卓也の話
―1-
弱かった小学生時代。誠にいじめられて、やり返せない自分自身が不甲斐なくて、何度も何度も泣きながら下校していた。いじめといっても本当に小さなこと。物を壊されたり暴力なんて無かった。体が小さいからいつも女扱いを受けて、名前もちゃん付けで呼ばれたり。今思えば泣くほどのいじめなんて受けていなかったけどあの時はそれが嫌で、嫌で、仕方なかった。両親を心配させたくなくて毎日嫌でも学校に通って、そして毎日泣きながら帰った。そして帰って部屋で一人泣いているといつの間にか帰宅した真白が俺の部屋へ入ってきて優しく抱き締める。
「今日も泣き虫さんだね。ほら大丈夫だよ、私がいるからもう泣かないで。」
真白の腕の中はいつも暖かくて、一番安心できる場所。
「ほら下に降りてココアを飲もう。お母さんが昨日美味しいココア買ってきたんだよ。」
そう言って真白は俺の手を引き一緒に部屋を出て階段を降りる。冷蔵庫の中に入っているココアを取り出してコップに注いで俺に渡す。そして俺が飲むのを見てから真白もココアを飲み始める。
「大丈夫だよ。私がいつも一緒にいるから」
真白は何度も俺にその言葉を投げ掛けた。最初は何度も泣いている理由を聞きたがっていたけど、いつの間にかそれも無くなって、ただ俺の隣に一緒にいてくれる毎日。それがとても嬉しくて、真白がいるからって毎日頑張れた。
小学校のときはただそばにいるだけで良かった。誠からのいじめだっていつの間にか無くなっていて、漫画やゲームの趣味が合うことに気付いて二人で沢山遊んだ。最初はなんでこんな奴と遊ばなきゃいけないんだと思いながら一緒にいたけど、ある時誠から「前はいじめてごめん。」と謝罪されたのをきっかけに俺と誠は本当の友達になった。真白に誠と友達になったことを伝えると驚いた顔をしたけど、すぐにいつもの優しい顔に戻って笑いながら「良かったね」と言いながら抱き締めてくれた。それが嬉しくて俺も力強く真白を抱き締めた。俺が小学五年生に上がると同時に真白は中学校に入学した。いつもはズボンを着けている真白のスカート姿を見るのは初めてでずっとずっと「可愛い」「似合っている」と真白に伝えていた。伝える度に真白が照れたように笑う顔が可愛くて、ついつい何度も言っていた。何も汚れていない無垢な俺はどんな言葉も裏表なく伝えることができた。でも、この劣情に気づいたとき、俺はどんな言葉を真白に伝えたら良いのか分からなくなってしまったんだ。
「卓也の姉ちゃんって可愛いよなー」
中学生になって間もない時だった。誠が遠くを見ながら言った。
「当たり前じゃん。」
部活が終わって二人で帰路につく夕方。汗をかいたせいで風がひやりと冷たく感じる。
「お前本当にシスコンだよな。」
誠はタオルで汗を拭きながら言う。冷たい風がまた吹く。
「それは認める。」
汗をかいている筈なのに妙に体が冷たい。いや、汗で体温が下がるのは当たり前か。
「うける。てかお前が言うとライクじゃなくてラブのほうに聞こえるな。」
そう言って誠はリュックの中から水の入った水筒を取り出して一気に飲んだ。
「そんな、わけないじゃん。」
心臓がどくんと揺れる。
「まあそうだよな。だって血の繋がった姉ちゃんを好きになるって普通じゃないもんなー。」
リュックに水筒を入れながら彼は言う。冷たい汗が背中を流れた。
「当たり前だろ…。」
体が冷たい。違う、きっとこの感情は違う。間違った感情だ。
「あ!あいつまだ公園で遊んでやがる。」
誠が急に怒ったような声を出した。視線の先を見るとまだ公園で遊んでいる誠の弟の奏多だ。
「ごめん、俺あいつ連れて帰るわ。じゃあまた明日な!」
そう言って走りながら公園へ向かう誠の背中に「また明日!」と言葉を投げた。誠が公園にいる弟に対して何か注意しているのを見ていると、なんだが無性に真白に会いたくなった。どうせ家に帰ったらいるのに、今すぐにでも会いたい。真っ赤な夕日はもうほとんど沈んでいて街灯がちらほらと点き始めた。わざとゆっくりと歩いて家に着くまでの時間を延ばす。どんなにゆっくり歩いてもここからだともう五分もすれば家に着く。それならいっそのこと走って帰ろうか。立ち止まりふと空を見上げると一番星がキラキラと輝いている。
「たっくん!」
前から声が聞こえる。聞きなれた声だ。前を見ると真白が財布を片手にこっちに向かって歩いてくる。
「今日はずいぶんゆっくりだね。」
いつも通りの優しい笑顔で俺を見ている。
「今から夕飯の買い物に行くんだけどたっくんも行く?今なら荷物持ちをしてくれたらなんとお菓子をプレゼントしちゃうよ。」
そう言いながら俺に近づいて俺の頭に手をのせる。
「部活お疲れさま。」
優しい声で言い頭を撫でる。その瞬間冷たい汗が背中を流れる。体は冷たいのに顔が熱い。きっとこれは部活のせいじゃない。夕日が沈み切って辺りはもう暗い。
「…いや、疲れてるから先に帰る…。」
「そっか、疲れているなら仕方ないよね。じゃあ疲れているたっくんにお菓子を買ってきてあげるね。何がいい?」
「…なんでもいい。」
「そう?なら変なもの買ってきても文句はなしだよー。じゃあ行ってくるね。」
そう言って真白は俺の頭を撫でる。俺はすぐにそれをはらい、すぐに走って家に向かった。後ろで真白が何か言っているが何も聞こえない。振り返らず一気に走る。熱い、熱い、この熱をどうにか抑えないと。家の前に着きすぐに玄関のドアを開け中に入る。台所からお母さんの鼻歌が聞こえた。今会えばこの熱を知られてしまう。靴を脱ぎすてどたどたと階段を上り部屋に急いで入る。
