どこへ
「おはようございます」
窓からわずかに差し込んだ日差しに起こされた美菜に、薫がゆったりと声をかける。わずかに瞳を開けただけなのに、どうしてわかったのだろうと不思議に思いながらも重い身体をゆっくりと起こした。
「おはようございます。昨日は、ありがとうございました」
「時間はあるのでしょう? 後で一緒にでかけませんか? 美菜さんの『探しもの』を探しに」
「……はい」
ありったけの有給休暇を取っているのだ。確かに、余るほどに時間はある。
どうせ、どこに行こうと、何をしようと、美菜の心が晴れる事なんてない。
それなら、薫のお出かけに付き合うのも一興かもしれない。美菜ですらわからない『探しもの』を探してくれるというのだから。
美菜はカウンターに座り、薫が淹れてくれた紅茶の香りを深く深く身体に取り込んだ。
昨日カウンターで美菜を見つめていた黄金色の瞳がないことを不思議に思ったが、小さな猫だ。どこかに入り込んでいるのか、出かけてしまったのか。そのうち気まぐれにまたカウンターに現れるだろう。
今日は、このままのんびりしよう。時間だけはあるのだ。
扉の反対側にある窓から差し込む日差しはかなり低く、紅くなってきた。後で、というのはいつのころなのだろう。薫は食器を磨いたり雑誌を広げたりと出かけるような気配はない。ただ、穏やかでゆるゆるとした時間だけが過ぎていく。
扉の横にあるスモークの張られた窓の外からは人の行きかう気配がするが、この店には誰も入って来ない。商店街を彩る人々は生命力にあふれているのに、探しもの屋だけが異空間のように静かな世界を作っている。
静かな静かな闇の中から、光を眺めているのは嫌いではない。
スモークからうっすらと見える外の世界をぼんやりと眺めながら、時が過ぎていくことを感じる。昨日よりは、少し穏やかになれている気がした。
「では、そろそろ行きましょうか」
読んでいた雑誌を閉じて、おもむろに立ち上がった薫に何故か恐怖を感じた。美菜の知らない『探しもの』は、今の美菜を壊してしまうのではないか。どうしてか、そんな気がした。
探しもの屋の扉を開けると、アーケードに守られて昼とも夜ともわからない商店街が賑わっている。制服姿の学生たちが一日の終わりを喜ぶように笑っており、主婦たちは今夜の食事に嬉しそうに頭を悩ませ、生きる力がそこここに溢れて漏れ出しているようだ。
羨ましいとも、憎いとも思わない。ただ、いつか自分もこんな風に一日を終えたいと切実に願った。
「行きましょう」
「……はい」
扉に鍵をかけた薫が、迷いなく商店街を進んでいく。楽しそうな人たちが、一瞬振り返るほどの存在感を持つ薫。美菜は何も考えることなく、薫の背中だけを見つめて歩き続けた。
どれだけ歩いたのだろう。電車やバスを乗り継いで、歩いて。どのくらい時間がたったのかもわからないが、空は紅から闇に変わっていた。
静かな住宅街で薫の靴音だけが響いている。
見覚えがある景色に美菜の足はすくんでいるのに、薫の背中から離れられない。
―ニャォン―
塀の上で、黄金色の小さな満月が並んでいる。
「ルナ、お待たせしました」
「ここ……」
見覚えのある大きな家は、元夫の実家だ。結婚していた時は何度も訪れた。結婚生活は疲れ果てるものだったが、彼の両親は嫌いではなかった。まだ若いせいか、それぞれに人生を楽しんで、でも親としての配慮や優しさを見せてくれる素敵な両親だった。
それでも、彼に子供が出来たので離婚すると伝えた時にわずかに笑ったことは、今でも、どうしても、許せない。
「ええ、ルナがここだと」
玄関に置かれた子供向けの自転車は、元夫が幸せな家族と過ごしている証だ。ここに住んでいるのか、よく訪れるのかはわからないが、新しい妻がこの家で過去の自分と同じように大切にされているのだろう。
躊躇なくインターフォンを鳴らす薫の背中に美菜がしがみついた。『やめて、やめて、会いたくない』小さな叫びが闇に響き、消えていく。
「はい?」
あの頃と変わらない、間延びした女性の声。ああ、この穏やかな声が好きだったと、胸をえぐられる。
逃げ出したいのに、今すぐに背を向けて走り出したいのに、足は地面に縫い取られたように動かない。顔を覆いたいのに、手もピクリとも動かない。
凍り付いたように動かない美菜を隠してくれていた薫の細い背中は、玄関の扉が開くと同時に美菜の前から消えた。
「美菜、さん?」
「……」
声も出ない。いや、出したくもない。
美菜の不幸の原因は、彼との離婚、いや、結婚だったのだから。
「美菜さん。あなた、どうして?」
困惑した顔の元義母は、大きく玄関をあけて美菜の顔に両手で触れる。嫌悪感すら抱くのに美菜に身体はピクリとも動かなかった。
「……」
「元気なのね? 良かった。あれから、どうしていたのかと思っていたのよ。本当に……」
「ええ、元気にしています。大丈夫です」
美菜の口は、義母の口から出てくる「ごめんなさい」を必死の思いで遮った。謝られたくなどない。悪いなんて思ってもいないのに謝られるのは、もうたくさんだ。
帰りたいと、逃げ出したいと思うのに相変わらず足はピクリとも動かない。
美菜は助けを乞うように薫を見た。薫の方には、いつの間にはルナが乗っている。
黄金色の瞳はまっすぐに義母を捕らえて離さない。
「突然、申し訳ありません。彼女の大切にしていたものを、取りに伺いました。まだ、こちらにありますよね?」
「え、ええ。もちろん。中でお待ちになりますか?」
「よろしいですか? では失礼します」
当然のように玄関の扉をくぐる薫に、美菜は息が止まるかと思った。元夫の実家になど、誰が入るものか。ここに置いてあるもので、美菜に必要なものなどあるはずがない!
胸の奥でどれだけ叫んでも、何一つ言葉になってはでてこない。それどころか、美菜の足はフラフラと薫の後をついて室内に向かっていく。
「……薫さん、嫌だ、薫さん?」
やっと絞り出せた小さな叫びは、薫には届かない。わずかに黒い尻尾が反応したような気はするが、黄金色の瞳も振り返る事は無かった。
シンプルにまとめられたリビングは昔のままだ。小さな子供の生活している様子はないので、元夫はここには住んでいないのだろう。それでも、壁に飾られた子供の写真が、美菜の胸を締め付けた。
「美菜さんは、紅茶よね?」
昔と変わらず穏やかな声が、背中を這いあがる。義母の記憶に、自分がいることすら許せない。
心は闇に沈んでいるのに、声も出せず身体を動かす事も出来ない美菜は、黙って義母が紅茶を入れるのを見つめていた。




