霧にとらわれて
一日デートの後も、美菜と拓海の付き合いは変わらない。平日の会社帰り、お互いの職場の中間地点で待ち合わせをし、一緒に食事をする。食事だけでそのまま解散するときもあったが翌日も仕事と考えれば不満は無かった。拓海は満足そうに良く笑い、嬉しそうに食事をする。その顔をみれるだけで、美菜は幸せだった。
―この人と幸せになりたい。次はきっと、私でも幸せになれる―
そんな思いが、不安も迷いも霧の中に隠してしまっている。知っているのに、気が付けない。
「私でも幸せになれるんだって、思いたかったのかもしれません」
「女性の幸せは、複雑ですね」
「複雑……。そうですね、そうかもしれません」
美菜は言葉と一緒にミルクティーを飲みほした。
「冷めてしまっていたでしょう。暖かいものをいれますね。同じもので?」
ティーカップを下げて湯を沸かし始めた薫に、美菜は少し考えるようにしてから頷いた。
二人の付き合いが半年を越える頃、拓海が急に忙しくなった。メッセージの返信も一日二日遅れるなんて当たり前、電話をしても出ないことが増えてきた。これまでの平日デートすらも、週に1度から2週に1度あるかどうかに変わっていった。
やっとでデートにこぎつけても、拓海は以前のようには笑わない。
何かあったのか、どうしたのかと聞きたいのに、聞くことすら拒まれているようで、美菜は気が付かないフリをすることしかできなかった。
「仕事が忙しい」「今週も、ちょっと難しい」「ごめん」「落ち着いたら、またたくさん会えるから」
そんな言葉はもう聞き飽きている。それなのに、何も言えない。
美菜は、幸せを望んで、焦がれて、自分を殺すことを覚えてしまったのだ。拓海の意に反するようなことは、言えるはずがない。それは、幸せを逃す事になるのだから。
いつになったら、会えるのだろう。
いつになったら、落ち着くのだろう。
いつになったら、幸せになれるのだろう。
言葉に出来ない思いは、美菜の胸を重くする。
望んで焦がれた幸せは、深い霧のように美菜の笑顔を覆っていく。
「美菜、最近痩せた?ってか、やつれたよ。何かあった?」
同僚の気遣いをごまかすように笑っていたが、美菜の体調は最悪だった。拓海が何をしているのかが気になって、夜は眠れないし、食欲もない。
何より、いまさらながら拓海をことをまったく知らないことに驚いた。
知っていることといえば、会社と自宅の最寄り駅ぐらいで、社名も知らないし、もちろん自宅の住所なんてわからない。メッセージでやり取りをしていたので携帯電話の番号すらもわからない。
会っている時は、好きな食べ物やテレビの話ばかりで、拓海自身を特定するようなことは話さなかった。それが、偶然なのか拓海の誘導だったのかはわからない。不安で不安でどうしようもない。
自分は、拓海の恋人なのだろうか。拓海は美菜を、恋人だと思っているのだろうか。
不安なのに、拓海に確かめることが出来ないのはどうしてなのだろう。
美菜の思いは、どうしてか誰にも伝えることができない。美菜の胸の中で灰色のつむじ風がグルグルと回り続けている。その風は少しずつ、だが確実に大きく重くなっていった。
「なんか、久しぶりだね」
「そうだね、ずっと忙しそうだったものね。少しは落ち着いた?」
1カ月ぶりのデートはいつものと変わらず、二人の職場の中間駅近くのダイニングバー。久しぶりだからと、少し雰囲気のいい店を選んでくれたことが嬉しかった。
価格も少し張るが、人気店らしく平日にも関わらず混雑している。
「いいお店だね。来た事あるの?」
「いや、友達から聞いて美味しそうだなって。美菜を連れてきたかったんだ」
拓海が嬉しそうにするのが、美菜も嬉しい。ありがとう、考えてくれて嬉しい、と何度も繰り返した。
「忙しくて全然会えなかったから、今日は奢るよ。なんでも好きなものを頼んで」
笑う拓海に、美菜の気持ちはざわついた。「ちゃんと悪かったと思ってくれている。謝罪を態度でも表してくれている」と思う反面、「きちんと説明もせずに、支払いをすることでごまかそうとしているんじゃないの?こんなことで、許していいの?」とも思ってしまう。お互い社会人なのだから、仕事が忙しくて会えないことは仕方がない。だけど、もう少し配慮があってもいいんじゃないか。忙しくても、不安にさせない振る舞いは、付き合っている相手への配慮ではないのか。
