告白
重い扉を閉めた瞬間、美菜は拓海の腕に捕らわれた。
あの女性は誰なのか。
何故、拓海を見つめていたのか。
何故、拓海は美菜に背を向けたのか。
聞きたいことも言いたいことも胸の奥からあふれてくるのに、一つも言葉にできない。言葉にしたら、戻れないことが分かっている。言葉にしたら、もう拓海の腕に抱かれる事はできない。
焦りを打ち消すように美菜を求め続ける拓海からは、もう愛情を感じ取ることは出来なかった。それなのに、拓海の腕に抱かれて喜んで見せたのは、幸せへの執着なのだろう。
美菜を選んだ拓海、拓海を選んだ美菜。二人で、幸せになるのだ。なれるはずだ。
そう、思いこもうとしたのだろう。
拓海は、美菜に何を求めているのだろう。
美菜は、何を求めているのだろう。
「ごめん、美菜」
シャワーを済ませた拓海が項垂れたまま小さな声で呟く。
真実を聞かなければと思う美菜と、聞きたくない美菜。二人の美菜はどちらも必死に戦っている。
美菜は、黙って帰り支度をした。
「俺、結婚している」
逃げようとする美菜に気づいていないのか、逃がす気が無いのか、拓海は美菜を腕の中に閉じ込める。何度も何度も、拓海の腕の中で幸せを感じていたのに、今は牢獄にいる気分だった。
「でも、上手くいっていないんだ。子供が産まれてから、ずっと……」
「先月、二人目が産まれたんだけど、そもそも俺は二人目なんて欲しくなかった。もう、アイツとは終わりだと思っていたんだ。でも、兄弟が必要だって言われて、アイツにはもう愛情なんてない。でも、子供は可愛くて……。だから、子供に兄弟を作ってやりたくて、それで……」
先月、二人目が産まれた……。
それなら、美菜と知り合った頃にできた子供だろう。妻に妊娠させておいて、自分は何もかもから逃げ出すように幸せに焦った美菜に手をだした。
「子供は可愛い」なら、産まれたばかりの赤ん坊はさぞかし愛おしいだろう。
それで急に忙しく、会えなくなったのだ。
産んであげられなかった赤ん坊は、美菜を許してはくれない。
「産めなかったくせに、幸せにしてくれなかったくせに、自分だけ幸せになろうなんて許さない」
美菜の身体の奥底から、そんな声が聞こえる。何をしても、逃れる事なんて出来ない。
美菜は、幸せになんてなれない。子供を産む事も出来なかったのに、命を生み出す事も出来なかったのに、幸せなんて求めてはいけないのだ。
「わかった」
何を分かったのか、これから二人はどうするのか、そんなことは美菜にもわからない。それでも、何故か美菜の口から出たのはそんな言葉だった。
拓海はその言葉をどう感じたのか、ホッとしたような、悲しそうな表情をしていた。
「さっきの人は、誰なの?」
「あ、ああ。アイツの友達なんだ。アイツとは同じ大学だったから、共通の知り合いが多くて……」
妻の友人。当然、今夜二人でいたことは妻の知るところになったのだろう。拓海が妻になんと言って遅くまで出かけているのかは知らないが、女性と2人でダイニングバーから出てきて、その後も帰らない。そんなことを、妻が許すわけがない。
「今日は、帰った方がいいんじゃない?」
終電の時間はとっくに過ぎている。タクシーで帰れば一万円近い金額になるだろうし、帰ってからの気苦労は計り知れない。それでも、帰らないわけにはいかない。お互い明日も仕事があるし、拓海には家庭もある。大人でいるのは、ラクなことではないのだ。
「あ、ああ。そうだね。そうしようか」
拓海の後に続いてホテルを出ると、まだ営業している店のネオンが不安定に闇を照らしていた。いつもと同じ光景なのに、今日はやけに闇に浮かぶネオンが美しい。
「じゃぁ、また」
「うん、また」
タクシーに乗りこんだ美菜は、別れの挨拶をする拓海を真直ぐにみた。幸せな家庭から、美菜のところに逃げ込もうとした男。
この男は、きっと逃げ切れない。愛おしく、優しく、弱い男。
マンションに戻った美菜は、拓海との思い出になるものを集めた。婚活パーティーで渡された連絡先、参加日程を記されたイベント会社からのメール、拓海とのメッセージのやり取りも全て印刷をかけた。
これから何が起きるのか、美菜には簡単に想像がついたのだ。
自分だけが、不幸になんてなるものか。
美菜の闇は、拓海にも向い始めた。
次の日、いつも通りに出社した美菜は、いつもと変わらず仕事をこなした。むしろ、これまでよりもずっと頭がすっきりしてるし、久しぶりにお腹が空いたという感覚もある。胸の奥に宿った灰色の重りは、とっくに闇に溶けてしまったのだ。もう、美菜の邪魔をすることはない。
昨夜遅かったのだから、今夜はぐっすり眠ろう。帰宅した美菜は、お気に入りの入浴剤を使って身体をゆっくり温めた。拓海と行った温泉で販売していた入浴剤は、すっかり美菜のお気に入りになっていたのだ。
お風呂を上がると、拓海からの着信があった。メッセージには「連絡ください」の一言だけ。
会いたい。声が聴きたい。話がしたい。
それでも、今日はダメだ。
美菜はそのまま携帯の電源を切って、アロマを焚いて眠った。
不安が現実のものとなった今、美菜に恐れるものはない。どんなに頑張っても拓海は美菜の手にははいらないのだ。
美菜は、これまでの睡眠不足を取り戻すようにゆっくりと眠り、きちんと食事をとるようになっていた。体調不良になんてなっていられない。誰も守ってなどくれないのだから。
翌日も、その翌日も同じくらいの時間に拓海から着信がある。メッセージも毎日同じ。「連絡ください」の一言だけ。
5日目、ようやく美菜は折り返しの連絡をした。
「もしもし?」
通話の相手は、思った通り女性の声だ。対面ではないのに、殺気立っているのが
ビリビリと伝わってくる。子を守る母親は、この世で何よりも強い。
「拓海さんの、奥さんですか?」
「ええ」
美菜から話をする気は無い。黙っていれば、しばらく沈黙が続いた。
「用がないのなら、切ります」
「用は、あります。その前に、まずあなたからの謝罪は無いのですか?」
「謝って」かつて妻だった自分には言えなかった。
拓海の妻は、美菜からの謝罪を受けるのを当然のこととして口にする。子供がいると言うのは、そんなに強いのだろうか。産めなかった自分は、そんなに弱いのだろうか。
「ありません。私は、彼が独身だと思っていました。独身者限定の婚活パーティーで知り合ったのですからね。奥様こそ、ご自身の夫が婚活パーティーで詐欺まがいのことをした謝罪は、無いのですか?」
自分でも驚くほどの冷たい声がでる。泣くのではないかと思っていたのに、涙なんて少しも出ない。謝る気などない。謝ってしまったら、美菜が悪いと認めることになる。それだけは、したくなかった。




