譲りたくなかったもの
「ただいまぁ」
優花の声は誰もいない部屋に吸い込まれる。
とっくに日付は変わっている。部屋の電気をつける気はせずに玄関の電気のみをつけてベッドに倒れ込んだ。
愛花はどうしただろう。あんな時間に放り出されて、泊まるところなんてあったんだろうか。
いや、もうどうでもいい。
言葉にしてしまった気持ちは、もう戻せない。
愛花とは、今後関わりを持たずに生きていきたい。
これ以上、何かを無くすのは嫌だ。
愛花からも康介からも、実家からもこの時間に連絡が来ることはないだろう。
優花は暗い部屋でそっと携帯の電源を入れた。
―愛花ちゃん、泣いていたよ。急にあんなこと言うなんて、どうしたの?―
―今どこ?まだ帰ってないの?―
―落ち着いたら、連絡ください―
康介からのメッセージが三通。愛花からはメッセージも着信もなし。
「まぁ、そうだよねぇ」
今頃は悲劇のヒロインよろしく、どこかで泣いているのだろう。もしかしたら、あのまま実家に帰って母に泣きついているのかもしれない。
「なんにも、変わってないなぁ」
愛花が泣けば、母は愛花の味方をする。
悪いのは優花。
我慢しなくてはいけないのも優花。
優花は姉だから、泣いてはいけない。欲しがってはいけない。
それは、家族という小さな空間で生きていくために絶対の掟だった。
優花はすでに広い世界で生き始めた。それなのに、どうして縛られているんだろう。
「こん、にちはぁ」
心地よいカウベルの音と同時に店内に響いたのは、疲れ切った声だった。
「いらっしゃいませ。今日はお休みですか?」
「いえ、早退しちゃったんです。顔色が悪いから帰れって、同僚に言われちゃって」
メイクでごまかしきれない顔色に、何かを察した美里は勝手に上司に早退の許可を取ってくれた。本来なら自宅に帰って疲れを取るべきなのだろうが、とてもそんな気分にはならなかった。
誰かに聞いて欲しい。誰かの声を聞きたい。
そう思った時、どうしてか昨日初めて会った薫が頭に浮かんだのだ。
「今日も、ね、連絡もないの」
出されたホットミルクティーを飲みながら呟かれた言葉がカウンターの上に落ちる。
「彼から、ですか?」
「ううん、彼からは昨夜何度かメッセージが来ていて、明日ゆっくり話そうって返信もした」
「では、妹さんから?」
「ええ、今まであの子にキツく当たって何もなかった事なんて無かったから。なんだか怖くて」
「嵐の前の、ですか?」
「そう、かもしれない。きっと今頃、愛花は母に泣きながら訴えていて、母は私を『お姉ちゃんのクセに』と言っているのかもしれない。そんな風に思うと、怖いの。おかしいでしょう?いい大人なのに、もう自立しているのに。家族から、嫌われるのが怖くて仕方ないの」
「家族は、人間の基礎です。嫌われるのが恐くない人なんて、いませんよ」
薫の柔らかい声が、ミルクティーと一緒に胸にしみわたる。
「ずっと、優花さんはなにも言わなかったのですか?」
「ずっと……。そうね、ずっと、ではないかも。いつだったかな、ずいぶん小さい頃に一度泣きながら愛花に怒ったことがあったなぁ」
あれはまだ小学校に入学するよりも少し前だ。
おばあちゃんから、それぞれにプレゼントをもらった。
愛花にはウサギのぬいぐるみ、私には桜の花のヘアクリップとハンカチのセット。小学生を前に、少しだけお姉さんになったようなプレゼントに胸が躍ったのを今も覚えている。
「優花は、いつも素敵なお姉さんだからね」
優しく微笑んだおばあちゃんが、大好きだった。それなのに。
「愛花もそれが良い!」
そういって愛花は自分がもらったぬいぐるみを放り投げて、私の髪を止めているヘアクリップに手を伸ばした。
「いや!これは、優花の!」
子供だった優花は、ヘアクリップを抱きしめるようにしてその場に座り込んだ。泣きながら、これは自分のものだ。自分がもらったのだと涙を流して叫び続ける優花に一瞬、ほんの一瞬時間が止まったように思えた。
