真白の話
―1―
海風が体を包み込む八月。水平線へ飲み込まれる夕日はとても美しく、このまま私の体ごと沈んでしまえと願いを込めてゆっくりと瞼を下ろした。さらさらとした白い砂が心地よく、両足をわざと埋めてこのままずっとこの場所に立っていたい。そう思いながら色んな思い出のアルバムを心中で何度もめくった。より一層輝く思い出はたっくんの眩しい笑顔。
「…真白もう行くわよ。」
母さんが私の肩を叩く。
「うん。そうだね。」
瞳を開けて綺麗なグラデーションで染まる空と海をじっと見つめる。
「……どれだけ海を見たって、卓也はもう帰って来ないのよ。」
「そう、だね…うん、行こう。お腹が空いたし早く家に帰ろう。」
私は母さんの顔を見ないように近くに停めた車へと向かう。後ろを歩いている母さんの嗚咽が聞こえたけれど、それに聞こえないふりをして歩き続けた。
三カ月前この綺麗な海で弟のたっくんが死んだ。友達と数名で遊びに来て溺れて帰らぬ人となった。父さんは遊びに行くことを許した自身を、母さんは子供だけで海に行くことを許した自身を責めた。自分を責めることで弟が死んだという現実を受け入れようとしていた。けれど私はどうこの現実を受け入れればいいのかわからず、ただ毎日この海に来ては地平線へと消える夕日を眺めている。母さんや父さんに行くことを何度も止められたけど、毎晩家を抜け出して海に行っていることを知り誰かと一緒に行くならと渋々許してくれた。はじめは父さんと母さんが交互で私についてきたけれど、父さんはこの海を見るとたっくんを思い出してしまうといつしか一緒に海に来ることは無くなった。その代わり母さんは毎日のように私を海に連れてきてくれる。母さんに何度も海には入らないからもう一緒に来なくても大丈夫と告げても曖昧な笑顔で返されるだけで一人で海に行くことを許さなかった。
母さんと父さんは海を見るのが辛いと何度も言っていた。たっくんを連れ去った海が憎いらしい。けれど、この海に囲まれた人口数万人の小さな島で海を見ない生活なんて出来ないのに、彼らは何故この島から出ないのだろう。
「今日の夕飯は唐揚げだよ。揚げてる間にサラダの味付けをお願いね。」
運転しながら母さんが言う。それに相槌をうち車窓から真っ暗に染まった海を眺める。もう彼はいないのに、なんでだろうか、彼がどこかにいるような気がしてついつい彼を探してしまう自分がいる。
『海へ行こうよ』
彼が最後に私に送ったメールの内容。返信せずにメールボックスに埋もれたたっくんからのメール。ねえ、たっくん。あなたは何を思いながら海へ沈んだの。
昔から我儘な可愛い弟だった。私よりも二歳年下で早生まれのせいもあって周りの子たちよりも体が小さくて、そのせいで小学生の時はクラスのボスで体の大きい誠君にいじめられてはよく泣いて帰ってきた。
「もう学校に行かない!」
そう何度も言っていたのに次の日には元気よく私と一緒に登校して、またいじめられて泣いて帰ってくるの繰り返し。心配になってこっそりとたっくんのクラスを覗きに行ったこともあるけど、いつも楽しそうにクラスのみんなと遊んでいるのをみて安心していた。
「ねえたっくん、誠くんにはどんなにいじめられているの?」
泣いて帰ってきたたっくんに何回か聞いたことがあるが、それに対しての答えはいつも「わかんない」だった。今思えばあれは弱い自分を見せないための嘘だったのかもしれない。そのいじめも学年が上がるごとに無くなっていって、中学校に上がるころには誠君はたっくんの一番の友達になっていた。住んでいる学区には子供が少なく一学年に一クラスしかなくて幼稚園から下手したら高校を卒業するまでずっと一緒に学校生活を送ることになる。だから泣いて帰ってきたときは本当に心配で、両親よりも私のほうが深刻に考えていた。いじめられることが無くなってたっくんよりも私のほうが安心していたんだと思う。それでもやっぱり心配で、夕飯後や二人で家にいるときはたっくんとできるだけたくさんの会話をするようにしていた。
「たっくん、学校は楽しい?」
これは夕飯後に毎日聞く質問の一つ。父さんは隣でおやつのアイスを食べながらまた始まったとでも言いたげな顔をしている。
「当たり前じゃん。てか真白が心配しすぎなんだよ。」
たっくんも父さんと同じような顔つきになった。
「身長高くないのに何でバスケ部に入ったの?」
