ヒント
「風邪をひきますよ」
いつの間にかウトウトとしていた陽菜の耳に低く柔らかい声が響き、目の前には心配そうに見つめる真っ黒な瞳があった。
「うわぁ」
驚き、身体をそらした陽菜に薫は安心したように笑うと、鍵を取り出した。
「今日は暖かいとはいえ、眠ってしまうと寒いでしょう? 何か温かい飲み物をお出ししますから温まってください」
「……はい」
薫の後について素直に『探しもの屋』に入ると、大きなガラス窓から紅い光が差し込んでいる。おかげで、室内はふんわりと暖かい。
「こちら側からは西日が入るので冬でも夕方は暖房が要らないぐらいです。ただ、夏になる前に何か対策を考えないと。ルナが冷房を嫌うので、なるべくつけないようにして過ごしたいんですよね」
「ふぅん」
これだけ陽が入るのに、夏でも冷房をつけないというのは無謀ではないかと思うと、どうしても気の無い返事になってしまう。そんな陽菜を見ながら困ったように笑う薫の肩にはさっきまでスポーツバックごと陽菜の膝に収まっていたルナが乗っている。あっという間に取り返されてしまった寂しさと、満足そうなルナへの暖かい気持ちが陽菜の中で大きく渦巻く。
「『探しもの』は見つけていただけましたか?」
大きく渦巻いた心は刺のある言葉になって出ていくが、薫は気にするそぶりを見せない。
「『探しもの』そのものはまだですね。ヒントを見つけてきたぐらいです」
穏やかに笑っているはずなのに、陽菜には薫の表情が見えてこない。絵美が陽菜に選んでくれたヘアクリップ。そんなものあるわけがない。陽菜の望みはきっともう叶わない。わかっているからこそ、『ヒントを見つけてきた』というその場凌ぎの言葉が無性に腹が立った。
「大事な猫を良く知りもしない私なんかに預けて」
『探しもの』は自分が頼んだのだから、真意はどうあれ『ヒントを見つけてきた』ことに怒るわけにはいかない。怒りの矛先は、『捨てられたかもしれない』などと疑う素振りは微塵も見せなかったルナを置いていったことに向ける。
「正解でしたでしょう?」
「何が?」
「陽菜さんはルナを一晩泊めて、ちゃんとここまで連れてきてくれた」
嬉しそうに笑う薫の言葉は陽菜の頭の熱を冷ました。
「私がルナを欲しくなってそのまま返しに来ないとか、面倒で捨ててしまうとかするとは考えなかったの? そうしたら、貴女は二度とルナには会えないでしょう?」
「貴女ではなく、薫です」
「薫さん!」
「はい。陽菜さんはルナを捨てることもそのまま飼う事もできた。でも、しなかった」
「それは……」
「私の信じた通りの人でした。それにね、私とルナはそんなことで離れたりはしません。何があってもルナはここに帰ってくるんです。それこそ、きっと私が山の中に捨てたとしても」
「……」
ルナが薫を信頼しているように、薫もルナを信頼している。それがどこからくるのかわからないが、絶対の信頼に陽菜の苛立ちは素直に敗北を認めた。
「ヒントって、何?」
薫の言葉を疑い苛立ちをぶつけた陽菜だが、その言葉に希望を持ったのも事実。苛立ちが収まれば素直に問う事ができた。
「ヒントは、ヒントです」
含みを持たせるようにクスクスと笑う薫を黄金色の瞳が見つめている。
昨日と同じようにマグカップに牛乳を注ぎ電子レンジへ入れ、薬缶に水を注いで火にかける。電子レンジが役目を終えて少し経つとヤカンはピーピーと悲鳴をあげた。スーパーでよく見かけるティーバックを透明なティーポットに放り込みお湯を入れる。透明だったお湯が少しずつ赤茶色に変わっていく。
「綺麗でしょう?」
透明なティーポットを見つめる陽菜に、薫が誇らしげに話しかけた。
「本当は、温度が冷めないように布をかけて茶葉をそのまま泳がせるんですけど、今日はティーバックからユラユラと色が立ち上るのを見たかったんです」
充分に蒸らしてから、電子レンジから取り出したホットミルクにゆっくりと紅茶を注ぐ。白いミルクに紅茶がマーブル上に混じり、全く違う色に変わっていく。