「ちょっとただいまくらい言いなさい!」
下からお母さんの声が聞こえる。それに返事をせずドアを閉めた。鞄を投げて動悸を抑えるために深呼吸をする。あんなに冷たかった体はいつの間にかとても熱くなっていた。
「…なんでだよ…。」
気付きたくなかった。もしかしたら心のどこかで気づいていたこの感情。いつも俺の隣にいて、どんな時でも俺の味方でいてくれたとても優しい血の繋がった姉のことが好きだなんて。家族だから姉弟だから好きじゃない。一人の女性として、異性として、恋愛対象として愛している。両手で口を塞ぎ窓から外を見ると相変わらず一番星がキラキラ輝いている。涙が頬を流れる。体に熱が溜まって下半身へと流れていく。嫌だ、こんなは間違っている。そんな理性とは裏腹に熱はどくどくと溢れ出てくる。この熱の冷まし方くらいもう既に知っている。でもそれをしたら真白を汚してしまうような気がして、触ることもできずずっと一番星を見続けた。
「…うっ…ごめん…こんな弟で…ごめん…。」
誰に言うでもない謝罪の言葉が嗚咽とともに零れ落ちる。俺はただ涙を流してどうにかこの体の熱が冷めるまでじっとこらえることしか出来なかった。
昔真白に勧められて読んだ恋愛漫画では人を好きになることは素敵なことで、人を好きになるだけでキラキラと輝いた毎日を送っているヒロインがいた。けど、そんなのは虚像だ。人を好きになることがこんなに辛いなんて誰も教えてくれなかった。いつか俺にも彼女が出来てキラキラした毎日が来るんだろうと思っていた。けれど現実は違う。どこで間違ったのだろう。もしかしたら、最初から間違っていたのかもしれない。
その日俺はいつの間にか眠っていて、起きたら知らないうちに毛布が掛けられていた。こんなことをするのは真白くらいだ。時計を見ると二十三時を回っていた。この時間ならお母さんとお父さんは眠っている。ゆっくりと音をたてないようにドアを開き真白の部屋を見る。ドアの隙間から光が漏れている。まだ真白は起きているみたいだ。出来るだけ音をたてないように部屋から出て階段を下りる。一階の電気は全部消えていて真っ暗闇だ。転ばないように誰にも気づかれないように忍び足であるく。お風呂場に着き電気をつけると洗面台の鏡に俺の顔が映った。泣いて瞳が真っ赤に腫れた不細工な俺の顔。それに目を背け着ていた服を脱いで冷たいシャワーを頭から浴びる。このままこの熱も、真白へ向けるこの汚い感情も洗い流してしまえればいいのに。流れてしまえば俺も楽になれるはずなのに楽になることを拒む自分がいる。真白の笑顔を思い出すたびに、胸が熱くなって好きだという感情が体中を埋め尽くす。でもこれは隠さないといけないものだ。それくらい馬鹿な俺だって理解できる。この感情は普通じゃないんだから。そのままうずくまり冷たい水を浴び続ける。もう泣くまいとぎゅっと目をつぶるけど、どくどくと涙は溢れ出て閉じた瞼の隙間から流れ落ちていく。両手で顔を包み込む。溢れ出る嗚咽ももう止められない。この感情も熱も、もう止められない。
-2-
授業が終わって体育館へ向かうなか、リコから部活が終わったら一緒に帰ろうと言われた。誠と帰るから無理と言おうと口を開くとすぐに誠が「いいぜ!」と俺に代わって勝手に返事をする。なんでそんなに話したこともない女子と帰らなきゃいけないのか。そう思いながら誠と二人で部活をする体育館へ向かった。体育館までは固く口を閉じていたのに更衣室に着いた瞬間誠は口を大きく開け「あれは絶対に告白だな!」と鼻息荒く言う。周りで着替えているみんなもなんだなんだと興味津々だ。
「はあ?なんでだよ。あんまり話したことないしそれは無いだろ。」
制服を脱ぎ持ってきた部活用のシャツを着る。
「いやいや、女子から一緒に帰ろうって誘われたら告白だっていっち先輩が言ってたぜ。」
「でもいっち先輩の場合は告白じゃなくて、確かリュウ先輩にラブレターを渡してほしいってお願いだったじゃん。」
そう言うと後ろで着替えていたいっち先輩が俺の頭を軽く殴ってくる。
「ちょっと一年黙れ!殺されたいか!?」
耳元で言われたせいで耳が痛くなり眉間にしわが寄る。
「いちの方が声でかいから。」
いっち先輩の肩を叩きながらすかさずリュウ先輩が言う。
「痛いぞリュウ!こっちはな期待に胸を膨らませながら加奈子ちゃんと帰ったのに、お前宛のラブレターを渡されたんだからな!傷は未だ癒えぬ!」
そう言いながらぽこぽことリュウ先輩を叩いている。これは部活の日常風景で、毎日のようにこの二人は楽しそうに(楽しんでいるのはリュウ先輩だけだと思うけど)どつき合っている。それを見て周りの先輩たちも「いいぞー」や「もっとやれー」なんかのヤジを飛ばす。騒がしくなってきたら部長が止めに入る。部長をちらりと見るともう着替え終わっていた。
「おーい、着替えた奴は先に出て柔軟しろよー。」
そう部長がいう。するとみんな口をそろえて「はーい」と返事をして着替えるスピードを上げた。いっち先輩とリュウ先輩はもう着替え終わっていたから部長と三人で先に更衣室から出ていく。俺もすぐにズボンを履き替えた。誠を見るともうすでに着替えていたようで、まだ着替えている俺を待っているのかゆっくりとバスケ用のシューズのひもを結んでいる。俺もすぐシューズを履きかえて誠の肩を叩く。