誠君に誘われて入ったバスケ部。最初は心配でついつい部活をのぞき見していたことだってある。もし部活でいじめられていたらすぐに助けに行けるように。でも心配する気持ちなんか吹っ飛ぶくらい誠君と楽しそうにバスケットをしていた。たっくんが楽しいなら私だって嬉しいけど少しだけ寂しい気持ちもあって、ついつい気にしている身長のことをつついてはたっくんを不機嫌な顔にしてしまう。
「俺は今から伸びるんだよ!あと数か月もしたら一気に真白の身長も抜いてやるからな!」
その言葉を聞いた父さんがけらけらと笑う。私もつられて笑うとたっくんが「笑うんじゃねえ!」と言いながら牛乳を一気に飲んだ。
「そういえばあの子、えっと、リコちゃんに告白されたんだってね。で、付き合うの?」
「は!?」
たっくんには不意打ちの質問だったのか手に持っていた空のグラスを落としそうになり、すぐにグラスを両手で包み込むように持つ。
「な、なんで知ってんだよ!」
慌てるたっくんを見ると少しだけニヤニヤと笑ってしまう。
「え!?卓也告白されたの!?」
父さんも興味津々にたっくんの方をニヤニヤしながら見た。
「ほらリコちゃんのお姉ちゃんって私のクラスメイトだから。てかこんな小さい中学校で告白でもするとすぐに広まっちゃうよ。…で、どうするの?」
「リコちゃんってあれだろ、そこの砂川のところの次女か。卓也やるな!」
「真白もお父さんもうるさい!付き合わねえよ!だって今バスケで忙しいし!」
「え!?だってリコちゃん可愛いししかも同じバスケ部なのに!?」
「ええ、砂川姉妹は美人なのに…。」
「別にいいだろ!もう俺風呂入ってくる!」
少し顔を赤くしながらたっくんは立ち上がりお風呂場に向かっていった。それを見ていた父さんは笑いながら「青春だな」と呟いてまたニヤニヤと笑った。それにつられて私も笑う。
「おい!聞こえてるからな!」
お風呂場の方からたっくんの声が聞こえる。
「こら!静かに入りなさい。ほらあなたも真白も卓也のことをいじめないの。」
母さんの注意する声に「はいはい」と軽く返事をして私はソファから立ち上がり居間から廊下に出た。廊下に出てすぐにそこにある階段を上がるとドアが左右に二つある。右が私の部屋で左がたっくんの部屋。両親の寝室は一階にあるため二階には私たちの部屋しかない。私は早足で階段を上がりすぐに自分の部屋に入りベットへとダイブした。もうすぐそこに高校受験が控えているけれど勉強する気持ちが起こらない。だってこんな島の高校受験のレベルなんてたかが知れている。本当にヤバイ点数を取りさえしなければ落ちることはまずないし、学校や学科によっては定員割れがあることも珍しくない。特にやりたいこともなく、ただ勉強くらいしか取り柄がない私は一番大学進学の人数が多い高校へ進学する予定だ。入学試験はまだ受けていないけど、どうせ倍率もそんに高くはないから別に真面目に勉強しなくても落ちることはない。けど私と違って周りの友達は整備士になりたいから工業高校へ進む人や資格を取りたいから色んな資格が取れる実業高校に進むなどたくさんの夢を抱えている。一番仲の良いマキとハルは実業高校に行く。本当は高校も同じ場所に行こうと思ったけど、特にやりたいこともない私がその高校に行くのはなんだか悪いような気がしてそこを受験するのを止めた。きっと彼女たちみたいに高校に行ったらやりたいことが見つかると言い聞かせて毎日数時間勉強をしているが、なんだか最近は勉強に身が入らない。いつからだろう。それを思い出すために記憶を溯ると思いつくのはあの告白だ。あのリコちゃんが告白をすると聞いた時からだ。小学校までは男女なんて関係なく遊んでいたのに、中学に上がると男子はズボンを女子はスカートをはくことで男女が違うということが目に見えてわかってしまう。それが異性を意識する第一歩なのだろうか。
「実はうちの妹があんたの弟のこと好きらしいんだけどさ、女子の好きなタイプとか知ってる?まあ知らないならいいんだけど、リコがうるさくてさ。」
私の同級生のナルミの言葉が頭をよぎる。私はそれに「ごめん、よく知らないんだ」と笑いながら返事をしてすぐにその場を離れた。嘘は言っていない。だって本当にたっくんの好きな異性のタイプなんて聞いたことが無いのだから。その数日後ナルミからリコちゃんがたっくんに告白したことを聞いた。
私の中でたっくんはいつまでも可愛い弟だ。それは今もこれからも変わらないだろう。けれどなんでだろう。もしたっくんが誰かの恋人になる姿を想像するだけで少しだけ胸が痛い。自分がブラコンなのは知っているけど、まさかこれほど重症だとは思ってなくてつい笑ってしまう。そんなことを考えているとドアをノックする音が部屋に響く。きっとたっくんだ。
