幸せにはしてもらえない
「どうぞ」
静かにティーカップを置く姿、ティーカップから立ち上るレディ・グレイの香りは昔と何一つ変わらない。ストレートが好きな美菜のソーサーにはティースプーンすら載っていないのに、初めて会う薫のソーサーにはスティックシュガーとミルクが2つずつ乗っている。「遠慮して何かが足りないまま飲むと、美味しく飲めないでしょう?」せっかくなら美味しく飲んで欲しいと言う義母は、好みのわからない来客にはシュガーもミルクも多めに出す。そんなとろこも、変わっていない。
ただ、美菜だけがこの部屋から消えたのだ。
もう、美菜は家族ではない。
部屋から出ていった義母が、2階への階段を登っていく。美菜の『探しもの』を取りに行ってくれたのだろう。美菜ですらわからない『探しもの』は本当にこの家にあるのだろうか。大切にしていたものとは、何なのだろう。
それは、本当に美菜が望むものなのだろうか。
いつの間にか膝の上にはやわらかな温もりがあった。温もりを与えてくれる黄金色の瞳は、興味深げに美菜を見つめている。その瞳と温もりは、わずかに美菜の身体のこわばりを解いてくれたが、どうしてか美菜は席を立って逃げ出す事は出来なかった。
昔よりも軽くなった懐かしい足音が階段を降り、リビングへと近づいてくる。
逃げ出したいのに、足は動かない。
美菜は、どうしてここに居るのだろう。これから、何を受け取るのだろう。
「美菜さん、これ、でしょう?」
義母が差し出したのは、ミニサイズのポケットアルバム。薄いピンクのカバーには、カーネーションのイラストが描かれている。
「これ、捨てたはずじゃ……」
結婚のきっかけとなった初めての妊娠をした時、エコー写真を保管するのに元夫と2人で買いに行ったのだ。
『お母さんになるのだから、カーネーションでしょう?』と元夫が迷いなく選んでくれたのが嬉しくて、恥ずかしくて、幸せだった。
初めての子が美菜のお腹からいなくなっても捨てることができず、2人目も3人目も、同じアルバムにエコー写真を入れていたのだ。いつか見せることがあったら、兄弟がいたことを話してあげたいと願い、大切に大切に写真を重ねていった。
しかし、美菜にそんな日が来ることは無かった。
ピルを飲み始めてからは、アルバムを開くことすらせず子供の存在から目をそらし続けた。
もうアルバムを見ながら子供と語らう未来など美菜には決して来ない。
子供を失うよりも、つくらないことを自ら選択したのだ。夫の知らない、美菜の選択。
それでも、美菜はアルバムを捨てる事は出来なかった。
未練がましいとは思ったが、どうしてもできなかったのだ。
それなのに、彼に子供が出来たと言われた瞬間、真っ先にゴミ箱に投げ捨てた。
母親になれなかった美菜は、父親になれた元夫が、相手のオンナが憎かった。
悔しかった。
悲しかった。
寂しかった。
それらの想いを全て込めて、自分が一瞬でも母だった証を、元夫の目の前で投げ捨てたのだ。
身体中の血が煮えたぎるような感覚が奪われた悲しみなのか。裏切られた怒りなのかは今でもわからない。でも、身体中が煮えたぎる中、やっと解放されたとホッとしたのはごまかすことの出来ない事実だ。
彼女が、夫の子供を産んでくれる。
羨ましくて、妬ましくて、嬉しい。
私ではない身体から、あの子たちは産まれてくることができる。
やっと、やっと、陽の光を浴びて走り回ることができるのだ……。
「いつか、美菜さんが後悔するんじゃないかって、ここに置いておいたの」
「美菜さんと離婚するときにお腹にいた子供、ね、結局流れちゃったのよ」
「え?」
そんな話は聞いていない。彼は新しい妻と子供と、幸せに暮らしていると思っていた。
「でも、表には……」