「誠、もう着替えたから行こう。」
「はいはい。」
そう言って誠は先に更衣室を出た。その背中を追いかけるように俺も更衣室から出る。その時にはもうリコとの約束のことなど忘れて部活の事しか頭になかった。けれど部活が始まると異様に先輩たちが俺を見ていて、いっち先輩に至ってはわざと厳しく当たっていた。まあ俺に厳しく当たるたびにリュウ先輩から叩かれて注意されていたからさほど嫌な気分にはならなかった。でも女子バスケ部の人たちからも視線を感じてなんだか落ち着かない。少しだけ変な空気が流れた部活だったけど、誠だけは普段通り変わらず俺に接してくれたのがありがたかった。そんな窮屈な部活が終わり先輩や女子バスケ部の視線が刺さりながら正門まで歩くのはとても嫌な気分だ。誠なんて「あんなに小さかったお前に彼女ができるなんて」と笑いながら言って俺の背中を強く叩いてきた。リコなんて放っておいてすぐにでも走って帰りたい。けれど、そんなことをしたら明日から送る学校生活が不穏なものになることは分かり切っている。だってリコはクラスの女子のボス的な存在なのだから。部活で疲れているせいもあり胃がキリキリと痛む。
「はあ…帰りたい…。」
深いため息とともに本音がポロリとこぼれる。こう嫌なことが起こるとますます真白に会いたくなる。家に帰れば会えるのだけど、最近は出来るだけ顔を合わせないようにしている。けれどそんな感情を知らない真白は毎日のようにあの優しい笑顔を俺に向けている。真白への感情を抑えようと努力はしているけれど、気付いてしまった感情を抑えることが出来るほど大人じゃない。絶対に真白にだけは気付かれてはいない。そんなことを考えているうちに正門はすぐそこに迫っていた。よく見るともうリコは正門にいるみたいでちらちらとこっちを見ている。今にも逃げ出したい。けれどもうそれは許されないようだ。後ろからこそこそと声が聞こえる。多分いっち先輩やそれに巻き込まれた面々だろうか。できるだけゆっくり歩き正門へと向かった。
「……ごめん、遅くなった。」
後ろの視線を感じながらリコに声をかける。リコの顔を見ると少しだけ照れたように赤く染まっている。きっとこれは夕日のせいだ。そうに違いない。そう自分に言い聞かせる。
「ううん!私も今来たところだから!…じゃあ、帰ろっか!」
「…うん。」
リコが先に歩き出す。それを追うように俺も歩き出した。
「それでね、アオイがね言ったんだ。」
「うん。」
「それが面白くって、みんなで笑っちゃった。」
「うん。」
帰り道はリコが話して俺がそれに相槌を打つだけの道のりだった。後ろからの視線を痛いほど感じてあまり居心地のいいものではないし、ちらりと後ろを見るとそそくさと隠れるいっち先輩と堂々としている誠と目が合って気まずい。確かもう数十メートルも歩けばリコの家に着く。そう足を速めようとした瞬間、リコの足が止まる。そして俺をじっと見て唇を開いた。
「…なんだか卓也ずっと上の空だね。」
「そう、かな…。」
「そうだよ。だって全然私の話聞いてないし。」
不意を突かれた。どう切り抜けようか。そう考えているとリコが俺の右手をつかんだ。
「もうわかるかと思うけど、私ね、卓也のことが好きなんだ。だから付き合ってほしい…って言ってももう返事は分かってるけどさ…。」
リコの手が震えている。一瞬、真白の優しい笑顔が頭をよぎった。相手が真白だったらいいのに。そう思った。そんな最低な考えが頭を埋め尽くす。そして好きな人に告白ができることへの嫉妬にも似た感情が溢れる。血が繋がっていないだけで“好き”と言えるなんて、なんて羨ましいんだろう。駄目だ、こんなことを考えてはいけない。今考えるのは断る言葉だけだ。昔読んだ恋愛漫画を頑張って思い出す。ヒーローがヒロインのライバルから告白されたときに言った言葉。
――好きな人はいるから付き合えないんだ。
これは駄目だ。この言葉を喉の奥へと詰め込む。きっとそんなことを言ったら好きな人探しが始まって、この告白も真白の耳に入るだろう。真白は優しいからリコが俺の好きな人は誰かと聞かれたらきっと俺にそれを聞いてくるだろう。そんなのは絶対にダメだ。出来るだけ簡潔に、そして好きな人がいることを悟られないように。俺は初めてリコの瞳を見つめた。
「ごめん。リコとは付き合えない。」
リコの瞳が涙で濡れていく。もし俺が真白に告白をして拒絶されたら俺もこんなふうに泣くのだろうか。まるで未来の自分を見ているようで胸が苦しくなる。
「…なんで卓也が泣きそうな顔してんの…。」
今のリコに未来の俺を重ねているから。そんなこと口が裂けても言えない。
「なんでだろう。分からないけど、ごめん。本当に泣きたいのはリコなのに、ごめん…。」
「そんなに謝んないでよ…バカ…。」
俺の手を放しリコが先を歩く。その背中を見ながら俺も歩く。
「わかってたんだ。ずっと前から卓也のことを見てきたから、卓也が絶対に私のことなんて好きじゃないって。だって今までどれだけ私から話しても目さえ合わせてくれなかった。他に好きな子がいると思って観察してても他の女子にも同じ対応でさ。でも見ちゃったんだ。」
リコの言葉にどくんと心臓が震える。あの日、真白へ向ける感情に気付いた日の情景が目の前に広がった。心中に不安が広がる。
「…見たって…。」
