沼の中
「お話があるとのことで、今日は来ました。お話が無いのなら、帰りたいのですが?」
重い空気に耐えかねて、美菜から口を開く。もう、席を立って帰ってしまいたいと思っていた。
美菜から話す事などない。話があるというから、わざわざ来たのだ。不機嫌をあらわにすると、洋子が覚悟を決めたように深く息を吐きだした。
「主人とは、いつからのお付き合いですか?」
「お付き合いが始まったのがいつかはっきり覚えていませんが、知り合ったのは春です。5月の婚活パーティー。これが、その時渡された連絡先です。拓海さんの字ですよね?独身者限定とうたっているパーティーで知り合いました」
項垂れている拓海に代わって、洋子が連絡先の書かれている小さな紙を確かめる。確かに、拓海の字であり、婚活パーティーの名称もしっかりと書かれている。彼が独身と偽っていたこと、美菜が不倫をするつもりが無かった事の証拠だ。
さっきまでの大きな敵意が、わずかに脅えに変わるのが分かる。
「それからずっとお付き合いをしていて、あなたは不安に思わなかったのですか?一日中一緒に過ごすことは、無かったんですよね?」
「休日を合わせて一緒に過ごしたこともありましたよ? 一度だけですが」
「……」
「でも、普段は仕事の休みが合わなければ仕方がない事かと思っていました。仕事が違えば休日も勤務時間も違うのは、当然ですから」
洋子に言われる事など想定内だ。美菜はしっかりと用意してきた言葉を返す。
「奥様はこそ、不信に思わなかったのですか? ご主人が他の女といる事、気が付かなかったのですか?」
「……子供がいますので。夫に多少の不信感があっても日々忙しくて」
まただ。
子供がいることは、全ての免罪符になり、何より強い武器になる。そんなこと、同じ女である美菜にはよく分かっている。それを持ち得ない自分は、何をしてもこの女よりも弱いのだ。
「拓海さん、あなたは、何をしたかったのですか?」
「……ごめん、美菜」
「何に対して、ごめん?」
「君の気持ちも考えずに、逃げ込んだ。君にたいして、何も出来ないのに」
ナニモデキナイ
出来ないのではなく、する気がないのだ。わかっている。もう、充分にわかっている。
可愛い子供と生涯を共にする約束をした妻に、美菜が叶うわけなどないのだ。わかっているからこそ、黙って身を引こうとしたのに。
美菜の最後のプライドは、申し訳なさそうな顔をした男と、我こそが被害者だと言わんばかりに涙ぐむこの女に、ボロボロに砕かれた。
「私は、あなたを独身だと思っていました」
「ごめん」
「洋子さん? 私は既婚者だと知ってあなたのご主人とお付き合いをしていたわけではありません。同じ女性として、あなたはご主人のしたことをどう思いますか? あなたのご友人が、姉や妹が同じように思いもかけずに不倫をしてしまったら、あなたは責めるのでしょうか?」
「……悪いのは、主人だと思います」
「それなら、私はもう帰っても良いのでしょうか? 二度と連絡をするつもりはありません。そちらからも、連絡をしないでいただきたいです」
「……はい。これは、少ないのですが。美菜さんの貴重なお時間をいただいてしまったお詫びです」
テーブルに乗せられた安物の茶封筒は、わずかばかりの厚みがある。幸せな家庭からのおこぼれのような茶封筒が、情けなかった。
―これを、受け取るのと突き返すのと、どちらが惨めなんだろう―
まるで他人事のようにぼんやりと考えながら、黙って茶封筒を見つめていた。
「美菜、本当に申し訳なかった。美菜は何も悪くない。せめて、受け取って欲しい」
一緒の未来を夢見た男が頭を下げている。
美菜が欲しかったのは謝罪でもお金でもなく、拓海との未来だ。それはどんなに頑張っても手に入らない。
