灰被りのリディスの幸せ
銀の髪持つ王子がいた。幼い時より非の打ち所がない彼は、神の祝福を多く与えられ産まれたと、国中の人々は喜ぶ。
慈悲深き良い王になる未来、国の安寧が視えているからだ。誰もが彼を褒め称える。
王も王妃も陪臣達も。期待を彼の背に負わす。それに難なく応える王子は人々に安らぎの笑みを与える。
良く出来た彼は、幼い頃から物事を深く見て思考の糸を繰り出し操り編み、例えるなら雨上がりの朝、きららと光る水玉。水晶の小粒を宿す蜘蛛の巣の様なこれからの物語をつらつらと紡ぎ出し、独りほくそ笑み考えるのが好きだった。
★
黄金色に輝く蜂蜜色の髪にピンクのリボン。ふくふくとした柔らかな頬は白い綿雪の様、すみれ色の瞳を軽く伏せ、家庭教師に習った通り王の前で丁寧に、街にある屋敷にて習ったばかりのカーテシーを披露をした、父親に手を引かれた幼いリディス。
「まあ、何という可愛らしいカーテシーなのでしょう、頭を上げなさい」
王妃が目を細める。王が柔らかに笑み妻に同意をした。この国の嫡子である王子は、許され晴れやかな笑顔を見せた天使。
彼は恋をした。
――、好き。あの子が欲しい。
心をそう奪われた王子は珍しく気持ちそのままに、王に頼んだのだが。
「あの娘は内々で隣国と話が進んでおる。我には見目麗しい娘が居らぬ、もう少し、こと訳が解る年に達すれば、王妃が手元に引き取るのだ。お前の妹になる」
にべなく断られた息子。
「妹に、では仕方ありません。城に来たら、大切に大切に、可愛がりましょう、父上、母上」
そう言うと素直に引く。その後大人しく部屋に戻ったのだが落胆深く数日間、そこから彼は出てこなかった。
……、好きだ、欲しいよ。欲しいんだ!あの子が欲しい!だから考えろ考えろ、大人たちの世界を操るんだ!王子という立場を上手く使うんだ!
彼は密かに編んでいた。あらゆる出来事、物事、事実を頭に叩き込み糸を撚り出し、大きな大きな蜘蛛の巣を。それはきららに光を粘着する水玉を宿し、捕らえたものを離さない縦糸、横糸が複雑に組み合わさったレース。
★
キラキラとした夢を暖炉の灰の中で見た気がしたリディスは、年が明けて16才になっていた。
「お父様が生きていらしたら……、何故なの?お義母さまもお義姉様達も、どうして変わられたの?」
台所の暖炉の前が彼女の寝床。気をつけているのだがどうしても灰を被ってしまう。蜂蜜色の髪は薄汚れくすみ、所々もつれくしゃくしゃ。
……、お城にお父様に手を引かれて、真新しいドレスを着ていって、王妃様に、何て可愛らしいと言われた昔の自分は、何処かに消えてしまっている。あの子はきっと夢の中の私なの。
「そう、私は産まれてこの方、ずっとずっと灰にまみれて生きてるの、夢は夢なの、こっちのが本当なの」
薄くボロな毛布にくるまり芋虫の様に、硬い汚れた床に転がる彼女はブツブツと自分自身に言い聞かせる。眠ると見るのは決まって、彼女を取り巻く世界が幸せと優しさに満ちていた頃。
目が覚めると灰と埃と煤と。汚いリディスと言われ蔑まれ、取り巻く世界が全て彼女に背を向け、牙を向いている今の時。
……、せめてお父様が新しいお母様等迎えられなければ、もっと違う私が居たかもしれない。
寡夫だった父親が縁あり再婚したのは、リディスが王に謁見してから間もなくの事。当初は、娘を二人連れた夫人は分け隔て無く生さぬ仲のリディスも愛して可愛がった。
「お父様がお城でお倒れになり、そのまま亡くなって……、もう少し大きくなったら、お城に行って王女になり、お隣のお国に嫁ぐんですよって言われてたのに」
