預かりもの
拓海と別れた後、美菜は家から一歩も出られなくなった。
身を裂かれるほどに欲した拓海は、すでに他の女のもの。その女は、美菜がどうしてもできなかった子供を産み、育てる幸せを手にしている。
子供を産めたのだ。
我が子を抱いて、育て、母親になれたのだ。
それなら、夫くらい美菜に譲ってくれてもいいではないか。
家庭から目をそらし逃げ出そうとした夫なんて、要らないでしょう?
譲ってよ。
私に、譲ってよ。
話し合いの時は女としての意地が勝ったのか、背を伸ばして座っていられたのに一人になったら座ることすらも難しい。
拓海にも妻にも言いたいことはたくさんあった。一つも言葉に出来なかったのに、いまさら言葉が溢れて止まらない。
誰も守ってくれないのだから、自分で自分を守ろうと思っていた。
でも、今はこんな惨めで情けない自分に、守る価値などないと思う。
守るものがなくなれば、こんなにも脆くて弱い。
自分が惨めで情けなくて、嫌悪感が日々募っていく。
美菜は会社に連絡し、有休を全て取得したうえで部屋に引きこもっていた。
普段いない時間は、聞きなれない音であふれている。
はしゃぐ子供、たしなめる大人、楽しそうな学生。
誰もが当たり前のように手に入れている幸せ。
手に入らないものを欲しがって泣き叫ぼうとする心を抑えるため、美菜は自分の身体を傷つけることを覚えた。
死ぬつもりなんてない。
ただ、流れる血を見ることで、自分も同じ人間なんだと思いたかった。
幸せになれた人たちと同じように、自分にも血が流れている。同じように生きていると思いたかった。
傷の痛みよりも安心感が勝る。
いけないと、危険だとわかっているのに美菜の行為はエスカレートしていった。
すぐに、お酒を飲みながら身体に傷をつけるようになったのだ。お酒を飲めば、痛みは薄れ、出血が多くなる分安心感も増していったのだ。
いつもよりも少し深く切った時、これまでにない身体のしびれを感じた。危ないと思った反面、やっと終わるのだとこれまでよりもずっと大きな安心に包まれていった。冷えていく身体が妙に心地よかったのを覚えている。
このまま居なくなるのなら、拓海を愛した美菜も、妻を妬む弱くて惨めで情けない美菜も全て捨てていきたい。拓海を知らなかった自分に、戻りたい。
ただそれだけを思って、美菜は目を閉じた。
「私、どうしてここに?」
「お母さんが、気が付いてくれたのよ」
母とは、年に数回程度しか連絡を取っていない。
それなのに、何の偶然なのだろう。美菜が意識を手放した時、母が部屋を訪れたのだと言う。
パニックを起こしながらも母はすぐに救急車を呼び、その後もずっとそばにいてくれたのだ。部屋に入ることは出来ないが廊下にいると言われ、ガラス越しに泣き崩れた母を見た。
ああ、情けない。
自分も母親だったと言うのに、いい大人だと言うのに、母にこんな心配をかけるなんて。
母も、女性として母親としてこれまでたくさんのことを乗り越えてきたのだろう。
美菜は、これまでとは違った尊敬を、素直に母に抱いた。
「ごめんなさい」
呟いた声も涙も、母には到底届かない。それでも、美菜は何度も何度も同じ言葉を繰り返した。
拓海を知らなかった自分は、もう戻らない。
それでも、美菜は必ず幸せになれる。
その時は、胸をはって黄金色の瞳に会いに行こう。
古ぼけた商店街の隅にある一軒の店。
木製の看板に書かれている「探し物見つけます」の文字を一人の女性が見つめている。店は開いているのだろうが、ドアを押す気配はない。
「探し物、ですか?」
不意に男性に声をかけられて女性の肩がビクリと揺れた。
「ああ、驚かせたのなら失礼。僕は、商店街の用事で伺ったのですが、お客様なら後にしようかと思っただけです。このお店、開いているのかわかりにくいけど、これでも開いているんです。入っても大丈夫ですよ」
いつも通りに手土産のケーキの箱を持った高杉が、探しもの屋の扉に手をかけた。心地よいカウベルの音は商店街に響く音楽にかき消される。女性は、迷ったように扉から少し離れた。
「いえ。まだ、用事はないのです。もう少ししたら、時間が立ったら、必ずまた来ます」
にっこりと笑って、高杉に背を向けた。それなら、と高杉は女性の代わりに探し物屋の扉をくぐる。カウンターにはいつも通りルナが座って、薫は湯を沸かしていた。
今週の会合の議題が書かれたプリントをカウンターに置いた高杉を、黄金色の瞳が見つめている。
「ご苦労さまです。コーヒーを飲んでいかれませんか?」
「ありがとう。いただきます」
店内にコーヒーの深い香りが広がっていく。ぼんやりと店内を見渡した高杉は、探しもの屋に似つかわしくないようなピンクのアルバムに目を止めた。カウンターの横のある小さな本棚に収められた小さなアルバムは、暗い色を基調としている探し物屋では異質にも見えて、妙に気になった。
「あれも、探し物ですか?」
「いいえ、今は預かりものです」
にっこりと笑った薫の言葉は、高杉にはよく分からない。それでも、ピンクのアルバムは満足しているような気がして、それ以上触れることはしなかった。