どうしても、モヤモヤとした気持ちが出てしまう。
21時を過ぎる頃には、店内はお酒の入った人たちで賑やかになっていた。待ちの客もいるようで、入り口付近もざわついている。お酒も料理も堪能したし、そろそろ出ようかと美菜の手を取った拓海にこの後の予定はあっさりと決まる。美菜の頭の中は、今日は終電だろう、明日起きれるかな、と嬉しい困りごとでいっぱいになった。
店の入り口には、店内の空きをまっているのか数人の女性グループがソファーに座っている。平日なのに、人気があるのだなと思ってちらりと見ると、そのうちのひとりが真直ぐに拓海を見ている。恐怖すら感じるその表情にぎょっとして拓海を見れば、怖いぐらいに無表情でかたくなに前を向き、扉に手をかけていた。
嫌な予感しかしないのに、想像することは決して難しくなんてないのに、何も聞けずに拓海の後を急いで追いかけるしか出来ない自分が、嫌になる。
真直ぐに前を向いて足早に遠ざかる背中。拓海はもう美菜と一緒に歩いている意識は無いのだろう。ハイヒールを履いた足では追いつけず、拓海の背中はもう大分遠くなってしまった。
ハイヒールで小走りに歩いた足はジンジンと痛み、胸と頭は雪が降る前のように冷え切っている。遠くなる背中が、情けない。
―追いつけない、なぁー
どうしようもなく情けない気持ちが身体中に広がる。
ーここにいても、しかたないよねー
無理に走った足は靴ずれを起こしひどく痛むが、その痛みは今の美菜の救いに変わる。
絆創膏を買おうと構内にあるコンビニに入ったところで携帯を取り出せば、最後の望みがつながってしまった。
―美菜? どこにいったの?―
―今どこ?―
―怒っているの?―
メッセージの後には何度も着信履歴が入っている。
―話したい。まだ近くにいるよね?―
最後のメッセージから、まだ1分も立っていない。
自分が足早に美菜から離れていったのに、どういうつもりなのだろう。馬鹿にしている。今度は美菜が背を向ける番だ。だって、拓海はきっと美菜を幸せにするつもりなんてない。
そう思うのに、美菜の指は従ってくれなかった。
―今、駅についた。今日は、このまま帰るね―
美菜のほうから離れなくては、ここで離れなくては、そう思うのにはっきりと離れることが出来ない。どうか、このまま。せめて、改札を通るまで拓海がメッセージに気づきませんように。
美菜の願いは、叶わなかった。
送ったメッセージは数秒で既読になり、画面は着信中の画面に変わった。出てはいけないと思うのに、涙が出るほどに嬉しいと思う自分もいる。
自分がどうしたいのか、わからない。
「……はい」
「ああ、美菜。振り返ったらいなくて、どうしたの?」
「どうって……。あんなに早足で歩かれたら追いつけないよ。足も痛くなっちゃったし」
「あ、ああ。ごめん。ごめん、ね。今、駅のどこ? すぐに行くから、待っていて」
「今日は、帰るよ?」
「……それでも、待っていて」
不安そうな拓海の声に、美菜の足は改札へ向かうことを拒否した。
さっきまでの美菜は、複雑な想いを抱えてはいたものの、それでも確かに喜んでいた。久しぶりに会えたことが嬉しくて、楽しくて、寂しかった、逢いたかったことを拓海に知って欲しいと思っていた。ほんの数十分前の美菜は、どこに行ってしまったのだろう。
「ごめん。美菜。待っててくれて、ありがとう」
叱られる前の子供のような顔をした拓海が美菜の手を取った。ごめんね、と続ける拓海の手はひどく冷えている。
「話したいって、何を?」
自分でも、驚くほどに落ち着いた声が出た。悲しさよりも悔しさよりも、知りたいと思う。拓海が、何を話すのか。拓海が、美菜に何を望んでいるのか。
どこを歩いたのか、どのくらい歩いたのか、美菜は気がついた時にはホテルの前にいた。
話をきいたら、美菜は平常心を保つ自信なんてない。取り乱すかもしれないし、拓海を責め続けるかもしれない。そんな姿、誰にも見られたくなどない。それには、ホテルが一番かもしれない。
こんな気持ちで、入ることがあるなんて考えたことも無かった。