口に含めばとろける砂糖菓子の様な、幼い時の思い出に浸りながら、ポツポツと呟く。父親の葬儀が終わりしばらくすると、彼女の暮らしは天から地へと堕ちた。
「お部屋を取り上げられて働けって。お義母様は変わられたの。私のドレスも宝石もみんな売り払って……、そうこうしてたら、街のお屋敷も人手に渡ってしまって。仕方が無いから森の館に移った。そして私は台所に放り込まれた……。お金がないから召使いも居ない、代わりが私。今は耳の聞こえない通いの料理番だけがいるの」
ポロポロ溢れる涙。汚れた手で頬を拭うリディス。悲しくない、悲しくないと溢れる涙を堪える。そうでもしなければ、声上げたくなる彼女。
それ程広くない館のここは、声上げれば寝静まる家族に聴こえてしまう。そうなればうるさいと頬を叩かれ、足蹴にされる。嗚咽を漏らすまいと、彼女は薄汚れた毛布を咥え噛みしめる。
タタッ!ネズミが闇に溶けた隅を走る。ガリガリ!齧る音。ヒッ!リディスは毛布を頭から被ると、丸くなりカタカタ震える。
窓から月が差し込んで来た。彼女の唯一無二の救いの光が。音が無くなり、そろりと顔を出しそれに気が付いたリディス。
「お月さま……、ああ。今宵も来られるかしら」
その姿を思い出し焦がれる彼女。もそもそと起き上がる。水瓶から手桶に組み上げ、手を洗い、涙で汚れた顔を拭う。ボサボサの髪を手で撫でつけた。精いっぱい出来る身支度。少しでも綺麗な姿になりたいと思う彼女には、密かに想う人がいる。
……、コンコン。小さくノックの音。
料理番が掛けた鍵をガチャンと外し、軋む音立てリディスは胸をときめかせ裏口を開ける。
「ようこそ、王子様」
あの時と同じカーテシーを裾切れ汚れた下女の身なりで、優雅に執る彼女。
「ああ、リディス。可愛いリディス」
お前に逢いたいから、今宵も城を抜け出して来たんだよ。王太子となった彼が顔を上げた彼女の手を取り優しく話す。
「王子様」
ボロの身なりを気にし目を伏せるリディス。可愛いと言われおぼこな彼女は、天国にも昇る気持ち。彼は彼女たちが都落ちをすると、密かにここに通い詰めている。
というのは建前。支給される金と父親が残した財産を、裏から手を回し、一時的に凍結しここに追いやったのは、リディスの眼の前にいる本人。
彼の紡いだ綿密なる物語は、着々と進んでいる。
恥じらう哀れな身なりの彼女を、気づかれぬ様に視線を上から下まで舐めるように動かす王太子。灯りが無いため良く見えない事に気がつく。
「少しばかり外に出よう。月が綺麗だ。そう。ワルツを教えてあげる」
そのまま二人は木立に囲まれた、裏庭へと出る。月明かりが彼女を照らす。
「こんな成りで恥ずかしいです。王子様」
「良いんだよ。リディスはどんな成りでも、私の唯一無二の姫なのだから」
甘い言葉を囁く彼に向け、頬を薔薇色に染める彼女。ボロを纏い、煤けた髪色をしていても、花笑む顔は、貧しさが哀れというエッセンスを与え、薄幸の美を彼女にもたらしている。
身体を寄せ合いリズムを取りつつ、チッ!と心内で舌を打つ王太子。
……、服はようやくここまでボロになったか。しかし手と顔を洗っている。それだけで、この触れれば落ちる花のような美しさは何だ!許せん。髪はここに来てからぼうぼうの灰かぶりになったと言うのに……、駄目だな、夫人に話をしないと。
★★
「お母様!私はもう我慢なりません」
シクシクと泣くリディスの二人の義姉。
