知っていた
「おまちしていました」
カウベルの音が鳴りやまないうちに、薫のしずかな声が響いた。
仕事を終えた日曜日。ぐったりと疲れ切った身体での帰り道で、ふと探しもの屋の薫の顔が頭に浮かんだ。あれから何も言ってこない。子供の頃に愛花のものになったヘアクリップを探すなんて、やはりできるわけがないのだ。
でも、それならそうと、一言あってもいいのではないか。
そう思ったらいてもたってもいられない。明日は休みだ。まだやっているのなら、嫌味の一つも言ってやりたい。そう思って探しもの屋を訪ねた優花は薫の言葉に面食らった。
「待っていた? わたしを?」
「はい。ヘアクリップを探す約束をしたでしょう?」
何を当然のことを、と言わんばかりに笑っている。
「見つかったん、ですか?」
「明日は、お休みですか?」
答えにならない答えが、なんだか頼もしく感じる。
「はい。休み、です」
「では、今夜から向かいましょう」
―どうして、こうなったんだろう―
優花は今、薫と並んで夜行バスに乗っている。優花は着の身着のまま、薫も同じだが膝にはルナの入ったキャリーケースがどっしりと乗っている。
行先は、実家のある三重県。
―まぁ、子供のころの物なんだから、あるとすれば実家だよねぇー
薫の発想はわからなくもないが、きっともう捨てられている。そう思った
「実家に行っても、無いと思うけど……」
夜行バスを降りて、迷いなく駅へと向かう薫の後ろ姿に小さく話しかけた。
「まずは、ご実家ではない場所に」
クルリと振り返った笑顔の意味が分からない。
子供の頃に失くしたヘアクリップ。もちろん実家にあるとは思っていないが、実家以外ならどこにあると言うのか。
「お父様の、仕事場です」
「は?」
父の職場になんて、産まれてこの方一度も行ったことはない。
そもそも父は家庭のもめ事に関わることなく生活をしていたのだ。
愛花が優花のものをどれだけ奪っていたのかも、母が愛花だけの味方だったことも知りもしないだろう。
祖母がヘアクリップをくれた時も、そばにいたのかどうかすら記憶にない。
「いやいや、薫さん? 父は、関係ないと思いますよ? きっとそんなこと、記憶にもないんじゃないかな?」
「そんなことないと思いますよ? ご自分の母親が、妻と娘をたしなめたのです。きっと、何か思うところはあったのではないでしょうか?」
「いや、だって、その場にいなかったかもしれないし……」
「まぁ、行ってみましょう」
にっこりと笑って立ち止まったのは、父の勤める銀行だった。どうして知っているんだろう、なんて当たり前の疑問を持つ隙も与えられずに自動ドアを潜り抜けた。
カウンターの奥には父は見当たらない。
さすがに仕事中に子供のヘアクリップで呼び出すなんてことは出来ないが、薫ならやりかねない。どうしたらいいのかと思いながら薫の腕を掴もうとしたとたん、後ろから聞きなれた声がした。
「優花?」
「おとう、さん?」
社員証を首から下げた父が目の前にいた。正面から父を見たのは、いつぶりだろう。
いるはずの無い場所にいる娘を、後ろ姿だけでわかるような人だったのだろうかと不思議に思いながらただ見つめていた。
「はじめまして、私、優花さんの友人で薫と申します。少しだけ伺いたいことがあるのですが、お話し出来ませんでしょうか?」
丁寧で柔らかな物腰だが、断ることはできない。そんな薫の言葉をぼんやりと聞き流していれば、少し先にある公園で待つように言われた。
銀行を出ると、無意識に大きな溜息がでる。
「疲れましたか?」
平気な顔で笑う薫に、優花はもう声も出ない。二人並んで公園にある東屋に腰を下ろした時には、グッタリと身体の力が抜けていた。
いつの間に出されたのか、キャリーに入れられていたルナが薫の膝に乗っている。見知らぬ場所で、いなくなったらどうするのだろうと思うものの、優花は何も言うことはなかった。
「おまたせ、しました」
早めに休憩をもらったのだろうか、コンビニの袋を下げた父が東屋に現れ、私達の前に紙パックのジュースを置いた。
何を、話すのだろう。
家庭の中で絶対の存在。それなのに家庭で起こっている事には無関心だった父が、幼い子供のヘアクリップなど知っているはずないのに。
「単刀直入に、ききますね。愛花さんは、先日こちらにいらっしゃいましたか?」
「……ええ、家内のところに」
愛花は誰が一番の味方かよくわかっている。泣きつくのなら、父ではなく母だろう。
