彼の瞳がしばらく何も映さなくなる。そして出てきたのは呟くような声。

「僕は……よく解らないな。もしかしたら、僕が疲れているなんて言っても、生意気にしか聞こえないかも知れない……」

「そんな事は無いわ。若い時には若い時の、何かしらの悩みもあるから」

「何だか、自分がもう若くないような言い方ですよ」

「……ふふ、そうね。でも私はまだ若いわよ。もしかしたら幼いくらいかも」

「あ、それ言えてるかも知れない」

「こらぁっ」

「ははは、自分で言ったんでしょう。墓穴掘ってる」

「もうっ」

 物書きさんはついと横を向いた。しかし怒った顔も長くは続かない。二人は笑いながら雪の小道を歩いて行った。

「もうすぐすると森が開けるわ」

 いくぶんも経たないうちに、唐突に森が開ける。

「……うわぁ」

 素直な感動の声が彼の口から漏れた。雪明りの中に、玄い湖がたゆたっている。

 彼は思わず身震いした。

「寒いの」

「いいえ……その、寒いのは寒いけど……」

「凄い景色でしょう」

「ええ」

 彼はそっと腕をさすった。鳥肌が立っている。

「まるでこの世じゃないみたいだ」

「やっぱり……そう思う」

 物書きさんらしくない、低い声。彼は思わず物書きさんを見た。物書きさんはじっと湖を見つめている。その表情は淡々としていた。

「レディ……」

 呼びかけながら、彼は片手を伸ばそうとしてためらう。物書きさんは何も気付かないかのように、湖に向かって歩き出した。

「レディ」

 何かを感じて、彼はその後を追った。

 湖のほとりで物書きさんが振り向いた。その顔が泣いているように彼には見えた。

「レディ……」

「なーに……どうしたの、そんな顔して」

 笑いを含んだ声。彼がその声にホッとした瞬間、こちらに足を踏み出しかけた物書きさんが足を滑らせた。身体がグラリと後ろに傾ぐ。

「危ないっ」

 彼はとっさに手を伸ばすとその腕を掴み、力任せに引っ張った。

 意外なほどの軽さで彼の腕の中に小さな身体が倒れ込んできた。勢い余ってそのまま後ろに倒れ込む。

「あ、危なかった……大丈夫ですか、レディ」

「……有り難う」

 声が弱々しい。彼は思わず腕の中の彼女を見た。

「どこか打ったんですか」

「ううん、どこも。君こそ、怪我しなかった」

「僕なんかよりも、あのまま転んでたら……」

「見事湖にホールインワン、だったわね」

「お気楽に言わないで下さい。こんな寒空に水に落ちたら、心臓麻痺を起こしかねませんよ」

「そうね。でも足が滑っちゃったんだもの。しょうがないわ」

「レディ……」

 物書きさんを助け起こす彼の眉がひそめられた。その意味に気付いたのか、物書きさんは肩を竦めると弱々しく笑った。

「何故、君を誘ったりしたのかな」

「え……」

「ここを見つけた時にね、私、ここを自分のものにしたかったの……正確に言えば、この一瞬の景色を……でも何故かな、無性に君に見せたくなって」

「……でも、その気持ち、嬉しいです」

「それが結局命拾いになったわけね」

「何だか残念そうだ」

「そうね、どっちでも良いような気がしていたわ」

「駄目ですよ、そんな言い方」

「……何故」

「何だか、死にに来たみたいな言い方に聞こえます」

「だとしたら……」

 再び声が低まる。雪明りの中、物書きさんの眼が同じような色をしていた。

 彼は息を一つ呑んだ。そして身震いすると、

「冗談はやめてください」

「……」

 尚も同じ色で見つめる瞳。彼の顔が引きつった。

「レディ……本当にやめてください。何があったかは知らないけど、お願いだから馬鹿な真似だけはしないでください」

「大丈夫よ、君が心配するようなことはしないわ」

「約束してくれますか」

「ええ、いいわ」

 請け合って、物書きさんは声を立てて笑った。

「なんだか泣きそうな顔してるわよ」

「……」

「……本当に心配してくれてるんだ」

「……ええ、だって……」

「だって……何」

 彼は沈黙した。そっと首を振ると、やっとその表情が緩んだ。

「何でも無いです……冷え込んできましたね」