「これ以上あの子を苛めるなんて。昔の様に可愛がりたいわ。お金が無いのなら、家庭教師でも館仕えでも何処なりと働きに出ますわ」
渋い顔をする母に泣きつく二人。
「……、ならば知らぬ顔をしてなさい、お金は大丈夫です。ようやく凍結していた、お父様の残された財産が動かせる事になりました……。淑女たる者、要らぬ口を挟まない!」
冷たく言い放つと、娘達に部屋へ行けと命じた。そして彼女は頭を抱える。あの時、手紙等出さず何もかも売り払い、何処か田舎で質素ながらも親子三人で暮らす事を選んで居たら……。
「こんなことにはならなかったのに。ああ……、貴方、貴方。許して下さいまし」
形身の十字架を握りしめる義母。
……、夫が亡くなった時はまだ子供だった。にも関わらず、あの様な事を。あの悪魔に逆らってはならない。今は成人されて居られる。誰もが認める慈悲深き王太子。私の言う事など誰も信じない。そして……、どんな目に合わされるかわからない。
唇を強く噛み締める彼女。夫が急死した折、伝手も金も多く使い調べた真実。嘘と思い、本人に密かに問い合わせ知った空恐ろしい現実。それを知った彼女は背筋に冷たい物が走った事を、今でもよく覚えている。
年若い王子が、夫の死に深く関わっていた事を突き止めたのだ。あまりの事に、信じられず軽はずみにも、密書をしたため連絡を取ってみれば、暗に脅された彼女。
『よく調べられましたね。秘密を知り愚かにもこうして知らせてきたからには、どうなるかはお解りでしょう』
……、リディスを手に入れようとして、悪魔に魂を売られたのに違いない!可哀相なリディス。許して。私は弱く愚かです。あなたを守ることが出来ません。逆らい私が貴方のお父様の様になったら、娘達は貧民街へと落とすと言われたのです。
彼女の元に、何時ものように送られてきた王太子からの密書。震える手で開くと、もっと継子を苛める様にと書いてあった。
『隠し立てはできない、そう、アレは直ぐ側でスープを煮込みながら見ている。彼は文字は書けるんだ。そして最近、君の住まいの森には『狼』が出るそうだね。危ないので、手練の者を護衛に配置しているから、そう……。もう少したてば手違いで凍結された遺産が動かせると言う事だ』
野盗を装い襲われるかもしれない。彼女は命の危険が直ぐ側にある事を知った。
――、「リディス!汚い娘!灰が床に落ちてるよ!罰として、この器に山盛り一杯のレンズ豆を、朝までにきれいに選り分けなさい!」
料理番と共に、夜の仕舞い仕事をしてきた哀れなリディスが、何事かと驚き目を見開く前で、床に豆をぶちまけた彼女。慌ててしゃがみ込み豆を拾い集める、生さぬ仲の娘。
チクチクと痛む心を押し隠す。汚れた野良猫の様な髪の色が突き刺さる。絹糸の様な美しい蜂蜜色を、持参した金の櫛で優しく梳いてやりながら、愛らしく甘える彼女の花開く先の話を膝の上でしていた事を思い出した。
許してね。背を向け心で謝ると、苦い涙が心に溜まる様。ニヤリと笑う料理番を横目で確認すると、そのまま台所から出ていった。
朝までに、片付けなければどんな酷い目に合うか。出ていけ!と言われたらどうしよう。外で働く事など知らないリディスは、床を這い回り懸命に豆を拾い集める。
悲しくて悲しくてポトポト落とし、床に染みをつけながら、豆をひと粒ひと粒、器に入れる。どこもかしこも埃と煤と灰まみれになる。
床に差し込む月の光。
「ああ……、お月さま。今宵は来ないで。私はこんなに汚れているのだから」