「綺麗」
「あまりミルクティーを綺麗と言ってくれる人はいないので、嬉しいですね。どうぞ」
優しい香りを立ち上らせるマグカップを、愛おしそうに両手で包む。ミルクティーは陽菜の身体に温度を取り戻すかのようにゆっくりと広がっていき、飲み終わる頃にはとげとげしい気持ちはどこかに消えていた。
「ご馳走様でした」
「はい。お粗末さまでした」
にっこりと笑う薫の横には、澄ました顔のルナが座っている。『離れることはない』のが当然なのだとしている二人は、何故か見るものを安心させた。
「陽菜さん、明日は何か予定がありますか?」
「え? いえ、特に予定は……」
週末は母が食事の支度をすることが多いので、陽菜はなるべく家にいるようにしている。それは、普段は仕事で食事の支度ができない母の罪悪感を消すためのものだが、それでも週に一度、精一杯食事の用意をする母を置いて外出する気にはなれず、高校生になってからもよほどの用事で無ければ日曜日に遅くまで外出することは無かった。
「では、明日は陽菜さんも一緒に探しものに行きましょう」
柔らかな口調に、優し気な笑顔。それなのに、薫の言葉には意を唱えることができない。
「夕方までに、帰れるのなら」
「ヒントはありますから、すぐに済みますよ」
「は、あ」
今日はきっと母の帰りは遅いのだろう。それなら、明日はゆっくりしてもらった方が良いのかもしれない。自分を納得させる頃にはすでに薫の瞳は陽菜に向ってはおらず、代わりに好奇心でいっぱいの黄色い瞳が陽菜を見つめていた、
真っ白な雲がまばらに泳ぐ青い空。待ち合わせ場所にいた薫は嬉しそうに手を振っているが、陽の光がまぶしくて陽菜は上手く笑うこともできない。どうしてなのか自分でもわからないが、行きたくないと思ってしまう。
「さぁ、行きましょう。すぐそこです」
そんな空気を察してか、薫は強引に陽菜の手を取った。陽菜の手を取ったのとは反対の肩にかけられたバックからは、黄色い瞳がのぞいている。
「ルナ、連れてきたんですか?」
陽菜の問いに答えることなく薫は真直ぐに駅ビルに向って歩いて行った。
「ここ?」
「はい」
駅ビルの4階にあるセージの香りがするアクセサリーショップ。小さな店内にセンス良く並べられたアクセサリーはどれも力強く華やかだった。
「素敵でしょう?」
得意げな薫に陽菜は一瞬戸惑いを見せたが、すぐに目の前に並ぶアクセサリーに目を奪われた。店全体で四季を表しているような作りになっており、桜、紫陽花、紅葉、イチョウ、雪の結晶を現したものまでが並んでいる。季節を表すアクセサリーは珍しくないが、店内に一度の並べられているのは見たことがない。
いや、京都の露店に並んでいたアクセサリーも季節感がなく夏だというのに雪の結晶を彩った簪まであった。それを笑った時、店主はなんと言っただろう。
「すべての季節を愛しているから、常にすべての季節のアクセサリーを置いているんです」
たしか、あの店主もそう言っていた。
一つ一つのアクセサリーに顔を近づけて見つめ、がっかりとしたように離れることを繰り返す陽菜を、薫は黙って見守っている。
「桔梗は、無いんですね」
絵美が選んでくれたのは桔梗のヘアクリップ。薫はそんな大事な事を忘れてこの店を探し出したのだろうか。
「桔梗は、そこに一点だけ」
薫が差したのは、レジの後ろの壁に飾られた桔梗のヘアクリップ。非売品と書かれたそれは、ちりめんの桔梗の下に隠れるように黒猫がいる京都で絵美が選んでくれたヘアクリップだ。
「これ! これよ、間違いないわ!」
陽菜は迷わずレジの横を通り、壁に掛けてあるヘアクリップに手を差し伸べた。壁に固定されているヘアクリップは手に取る事は出来なかったが間違いなくあの日陽菜がボロボロに壊して教室のゴミ箱へ捨てた物と同じ。
「ああ、でもこれ、非売品って書いてある。ねぇ、薫さん。これを売ってもらえるように頼むことは出来る?」