消えてしまいたい
「疲れたぁ」
自分の部屋に戻ってきたのは22時を過ぎていた。ただでさえ長距離移動で疲れているのに、夕食を取ろうと入ったファミレスでは隣のテーブルで幼い姉妹が言い争っていた。
一人一つと配られたおもちゃを、妹が両方共抱きしめている。姉は返してと泣き、妹は自分の物だと泣く。
まだ若い母親は怒りに任せておもちゃを取り上げ、姉妹はさらに大号泣。そそくさと食事をして親子は帰っていったが、幼い日々の出来事を思い出した。
自分なら我慢しただろう。
優花と愛花の母なら、「お姉ちゃんでしょう?」と優花にに譲るように叱っただろう。
そして愛花は、譲ってもらうことを当然として受け止める。
「いっそあんな風に両方取り上げてくれたら、平等だったのになぁ」
一人きりの部屋で呟いた言葉は、誰にも届かない。
「お姉ちゃん! 来ちゃった!」
実家に行った翌週の土曜日、カウンターに響く高い声に優花は言葉を失った。
「愛花、どうしたの?」
自分の声は震えていないだろうか。顔は恐怖にひきつっていないだろうか。
そんな心配をするのは、高校生以来だ。
「久しぶりに会ったのに、全然話せなかったから。お姉ちゃん恋しさに来ちゃった!」
ニコニコと笑う愛花に言葉を失った。
―話せなかったんじゃなくて、話さなかったのよ。あなたと話すのを避けたのー
優花の気持ちは、昔から愛花には伝わらない。
「優花、妹なんていたんだねぇ。はじめまして」
同僚の美里の声に、ハッと我にかえる。そうだ、ココは職場だ。
「愛花。悪いけど、今仕事中なのよ」
「うん、わかっている。今日18時まででしょう?お姉ちゃんが仕事終わるまで待ってるから、今日は泊めてね」
「は?」
「康介さんもう上がりなんだって。一緒に待っててくれるって言うから、お姉ちゃん仕事終わったら向かいのファミレスに来てね!」
言うだけ言って、軽やかに踵を返していった。優花の目に映る愛花は、灰色の霧にくるまれているようだ。
ああ、まただ……。
また、私は奪われる……。
「優花?」
美里が心配そうにのぞき込む。優花は残った気力を総動員させて、張り付けたような笑顔を浮かべた。
「急に言われても、ねぇ。ごめんね、仕事中なのに」
「……なんていうか、困ったねぇ」
「……困った?」
「うん、困るでしょう?」
美里の言葉は、優花が初めて聞く言葉だ。これまでは、誰もが愛花を擁護していたのに。
「大人になったら、たとえ姉妹でも距離感って大事よね。長く会っていないなら、なおさら。ビシッと突き放すのも、いいかもよ?」
美里の言葉は、優花の心に深くささった
大人になった今なら、突き放してもいいのかもしれない。
「お待たせ」
夕食時のファミレスは、当然のように家族連れでにぎわっている。そんな中でも、愛花の鈴のなるような声はすぐにわかった。
「お姉ちゃん、お疲れ様!何食べる?」
優花の顔を見た愛花は、当然のように奥に詰めメニューを広げて見せた。優花が愛花の隣に座り、ここで食事をすることが当然だと思っているのだろう。優花だって、美里に言われなければそれを受け入れていたはずだ。
「ごめんね。今日は体調が悪くて、すぐに帰るわ」
「そうなの? じゃ、コンビニで何か買って帰ろう! 家のことは私がやったげる!」
慌ただしく席をたった愛花に、優花はげんなりとする。
「申し訳ないんだけど、愛花を泊めてもあげられないの」
「……なんで?」
キョトンとする愛花。自分は愛されて当然と信じ、拒絶など考えもしない。その姿に優花の中で何かが切れた。
「私、ね、昔からあなたのこと嫌いだったの。実家に行くのも、会わないようにしていたのよ? いい加減、気づいてくれてもいいんじゃない?」
自分でも驚くほどの冷たい声。
愛花の瞳はみるみるうちに潤んでいった。
―ああ、涙を堪えている姿も可愛らしい。叶うわけなんてない。そんなこと昔から知っていたんだから、今さら私の側に来ないでよー