「たっくんどうしたの?」
相手を確認せずにドアの向こうにいる相手に言う。
「風呂空いたから入っていいぞ。」
ドア越しにたっくんが言う。やっぱりたっくんだと少しだけ安心する。昔はドアをノックすることもなく急に開けることが多かったけれど、いつの間にかそういうこともなくなった。これが成長なのだろうけど、少しだけ寂しく思ってしまうのは姉としてのわがままだろうか。
「ありがと。直ぐ入るからガスはつけっぱなしにしといて。」
私もドア越しに返事をする。
「あ、ごめん。ガスならもう消した。だから入るときちゃんとつけないと冷水を浴びることになるから気を付けて。」
彼もドアを開けず会話を続ける。
「もういつもすぐ入るからガス消さないでって言ってるでしょ。…まあいいけど。」
「じゃあ俺はもう寝るから!お休み!」
その言葉を最後にドアの前から彼の気配が消える。時計を見るとまだ夜の九時を回ったばかりだ。
「たっくんお休み。」
誰もいないドアの向こう側に声を飛ばした。
「おやすみなさい…。」
もう一度小さく呟く。誰にも届かない言葉は空中を舞って地面へとゆっくり落ちて、そして跡形もなく消えてしまった。
―2-
隣の島へと続く長い橋の下にある人があまり来ない海辺。そこが私とたっくんの二人だけの秘密基地だった。小さい頃はよくここに来てはたくさん遊んだ。けれど、二人とも大人になって、いや、なった気でいてもうここで遊ばなくなった。
「絶対に二人だけで海に行っちゃ駄目だよ。」
そう母さんが厳しく言い聞かせていたけど、たっくんと私はそれを聞かず、二人だけの秘密基地でたくさん遊んでいたのに。なのに、なんでだろう。私が中学生の時はまだよかった。二人ともまだまだ子供で、考えることはバカなことばかり。でも私が高校二年生になってから、いや違う、隣に住んでいる一つ年上の兄さんから告白されたのをきっかけに私たちの関係は変わってしまったんだ。
「真白はあいつと付き合うの?」
「付き合わないよ。」
「なんで?昔からよく遊んでたじゃん。」
「別に好きじゃないし。」
「…。」
「…たっくん、なんで機嫌悪そうな顔してるの?」
「…別に。」
「そう言うときは大体機嫌悪いじゃん。ほら笑って笑って、そしたらハグしてあげる。」
「なんだそれ。」
「昔から私とハグするの好きだったじゃん。ほらほらハグできるよ。」
「うざい。」
そう言ってたっくんは居間から出て行った。階段を上る音が聞こえるから自室に行ったのだろう。
「たっくんごめんね。」
小さく呟く。けれどそれは誰に届くでもないその言葉は風にのせられてゆっくりと消えた。それからすぐにたっくんが実業高校に行くことを知らされた。私が高校に合格したときからあんなに「俺は真白と同じ学校に行く」と言っていたのに。私はたっくんのことが大好きだからやっとで同じ高校に行けるって嬉しかったのになんでたっくんは離れていくんだろう。きっと思春期のせいだよね。うん、そうだ。きっとそうに違いない。そう何度も自分に言い聞かせた。そしてすぐに推薦の時期が来て、たっくんは夏の間に推薦で実業高校に合格することが出来た。たっくんが合格した時はとても嬉しくて、何度も何度も「おめでとう」と彼に伝えたけれど、そう言うたびに彼は少し寂しそうな顔をして「ありがとう」と言う。なんで彼が寂しそうな顔をするんだろう。たっくんが選んだ高校なのに、なんでそんな顔をするの。そんな疑問を抱いては何度か声に出そうとした。けれどその質問はしてはいけないような気がして、喉元まで来た言葉を何度も飲み込んだ。
それからはあっという間に時間が過ぎて、たっくんの一番の友達の誠君も一般入試で実業高校に合格して、あのリコちゃんは私と同じ高校に合格した。ナルミからリコちゃんはまだたっくんの事が好きだと聞いていたからてっきり実業高校に行くんだと思っていたから、リコちゃんが同じ高校になることには少しだけ驚いた。でも、よく考えたらナルミから「リコはパパみたいな教師を目指しているんだ」と何度も聞かされていたから、大学進学人数が多いこの高校を選ぶのは当たり前の事か。ナルミは将来の夢はあまり話さないが、行きたい大学は決まっていてもう大学受験に向けて勉強を始めている。実業高校に行ったマキは保育園の先生になる為にたくさん勉強しているし、ハルは簿記だかなんだかわからないけどそういった検定があるからと最近は会えていない。そんな彼女たちが羨ましい。私には何を目標にしたらいいのかわからないから。たっくんはなんで実業高校に行くことにしたんだろう。何を目標に、どんな夢を持って彼はあの高校に行くことにしたんだろう。生まれた時からずっと近くで見てきたからたっくんの事はなんでも知っている気でいたけど、どう頑張って考えても分かんないよ。