 物書きさんは、その真意を測るように彼を見つめた。しかしやがて諦めたように溜息をつくと、上着の襟を寄せた。

「さすがにそうみたい。もう足先の感覚が無いわ」

「どうします」

「戻りましょう」

 二人は元来た道を戻り始めた。

「あ、見て……月が出てる」

 真っ直ぐな小道の真正面に、月がしらしらと光を投げかけていた。

「今まで建物の陰になってたんだ」

 言いながら彼は、再びあの夜のことを思い出していた。幾分欠けてはいるものの、その光はやはりあの時と同じように星の光を隠している。

 やがて二人も前にペンションの明かりが見えてきた。

「レディ……今度は僕に付き合ってくれませんか」

「え……」

「ちょっとの間だけでいいですから」

「構わないわよ」

「有り難うございます」

 そう言って彼は首に引っ掛けていたマフラーを、物書きさんの首に掛けた。

「付き合ってくれるから、お礼です」

 物書きさんは一瞬目を丸くした。が、すぐにその眼に笑みを湛える。

「暖かいわ……ふふ、何だか映画の主人公になったみたい」

「ちょっと格好つけ過ぎましたか」

「うん、今時流行らないくらい」

「悪かったですね」

「怒らないで。個人的には好きなんだから……でも、今の、小説に使えないかしら」

「レディって、そうか……小説家だったんでしたっけ」

「失礼な、私は現役……って、どうしてそれを」

「推理です……なんて言うのは冗談で、宿帳に書いてたでしょう」

「ええ、確かに。でも一体何時……って、あ……」

「そう、おじぃちゃんが……」

「おばぁちゃんの字を見せびらかしたとき」

 物書きさんは一気に吹き出した。彼も一緒になって大笑いする。

「やだぁ。びっくりしちゃったなぁ、もう」

「そんなに驚く事はないでしょう」

「じゃあ、私の名前も知ってるんだ」

「それが、名前はよく見てなかったんです」

「そう」

 玄関の近くまで来ると、

「こっちです」

 彼が先に立って歩き出した。あの日と同じ場所に立つ。

「……凄い眺め」

 遠くを見つめるような眼をしながら、物書きさんが溜息をついた。

「丸っきり昼とは別世界……」

「……」

 彼はただ黙って物書きさんを見つめ、、その眼を草原に移した。

 二人はしばらく言葉も無いまま、その景色を眺めていた。

「ここに来て良かった……こんな素晴らしいものが、こんなに沢山あって」

「気に入っていただけましたか」

「とても……今まで気付かなかったわ。こんなに近くにこんなものが潜んでいたなんて」

「大袈裟だな」

「そうかしら。あなたはこれを見せるために、ここに連れてきてくれたんでしょう」

「それはそうですが」

 物書きさんはうんと伸びをすると、一気に息を吐き出した。その口元が自然とほころんでいく。

「あなたに感謝しなきゃね。私、いつの間にかこんな変化を忘れていたわ」

「変化、ですか」

「そう、自然の変化……もう、ずっと殆ど外に出ていなかったから、頭の中固まっちゃってたみたい。何を書いても何だか一本調子で……」

「小説が……ですか」

 物書きさんが頷く。

「私ね、小さい頃から夢だったのよね、いつか小説家になることが。でも、いざなってみると、結構現実が厳しくって……」

「それで疲れて、ここへ来た……と」

「そうよ。逃避行」

「……それだけですか」

 言ってしまって、はっと口を塞ぐ。その彼を横目で見てから、しかし物書きさんは何も言わなかった。

「小説書いてるときはね、いつも現実なんて忘れられたのよ……嫌な事も、苦しい事も、みんなどこか遠いところに行ってしまって……」

 物書きさんの眼がふと曇る。

「でもそれって、結局逃げなのよね。多分、自分に対する……」

「……」

「私、結局弱いから、何かあっても、いつも口に出す事も出来なかったのよね」

 そう言って一つ肩を竦める。

「言い出せなくて、悔しい思いした時とか、そんな時の逃げる手段になってしまってたのね……書く事が……解ってたんだけどね。本当は直接口に出した方が良いって事は……でも、言い返されるのがいつも怖かった……」