コンコン……、ノック音。
知らぬ顔をし、豆を集めるリディス。
……、こんなに汚れてたら、嫌われる、嫌われる。そんな事になったら生きていけない。
涙がポロポロ溢れて器の中の豆を濡らす。初めて好きになった人から嫌われたくない。その一心で知らぬ顔をし続ける彼女。扉には料理番が何時も、鍵を掛けて帰るのが決まり。
だが。
ギィ……、扉が軋んで開いた。料理番が鍵を掛け忘れたのだ。よつん這いで、ハッと振り返るリディスの涙に濡れたすみれ色に、銀の髪が月光を浴び、キラキラ光る恋した相手の姿が飛び込んで来た。
「ああ、可哀相なリディス。迎えに来たよ」
煤だらけの顔には、みっともなく汚れた涙の筋、髪は何時もよりもボサボサで四方八方にピンピン跳ね所々、団子になりもつれている。豆を拾い集める最中、どこかに引っ掛けたのか、薄いブラウスとスカートは破れ、裂け黄ばんだペティコートが見え隠れ。
街の子供よりも酷い姿のリディス。そのまま貧民街へと放り込まれても、そこで育ったとしか見えない花子の様。
彼は満足そうに見下ろし頷いた。さぁ行こう。困惑と喜び、幸せでかたまる彼女の薄汚れた手を取ると、立ち上がらせ連れ出して行く。
細く、細ぅく。台所の扉を開け、何時もの様に娘の身を案じ伺う義母の姿がある。
……、許してね。許してね。可愛いリディス。私の子。愚かな私を許してね。あのまま何処かで暮らしていたら。
胸に溜まっていた後悔と苦い涙が溢れた。彼女は誰も居ない台所に入ると、彼女の寝場所だった暖炉の側にうずくまり、帰らぬ娘を想い何時までも嗚咽を漏らしていた。
★★★
王妃は困惑を隠せない。既に正妃と王子を得ている自慢の息子が、薄汚れた野良猫を拾って来たからだ。かつての面影が無い彼女を見ても、誰だか思い出す事はない。
既に隣国へは、別の娘が嫁いで役目を果たしているのだから。王妃は息子に母親として問う。
「あの様な汚いモノをどうするのです。アレはなりません。側女にするとしても、わたくしが貴方の妻ならば、侮辱されたと思いますよ。もう少しまともなのをお選びなさい」
「母上。御心配等なさらずに。アレは側女ではございません。アレに子を宿そうとは、思ってませんよ」
母の諌めに、朗らかに返す息子。
「では、なんなのです?」
「アレは、私の息抜きなのですよ。息抜きをする為には、この国を豊かに収めなければなりません。王が少々、人形で現を抜かしていても、国は真っ直ぐ進む様にね。その為には身を粉にして働きますよ。幸いにして我が妻は、美しく才媛誉れ高いですし」
「王太子妃にはどう説明するのです?」
「説明は終えてます。見て見ぬ振りをすると話していましたが、それだと彼女の鬱屈が溜まるでしょう。我が王子にも悪い影響があれば大変だ。なので私の許す範囲内でのやり方だったら、自由にしていいと申し付けてあります」
そう、話が出来てるのなら賢い貴方の事ですから、心配はいりませんね。王妃は愛する自慢の息子との話を終えた。
「汚いモノだこと」
待つ様言われた、豪奢な部屋でふかふかとした椅子に座っているリディスは全身に突き刺さる痛みを伴う、言葉の針に耐えていた。
「あの髪、まるでカビが生えてるよう!おお!汚い」
「肌の色もネズミの方がマシですわ!まことに汚い」
「椅子も絨毯も、後で取り替えさせ無いと!汚い」
泣いちゃ駄目だと思いつつ、疲れ果て心が脆くなっているリディスは些細な事でもジワリと浮かんで来る。扉の外でその様子を伺う彼。王太子妃の差し金の夫人達は、程よい所で切り上げた。