それなのに、美菜が欲しくて欲しくてたまらない物を手にしている女が泣いている。
美菜は無性に腹が立った。泣けるのは、守られているからだ。自分が強者だと知っているからだ。
誰にも守られない美菜には、泣くことすら許されない。
「わかりました。これでお互いにもう忘れましょう。でも、最後に一つだけよろしいですか?」
「はい」
「あなたは、自分を裏切った男に縋って生きていく以外に生き方は無いのですか? あなたと子供を裏切った男に、これからも守られていくのですか?」
「……この人は、私の夫ですが、同時に子供の父親でもあるのです」
「そう、ですか。わかりました」
裏切られても、子供がいれば元に戻れる。
裏切られても、子供がいれば未来を望める。
美菜は静かに茶封筒をバックにしまい、席を立った。
美菜がドアをしめた途端、部屋の中から安堵の溜息が聞こえた。情事の後によく聞いた溜息は、愛おしさが溢れて漏れているようだった。今は、美菜が身を引いたことに心から安堵している。
拓海が、憎い。
自分が、情けない。
これ以上、惨めになんかなりたくない。
忘れなければ、いけない。
もう、会ってはいけない。
それでも……。
まだ、拓海が欲しい。
まだ、拓海を愛している。
まだ、拓海の腕に抱かれたい。
無理に引きはがしたところで、想いが消えることなんてない。美菜は、まだ沼の中にいる。
一度沈んでしまった沼からは、容易には這い上がれない。
もがけばもがくほどに沈み、身体中に泥が入り込んでいるのだ。
「もう、毎日が辛くてね。彼を知らなかった私なら、こんなに辛くなることは無いんだろなって思ったら、思わず……」
話疲れたのだろうか、毒を吐き出すように大きな溜息をついた美菜は、テーブルに突っ伏した。
「それで、探しものは『彼を知らない私』ですか?」
困ったように笑った薫に、美菜もうっすらと笑い、黒く長い尻尾はぴしゃりとカウンターを打つ。ルナの機嫌が悪いのだろうか、黄色い瞳は満月のように丸く光り、ビロードのような毛皮は尻尾の先から首までふっくらとしている。
「そう。でも、無理よねぇそんなの。わかっているの」
「そうですねぇ。私には、探せませんね」
そうよねぇ、と笑う美菜の瞳は揺れている。
どうしても、何をしても、忘れたいのだろう。
自分のプライドの為に、これからの人生の為に。
「それでも、探しもの屋を訪ねてきて下さったお客様を何もせずに帰すわけにもいきません。ねぇ、ルナ?」
薫の言葉に、ルナの尻尾がユラユラと揺れる。
「何もせずって、だって、彼を知らなかった私なんて……」
「ええ、もちろんそれは探せません。でも、あなたが探したいものは、他にもあるのでしょう?」
「探したい、もの?」
「はい」
そんなものがあるのだろうか。これまで何かに執着をしたことなんてなかった。
結婚、仕事、手に入らなかったもの、手からこぼれ堕ちてしまったものはたくさんあるのに、何一つ後悔とか未練とかいうものを感じることはない。
あの日あの店に行かなければ、まだ知らずにいることができた。
泣いて叫んで、別れたくないと言っていれば拓海はもう一度抱きしめてくれたのではないか。
ただそれだけが、美菜の持っている後悔だ。
「今夜は、帰らなくてもいいのでしょう?そこのソファーで、お休みなさい」
薫の声に、美菜は急に睡魔に襲われて、フラフラとソファーに沈み込んだ。
そのまま静かに寝息を立てる美菜に、薫がそっと毛布を掛ける。同時に、ルナの鳴き声が探しもの屋に響いた。
早く出せと言わんばかりに、ルナが扉の前に座り込んでいる。
「ルナは、美菜さんが好きなのですね」
答えるように黒い尻尾がぴしゃりと床を打つ。薫が少しだけ扉を開けると、小さな身体はするりと闇に溶けていった。
「行っていらっしゃい」
薫の声は、闇にまぎれるルナには届かない。




