罪
「チーフ? どうかしました?」
いつの間にか休憩から戻ってきた後輩に声をかけられて、春奈の肩がビクリと揺れる。不思議そうにする後輩に、なんでもないと答えて自身も休憩に入った。指輪が見つかるかもしれない。望んでいたことが叶うというのに、どうしてか春奈の胸には重いものが広がっていく。
「お待たせしました」
とうに陽は落ち、帰りを急ぐ大人達とこれからを楽しむ若者達が入り混じるバスロータリーのベンチで薫がルナを抱いている。霧雨はもう止んでいたが、気温は低く少し肌寒い。
「いいえ、お疲れ様です」
にっこりと笑う薫と、警戒するようなルナの瞳が対照的で、春奈の足は二人から少し離れた場所で動かなくなった。
「では、行きましょうか」
近づいてこない春奈に構うことなく、騒々しいバスロータリーの中を足早に進んでいく細い背中に慌てて後を追う。一歩進むごとに不安は大きくなっていき、行きたくないとさえ思うのに足は止まることなく先へと進む。
まるで、身体から感情が切り離されてしまったようだ。
「こちらです」
薫が足を止めたのは、背の高いビルの一角にある小さなお店。リサイクルショップなのだろうか、子供向けのファンシーな雑貨から年配者向けのようなアンティークまでさまざまなものが雑多に置かれている。店内は薄暗く、ところどころに置かれたランタンからオレンジ色の光が柔らかくひろがっている。
「ここに、指輪が?」
「あなたが探している物がどれかわからなくて。選んでいただけますか?」
薫が差した棚には、様々なアクセサリーが無造作に並んでいる。仮にも婚約指輪として用意された品がこんな風に並べられるものだろうか。不満を感じながらも促されるままに一つ一つのアクセサリーをゆっくりと眺める。高校生がつけるような可愛らしいピンキーリングにピアス、大人の女性が好むような重厚感のあるネックレスに指輪。そして女性が一生の買い物にと願う様な、シンプルな指輪。
その中に、春奈の指輪があった。太めのプラチナリングに埋め込まれるように置かれた深紅のルビー。間違えるはずない、あの日「結婚しよう」の言葉と共に彼から贈られたものだ。
「これです。これ。この指輪に間違いありません!」
本当に見つかった。窓から投げ捨てた指輪が、長い時間をかけて今春奈の手に戻ってくるのだ。あの日、愛されていた春奈を知る指輪が、戻ってくる。春奈は指を震わせながら幸せだった証に手を伸ばした。
その瞬間、ルナが指輪の前に立ちふさって長い尾を揺らす。まるで「待て」と言うように。
「薫さん? 猫が……」
「窓の外、見えますか?」
薫はルナの行動を謝ることなく窓の外を指さした。その指先が示した場所にいるのは、間違えるはずのない指輪の送り主。
「正人?」
あれからもう何年もたっているのに、あの頃の面影を残したままのかつての恋人が歩いている。その横には子供を抱いた女性が並び、彼は子供と女性の荷物を両手に持って笑っている。
とても、幸せそうに笑っている。
傷ついた顔で春奈の部屋を出ていった彼は、もういないのだ。そんな当たり前の事実が春奈の目の前に広がっている。
「彼は、新しい幸せな人生を歩んでいます。あなたのいない場所で」
「そう、ですよねぇ」
そんなはずはないのに、彼が今でも春奈を想って傷ついているのではないかと心のどこかで思っていた。ホッとしたのと同時に、あの日に捕らわれているのが自分だけだと知って寂しいとも思う。
「彼への後悔は、その指輪だけですか?」
薫の静かな声が店に響くが、春奈は答える事なく幸せそうに歩くかつての恋人を見つめていた。彼が窓から見えなくなって、ようやく春奈がポツリと呟いた。
「罪は、私だけにあるのでしょうか?」
彼が出ていってすぐに、春奈は自身の身体に変化が起こっていることに気がついた。食欲がなく、常に気分が悪い。日に何度も立ち眩みを起こし生理も止まった。心あたりはあったのに、きっと彼とのことがショックだったのだと自分に言い聞かせ、はっきりさせるのを遅らせ続けた。3カ月たってようやくはっきりさせた頃にはもう猶予はなく、そのまま手術の予約を入れ、友人に彼の名前を代筆してもらい病院からの連絡にも対応してもらった。
正人に連絡をすることが出来なかった理由は、今ではもう想い出せない。
「私は、彼の子供を殺したんです」
「そうですね」
感情の無い静かな声が店内に響く。
「もう少し、自分の人生を楽しみたい。ちゃんと仕事をして、自立した女性になりたい。そんな私の我儘で正人を傷つけ、子供を殺した」
「ええ」
「それなのに、今更思い出に縋るなんて、勝手でしょうか?」
「思い出は、あなたの中にあるものです。勝手にすることには何の問題もありません」
薫の静かな声が響く。
「あの子は、私を恨んでいるのでしょうね」
「幼い子供は、どんな親でも恨んだりはしません。ただ、あなたに愛されたかった。あなたから離されることが悲しく、寂しく、でもあなたを愛していた。あなたが大好きだった」
薫の穏やかな声に、春奈はただ涙を流す。その姿を黄金色の瞳が真直ぐに見つめていた。
「春奈さんは、どうして指輪をもう一度手にしたかったのですか?」
薫の声に、春奈はうつむいたまま小さな声を絞り出した。