贈る気持ち
「これは、違いますか?」
いつの間に部屋に入ったのか、優花の部屋から薫の声がした。なにもあるはずがないのにと思いながらも部屋に入れば、がらんとした部屋の真ん中に置かれてるのは桜模様の和紙で作られた小箱。優花は小箱の前にへたりこんだ。
「おばあちゃん、和紙で小物を作るのが好きだったの。おばあちゃんからの贈りものは、いつも和紙に包まれていた。お年玉の袋まで、手作りだったのよ」
「贈りたい気持ちが、隅々まで込められていたのですね」
そう。孫が喜ぶ顔を思い浮かべながらヘアクリップを買って、それに合うサイズの小箱を丁寧に作ってくれた。それがまさか、姉妹を仲たがいさせるきっかけになるなんて思いもしなかっただろう。
「おばあちゃん、ごめんね」
つぶやいた言葉は、届くことはない。
そろそろと小箱を開ければ、貰った時のままヘアクリップとハンカチが並んでいる。
愛花がこのヘアクリップを一度も使っていないのがすぐにわかった。愛花にとっては、その程度の物だったのだろう。
「なにか、書いてありますね」
ヘアクリップに挟まれた厚紙には、たしかに何か書かれている。祖母からのメッセージだろうか。そろそろとヘアクリップを外せば、不器用な子供の字が現れた。
―いやしいまねをして、ごめんなさいー
「これ、愛花の字……」
「こちらは、今の愛花さんからでしょうか」
薫がさしたのは、小箱の下に置かれていた桜もようの便せん。
―卑しい真似ばかりしてきて、ごめんなさい。もう遅いけど、このヘアクリップはお返ししますー
「……」
祖母の言葉は、愛花にちゃんと伝わっていたのだ。
自分の行いを恥じて、返したくて、でも、子どもだった愛花にはその勇気が出せなかった。
「それなら、どうして?」
愛花はその後もずっと、優花の物を欲しがっていた。何もかも、奪っていった。
「優花さんに、嫌だと言ってほしかったのかもしれませんね。優花さんに本音でぶつかって欲しかった。自分の行いを全て否定して、全部返してと言ってほしかったのでしょう。」
自分では止められない。誰かに否定してほしい、叱って欲しい。
たった一度のチャンスをつぶされた愛花だって、本当は苦しんでいたのだ。
「私、ひどいこと言った」
戦うことを放棄して、殻にこもったのは優花の方だった。自分の意志を通す努力をせず、家族であることから逃げた。愛花の行動は、かまってほしいだけだったのかもしれない。
「冷たいお姉ちゃんだったのかなぁ」
ポツリと呟いた言葉に反応するように、黒い尻尾が小箱を叩いた。
「優花さんも愛花さんも、幼かったのです」
だからといって、無かったことにはならない。言ってしまった言葉は、戻ることはない。
「どうしたら、いいんでしょうか」
「何を選んでも間違いではありません。優花さんは、どうしたいのでしょう」
「……」
「ヘアクリップと一緒に、少し考えてみて下さい」
「はい」
階段をおりていくと、不機嫌を隠す事もない母がいた。
「あったの?」
「……うん」
「本当に、あなたはいつまでも。愛花にあげたものでしょうよ、今さら」
なおも言葉を続けようとする母を、優花はさえぎった。
「あげてなんていない。私は嫌だって言っていたでしょう? 愛花だって、本当は欲しくなんて無かったのよ」
小さな愛花からの手紙を母の目の前に差し出せば、母の怒りはさらに大きくなった。
「昔の姉妹ケンカに、今さらどうしろって言うのよ!」
大きな足音を立ててリビングに戻って行ってしまった母の後を追うことはない。娘に背を向け続けた母に、今さらどうして欲しいと言うことはない。
ただ、妹は。
「薫さん、ありがとうございました。せっかく探してくれたのに、ごめんなさい」
新幹線が東京についた時にはもう薄暗くなっていた。一日店を休ませてしまった上に、探してくれたヘアクリップを前に何の結論も出せないことを、申し訳なく思っていた。
「いえ、探しものは、まだ終わっていません。ヘアクリップは、ただの物です。優花さんの探しものは、これからです」
「……はい」
「とは言ってもなぁ」
部屋に帰ってから改めて小箱に入ったヘアクリップを手にとった。薄紅色の桜の花は、色あせることもない。小学校に上がる前の女の子には少し大人っぽいそのデザインは、愛花でなくても欲しくなったかもしれない。姉妹に一つでは、喧嘩になるのは目に見えている。
それでも、祖母が優花だけに渡したのはどうしてなんだろう。
疲れた頭ではなにも考えられない。ぼんやりとしながら、愛花はそのまま眠ってしまった。
「いらっしゃいませ」
ヘアクリップが見つかったからと言って、優花の毎日は何も変わらない。仕事に行き、接客をする。
同僚とお喋りを楽しみ、仕事終わりには街で買い物をしたり美味しいお店をチェックしたり。
皮肉なことに、優花は空っぽの頭でも楽しく過ごすことに長けていたのだ。
康介とは、今は連絡を取っていない。
最初こそ、仕事終わりの食事デートを重ね、以前の関係に戻そうと努力をしていた。