鼓動が早くなるのを感じた。それを悟られないようにしたかったけれど、声が震えているのが自分でもわかる。リコをまっすぐと見る。このまま目を逸らしてはいけないような気がしてリコを見る。ぐっと拳を握るとじわっと手汗がにじみ出てきた。逃げたい気持ちを必死で抑える。
「先週だったかな、真白先輩お財布を持ってたから買い物かな。その時丁度私の家の前だったから。その日体調が悪くて部活休んだんだけど、卓也がうちの前を通るって知っているから、卓也を見たくてこの道が見える窓の側に立ってたの。」
リコは自分の家の前に着くなり立ち止まり振り返って俺をみる。その瞳は涙で濡れていた。
「卓也が本当に好きな人って真白先輩なんでしょ。」
鼓動がますます早く動く。声が出ない。否定しなきゃいけないのに、何か言い訳を考えなきゃいけないのに、頭が回らない。体中から冷たい汗がにじみ出る。考えるんだ、そう思うたびに思考が停止する。そんな俺を見てリコが吹き出すように笑った。
「…あはは、すごく焦った顔してるね。」
「……それが、なんだよ。俺がシスコンなんて誰でも知ってることだろう。」
「うん、そうだね。でも卓也のそれって姉弟としての好きなの?…だってあの時の表情は姉弟愛なんてものじゃなかった。知ってるもん。あの顔は私が卓也に向けていた顔だから。」
「……。」
言葉が出ない。どうしよう。もしこれを知られたら、もし一番大切な真白に知られてしまったら。
「…本当はね、これで脅して付き合おうくらい考えてたんだ。脅して、付き合って、私を好きになるくらいたくさんの大好きを卓也に届けるつもりだったんだけどね…でもそれって空しいから…やめたんだ。」
リコの声は震えていて、顔も涙でぐちゃぐちゃになっていた。夕焼けが俺とリコを包み込む。
「恋愛ってさ、もっとね、綺麗なものだと思ってた…私なら卓也と付き合えるって思ってた…けどさ、相手が真白先輩なら勝てるわけないじゃん…だって真白先輩以上に卓也を大切にしてる人なんていないよ…。」
「…うん、俺もそう思う…。」
「……私をふったからって絶対に明日から変な態度取らないでよ…気まずいのは苦手だから。」
リコはそう言ってすぐに自分の家の方へ走っていく。
「また明日。」
背中に言葉を投げかける。リコはこちらを見てぐしゃぐしゃの顔で笑いながら「またね」と言ってすぐに家の中へ入っていった。リコが家に入ったのを見計らって誠辺りが俺に突撃してくると思ったがそれはなく、後ろを振り向くと誰もいなかった。
一人で暗くなっていく道を歩いていると向こうから真白が歩いてくるのが見えた。真白は俺に気が付いたの笑いながら手を大きく振る。その手には財布が握られているからまたお母さんに買い物を頼まれたに違いない。
「今日は遅くまで部活だったの?母さんがなかなか帰って来ないって心配してたよ。」
いつも通りの真白の優しい声や笑顔。それを見ているだけで胸が痛くなる。
「今からスーパーに行くんだけどたっくんも行く?もし疲れてなければの話なんだけど…。」
少し心配そうに顔を覗き込む。ぐっと拳を強く握る。
「……今日は疲れてないから一緒に行きたい。」
そう言うと嬉しそうに笑い俺の手を引いた。
「なんだか、こうやってたっくんと話すのは久しぶりだね。」
そうキラキラと輝いた笑顔を俺に向けてくる。体の熱をぐっとこらえる。このまま二人だけでこの道をずっと歩き続けられたならいいのに。辺りはもう真っ暗で道に建っている街灯たちは皆光をともしている。このまま闇が二人だけの世界に閉じ込めて、邪魔の入らない二人だけの世界で真白を独り占め出来たらいいのに。そんな願いを心の奥底に沈めた。
-3-
夜の十二時、電気を消して今日も体にたまった熱を冷ますだけの作業をする。瞳を閉じると真白の優しい笑顔が浮かぶ。それを必死でかき消して携帯で適当に探したエロ画像を思い浮かべた。その熱が冷めたら終わり。静かに階段を下りて洗面台で綺麗に手を洗う。真白にばれないように声を殺して何度熱を冷ましただろうか。この作業をする度に自分の手がますます汚れていくようで、何度洗ってもそれは綺麗に落ちていないような気がして、何度もこの作業を止めようとした。けれど、真白が笑顔で笑うたびに、真白が優しく話すたびに、真白が俺に近づくたびに、体の中に熱が溜まって早く発散させようと勝手に体が動く。いつの間にか真白の目を見て話すことが出来なくなっていて、そしていつの間にか話すだけで真白を汚しているような気がして、そしてもう近づくだけでこの劣情を知られるような気がして俺から真白に近づくことは無くなった。そんな事を知らない真白は相変わらず俺の側にいる。真白から離れようと高校も別のところに行こうと決めた。多分真白はあいつに自分が告白されたのが引き金となって俺が真白から離れていったのだと思っているのだろう。確かにそうだけど違うんだ。告白されたと聞いたとき真白に簡単に告白出来てしまうあいつに激しく嫉妬したけど、心の奥ではどこか安心した。真白があいつと付き合えば俺だって諦めがつく。この間違った思いをいつかは綺麗な思い出として心の片隅に置けると安心していたんだ。だけど真白はあいつと付き合うことなく簡単にあいつをふった。あいつをふったと知った時このままずっと真白を独り占めできるような気がして嬉しくなったけれど、それは喜んではいけないものだ。