「リディス、待たせたね。君の住まいに行こう。おや?どうしたの?泣いているのか?」
扉の外で夫人達の礼を受けると、素知らぬ顔で部屋に入った彼は、はらはらと涙に暮れる彼女に近づいた。言葉に詰まる彼女は、何でもありませんと笑顔を作り答えるに留まる。
★★★★
リディスの城での暮らしが始まった。彼女の住まいは城の庭園、奥深くにある小さな宮殿。元は父親が恋人とごっこ遊びをする為に建てたその場所は、周囲を楡の木ですっぽり覆われ、外から中は見えなかった。
「ああ、可愛いリディス。どうしたの?」
ここには通いの侍女しか居ない。食事は城から運ばせ、掃除や細々な事は、リディスと出会わぬ様に執り行えと王太子から命が出ていた。
ガランとした部屋で、シクシク泣いている可愛い人に彼は優しく聞く。
「お城から出て来る様にと言われて、出向きましたの……、私は、そんなに汚いのでしょうか」
「何か言われた?どうしてここを出たの?」
フフフ、そうこなくては。王太子は内心、ほくそ笑む。外に行こうとしない彼女を出向く様にならないかと、妻に頼み込んだのだ。彼女も顔も見たことがないので、一度切りですよと、それに乗ってくれた。
彼の物語では、陰謀渦巻く外は怖いと知らなければならないから。そしてその通りに事は運ぶ。
「フフフ、虐めは初めての体験でした。でも麻薬の様ですわ。王子に悪い影響があります。二度とやりません」
くだらない茶番を終え、英邁な妻が外面は完璧な夫にそう伝えた。
「ありがとう。これで果物が熟してポトリと落ちる。これで政務にも身が入る」
夫の子供の様な笑顔に呆れ果てながら、せいぜい頑張って下さいまし。と彼女も与えられた責務を果たすために、執務室へと向かった。
――、湯浴みを繰り返し食事を取り、清潔な寝具で眠る事で昔の様に蜂蜜色の髪に戻って、美しさを取り戻したリディスに身を寄せる。表の顔は心配を装うのは忘れない。
「王太子妃様がお茶会のご招待が。私は臭くて触った茶器が汚れるそうです……。王子様。どうか私を、あの家に返して下さいまし」
幾ら家族から汚いリディスと蔑まれても、こことは雲梯の差だった事を、ひしひしと感じている彼女。言われて庭園を歩けば、庭師が箒を持ち彼女が歩いた端から清められる。
それは王太子が密かに命を出していた事柄。
王太子妃の許された陰口がヒソヒソ囁やかれ、リディスの弱く脆くなっている心に深く深く突き刺さる。家の方がマシでした。彼女はいつしか帰りたくて帰りたくて仕方が無かった。
「ああ、可愛いリディス。妻には言っておく。君を虐めないでねって。すまない。妻は少しばかり悋気が強いんだ」
肘置きに軽く腰を下ろし、蜂蜜色の頭を胸に抱き寄せながら、だからこそ君には、私の側にいて欲しいんだよ、と彼は話す。
「君は私の癒やしなのだよ。綺麗なリディス」
艷やかな髪を撫で、くるくるとした巻げをもて遊びながら、甘い声を囁く。世に産まれたばかりの蝶々を、そろりと囚える為に。
「私が?掃除に洗濯、台所……、幼い頃は淑女のお勉強もいたしました。でもみんな忘れてしまい、今では読み書き以外は、下女の様な事しか出来ません」
「うん。何もできなくて良い。君が側に居るだけで私は満たされ幸せなのだから」
心地よい胸の鼓動を感じつつ、王太子の身体から発するエーテルの様な香りに甘く痺れながら、リディスは考える。家に返してと頼んだものの、あの暮らしには二度と戻りたくない彼女の心。