今、目の前にいる愛くるしい妹。その妹を冷たい言葉で拒絶する優花。
どちらが悪かなんてわかり切っている。だから、嫌だったのだ。
「じゃぁ、帰るね」
さっきの愛花のように、言うだけ言ったら踵を返した。
康介は、愛花を守るだろうか。愛らしい妹にこんな冷たい言葉を投げつける優花は、もう守られる価値なんてないのだろう。
店を出た優花はすぐに携帯の電源を切った。
誰とも話したくない。
自分の部屋には帰りたくない。
康介と愛花が、部屋まで来るかもしれない。
それとも、優花のことなんて気にすることはないと、忘れられてしまうのだろうか。
2人が来ても来なくても、優花は苦しむのだろう。このまま、全てを拒絶したい。
なくなってしまいたい。
誰も知らない場所へ、行けるのならばどれだけ楽だろう。
どこに向かっているのかもわからず、優花は薄闇の街を歩き回っていた。
「でも、彼が心変わりをしたわけではないのでしょう?」
「そうね。でも、嫌なの。康介が愛花を見ること、愛花が康介を見ることが嫌で仕方がない。私の大切なものに触れて欲しくないし、見て欲しくない。もうね、あの女には嫌悪感しかないのよ」
「大切なのですね」
「……よく、わからないの」
愛花が康介と一緒に居た時に自分を襲った感情が何なのか、優花自身にもわからない。
康介が大切で、生涯を共にしたいと思ったこともある。でも、愛花から康介の名前が出た途端、自分の中の何かが壊れた。あなたもなのかと、泣き叫びたいのを必死にこらえたのだ。
今はただ、会いたくない。
「ここ、探しもの屋って不思議な名前ね」
冷めたオレンジ・ペコを口に含み、改めて薫に向き合った。
「そうですか? そのままですよ。ここは、お客様の探しものを一緒に探す店ですから」
「探しもの、ねぇ」
クスクスと笑う優花は、やっと少し落ち着いたようだ。
「人は、探しものがあると前に進むことが恐くなります。でも、探しものが何なのかわからない時もある。そんな時のための店なんです」
「わからないのに、探しものなの?」
「ええ」
当然のように微笑む薫に、優花は首をかしげるしかなかった。
「優花さんの探しものは、どんなものなのでしょうね」
「探しものなんて、ない。もともと何も持っていなかったんだもの。探すほど大切なものなんて、なにもない」
「そうですか」
何を言ってもにこやかに微笑む薫に、優花は居心地の悪さを覚えた。
「そろそろ、帰るね。ごちそう様」
盛大に愚痴を言って随分時間がたったはずだ。アーケードに守られた店では時間が分からないが、周りの店はほとんどシャッターが下りている。申し訳なさから、テーブルにお金を置いた優花はそそくさと帰り支度をした。
「ごめんなさいね。もう閉店なのでしょう?」
「いえ、閉店時間も開店時間もないようなものですから。ドアが開いていれば、店はやっています。またいつでもどうぞ」
ありがとう、とお礼を言って優花は店を出る。明るいアーケードの中にシャッターの閉まった店が並んでいるのはなんとも奇妙で、取り残された時代の亡骸のような悲壮感がある。
―こんな場所、近くにあったんだなぁー
自分でもよくわからない感情を持てあまし、ひたすらに歩いていてたどり着いた商店街。どうやって来たのかすらもわからない。
「どうやって、帰ろうかな。タクシーって気分でもないし」
悩んでいればカウベルが小さく鳴って、足元には黒猫が来ていた。ちらり、と優花を振り向いた黒猫は自信満々、長い尻尾をたてて優雅に歩き始めた。
黒猫に操られるように優花は歩きだす。そんな自分を不思議にも思わなかったし、帰れるのだろうかなんて不安も無い。ただ、黒い尻尾がユラユラと揺れるのを見つめながら、歩き続けた。
「あれ?ここ……」
不意に目標だった黒い尻尾が高く飛び上がった。
そこは、優花が仕事帰りに通りがかる公園だった。
「ここ、あなたの縄張りなの?」
黄金色の瞳は、何も語らず尻尾で塀を一叩きすると夜闇に消えていった。