真白だけは汚すまいと頑張ってきたのに、このままずっと真白の隣にいたらいつか越えてはいけない一線を越えてしまいそうで怖かった。高校に運よく推薦で合格したときは真白から離れられるって信じていたんだ。誠も無事に合格出来て、きっとこれから真白以上にいい女子とも出会えて、みんなが言う普通の恋愛をできると思っていた。なのに、離れるだけでこんなにも愛おしくなるなんて、知らなかった。真白が「合格おめでとう」と笑顔で言うたびに心に細い針が刺さる。その針の数は増えていき、今じゃ数えきれな位の針が心に刺さっている。それでも心が壊れないのは真白が優しく俺の側にいてくれるから。夜眠った時に見る夢には真白がいて、俺と真白の二人だけで秘密基地にいてただ優しく抱きしめ合っている。真白は白いワンピースを着ていて、まるで天使のようだ。そんな幸せな夢。けれど今じゃ幸せな夢は汚されて俺と真白が裸で絡み合っているものに変わった。それから眠れない夜が当たり前になった。俺の目の下のクマに気付いたお母さんが心配してきたけど勉強しているからと嘘を付いた。けれど、もう限界かもしれない。いや、かもしれないじゃなく、もう、限界なんだろう。
学校帰りのバスに揺られながら窓から海を眺める。実業高校に入学してからなんだかやる気が起きない。寝不足のせいもあるだろうし、あまり真白に会っていないものある。入った学科は男子がほとんどで女子との出会いはあまりない。別に出会いを求めるためにこの高校に入学したわけじゃないけれど、真白から離れるために彼女を作りたいという気持ちが先に来てしまう。けれど、どんなに可愛いと言われてる女子でもつい真白と比べてしまう。最近はこんなんじゃあもう一生恋人なんて出来ないなんて考える毎日だ。
「ずいぶんやる気のない顔してるな。」
隣に座る誠が俺の頬をつつきながら言う。
「一年が部活を始められるのが来週からだからってそんな顔すんなよー。俺だって早くバスケしたいな。」
「そうだなー…早く体動かしたいよな。」
「だからバス停に着いたらそのままあの公園でバスケしよう!」
「体もなまってそうだしするか。」
「やった!じゃあボールはどうする?俺の家から持ってくるか?」
「誠の家バス停から遠いじゃん。俺の家の方が近いから、俺の家寄ってから公園に行こう。」
「了解!」
そう言って誠は嬉しそうに鼻歌を歌う。それに耳を傾けながら海を眺めた。そういえば最後に秘密基地に行ったのはどれくらい前だろうか。もう思い出せないくらい前のような気がする。俺が真白へ向ける感情に気づいた後から行っていないから、もう二年以上は経っているか。また真白と二人であの橋の下の秘密基地に行きたい。また無垢なあの頃に戻って、二人だけであの秘密基地に行きたい。
「おーい、もうすぐ降りるぞー。」
誠が俺の肩を叩く。
「わかってる。」
誠を見ず海を眺めながら言う。また誠が俺の頬を指でつついた。
「なんかお前最近変だよな…あ、ほら降りるぞ!」
バスが止まり出口専用の扉が開く。誠が俺の腕を強く引き、バス運転手に向かって「ありがとうございます」と声をかけながらバスを降りる。それからすぐに歩き出す誠に腕を引かれながら、会話もなく二人で歩く。風に乗せられた海のにおいが鼻をかすめる。それが少し心地よくて、誠が歌っていた鼻歌の続きを歌う。これは真白も好きな歌で、何か良いことがあるとたまに彼女も口ずさんでいた。それを思い出すとつい頬が緩くなってしまう。
「…お前さ、本当に大丈夫か?てか最近ちゃんと寝てる?」
背中を向けたまま誠が言う。鼻歌を止めて「大丈夫」と小さく呟く。すると誠が急に立ち止まり俺はそのまま誠のお背中にぶつかった。誠は勢いよく振り返り俺の顔を両手でつかむ。
「大丈夫じゃないだろ!何年一緒にいると思ってんだよ!」
誠の声は荒々しくて、でも表情は心配しているようで、瞳は俺をじっと見つめている。その真剣な瞳を見るといっそのこと全部誠に話してしまいたい気持ちになった。お前の一言で俺は真白のことを異性として愛していることに気づいて、それからずっと真白を汚したくて、でも汚してはいけないと知っているからずっとずっと我慢をしていることを。海のにおいが鼻につく。秘密基地に行きたい。真白と二人であの頃に戻って海に行きたい。二人だけで、生きていきたい。
「…いつからかは知らねえけど、前よりもひどい顔してるぞ…何かあるなら話せよ。俺たち友達だろ…。」
悔しそうに顔をゆがめる。限界だな。もう誠に隠すことは出来ないだろう。一番近くで俺を見てきたのだから。俺だけじゃなくて真白も見てきたもんな。
「…なあ、普通って何だと思う?」
小さい声で呟く。
「どういうことだよ。」
誠の眉間にしわが寄る。それが少し面白くて笑いそうになったけど、ここで笑ったら躊躇いなく殴られそうな気がしてぐっと笑いをこらえる。
「そのままの意味だよ。普通の恋愛ってさ、何だと思う?」
「…人を好きになることが普通の恋愛じゃないのか?」
「じゃあさ、俺が真白のことを本気で好きなのは普通だと思う?」
「え…?」
誠の表情が固まった。これが普通の反応だよな。俺は顔から誠の手を引きはがす。
「…ごめん、急にこんなこと言われても困るよな…。」
誠をまっすぐと見る。誠は口を開けたまま何を言えばいいのか分からない様子だ。それが少し面白くてつい吹き出してしまった。
「ぷっ…あははは、面白い顔だな!あははは……はは……。」