 彼はその呟きを黙って聞いていた。物書きさんはしばらく黙った後、ポツリと言った。

「ありがとね。もういいよ」

「え……」

「あーあ、今宵限りでここともお別れかぁ」

 夜空に向かって一杯に手を伸ばす。

「本当にあっという間だったな」

「レディ……」

「ふふふ」

 彼と視線を合わせて、物書きさんは微かに笑った。

「何ですか」

「ううん……なんでも。そうか……そうよね」

 今度は声に出して笑う。

「すっかり忘れてたわ……私ここではマイ・フェア・レディだったっけ」

「……」

「本名忘れそう」

「はぁ」

「で、何か言いたそうにしてるけど」

「……もういいです」

「よろしい」

 顎を反らせて頷く。二人は顔を見合わせると笑い合った。

「何だかいつも、乗せられてばかりだな」

「誰が」

「僕が」

「誰に」

「皆に。自分の青臭さが、嫌になってくる」

「青臭さ、ねぇ。気にしてるのかな」

「いいえ……うーん……」

「気にしていないと言えば、嘘になる」

「……そうかも知れませんね」

「学校の成績、良いでしょ」

「え、ええっと、中の上、くらいかな」

「ふうん。で、自分の未熟さが気になる……ナイーブな年頃なんだ」

 彼は言葉に詰まった。物書きさんは空を見上げた。

「あなたがここに来た理由……」

 彼が呟いた。そして再び沈黙する。

「教えて欲しいかな」

「……いいえ、もう、いいです」

「ふふ」

 物書きさんは視線を逸らしたまま、ふうっと息を吐き出す。彼はただ、その白い息の行方を目で追っていた。

「……それも優しさかも知れない」

「優しさ……ですか」

「そう……聞かない優しさ……ちょうどこんな夜のような」

「僕がここに来たばかりの日も、ちょうどこんな風な月夜でしたよ。雪は積もってなかったけど……でも雪明りの分、今夜の方が明るいかな」

「でも夜は……ううん、月は、昼間の太陽じゃないわ。どんなに明るくても、ね」

「……」

 彼はじっと目の前の景色を見つめ続けた。小さな溜息を一つつく。

「解るような、解らないような……まだ子供なのかな」

「いいのよ、それで。忘れてくれても構わないから」

 物書きさんは、そう言ってクルリと向きを変えた。

「さすがに冷えてきたわね。中に入ろう」

 そう言って歩き出す。彼はしばらくその背を見つめていたが、

「待ってください」

「何」

 物書きさんが振り向き、彼を見つめながら首を傾げた。彼は眼を閉じ、その乾く唇をなめた。

「確かに、今の僕にはその優しさは解りません……でも、もし……」

 彼は息を飲み込んだ。

「でも、もし、それが解るくらい大人になったら……」

 物書きさんは指を一つ立てて、彼の言葉を遮った。

 そして、笑った。

「レディ……」

「いつか、また、ここで会おう……いつかきっと」

「いつかって、一体いつ……」

 彼はそこで言葉を切った。

「分かりました。いつか、また、きっとここで」

「ありがとう……」

 そう言って物書きさんは家の中に入ろうとして、ふと、立ち止まった。

「君の名前教えてくれるかな」

 彼は立ち止まり、首を傾げ、微笑むと、物書きさんのそばに寄った。

 その耳にそっとその名を囁く。

「そうなんだ。私の名前はね……」

「ストップ」

 今度は彼がその言葉を遮った。

「あなたは、レディで良いんですよ」

「それじゃあ何だかずるいわ」

 物書きさんがふいと顔をそらしてしまう。彼はすました顔のまま、

「お返しと思って諦めてください」

「お返しって、何の」

「いろいろです」

 二人は顔を見合わせ、笑顔をかわした。そして肩を並べて、家に向かって歩き出した。

「随分長いお散歩だったわね」

 暖炉のそばで、俳優は読書を続けていた。

「暖炉の火を消そうかと思っていたところよ」

 そう言って二人に笑いかける。

「さ、火にあたりなさいな。お茶でも入れてあげるから」

 二人は目を見交わした。ほぼ同時にくすりと笑う。

「有り難うございます……マダム」

 掛かりっ放しのレコードは『すべての山に登ろう』を奏でている。

そして……

ペンション『キャビン』を夜が深く押し包んで行った……

昔、一度だけ見た雪明りが忘れられません。

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