しかし与えられたここから出ると、辛く哀しい世界が、牙を向き彼女を喰わんと口を開いている。それはリディスに噛みつき、吹き出た血に塗れ、苦しむ彼女を眺めるのを楽しみにしている。それに晒されると、心が壊れそうに痛む彼女。
黙り込んだリディスに、王太子が編んだ妖しく美しい蜘蛛の糸が広げられた。
「だから帰るなんて哀しい事を言わないでおくれ。それとも……」
髪からするりと耳に手を下ろした彼は、柔らかな耳朶をさわさわと触れながら問いかける。頬が朱に染まるリディス。頬に手が移る。柔らかい彼女の唇に触れる。
「それとも?」
ふるふると小鳥のように身を震わせ、小さく聞き返した彼女。王太子に指先で唇をなぞられる。どこもかしこも熱くなる。甘やかな感覚が彼女を虜にして行く。
「私の事が嫌いなら、返してあげよう」
引きに出た彼は、悲しく寂しそうな顔を創り上げ、指先を引くとパッと身を離す。
「嫌いじゃありません。嫌いじゃ……、」
即座に彼の策略に掛かったリディスは、すみれ色の瞳に力を込め、熱く潤む瞳でしかと見上げる。
「じゃぁ、どうして欲しい?ここは嫌なら、男子禁制の修道院へでも行く?私には会えないけれど……」
優しく聞く声に堪えてきた思いが一気に溢れ、ハラハラと涙が再び流れた。
「本当は、何処にも行きたくないのです。王子様のお側にずっとずっと居たいのです。家に帰りたくない!でもこのお部屋から出ると、みんな怖くて、怖くて。王子様、助けて下さい」
綺羅びやかな上着を掴み、ひしと顔を押し当てるリディス。満足感と今迄味わったことの無い恍惚。血潮にそれが混じり走り回るのを心地よく感じつつ、彼女の艷やかな髪を愛おしく撫でる王太子。
ネチャネチャと引っ付く水玉が、キララと光る大きな蜘蛛の巣で、パタパタと、掛かったばかりの蝶々の羽根が動いている。
「大丈夫。大丈夫だよ、泣かないで綺麗なリディス。そうならば、そうだ!私が君に命を出そう」
ククク。嗤い声を出さぬよう気をつける彼。あの日から編み続けた巣に、ようやく、念願の獲物が掛かった事を実感をする。
「どの様な御命令ですの?どの様な事でも従いますわ」
可愛い言葉にゾクゾクと妖しい悦びを感じている彼。広角が上がりそうになるのを抑え、殊更、穏やかな善良なる顔を創る。
「何、簡単な事だよ。ここから出ない。それだけさ」
「このお部屋から出ない?」
「そう、ああ、庭の散策位は、私が時間を作り、一緒にしよう。たまには外の空気も必要だから……、君はこの部屋で私の唯一無二の世界になっておくれ、可愛いリディス」
「王子様の世界に?」
まだ、乙女の彼女はあどけなく聞く。
「そう、蜂蜜色のリディス、君は私の世界、私の全て、私以外の事は見てはならぬ、知ってもならぬ、聞いてもならぬ。この部屋で私の為に生きておくれ、王太子の名のもとに、ここに命じる」
この人の為だけに生きる……。そしてこの部屋から出なくてもいい。その言葉は彼女に永遠の安心と温もりを与えてくれた気がした。
こういう時はどうするのでしたかしら。彼女は幼い頃に習った事を懸命に思い出す。
ツイ……、と立ち上がる。王子が選び用意をしたドレスを掲げ優雅なカーテシー。蜂蜜色の髪には薔薇色のリボンが飾られている。伏し目のすみれ色。そのままで答える。
「かしこまりました。殿下の命を謹んでお受け致します」
その姿を見た王太子は、全身の毛が逆立つ程の歓びに包まれた。血潮が逆流しぐるぐる巡り、それと呼応し、心臓が跳ね上がる。息が上がり、はしたない声が漏れ出るのを必死で耐える。