「なんのご用で、いらしたのです?」
「優花に嫌われた、と。酷いことを言われたから、何とかとりなしてほしいと、泣いていましたねぇ」
痛みを堪えるような声は、愛花を思ってのことなのか、面倒ごとに巻き込まれたと思ってのことなのか、優花にはわからない。
「それで、ご両親はなんと?」
「家内は、どうなのでしょう。でも、私は……」
「お父様は?」
「卑しいことをし続けてきたのに、好かれるわけなどないと、伝えました。泣いていましたね。今更教えても、わからないかもしれない。もっと早くに教えることが、あの子の為だったのに、私は面倒で……」
「……」
「優花、すまなかった。おばあちゃんがせっかく説いてくれたのに。あの時、愛花から取り上げてでも、もっとしっかりと向き合うべきだったんだ。愛花に卑しい行いをさせ続けて、お前に我慢を強いた。お前が愛花と一緒にならないように帰ってきていたのを気づいていたのに、愛花に諭すことができなかった。申し訳ない」
項垂れる父に、同情の気持ちはわいてこない。だからといって、「知っていたのに、気づいていたのに」なんて憎しみの気持ちがわいてくるわけでもない。
謝罪の言葉を述べる父を、ただ見つめていた。
「優花さん?」
「え?あ、はい。あの、ヘアクリップ。 お祖母ちゃんがたしなめた原因のヘアクリップなんて、もうないよね?」
ないだろう。あるはずがない。そんな思いでいたのに、父から返ってきたのは意外な言葉だった。
「愛花の部屋に、あるかもしれないなぁ。あの子は、優花からもらったものは捨てていないと言っていたから」
「捨てて、いない?」
「ああ、いまから、行ってみようか」
立ちあがる父に、薫が従った。呆気にとられる優花に、今日はもう帰るからいいんだと笑った父は、本当に父なのだろうか。
「今日は、もう愛花はいないよ」
玄関の前で不安そうに足を止めた優花に、父が申し訳なさそうな声をだした。
愛花がいなくとも、愛花の味方である母がいる。実の母を怖いと思う優花の気持ちは、公平だった祖母に育てられた父にはわかってもらえないのだろう。
溜息をつきながら玄関のドアをくぐれば、懐かしい匂いがする。
「ただいま」
父の声が響き、母の驚いた声が聞こえた。この時間に帰宅するなんて、優花が知る限り一度もない。
「どうした、の?」
玄関に出てきた母は、優花をみて固まった。凍り付いた母の眼差しに、自分のしたことの重さが改めて優花の肩にのしかかる。
―母の娘でいるには、言ってはいけないことをしたんだ。しかたない―
もう戻れないという思いと、やっと終わったという思いが複雑に混ざり合う。これが、この家に来る最後だという思いだけが強く残った。
「優花のヘアクリップを、取りに来たんだ。母さん、どこにあるかわかるか?」
「……ヘアクリップ? 優花、まだあんなものにこだわっているの? 彼氏と住もうなんて挨拶にきて、もう大人でしょう? いつまでも子供みたいに」
「大人になるために、こだわっているのですよ?」
勢いよく話し出した母を、穏やかな声で拒絶した。いまやっと薫の存在に気が付いたのだろう母は、初めて会う薫を憎々し気に睨んだ。
「優花のお友達? 突然家に来るなんて」
「いいんだ、俺が来て欲しいと言ったんだから」
聞いたことのない父の低い声に凍りつく母。
そんな空気をものともせずに、黒い尻尾が二階へと駆け上がっていく。
「え?ルナ?薫さん、ルナが」
「優花さんの探し物は、2階のようですね」
慌てる優花をよそに、平然と答えて階段を指す。早く行けと言うように背中を押されて、慌てて靴を脱ぎ玄関にあがる。
何か言いたげな母に、父が話しかけて止める。こんなふうに、昔から止めてくれたらよかったのになんて思ってしまうのは、母が言うように「子供みたい」なのだろうか。
階段を上がり切ったところにある2つの部屋。優花の部屋の前できれいにおすわりをしたルナが、早く開けてくれとでもいうように、長い尻尾でリズムよく扉を叩いている。
「そこ、もう何もないよ?」
実家に帰るたびに部屋の物を減らしていた。捨てられない物は一人暮らしの自宅へ、捨ててもいい物は家具すらも捨てて、今はもうベッドもないただの空間だ。
―にゃぁん―
少し苛立ったようにルナが鳴いた。
「開ければ、気がすむの?」
ドアを開けると滑りこむように部屋の中に入っていった黒い影。自分の部屋にヘアクリップがないことを知っている優花は、そのまま愛花の部屋の扉に手をかけた。