次の瞬間、優花の泣き声よりももっと大きな泣き声が部屋に響いた。譲られることに慣れている愛花は、私の拒絶に驚き、怒り、泣き喚いたのだ。
困った顔で『譲ってあげなさい』と私を責める母と愛花を、おばあちゃんはたしなめてくれた。
「これはね、おばあちゃんが優花にあげたくて用意したんだよ。プレゼントには、贈る人の気持ちが入っているの。それを欲しがるなんて、卑しいことをしちゃいけないよ」
その場だけは収まったものの、姑に叱られ気分を害した母は、自宅につくなり私の髪からヘアクリップを取り上げた。
「妹に譲れないなんて、それでもお姉ちゃんなの?」
目を吊り上げた母が怖くて、勝ち誇ったような愛花が憎くて。
その瞬間から、私は欲しいものを欲しいと言えなくなったのだ。
「そんなことも、あったなぁ」
「素敵なおばあ様ですね」
「そうね。でも、愛花にも母にも伝わらなかったけどね。あのヘアクリップ、どこに行ったのかなぁ」
「愛花さんが、使っていたのではないのですか?」
優花はゆっくりと首をふった。
「愛花は、貰いなれているから。私が持っていれば欲しいけど、すぐに飽きるのよ。でも、飽きたからって私が手に取ると『やっぱり欲しい』って大騒ぎするの。だから、愛花のものになったらもう私の元には戻ってこないってわけ」
自嘲気味に笑う優花を興味深げに黄金色の満月が見つめている。パタパタとカウンターを打つ黒く長い尾を、薫は嬉しそうに見つめた。
「ヘアクリップ、探してみませんか?」
「え? いや、だってもう20年以上前の話しよ? さすがに、もうないわよ」
「探して、みませんか?」
穏やかだが真直ぐに見つめる薫の瞳に迷いはない。
探せるものなら……。
誰一人味方のいなかったあの時、必死で嫌だと言ったあの時、味方をしてくれたおばあちゃん。おばあちゃんからの気持ちがこもった贈りものを手元に置いておきたい。
「探して、欲しいです。お願いできますか?」
「はい。おまかせください」
薫に同調するように、黒い尻尾がカウンターを打った。
「体調、どう?」
その日の21時すぎ、康介から電話が来た。
出たくないと思ったが、このまま無視をしても仕方がない。
―何を話すんだろう―
康介には、話したくない。愛花のことも、家族のことも、触れて欲しくない。
そんな思いが声に出ていたのか、康介の第一声は優花の身体を気遣うものだった。
「うん、平気」
謝った方が、丸く収まるのはわかっているが、謝れない。康介は悪くない、姉妹喧嘩に巻き込んでしまって申し訳ないとも思うのに、確認も取らずに愛花に自分の勤務時間を教え、一緒にファミレスで待っていたことを苛立つのを止められない。
子供みたいな独占欲が、まだ優花のなかにも残っているのだ。
「愛花ちゃんと何かあったの?」
「あなたの前でも言ったでしょう? 昔から、嫌いだったの。何も考えずに私の物を全部持って行って、なんの罪悪感もない。自分は好かれて当然、何してもいいって顔も、大嫌い」
「そんな言い方……」
「そもそも、私愛花にも母にも今の職場の住所なんて教えてないけど、どうしてわかったの?」
最初に就職したときこそ職場の住所も電話番号も教えたが、何度か移動があり特に聞かれることも無かったので、そのままにしておいたのだ。
「優花の実家に行ったとき、連絡先を聞かれて」
「じゃぁ、愛花が来ること知っていたのね? どうして、教えてくれなかったの?」
「ビックリさせたいって、言うから」
「……そう」
康介の実家を思い出す。穏やかな両親が愛情をかけて育てた息子。仲のいい家族で育った康介には、家族を本気で嫌っている優花が信じられないのだろう。康介が悪いわけではない。育った環境の違いというのは、家族への接し方にも表れるのだ。
「明日も仕事だから、もう眠るね」
康介が悪いわけではないが、優花だって悪くはない。全ての姉妹が、仲がいいわけではない。
これ以上踏み込まれないように、優花は強引に電話を切った。