-3-
父さんが飲み会で母さんが仕事で遅くなると知ったのは土曜のお昼ごろ、たっくんと夕飯はどうしようかと会議をして近くのスーパーでお弁当を買うことが決まった。もうすぐ四月も終わり肌寒かった季節も終わりを告げたけど、半袖シャツの上から薄手のカーディガンを羽織ってしまう。玄関を出ると空が真っ赤に染まっていた。
「たっくん早くしないと暗くなっちゃう。」
「別にすぐに閉まるわけじゃないから大丈夫だろ。」
「ダメだよ、街灯も少ないし危ないよ。」
早足で歩く私とは対称にたっくんはゆっくりと歩く。
「こら!さっさと歩く!」
いつもよりも大きい声を出してたっくんの右手をとり急いで歩く。
「親がいないんだからいいじゃん…。」
少しだけ不機嫌な声が後ろから聞こえた。後ろを振り向くと思った通り唇を尖らせていて思わず笑ってしまう。それに気づいたのかたっくんはわざとひょっとこみたいにますます唇を尖らせた。
「あはは、たっくんひょっとこみたい!」
そう言うとたっくんは満足げな表情をして私の手を握り返した。
「手を繋ぐなんて何時ぶりだろうね。」
少しだけ照れくさくなって手を放そうとしたけど、たっくんの手を握る力が強くて放すことが出来なかった。
「確かに久しぶりだな!じゃあさ、久しぶりついでにあの秘密基地に行かない?」
たっくんの顔が少しだけ赤い。きっと夕日のせいだ。
「夜だから海は危険だよ。」
「今日は満月じゃないし大丈夫だろ。それに海に入らなければいいじゃん。」
そう言って私の手を引きスーパーとは逆方面にあるあの二人だけの秘密基地がある方向へ歩く。年下と言ってもずっとバスケをしていただけあって力が強い。私はたっくんに手を引かれるまま彼の後ろを歩いた。あんなに小さかった彼の背中はいつの間にか大きくなっていて少しだけ寂しくなる。たっくんは私がいなくても大丈夫なんだろうと考えると少しだけ胸が痛いけど、それ以上に彼がちゃんと成長したんだと実感して嬉しい気持ちが溢れ出てくる。歩幅を彼に合わせて彼の横を歩き顔を覗き見ると顔が真っ赤に染まっていて吹き出してしまった。
家から秘密基地までは歩いて十五分くらいかかる。往復で約三十分、それからスーパーにも寄ると考えて一時間は家を空けることになる。玄関のカギはちゃんと閉めてきたけど、窓のカギはちゃんと閉めただろうか。まだそこまで歩いてきていないから、一度家に帰って確認した方がいいかな。そう思いながら眉間にしわを寄せるとたっくんが繋いだ手に力を入れた。驚いてたっくんの方を見ると笑いながら「ちゃんと窓のカギ閉めてきたから大丈夫だよ。」と言う。私の表情から察したのだろう。少しだけ負けたような気がしてついたっくんから目を背けた。
「そうなんだ、ならよかった。」
「お母さんから口うるさく言われてるからな。今日だって弁当買いに行くなら玄関のドアだけじゃなくて窓もちゃんとカギ閉めろっていちいち言ってきたし。」
「あはは、母さんらしいね。私にそれを言っても忘れちゃうからたっくんに言ったんだね。」
私たちは手を握ったまま歩いた。周りはもう暗くなっていて街灯がキラキラと光っている。家から出て真っすぐ歩いて最初の十字路で左に曲がってまた進む。それから信号機がある十字路を右に曲がって少し歩くと大きな橋の入り口だ。街灯があるけれど、夜を照らすには心もとない。今日は満月じゃなくて月明かりもそんなに無いから海が黒く染まっている。対称に白い砂はキラキラと輝いていた。秘密基地の足場は悪く、砂場もあるけど殆どが黒い岩場になっている。裸足で歩いたら怪我をしてしまいそうな尖った場所もある。明るい時間に来たら怖くはないが、夕方以降に来ると少しの恐怖が心に広がる。靴は脱がず二人で秘密基地に入った。
「たっくん気を付けるんだよ。」
「真白もな。」
たっくんはそう言ってますます私の手を強く握った。照れくさくて彼の横顔を見ずに黒くなった海を見る。
「…なんかこうやって二人でどこかに出かけるのって久しぶりだね。」
「普通は高校にもなって姉ちゃんと二人で出かけるなんてことしないからな。」
「そっか…、そうだよね。」
