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ペンション『キャビン』物語(第一稿)  作者: 空花(沢 渉)
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第一夜

鮮やかなほどに、真っ青な夜だった。

 大気はこれ以上無いくらいに澄み渡っている。

 そして静寂……

 張り詰めた絹糸のような月の声、星のはじける音も聞こえてきそうな、そんな夜……

 手の平に目を落とすと、その相がはっきり見える。

 もう一度天空に眼をやると、月明かりに弱々しい星たちの光が遮られてしまっている。

 だがその中にあっても尚、僅かな抵抗を試みるものたちもいる。

 オリオン……シリウス……すばる……

 そして彼のほとんど記憶に無い位置に、一際輝くのは……

「あれは、木星かな」

 星は好きでよく空を見上げるが、惑星の運行まではよくわからない。

 自分の吐く息が見える。それはゆらゆらと空へ立ち昇っていく。

 ともすると、自分が今、何処に居るのか判らなくなってきそうだった。

「あんまり長居してると、凍るぞ」

「風邪引かないで、凍っちゃうんですか」

振り向きもしないでそう言うと、肩に上着が掛けられた。

「着ておけ」

 言ってその横に並ぶ、大きな男。

 並んだまま、何も言わない。その横顔は硬い髭に覆われて、熊のようにも見える。いかにも山男と言った風情だ。

「いきなり現実に引き戻されちゃったな」

 彼がさも残念そうに言うと、熊が笑った。

 彼も釣られて一緒に笑う。実は心の底ではほっとしていのだ。

「まだ、いるのか」

 熊が訊く。彼は一瞬ためらった後、頷く。熊は、

「そうか」

 と言って踵を返し、家の中に入って行った。日本らしくない、ログハウス。ペンション『キャビン』……それがここの名前。

しばらくして熊が出てくる。片手にズダ袋、もう片手にはカップを二つ。

 何も言わずにカップを持たせ、何やら地上に準備を始める。

 それを何気なく見ていて、ふとその周りに眼をやる。

 一面に広がるのは蒼く暗い草原。その向こうに続く尾根は真っ暗で、空が明るくさえ見える。

「まあ、座れ」

 下から声を掛けられる。ランタンの炎が、やけに明るく見える。

 熊の向かいに腰掛けようとすると、

「そっちじゃ、いい景色は見れんぞ」

そう言って、熊がちょっと横にずれる。

「ここがいい」

 言われるままに座ってみて、彼は納得する。

 また、しばらく沈黙が落ちる。二人はただ空を見上げ、時折、地上に眼を落としては、また空を見上げていた。

 やがて静寂の中で、遠慮がちな音が聞こえてきた。すぐに元気の良いシュンシュンという元気な音に変わる。それで熊が珈琲をたてると、この辺りだけ、生気が戻って来た。

「いけるのか」

 熊が、懐から取り出したボトルを差し出す。彼は笑った。

「だめだよ、おじさん。未成年にお酒なんかすすめちゃ」

「ほう、お前、まだ未成年だったか」

「あと、一年と半年ちょっとあるよ」

「なら、立派なもんだ」

 そう言って断りも無く、珈琲の中に数滴垂らす。

「ブラックは飲みきらんか」

 躊躇っている彼に意地悪そうに言う。

「そんなこと無いよ」

 半ば意地になる甥っ子に、低く笑いながらカップを渡す。

 実を言えば、珈琲の味なんか、ろくに判らない。飲んだことがあると言えば、缶かインスタントをごくたまに、後は自動販売機の紙カップくらいなものだ。

 眼を瞑って少しだけ恐る恐る啜ってみる。第一印象はただ熱かった。

 そして第二印象がただひたすら苦かった。次には熱いものが喉を駆け降りて行った。

そして、その後に広がった香りは、彼が初めて体験したものだった。

隣の熊は何も言わずにたっぷりと珈琲を口に含んでいる。しかし、甥っ子の反応を見て楽しんでいるのは明らかだった。

彼はなるべく平然とした顔をして飲もうとしたが、見事に失敗した。その眉がしかめられる。

「砂糖を入れてやろうか」

「いいよ」

「よーし、いい返事だ」

何がいい返事なのか、愉快そうに喉を鳴らして笑う。もともとが魅力的な低音だから、まるで地の底から響いてくるようにも聞こえる。

その笑いの意味に気が付いて、彼は、半ばヤケ気味に珈琲をがぶがぶと飲み干す。そして盛大に顔をしかめた。

「はははは」

それを見てますます愉快そうに熊が笑う。

「あーあ、月が綺麗だ」

 彼はわざと声に出して言う。呼応するように聞こえてきたのは溜息だけ。

 それからまた数分は沈黙が落ちる。

 突然彼は、息が白いわりにはさほど身体が冷え切っていないことに気が付いた。

 横合いからカップが取り上げられる。

 いつの間に点てたのか、二杯目の珈琲を熊が自分のカップに注ぎ込んでいた。

「ココアにするか」

こちらを見もせずに訊く。彼は、

「ううん、さっきと同じのがいい」

「……よし」

 今度は何も言わずに、砂糖を少しとミルクを入れる。

「ブラックでいいよ」

「いい心掛けだがな」

 口元に見えない笑みを溜めたまま、カップを渡す。

「じっくり慣れて行けばいい」

「うん」

 彼は素直に受け取ると、今度は急いで中身に口をつけた。

 また、暖かさがぽうっと広がる。

「あー、あったかーい」

 その言葉と同時に、湯気が辺りにふわっと舞う。