自分でも驚くほど大きな声が出た。もう駄目だ。俺はその場にうずくまり両手で顔を覆った。もう終わりだ。もう駄目だ、そう思った瞬間に誠の両手が俺の肩を強くつかんだ。
「普通だよ!」
誠は言葉と共にうずくまる俺の体を抱きしめた。
「真白さん優しいし可愛いし好きになるのは普通にきまってんじゃん!だから安心しろ!卓也は普通だよ!」
馬鹿みたいに大きい声で誠が言う。どうしてそんなこと言うんだよ。そんなこと言われたら、諦めがつかなくるじゃん。歯を食いしばると一気に涙が噴水のように溢れ俺の顔をぐしゃぐしゃにする。どこに置けばいいのか分からないこの劣情をずっと隠してきた。普通じゃないと知っているからこそ、誰にも知られないように抑えてきた。何度涙を流しても何度体の熱を冷ましても、真白への感情が消えることなんてないんだ。
「…真白への思いもこの涙と一緒に流れ落ちてしまえば楽になれるのに…。」
そう呟くとますます抱きしめる腕に力がこもった。初めてだった。真白以外に抱きしめられて暖かさを感じのは。
「…海に行こう、あの隣の島を繋ぐ橋がある海に。」
震える声で小さい声で言う。誠はすぐに「うん、行こう」と言い俺の腕を引きながら走り出した。誠に腕を引かれながら走っていると近くに住むおばちゃんや後輩の親や知り合いが俺たちのことを好奇の目で見てきたけど、それをすべて無視して俺たちは走った。涙なんて止まってしまえと願ったけれどそれは叶うことなく、まるで渇きを知らない海のようにどくどくとたくさん流れてきた。それを拭かず揺れる視界の中で俺は誠の背中だけを頼りに走り続けた。つんと潮風が鼻をつく。誠が急に立ち止まり俺の腕を離した。
「ほら海に着いたぞ!」
涙を拭き目の前に広がる景色を見た。見慣れたはずなのになぜか不思議と懐かしい気分になる。
「うん…海だ…。」
拭いたはずの涙はまた溢れ出てきてますます俺の心を癒していく。瞳を閉じて潮風を感じる。肌にべたついて少しの気持ち悪さがあるけど、心が軽くなるような気がした。ゆっくりと瞼を閉じて思い出すのは真白の綺麗な笑顔だけ。もっとたくさん話したり、手を繋いだり、ハグをしたい。側にいるだけで良いなんてそんなの夢物語だ。たくさん触れてもっと真白を感じたい。
「…本当に好きなんだ…真白のことが本当に好きで、好きで、でもこの感情が普通じゃないって知っているから…でも諦めることも出来ないんだ…。」
涙は相変わらず流れている。誠が俺の手を強く握った。
「言っただろ普通だって!俺が普通って言ったら普通なんだよ。これからため込まず俺に話せよ。俺はいつだって卓也の味方なんだから。」
「うん……ありがとう…。」
柔らかい真白の手とは全然違う硬くて豆ばかりのごつごつした誠の手がとても暖かくて、ますます泣きたくなった。ゆっくりと瞼を開いて地平線を見る。海があまりにも綺麗で、でも思い出に残る海はもっと綺麗で、もう真白と二人で海に来ることが出来ないような気がして胸が苦しくなる。恋愛が少女漫画みたいにキラキラと輝いているものだったらよかったのに。好きなものを好きと言う勇気なんて俺にはない。だから、この感情もまた心の奥底に沈めてしまおう。もう誰も、俺でさえも手に届かない奥底へ。
-4-
「真白は玄関のカギは閉めてもそれ以外の窓とかのカギは閉め忘れることが多いから、もし二人で家を空けるときは必ず卓也がカギ閉めるんだよ。じゃあ行ってくるね。」
「行ってらっしゃい。」
玄関を出るお母さんに言う。できるだけ笑顔で、できるだけ大きな声で。お母さんが優しい顔で俺の頭を撫でてから玄関を出た。お母さんは眠れない夜を過ごしていることに気付いている。けれど、俺が話さない限り何も言ってはこない。それを知っているから俺はお母さんにこのことを絶対に言わない。お母さんの背中を見送ってカギを閉める。今日はお父さんもお母さんも帰りが遅い。だから俺は二人が帰ってくるまで真白と二人でこの家にいなければならない。今日は土曜日だから朝から部活の予定だったけど、急遽部活が休みになった。そしてなぜか明日も部活は休み。噂によると顧問が担任をするクラスの生徒が飲酒したらしい。まあ実際のところ本当かどうかは分からないけど。もしこの噂が本当なら、月曜に緊急朝礼があるはずだ。時計を見るとまだ八時にもなっていない。朝が苦手な真白は未だ夢の中らしく起きている気配がない。家に一人だけのようでいつもより気分が楽だ。これなら俺もぐっすり眠れるような気がする。本当は朝ご飯を食べるつもりだったけど、このまま部屋に行き眠ろう。お母さんとお父さんの帰りが遅いことを真白に言うのは後でいい。今はただ眠りたい。真白を起こさないように静かに階段を上る。自分の部屋のドアを開けベットに寝転がる。瞼を下ろす。もう何も考えられない。俺はゆっくりと夢の中へと落ちていく。
瞳を開くとそこは誰もいない海だった。知らない海なのに懐かしく感じる。地平線がキラキラと輝いている。それに見惚れていると海から声が聞こえた。何を言っているのか分からないけど心地の良い声だ。ずっとこの場所にいたい。眠れない夜を過ごすこともなく、普通じゃない自分を嘆き苦しむこともない。
『たっくん』
海から俺を呼ぶ声が聞こえる。行かなきゃ。あの海から聞こえる声の主の場所へ。一歩ずつ海に近づく。きっとこのまま海に導かれていけば俺は楽になれる。
『たっくん』