普通という言葉が心に刺さる。彼にとっての”普通”って何だろう。私の”普通”はいつまでも一緒にたっくんといろんな場所に行ったりたくさん色んな事を話したりすること。たっくんにとっての”普通”の中に私は必要が無いような気がして少しだけ寂しくなる。もしたっくんがそんな普通を望むのなら私はそれに応えよう。だって私はたっくんのお姉ちゃんなのだから。冷たい海風が私とたっくんの間を通り抜ける。それと同時に彼の横顔を見た。彼はそれに気づいたのか私の方を向き笑った。
「そういえば高校はどう?マキとハルが通ってるけど実業高校の雰囲気とかよくわからないから知りたいな。」
「別に普通のところだよ。誠も同じ学科だし、ただクラスメイトが変わっただけって感じ。」
「じゃあ昔みたいにいじめられて泣くこともないんだね。」
「それは小学校のときの話だろ。今は昔と違うんだよ。」
「そうだよね。前は身長も小さくて私の後ろばかりついてきたのに何時の間にか身長も大きくなってびっくりだよ。」
「なんだそれ。まるでお母さんみたいなこと言うな。」
たっくんはそう言って笑う。それにつられて私も小さく笑った。
「たっくんのクラスに可愛い女子とかいるの?」
「…いないし、てかクラスのほとんどが男子だから。」
少しだけ声のトーンが下がった。私はそれを気づかないふりをして、そして彼の顔を見ないようにして黒く染まった地平線を見た。
「たっくんは高校生になったからやっぱり彼女とか作るのか気になってね、…そうなったら少しだけ寂しいなと思って…でもたっくんが選んだ彼女さんならきっと良い人なんだろうな。」
自分で言っておきながら胸が苦しくなる。でもいつかたっくんは私から今以上に離れて、私が知らない人とたくさん出会うんだろうと思うと寂しさ以上に嬉しさも込み上げる。たっくんが別の高校を選んだことで、私もやっと弟離れができるのかもしれない。急に握っている手の力が強くなる。それが痛くて眉間に皺がよった。
「…勝手なこと言ってんじゃねえよ。」
小さく呟いた彼の声は今まで以上に低く、そして震えていた。思わず彼の手を放そうとしたけど握る力が強くて放すことが出来ない。彼の顔を見た。今にも泣きだしそうな顔だ。違う、こんな顔を見たいんじゃない。
「勝手なことなんて言ってないよ…。」
「言ってるだろ!俺が誰かと付き合うとかさ!」
「それは普通の会話だよ…学校とかでも恋愛の話とかするじゃん…。」
「…するけど、違うんだ…。」
たっくんはそう言って私から手を放す。
「何が違うの?私には同じだよ。」
たっくんが私に背を向けた。私はそれを無理矢理振り向かせて顔を見ると、彼の瞳に涙が溜まっている。どうしてそんな顔するの。私まで泣きたくなっちゃうよ。
「…たっくんどうしたの?今日なんか変だよ、何かあったの?」
出来るだけ優しく、彼の顔を見ながら言う。でも彼は何も言わない。また二人の間に冷たい海風と波の音が流れた。彼は大粒の涙を瞳から零れ落としている。昔から強がりのたっくん。辛いことや悲しいことがあると表情や行動に出るのに決して言葉には出さないたっくん。昔は泣いている彼を抱きしめて二人で美味しいココアを飲んで辛いことや悲しみを流していたけれど、今はそんな簡単なことじゃそれは消えないよね。どうしてたっくんがこんなにも悲しさで包まれているのか分からない。だって彼が何も言わないのだから。今私ができることなんて何もない。何も、無いんだね。きっと今の彼の悲しみを癒せるのは私じゃない。ねえたっくん、切ないって、こういう感情なんだね。
「…家に帰ろっか、もう暗くなってきたし、このまま海風に当たっていたら風邪をひくかもしれないから。帰ろう、たっくん。」
たっくんの両手を取る。たっくんの手は冷たく震えていた。
「ごめん…真白ごめん…。」
震える唇で彼がそう言った瞬間、体がふわりと地面から数秒浮く。そして気づいたら私はたっくんの腕の中にすっぽりと収まっていた。たっくんの体は彼の手よりも冷たくて震えていた。どうして謝るのだろう。ハグなんて昔からよくしていたじゃん。たっくんが望むのなら何度だってハグをするし何度だって手だって繋ぐのに。
「どうしたの?やっぱり何か辛いことでもあったの?」
彼は何も答えず首を横に振り、ますます強く体を抱きしめた。
「ごめん…。」
その言葉を最後にたっくんは私を引き離し逃げるように走っていく。
「ちょっと!たっくん待って!」
叫んだ。けれどたっくんは私をちらっと見るだけで走るのをやめなかった。今から走ったところで運動をしている彼に近づくことなど出来ない。彼の背中が暗闇にのまれていく。私は彼を追うことを諦めてゆっくりと足場の悪い砂浜を歩いた。暗いせいでよく足元が見えない。たっくんはよく転ばずに走れたもんだと少しだけ感心する。強い風が海から吹いた。それに足を止め黒い海を見つめる