しかし、優花の気持ちはもう康介に戻ってはくれなかったのだ。
愛花との関係、自分の気持ち、伝えずにいたのが悪いことはわかっている。だからこそ、康介に全てを伝えることができないのに、一緒の未来を望むことはできないと思った。
分かり合うための努力よりも、今は逃げを選びたい。
いつか、努力を選べる日が来たのなら……。
そんな期待もどこかにあるが、今はまだ先に進めない。
―このまま、何もなかったようにするのもいいのかもしれない―
今後実家に行くことはないかもしれないが、父が味方をしてくれているのは心強い。愛花にも母にも関わらず暮らし、必要なら冠婚葬祭には参加ぐらいしよう。
その程度の付き合いができるのなら、それがいい。優花が望んでいたのは、和解ではなく静かな暮らしだ。
「でも、ねぇ」
愛花からの「ごめんなさい」まで無かったことにするのがいいのかは、わからない。今更、と拒絶したい気持ちと、愛花も苦しかったのかと受け入れてあげたい気持ちが、日ごと時間ごとに入れ替わる。
奪われて泣いた記憶と、小さな愛花と手を繋いで歩いた記憶は無くなることはない。
―一度、会って話がしたいですー
愛花からメッセージが届いたのは、ヘアクリップを取りにいって1カ月も過ぎた頃だった。このままでいたくないと思ったのは、優花も同じ。会いたいと思っていたのも、同じなのだろう。
―こちらに、来れますか?―
会うのならば、場所はもう決まっている。
「いらっしゃいませ」
「おねえちゃん、久しぶり。ありがとう」
勢いよくカウベルを鳴らしながら現れた優花に、愛花は消え入りそうな声をだした。こんな愛花は、初めて見る。
「こちらこそ、遠くまで来てくれて、ありがとう」
愛花の手はビロードのような毛皮を撫でており、黄金色の瞳が興味深そうにその手を見つめている。
「どうぞ」
今日も、なにもいっていないのに紅茶がでてきた。ここは喫茶店ではない。飲み物は、薫の気分次第という事なのかもしれない。
「ヘアクリップ、どうして一度も使わなかったの?」
「……おばあちゃんが、お姉ちゃんに贈ったものだから。私が使ったら、ダメだと思っては、いたの。でも、なんだか返せなくて、ごめんなさい」
「そう。それならその後も私のものを欲しがっていたのは、どうして?」
本題は、そこだ。反省したのなら、返せなくても次に活かすことができるはず。謝罪の気持ちがあったにもかかわらず、傷ついて離れていく姉をさらに遠ざけることを続けたのは、どうしてなのか。
「自分でも、よくわからないのだけど……。お姉ちゃん、あれから一度も嫌だって言わなかったから、なんだか無視されているみたいで。あの時みたいに本気で向き合ってほしかったのかもしれない」
「……そう」
愛花は小さなころからずっと、優花を慕っていた。追いかけて、振り向いて欲しかったのだろう。母が愛花を優先することで二人は離れ、愛花は愛情を伝える方法がわからなくなってしまったのかもしれない。
「あなたの気持ちは、わかった。でも、そんなに急には変われない」
「うん」
「弱いお姉ちゃんで、ごめんね」
「そんなこと……」
「……」
ごまかすように二人でティーカップを口に運ぶ。熱かった紅茶は、すでにぬるくなりかけていた。
「あのね、コレ。あのヘアクリップの代わり」
紅茶が半分も減ったころ、優花がカウンターに小さな箱を出し、中身を見せた。
桜の花で遊ぶ猫を描いた黒いハンカチだ。
「……」
「あなたに、あげる」
「え?」
「考えてみれば、愛花にプレゼントってしたことないなぁって思って。そう思った時これを見つけて、愛花に贈りたいなって思ったの」
「……贈りたい?」
「そう、おばあちゃんがヘアクリップを買ってくれた時、こんな気持ちだったのかなぁって思った。取られたことより、おばあちゃんの気持ちを悲しめる私だったら、こんな風に長びかなかったのかもしれないね」
寂しそうに笑った優花に、愛花が泣きだした。
「ごめんなさい。本当に、今までずっと……。傷つけてるのも避けられているのも、知っていたのに、謝ることもできなくて、ごめんなさい」
泣きじゃくる愛花を抱きしめて宥める母は、ここにはいない。黄金色の瞳だけが真直ぐに見つめていた。
「よかったのですか? 一人で帰してしまって」
「はい、妹ももう大人の女性ですから。一人で歩く方が、いいんです」
泣きはらした顔の愛花を見送って、2杯目の紅茶をゆっくりと飲む優花は満足そうだ。
二人の関係は、もう幼い頃に戻ることはない。今後どう変わっていくのかも、今はわからない。
それでも、今後は大人の女性として、対等にふるまえる気がする。
卑屈な気持ちも、卑しい気持ちも、全て認めることが出来れば前を向くことが出来るのか。
戦うのか逃げるのか、強くなければ選ぶこともできない。優花は、これから自分で選んでいくのだ。
優花が帰ったあと、探しもの屋には桜のヘアクリップが残されていた。