「お酒のせいかな。身体が暖かいや」

「本当に初めてなのか」

 さも意外そうに熊が訊く。彼は当然のごとく頷いた。

「だって、お酒は二十歳から、って言うじゃない」

「ほーう、そだったのか」

 まるっきりばかにした物言いに聞こえ、彼は口を尖らせる。

「じゃ、おじさんはいつから飲んでるの」

「高校の時には、既にビールがジュースだった」

何の抑揚も無く言われて、彼は思わずむせそうになる。

「真面目なんだなあ」

「感慨深げに言わないでよ」

 咳き込みながら抗議の声を上げる。

「馬鹿にされてるみたいだ」

「それは無いな」

あっさりと熊が受け合う。

「それは人それぞれだからな」

「出た、おじさん節。はぐらかすつもりかい」

「バカヤロ」

 言って笑い合うと、熊が立ち上がった。

「さあ、そろそろ入らんと、本当に凍るぞ」

「うん」

彼は残念そうな顔をしつつも、素直に立ち上がる。実際足先は完全に感覚が麻痺していた。しかし、それでも後片付けは手伝う。

中に入ると、暖炉の火が燃えていた。どうやらさっき熊が点けておいてくれたらしい。

「よく手足をさすっとけ」

 そう言い渡して、熊はキッチンへと消えて行く。だんだん痒くなってくる指先を懸命にさすりながら、彼は顔をしかめた。

腹が鳴った。思わず、夕食で出た鴨肉の料理の味を舌に甦らせてしまう。

こうなると色気も何も無い。次々と食べ物の味が浮かんでくる。

「おじさん」

 キッチンに入り込むと、彼はいささか情けない声を出す。

「何か食い物、無いかな」

「……元気だな」

「ラーメンでもいいよ」

「待ってろ」

 熊がそう言って手を振る。彼はサロンに戻った。

 まもなく熊が入って来た。

「これ、どうやって食うの」

 半分の長さになったフランスパンと、チーズの塊、そしてスープ。

 何も言わずに熊はパンを厚く切り、チーズを鉄製の長い棒の先に刺し、それを一つ彼に持たせる。そして自分も同じものを持つと、くるくると、暖炉の火の上で器用にそれを回し始めた。

 彼は見様見真似でやってみる。だがどうにも焦げそうでつい串を引いてしまう。

 やがてチーズの焼けるいい香りが漂ってきた。

 熊は、さっとそれを引き上げると、パンの上に乗せる。まだ完全に溶けきっていないチーズから器用に串を抜き取り、パンに刺しかえる。それをまた暖炉の火であぶった。

 だんだん上のチーズが溶けてくると、それが流れ落ちないようにまたくるくると回し始める。彼もそれを真似する。

「もう、いいかな」

 焼きあがったトーストは、いい匂いを漂わせている。

「いいだろ」

 熊の方はとっくに焼きあがったトーストを皿の上に乗せ、串を抜いていた。

 うまかった。

 カップのスープもまだ熱かった。彼は二切れをあっという間に食べてしまった。熊はただ笑ってそれを見ていた。

 外に目を向けると、まだ幻想的な蒼だった。

 どこかで遠吠えが聞こえ出した。

 ここで飼っているハスキーだ。

それは彼を再び夢幻に誘うようだった。

時折、暖炉で火がはぜる。それらに紛れて、時計がその鐘を撞いた。

それは十二時を指していた。

「明日早いんでしょ」

「ああ」

「寝なくていいの」

「お前はどうなんだ。今日着いたばかりだろ」

「僕はいい。なんか寝るの勿体無い」

「うん、こんな月夜は久しぶりだ」

 熊は立ち上がると、部屋の明かりを落として、また座った。手にはいつの間にか、スキットルボトルが握られていた。

 それをグラスに注がずにそのまま飲む。

「あ、いいな」

 彼が言うと、熊は低く笑った。

「飲むか」

 差し出されたボトルにいったん手を付けかけて、彼はごまかすように笑う。

 熊はボトルを差し出したまま。

 彼はとうとう観念してボトルを手に取ると、思い切って一口飲んだ。

それが喉を駆け降りて行った途端、彼は激しくむせた。

「おお、おお」

 熊は感心したような声を上げる。

「なかなかいい度胸だ」

「笑ってないで、手を貸してよ」

「甘い。そのくらい覚悟しておけ」

 一笑に付されてしまう。しかしそう言いながらも、熊は一応用意してあった水をコップに注いで彼に渡した。

「ありがと」

 瞬く間に飲んでしまう。そうしてやっと人心地ついた。

「よく飲むな、こんなの」

「慣れだな。それにしてもいい飲みっぷりだ。ビールも飲んだことが無いにしては」

「そうかな」

 言いながら、彼の身体がかすかに揺れる。彼はちょっと苦笑した。

「なんか、さっきから飲んだり、食べたりばっかしてる」

「いいんじゃないか……こんな夜だから」

「ここらでも、珍しいのかい」

「こんなに明るいのはな。雪がある日は、また別だが」

「雪……」

「光るんだよ……雪自体が蒼白くな」

「綺麗なの」

「綺麗だぞ。この世のものとは思えん程にな」

 熊の声が遠い。外はさらに幻想的になり、暖かい空気が彼を包む。

 熊はもう一口飲んで、しばらく外を眺めていたが、規則的な息遣いにふと眼を向けると、甥っ子は眠ってしまっていた。

 熊の口元に笑みが浮かぶ。彼の肩をそっと揺する。

「おい、ここで寝てると風邪引くぞ」

甥っ子の返事は、生返事……

ペンション『キャビン』の夜は静かに更けていった……

今改めて見ると、色々難が多いですね……(笑)

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