胸もどこも淫らな妄想に焼かれ苦しい程に。
……、ああ、可愛いリディス。あの時出会ったそのままではないか!君はなんという素晴らしい人なのだ。あの時、幼い君のままで……。手に入れた。手に入れた!手に入れた。ククク。指先すら他の者に触れさせぬ様に、あの女に命じて、見張らせて、ククク。灰にまみれる様、汚して汚して来た彼女。長かった。長かったよ、可愛いリディス。
せっせと編んでいた日々をうっとりと思い出す彼。さあ、顔を上げなさい。彼は彼女に許しを与える。
花咲く笑顔を見せるリディス。トン。肘置きから下りると、はにかむ彼女に近づく王太子。
「さ、辛い過去は忘れるんだ。この部屋で暮らすんだ。私は君を幸せにするよ。誰よりも誰よりも。可愛いリディス、私だけを見ていておくれ」
はい。王子様だけを見ます。だから。腕の中でリディスは話す。
「お願いです。私を離さないで。月が昇りきっても帰らないで、姿を消さないで。王子様の命じられる事ならどんな事だって従います。死ねと言われたら死にます。ずっとお側においてください」
切々と語るリディスの声は、血を吐く迄鳴き続ける小鳥の様に、赤く熱持つ響きに染まっている。
優しく抱きしめる彼。かつては灰にまみれ埃っぽい匂いにまみれていた彼女の髪は、今では蜂蜜色に戻り花の香りが漂う。
抱き締めているとリディスの体温が上がり、彼女の若い肢体から甘く澄んだ香気が立ち昇る。それを心ゆくまで身体に取り込む王太子。
キララと小粒の水晶の様な露が散りばめられている。夜になり、月光をその中に入れ込み妖しく光る蜘蛛の巣。
それは遥か長い歳月を掛け王太子が編んだ代物。
産まれたばかりの蝶々が舞い飛ぶ。風に煽られ揉まれ苦しげに飛んでいた。休む花々にはそれぞれ先客が集う姿。喉が乾いて苦しい蝶々。そして、
キララと甘露に光る編みにクッと捕まる。ハタハタ、ピピピ、ピピ……、羽根の勢いが無くなり、フルル、フルル。揺れる蜘蛛の糸の動きも静かに収まる。
そこでとろとろと眠る蝶々は、広い広い花畑の上を舞い飛ぶ夢を見ているのか、くしゃりとならず羽根を美しく広げている。
夜露が光る蜘蛛の糸。
灰被りのリディスは、こうして愛しい王子様と出遭い、何時までも何時までも幸せに暮らした。
城の奥深くある、離宮の中の、たったひとつの部屋の中で、集められる美しい物も見ること無く、世界を学ぶ事も無く、ただ日に何度か訪れる王子様の訪れだけを心待ちにし。
ほんの少し視線を外に向け、動けば違う世界の花も見つけられたかもしれない。
だけど、それをすればリディスは即座に城から放り出されたであろう。命に背いた罪人として。
彼女の幸せは命に従い、閉じられた世界で独りだけを見続け、何も聞かず知らず、ただ王太子の為だけに生きていくという道。
そして彼女はそれを守り生涯、その為だけに生きた。
そして王太子が国王となり、老いて先にこの世を旅立つと。何の後ろ盾のなく共に老いた彼女は、そのままそこに打ち捨てられた。
時々に思いついた者が食事や水や着替えを運んだ。しかしそれも疎らになるのは世の習い。
そして季節が幾度も過ぎ、帳が降りた空に白い月が昇る頃。誰にも看取られず荒れ果てた離宮の一室で、静かに息を引き取る彼女の見た夢は。
恋した王太子の訪れに胸をときめかして待っていた、月が差し込む粗末な台所。寝転がる灰被る暖炉の前。
どこもここも、煤と埃と灰にまみれ薄汚れた灰被りのリディスのあの日。
手を差し伸べられた、幸せなあの夜の夢。
終