孫の為に用意したものだとすぐにわかる、新しい子供向けの自転車。あれは、誰のためのものなのか。そう続けようとする美菜を義母が遮った。
「あの時妊娠していた女性とは、結婚せずに別れたの。既婚者と関係を持って子供授かったから流産したんだって、このまま何もなかったように結婚することは出来ないって。息子と別れてすぐに別の男性と結婚して、今は子供もいるそうよ」
「そう、ですか」
「美菜さんが何度も流産したの、もしかしたら息子が悪かったのかもしれない」
「そんなこと……」
考えたことも無かった。子供は出来るのだから、元夫には何の問題もなく、美菜の身体だけが悪いのだと、子供を抱かせてあげられない自分の身体を情けなく思っていた。
「去年やっと、息子も再婚したのよ。相手は離婚歴がある、子供のいる女性」
「……」
「ああ、これでやっと息子も父親になれたんだ、私達も孫が出来たんだって、嬉しかったわ。血のつながりはないけど、ね」
「……おめでとう、ございます。本当に」
美菜の絞り出すような声に義母は手を組み替え、背を伸ばし、改めて美菜を見つめた。
「自分にひどい事をした相手にそんな風に言える。美菜さんは、素敵な女性よ。そして、あなたは確かに母親だったの。子供の幸せを願い、子供が無事に産まれる事を願った。それは、あなたが母親だったから」
「……」
「このアルバムは、美菜さんと子供の思い出だから、美菜さんが持っているといい。でも、もう一度捨てたくなったら、幸せな気持ちで捨てようと思ったなら、その時は好きにしたらいいわ。でも、お腹の子供達の母であったことを、後悔だけはしないで」
帰り道、何故だか黄金色の瞳は美菜の胸に収まっていた。赤ん坊を抱いて歩くのはこんな感じなのだろうか。胸の温もりと、バッグの中のアルバムが美菜の気持ちを解きほぐしていくのを感じた。
「こんな、捨てたことも忘れていた物が、私の『探しもの』だったんですね」
「忘れたかったのでしょうね。でも、たとえ忘れていても美菜さんがアルバムを作ったことは消えませんし、アルバムを作った時の気持ちも消えません」
「そう、ですね」
「私、この子達と幸せになりたかった」
住宅街を抜けた大通りではオレンジ色の街灯が並び、苛立ちを堪えるような白色のライトが行き来している。美菜は黙って白色のライトが行きかうのを見つめている。
「美菜さん。辛いことでしょうが、誰もあなたを幸せにしてはくれません。親であれ夫であれ、子供であれ、誰もあなたを幸せにすることは出来ません」
「……」
「でも、あなたはいつか必ず、自分を幸せにできます。人はみんな、自分でしか幸せになれないのです」
行きかう車の音をものともせず、澄んだ薫の声が美菜の耳に入り、美菜の目の前がぐらりと揺れた。
「美菜さん、自分の場所におかえりなさい。アルバムは、お預かりしておきます」
美菜が最後に見たのは、長い黒髪と慈愛に満ちた黄金色の瞳。どちらがどちらのものなのか、わからないぐらいに寄り添っていた。
「ここ……」
次に美菜の目に入ってきたのは、真っ白な天井だった。自分の身体にはいくつもの管がつけられており、白い天井はグラグラと揺れている。周りには人の気配があり、何かを引くカラカラという音が遠くで聞こえる。
病院だと、一瞬で理解できた。
起き上がるどころか、首を持ち上げることも声をあげることも出来ない美菜は、目だけを動かして精一杯の情報を仕入れる。
看護師らしき女性がいくつかあるベッドを一つずつ回り様子を見ている。もうすぐ、ここにも来てくれるのだろう。
「川口さん? わかりますか? 気分はどう? 苦しくない?」
美菜が意識を戻したことに気が付いた女性は、ゆっくりとした声で話かける。その声は、落ち着いていてとても聞き取りやすいものだった。
「……はい。わかります」