「どこで私は間違ったんだろう…。」
小さく呟く。ただ冷たい潮風が私の体を優しく包みこんでいるようで、泣きたくなった。あんなに深い彼の悲しみを初めてみた。溢れ出そうになる涙をぐっとこらえる。きっと彼は一人で泣いているんだろう。なら私は涙をこらえてまっすぐ家に帰ろう。私の悲しみでたっくんが傷つかないように、涙を捨てて彼がいるはずの家に帰ろう。
-4-
たっくんは逃げるように一人で走って帰ってしまった。一人残された私は足場の悪い秘密基地で転ばぬようゆっくりと歩き帰路についた。結局スーパーには行かずそのまま家に着いたらカギが閉まっていて、彼がまだ帰っていないことを知った。当たり前か、家のカギは私が持っているのだから。彼がいつ帰ってきてもいいようにカギを開けっぱなしにしていたが、彼が帰ってくる前に母さんが帰ってきて玄関のカギを閉めていないことを注意された。
「閉めようと思ったけどたっくんがまだ帰ってきてないから開けてたの。だって家のカギを持ってるの私だし。」
そう言うと母さんが少し驚いた表情をした。
「え?聞いてないの?卓也は友達の家に泊まるから今日は帰らないよ。」
「え?聞いてないよ。」
私も母さんと同じような表情になった。
「そうだったんだ、怒ったりしてごめんね。でもカギ持ってなくても家に誰かいれば入れるんだから、必ず閉めるようにしてね。昔より治安が悪いんだから。」
母さんはそう言って台所へ行く。私はすぐに携帯を取り出してたっくんから連絡が来ていないかを確認した。けれどたっくんからの連絡はなくて少しだけ悲しくなる。いつもならたっくんが私に連絡せずに泊まりに行くなんてなかった。ただ近くのスーパーに行くだけでもいちいち私に言ってくる。それなのになんでだろう。たっくんの考えることが分からない。あの海でのハグだって、何を考えて私を抱きしめたんだろう。私はただ昔みたいに仲良く手を繋いだりハグしたりできたのが嬉しかった。けれどたっくんは違ったんだろう。たっくんのために涙を流すまいと決めたのに、もうすでに涙が溢れ出てきそうだ。
「あんたたち喧嘩でもしたの?珍しいこともあるのね。」
「そんなんじゃないよ。」
私はそう言い残し早足に部屋へ向かう階段を上った。部屋に入りベットに倒れこむ。夕飯を食べていないせいでお腹が鳴る。けれど不思議と食欲はわかない。瞳を閉じてたっくんのことを考える。きっと遅めの反抗期だよね。違う、そんなんじゃない。じゃあなんだろう。どうしてたっくんはあの秘密基地に行こうと言ったのだろう。もやもやした感情が心を埋め尽くす。
「…こんなんじゃ勉強に身が入らないし…。」
高校三年に上がってから高校の先生たちは口をそろえて大学受験についてきつく言うようになった。勉強は嫌いじゃないから私もきっと多分どこかの大学を受験するのだろうけど、行きたい学校なんてない。それに高校を卒業した後のことを考えることが出来ない。とりあえずたっくんにメールだけでも送ろう。携帯を取り出しメールの画面を開く。
『お泊りするならちゃんと連絡してね。たっくんが帰ってくると思って玄関のカギを開けっぱなしにしてたら母さんに怒られちゃったよ。たっくんが何を考えていて何を思っていて何が悲しいのかは分からないなんてお姉ちゃん失格だよね。でも私はたっくんの味方だからね。』
文章を打ち終わって送信ボタンを押そうと思ったけれど、なかなか押すことが出来ない。何がたっくんの味方だ。昔から近くにいてずっとたっくんの味方でいた。近くにいすぎたんだ。心のどこかで気づいていた。私の”好き”とたっくんの”好き”が違うことを。それを認めたくなくて、ずっと気づかないふりをしてたっくんの隣にいた。たっくんの事は大好き。だけどたっくんはきっと違う。きっとたっくんも私のことを好きだけど、私とは違うんだろう。知っているんだ。たっくんが夜遅くに洗面台で自分の下着を洗っていること、声を殺して漏らすあの激しい息遣いの最中時折私の名前を呼ぶこと、その声が聞こえた夜は手が赤くなるまで必死で洗っていること、私のお風呂上りにはもう部屋に戻って私を避けていること、私に向ける獲物を見るような視線。全部全部気づいていたんだ。だって私も気づいてしまったから。きっとたっくんから求められたらそれを拒むことなんて出来ない自分がいることに。だから私はたっくんの思いを全部知っていながら、それを無視し続けた。