また名前を呼ばれる。ああ、このまま楽になりたい。このまま海にのまれてしまえば楽になれる。けど、あの場所に真白はいない。いないんだ。どこにも。
「真白…どこにいるの…真白…真白……。」
名前を呼んでも彼女は現れない。当たり前じゃないか、だってこれは夢なんだから。歩みを止めて見た地平線の輝きは消えてあるのは真っ暗な闇だけだ。
「真白……好きでごめん…真白…。」
膝をつき地平線を眺める。苦しい、こんなに苦しいなら好きにならなければよかったのかもしれない。もう限界だ。もう駄目なんだ。二人で遠くまで行って、俺たちのことを知っている人間がいない場所まで行って、たった二人だけで生きたい。でも俺たちは子供で、二人で生きていく力なんてない。俺ができるのただこの思いをずっと心の奥底へ沈めることだけだ。でも、もう駄目だ。誠に話すことが出来たからもう大丈夫なような気がしていたけど、駄目なんだ。
「ごめんなさい…もう…俺は真白への気持ちを抑えることが出来ないんだ…どうしたら楽になれるのかな。」
誰もいないたった一人きりの海。真っ暗な地平線と真っ暗な空。海から誰かがこちらに向かって歩いてくる。
『たっくん』
彼女は優しい声で俺の名前を呼ぶ。
「…真白…。」
彼女が俺の前に立ち俺を優しく抱きしめた。
『たっくん、ごめんね。たくさん苦しんだね。でも大丈夫。目が覚めたら辛さや悲しさ全てが流れているから。大丈夫だよ、たっくん。』
いつもの優しい声でそういう。そして俺の左手を取り優しく握った。
『大丈夫、たっくんは大丈夫だよ』
彼女の顔を見ると優しく笑っている。やっぱり、この気持ちを抑えることなんて出来ないんだ。俺は真白を強く引き寄せた。
ぐっしょりと着ているシャツが汗で濡れている。時計を見るともう昼の三時を過ぎていた。汗がべっとりと背中に張り付いていて気持ちが悪い。すぐに服を脱いで別のシャツを着ようしたけど汗で体がべたついている。すっきりするためにはシャワーを浴びるしかない。シャツと下着をタンスから取り、上を着ないまま階段を下りる。お風呂場を覗き見て真白がいないのを確認してから入る。ここにいないから部屋かどこかに行っているのだろう。直ぐに服を脱ぎ洗濯籠の中に投げ入れる。ガスはつけずシャワーの蛇口をひねると冷たい水が一気に体を包み込む。体に張り付いた汗が流されていく。寝汗をかいた日は決まって気分が悪いが何故か今日は気分が良い。目を閉じて夢の中で会った真白の言葉を思い出す。
――目が覚めたら辛さや悲しさ全てが流れているから。大丈夫だよ、たっくん。
笑顔がこぼれる。
「…大丈夫、俺はまだ大丈夫。」
左手をぐっと強く握りしめる。心で何度も自分に言い聞かせた。シャワーを止めて脱衣所へいって体を拭いていると、台所から物音がする。真白が勉強の息抜きに何かおやつを探しに来たに違いない。直ぐに体を拭いて服を着る。拭ききれなかったシャワーの水滴が服をジワリと濡らす。もっとしっかりと体を拭けばよかったと後悔が湧き上がるけどすぐに乾くだろうとズボンも履く。鏡で自分の顔を見る。昨日よりも目の下のクマが薄くなっているようで少しだけ安心した。
「大丈夫、大丈夫。」
自分に言い聞かせるように何度も言う。じっと鏡を見つめる。何度見てもひどい顔だなと鏡の中の自分を笑った。
「あれ?誰かいるの?」
風呂場にいる俺の気配に気付いたのか、真白が脱衣所のドア越しに話しかけてくる。
「いるよ。寝汗かいたからシャワー浴びてた。」
「なんだたっくんか。てっきり知らない人がいるのかと思った。…あれ?部活は?」
「今日は休みになった。てか知らない人だったらどうするつもりだったんだよ。」
そう言うと少しの間の後に「その時になんとかする」と声が聞こえる。
「それより母さん知らない?一緒に買い物に行く予定だったんだけどいなくて…携帯に電話しても取らないし…なんか聞いてない?」
「お母さんなら今日は仕事で遅くまで帰らないけど…。」
「ええ!もう、今日は絶対に一緒に買い物できるって言ってたのに……もしかして、姿が見えない父さんも?」
「うん、仕事でその帰りに飲み会があるから遅いって言ってた。」
「ええ…まあいいけどさ、なんでたっくん知ってるの?さっきまで寝てたんじゃないの?」
少しだけ怒ったような声色だ。久しぶりに聞いたその声色に思わず頬が緩んでしまう。
「俺はちゃんと朝早く起きてお母さんを見送ったから。部活もないし二度寝してさっき起きたんだ。」
「もうそういう時は私も起こしてよ。じゃあ夜は二人だけだね。」
「…そうだね…。」
真白の何気ない言葉に毛穴から汗が流れだした。冷たい汗だ。駄目だ、二人だけになっては駄目だ。でも心のどこかで喜んでいる自分もいる。そんな自分を押し殺して唇を強く噛む。
「夕飯はスーパーのお弁当で良いかな?…料理は苦手だからお弁当が嫌ならカップラーメンだけど…。」
「お弁当で大丈夫。」
「わかった!じゃあ夕方になるまで私は勉強してるね。もし何かあったら呼ぶんだよ。」
「…わかった。」