こんな狭い離島で姉弟が恋人みたいに接し合うことなんて異常なんだよ。誰かに気づかれたらその噂はすぐに島全体に広がってしまう。一度広がったものは消えることなく辺りを漂い続ける。同じクラスに親戚がいるくらいこの島は小さい。たっくんは知らないだろうけど、高校が違っていても各高校の情報なんて、コンビニでお菓子を買うくらい簡単に手に入るんだよ。もし私たちがそんな関係になってしまったら、周りにすぐにばれてしまう。一人にそれを知られてしまったら終わりだ。噂は一瞬にして広がるだろう。たっくんを噂の中心にしたくなんてない。良い噂ならまだしもこれは絶対に駄目。だから私は絶対に彼の気持ちに気付かないしこれからもたっくんの望む優しい姉でいる。たっくんごめんね。ひどいお姉ちゃんでごめんね。きっとこれは私に対する罰なんだろう。涙が零れそうになるのを必死で抑える。泣く資格なんて私にはない。一番辛いのは私なんかを愛してしまったたっくんなのだから。送る文章を消して打ち直す。
『ごめんね』
送信ボタンを押す。届かなければいいのに。
-5-
日本全国ゴールデンウィークで騒いでる五月、私は行きたくもない学校に来ていた。学年上位の四十名くらいを集めて大学合格率を上げるために集中講座がこのゴールデンウィークに開かれる。私はそこまで頭が良いわけじゃないのに何故かこの講座に呼ばれた。本当は行きたくないけど、母さんが「塾に通ってないんだから大学に行きたいなら無料なんだし行きな」と言ったもんだから行くことになったのだ。早くもセミの声が聞こえる中、少し熱を持った教室で過去の問題を解く。今は苦手な数学の時間だ。一問十分の時間が与えられて、時間が経ったら先生が解説をしながら答え合わせ。そんなことを一時間する。休憩が十五分。その次は国語で最後は英語だ。勉強が嫌いではないとはいえ少しだけストレスが溜まる。早く家に帰って昨日買ったアイスを食べたい。問題を解き終わって時計を見るとまだ数分時間が残っている。本当は計算が当たっているかの確認をしなちゃいけないけれど、少しだけ嫌になり窓から空を見る。空には飛行機雲が綺麗な直線を描いていた。
たっくんとはあれ以来あまり顔を合わせていない。けれど私は毎日メールを送っていてくだらない毎日の出来事を伝えている。きっとこの距離が普通の姉弟の距離なんだろう。しかし彼からの返信は遅く、前までは十分と経たずにメールが返ってきたのに今では数時間かかることもある。私とたっくんの関係が変わったことを父さんはただの喧嘩だと思っているらしくて、今の私たちに対しては何も言ってこない。母さんは今までが近すぎたのだから今の距離が丁度いいと言っていた。今までの距離が普通だったから、世間一般で言う普通の姉弟の距離が私にはわからない。この数学の問題のように答えが一つしかなかったのなら簡単なのに。
「はーい終了。じゃあ今からこの問題の解説するぞー。」
先生の言葉でみんなの手が止まり先生に視線を合わせる。私も皆に合わせて先生を見た。早くこの時間が終わってしまえばいいのにと思いながら答え合わせをする。先生の解説を聞き流しながらちらりと時計を見るともうすぐこの講座が終わる時間だ。ようやく解放される。
「…それで、ここでこの公式を使う。そしたらXの答えがわかるだろ。それから…はい、この式を計算すると答えがわかる。何か質問はあるか?」
先生の言葉と共に終わりを教える鐘がなった。
「じゃあ今日はここまでなー。もしわかんないところがあったら必ず調べるか教えてもらうか先生に聞くんだぞー。」
そう言って先生はすぐに教室から出て行った。リュックに入っている携帯を取り出してメールボックスを確認する。
「ないなにー最近携帯ばっかり見てるけど、彼氏でもできたのー?」
後ろからナルミが大きめの声で言う。なんだかんだ言ってナルミとは高校に入学してからずっと同じクラスで、一番話す友達となっていた。まさかここまで仲良くなるとは思いもしなかったけど。
「そんなんじゃないよ。てか声大きいし。ナルミはこの数学の問題解けた?私は最後になんか間違えっちゃった。」
「そっかー、ついに真白にも春が来たと思ったんだけどな。あの最後のやつ?前にも似た問題やったから解けたよー。」
「めっちゃ頭良いじゃん。」
そう言うとナルミは少し照れたように笑った。ナルミは集中講座に参加しないと言っていたけど、私が参加すると言ったらじゃあ私も参加するとすぐに手のひらを返した。彼女の言い分は「だってゴールデンウィークに真白と遊ぼうと思ってたから」だった。実を言うとこの講座は母さんに黙ってさぼる予定だったけど、ナルミが参加するのに私が参加しないのは悪いような気がしてゴールデンウィークなのに学校に来ている。