返事をするとドアの前から真白の気配が消える。耳を澄ますと階段を上る音が聞こえた。鏡で自分の顔を見るとさっきよりもひどい顔をしている。口元は嬉しそうに笑っているのに目はもう光を失っている。自分の顔なのにまるで他人のようだ。いつから俺の顔は変わってしまったのだろうか。すぐに部屋に行きベットに流れ込み毛布を頭まで被る。このまま眠ってしまおう。夕方になったらきっと真白が起こしに来てくれる。強く瞳を閉じた。けれど夢の中に落ちることが出来ず、ただ時間が過ぎていくのをじっと待った。たまにちらちらと時計を覗き見るがなかなか時間進まない。起きて漫画を読んだりゲームをするのもいいが不思議とそんな気が起きない。いつもなら時間があれば真白のことを考えないようにずっとゲームをしていた。特に誠に勧められて始めたRPGは試練がたくさんあって、他のことを考えなくてすんだ。でもそのゲームは先日一周目が終了してそのまま放置してしいる。誠曰く二週目からは自由度が増して面白いらしいけど、なかなかゲームを始めることが出来ない。それから毎日のように時間が空くたびに真白のことを思い出すようになった。何度も何度も新しいゲームを始めようとしたけど、やりたいと思うゲームを見つけることが出来ない。明日にでも誠からおすすめのゲームを紹介して貰おう。漫画でもいい。それ以外何も考えなくていいような何かが欲しい。
「……弱いなあ…。」
不意に口から零れた言葉は自分を卑下するものだ。この感情を心の奥底に沈めると誓ったのに、沈めて忘れるためにいろんな努力をしたのに、努力をするたびに心にこの劣情をが広がっていく。どうにかして真白を手に入れようと体が本能のままに動こうとするのを必死で抑える日々だ。唯一バスケをしている時間が真白を忘れることが出来る時間で、部活が無い日は誠を誘って公園で二人だけでバスケをする。今日だって誠と公園で会う予定だった。けど誠には先約があって会えない。まあ明日は一緒に遊ぶ予定だからいいのだけど。
眠ることを諦めて瞼を開く。時計を見ると一時間も経っていない。ため息をこぼして枕の横にある漫画を手に取りぱらぱらとめくる。でもすぐに飽きてすぐに枕の隣に置いた。なんとなく携帯を開くと誠からメールが来ている。
『明日は何時に公園に集まる?』
メールを見てすぐに「昼過ぎがいい」と返事を送って携帯を閉じる。でも一分もするとメールを知らせる音楽が鳴って俺はまた携帯を開いた。
『じゃあ一時に集合な!あとゴールデンウィークにマサヒロとコウジとユウタで海に行くんだけどどこがいい?』
本当は朝からでも誠と会いたい。会いたいというかできるだけ早い時間からこの家から離れたいけど誠は朝が破滅的に弱く、中学の時は朝練を遅刻した日は無いという素晴らしい成績を持つ。誠からしたら休日の一時から予定を入れるのは珍しいことだけど、多分俺のことを考えてぎりぎり起きることが出来る時間を言ったのだろう。それよりもゴールデンウィークに海に行くなんて約束をした覚えがない。俺が話を聞いていない確率が高いけど、もし家の近くじゃない場所に行くとなれば面倒くさい。
『了解。海なら近い方がいい。遠くだとバスに乗るの面倒だし。』
誠以外の奴相手ならきっと海ならどこでもいいと返信するけど、ずっと一緒にいる誠相手なら本音でも許されるだろう。じっと携帯を見つめ誠からの返信が来るのを待つ。けれどさっきみたいにすぐにメールは返ってこない。メールを閉じて携帯を枕の隣に置いた漫画の上に乗せる。また目をつぶる。眠ることが出来ないまま真っ暗な世界を見ているとメールを知らせる音楽が鳴る。本当はすぐにでも確認して返事をしたいけどそれをぐっと我慢した。でも目を閉じていると聴覚が敏感になるのかずっと鳴り続ける音楽が気になってしまう。メールごときにこんな長い音楽を設定した自分を責めて、目を開けて眩しい光に目を細めながら携帯を開いた。メールの相手は思った通り誠からだ。
『遅刻したらごめんな!なら俺らの家から近いあの海に行くか!まあ他のメンバーに聞いてないから確定じゃないけど!』
少しだけ笑みがこぼれる。それに返信はしないでまた目を閉じる。今なら眠れそうだと思った瞬間、つんと鼻に海のにおいが広がった。海に囲まれた島だからどこにいても海のにおいがあるのは当たり前のことだ。けど、どうしてだろう、今ものすごく海に行きたくなった。海なんてこの部屋の窓から見ることもできる。でもそれだけじゃ足りない。もう一度だけ、真白と二人だけで海に、あの隣の島を結ぶ橋の下にある秘密基地に行きたい。そうだ行こう。海に行こう。目を開けて窓から空を見るともう日が傾き始めている。そろそろ真白が俺を起こしに来る。また瞳を閉じて真白をじっと待った。
「…たっくん起きてる?」
ドアを叩く音とともに真白の声が聞こえた。
「うん、起きてる。」
「よかった!お腹空いたしそろそろ夕飯を買いに行こう!」
嬉しそうに声を高くしながら真白が言う。
「わかった。着替えるから先に下に降りてて。」
「別に着替えなくてもいいのに…。じゃあ玄関で待ってるね。」
「わかった。」
そう返事をすると階段を下りる足音が聞こえる。直ぐにベットから起きて、昨日タンスに入れずに置いたままの綺麗にたたまれた服の中から一着取る。それに着替えてからふと外を見ると一番星がキラキラと輝いていた。
「綺麗だな…。」
ため息とともに言葉が零れ落ちた。今日こそは海に行こう。真白はこの時間から海に行くのは嫌がるだろうけど、きっと俺のわがままに付き合ってくれる。そうと決まれば早く下に降りよう。秘密基地はスーパーと逆方向になるから家の戸締りをしっかりして、真白を連れてあの秘密基地に向かおう。いつもよりも心が軽い。
「たっくーん、まーだー?」
下から真白の声が聞こえた。
「今行く!」
それにすぐ返事をして俺は急いで階段を下りた。