「…で、この後の講座はどうするの?さぼっちゃう?」
ニヤニヤしながら私の耳元でナルミが囁く。それについ笑って頷く。この集中講座はあくまで自由参加だ。だから参加しなくても特におとがめは無い。おとがめは無いと言っても後から先生にいろいろ言われることは予想できるけど。
「じゃあさっさと帰る準備しな!金田先生来るの早いんだから!」
ナルミは鞄の中にプリントや筆記用具を雑に詰め込む。私もナルミと同じようにてきとうにリュックにノートと筆箱を入れた。携帯をポケットにしまおうとしたときメールを知られるランプが光った。携帯を見るとたっくんからだ。メールを開くために携帯を操作しようとした瞬間腕が強く引かれる。
「早く早く。」
ナルミだ。そうだ、早く準備をしないと。
「わかったから、ちょっと引っ張らないで。」
携帯をポケットにしまい私も立ち上がってリュックを背負う。メールなら後で見ればいいか。そう思って彼女の手に引かれるまま私たちは教室を出た。廊下を走っていると金田先生が前から歩いてくる。
「あ、金田先生私たち今日は先に帰りまーす。」
ナルミが大声で言う。私は笑いながら先生に会釈する。すると金田先生は両手を大きく開き私たちを通さまいとした。
「おい!帰ってもいいけど廊下は走るな!」
その言葉にますます笑いが零れる。ナルミは先生の前で足を止めた。
「ちゃんと歩きますよーだ。じゃあ真白と私は欠席でお願いしますね。」
「明日はちゃんと出席するんですよ。」
金田先生はそう言って大きく開いた両手を閉じてそのまま私たちを通り過ぎて教室に向かって歩く。その背中に「また明日!」と二人で声をかけて早足で校門に向かった。
それから二人で本屋に寄ったり新しくできたファミレスに入って楽しくおしゃべりをしたり。受験一色に染まりそうな学校生活から逃げるように二人でたくさん遊んだ。私は遊びに心を奪われてたっくんからメールが来たことなんか忘れていた。もしかしたら頭の隅には置いてわざと忘れたふりをしていたのかもしれない。思い出した時にはもう家の玄関の前に立っていた。すぐに携帯を取り出してメールを開く。
『海へ行こうよ』
たったそれだけだった。海なんて何回も行っているし、そんなこと家にいるときに言えばいいのに。私は返信をせずメールを閉じた。家に入り玄関を見るとたっくんの靴は無く、まだ家に帰っていなかった。それはいつものことだから気にせず私は大きな声で「ただいま」と言いそのまま自分の部屋に向かった。
あの時たっくんは何を伝えたかったのかな。もし私が何か返信をしていたらたっくんの伝えたい何かを知ることが出来たのかもしれない。けれどその願いはもう叶わない。返信しないままその日はたっくんと会わずに終わって、その次の日もたっくんに会う前に学校へ向かった。そして学校でたっくんが海で溺れて意識不明であることを聞かされた。急いで病院に向かうと涙で瞳が真っ赤に染まった母さんと震えながら母さんの肩を支える父さんがいてたっくんが死んだことを知った。不思議と涙は出なかった。たっくんの遺体を見ても何も感じなかった。まるで眠っているような彼は私が名前を呼んだら起きそうな気がして小さい声で「たっくん」と呼んでみた。けれど、彼が目を覚ますことはなかった。彼の濡れた髪を撫でる。
「ごめんねたっくん。こんなに早く逝ってしまうのなら、もっとたくさんお話していたらよかったね。」
母さんの鳴き声が背中越しに聞こえる。私は涙を流すことが出来ず、父さんはそんな私を後ろから優しく抱きしめた。後悔の波が私を攫う。こんなに早く逝ってしまうのなら、あなたの望む関係を築いてあげたら良かった。眠っている彼の左手を優しく握った。一筋の涙が頬を伝い地面に落ちた。でもそれ以上涙は流れることはなく、母さんと父さんの嗚咽だけが部屋に木霊して病室を悲しみでいっぱいにする。瞳を閉じてたっくんを思い出す。私の名前を嬉しそうに呼ぶたっくん、いじめられて自分の部屋で泣くたっくん、ココアを飲んで頬を緩めるたっくん、そして私から離れたたっくん。もうたっくんの顔を見ることも声を聞くことも抱きしめることも出来ないんだ。もう起きることのないたっくんの手をますます強く握る。冷たいたっくんの手で私の手の温度が少しだけ下がる。もう彼は私の手を握り返すこともない。悲しい。なのに涙はもう流れることを忘れたのか私の瞳と頬はずっと乾いたままだった。