気づけない本心
日帰りとはいえ、初めての旅行だ。
目一杯時間を使いたいから朝の9時に出発したいと言う美菜に、拓海は呆れたような顔でため息をつく。休日なのに普段と変わらない時間に起きなければいけないことに渋っていた拓海だが、結局は楽しそうに話す美菜に折れる形で了承することになった。
自宅周辺まで迎えに行くと言うのに、申し訳ないから美菜の最寄り駅までいくと強く主張すること拓海。多少の引っ掛かりはあったものの、負担を軽くしようとしている拓海の気持ちをありがたく受け取り、9時に美菜の最寄り駅で待ち合わせになった。
「おはよう! 遅くなってごめんね?」
電車の都合なのか、拓海は約束の20分以上前に駅についていた。「ついたよ」と連絡をもらった時には美菜はまだ準備が整っておらず、拓海には約束の時間近くまで駅で待っていてもらうことになったのだ。
「いや、いいよ。俺が予定よりも早くについたんだから」
口調は穏やかだったが、どこか不機嫌そうな拓海に楽しみにしてた気持ちが一気にしぼんでいく。
「……とりあえず、乗って」
「ああ」
助手席に乗り込んだ拓海を見ることもなく、美菜は車を走らせた。せっかく楽しみにしていた一日デートなのだから、何とか気分を変えたい。疲れているのに朝早くから来てくれたのだから、美菜がすぐに来なかったことで不機嫌になっても仕方が無いのかもしれない。
せめて少しでも拓海の機嫌がなおるように、と美菜は拓海が好きだといっていた音楽をかけた。
「これ、買ったの?」
「うん、ネットで聞いてみて私も欲しくなって」
ポツリポツリと会話が続くようになって、高速道路に入る頃にはすっかり拓海の機嫌もなおっている。温泉付きの部屋なんて初めて行く、今日は楽しみにしていたとの言葉に、美菜は素直に喜んだ。
そっけなく見えたのは疲れているから。仕事が立て込めば苛立つことがあるのは仕方がないことだ。拓海の仕事が立て込んでいる時に、呑気に温泉デートなんて企画した美菜の方が悪かったのかもしれない。目的地に着くころにはそんな風に思えてきた。
いつのまにか、美菜が自分を責めることが増えている。そんなこと、気が付いているのに目をつむってしまったのはどうしてなのだろう。
通された部屋は露天風呂がついた純和室。拓海には内緒で、部屋のグレードアップをしていたのだ。支払いは予約時にカードで済ませているので、拓海が気づくことは無い。
部屋から見えるのは小さいながら勢いよく流れる川、それを守るように植えられた色とりどりの紫陽花。川岸には遊歩道もあるが、平日のせいか時間が早いせいか、歩いてる影は見当たらない。
静かに過ごし、癒しを求めるにはまさにぴったりの場所と言えるだろう。
美菜は、ひそかに自分のセンスを誇りに思った。疲れた拓海の為にしたこと、気に入られないはずがないと思えたのだ。
「ああ、いい部屋だね。ゆったり出来そうだ」
部屋を一瞥した後の、社交辞令とも取れるような感情のこもらない拓海の声は美菜の自尊心を大きく傷つけた。拓海の瞳は、窓からの景色にも部屋についてる露天風呂にすらも興味を示していない。窓から離れ、座椅子に座って天井を仰いでいる。
たしかに、ここに来たいと言い出したのは美菜だ。
温泉が好きではないのかもしれないし、疲れた拓海には遠出は辛かったのかもしれない。何より、せっかくの休日を一日デートに使うのは嫌だったのかもしれない。
昼間もデートをしたいと言っていたのは美菜だけではなかったはずだが、それが社交辞令でなかったという保証もないのだ。
楽しみにしていた自分がたまらなく情けなく、惨めになった。
日差しの射しこむ部屋で向かい合って座り、拓海にお茶を淹れて一緒に飲む。そんなことすらも楽しみにしていたのに、重い空気に押しつぶされそうだ。
「せっかくだから、大きいお風呂にいこうか……」
部屋のお風呂以外入る気なんて無かったのに、このまま部屋にいたら空気に押しつぶされそうだ。逃げ出してもどうしようもない事なんてわかっているのに、今の美菜には逃げ出す以外の選択肢なんて無かった。
「ああ、俺はいいや。部屋についているんだから、部屋のを使うよ。美菜も、そうしたら? 部屋をでるの面倒でしょう?」
今日初めて、機嫌よく笑う拓海が重い空気を払ってくれたように感じた。
そんな言葉が、たまらなく嬉しいと思うのはどうかしているのだろうか。
「じゃぁ、そうしようか」
一緒に露天風呂に入って、部屋から見える景色を少しだけ楽しんで、食事の前に抱き合った。楽しみにしていたことなのに、どうしてか美菜の胸には灰色の気持ちが大きく広がっていく。胸の奥で何かがおかしいと訴えるのに、それを拓海への恋心が必死で抑え込んでいる。
わかっているのに、気づけない。
「美味しかったぁ。たまにはいいね、こういうのも」
懐石弁当を食べ終わった拓海は、満足げにゴロリと横になって呟いた。
それは、今日のデートへの評価なのか、美菜への気遣いなのか、もう美菜には読み解く気すらなくなっていた。
「そうでしょう? たまには、いいよね」
来月も、有休を数日取る予定だ。一カ月に一度は「たまに」になるのだろうか。拓海の仕事が落ち着くのはいつなのだろうか。
来月も、誘ってもいいのだろうか。
気になる事はたくさんあるのに、美菜の口からは一つも出て行かなかった。
食事の後、少しずつ拓海の機嫌がよくなっていった。景色を見ながら嬉しそうに何度も唇を重ねて、もう一度一緒に風呂に入りたいと駄々をこねる。
拓海が求めてくれている。それだけで美菜の胸にあった灰色の気持ちが晴れていく。
自分でも単純だと思うが、仕方がないのだ。
「ねえ、来月もまだ忙しいの?」
「あ?ああ、そうだね。来月は、実は今月よりも忙しそうなんだ。ウチの会社、年中仕事があるから、さぁ」
イベント会社に勤務している、と聞いていたがそれ以上のことは何も知らない。職種が違いすぎて、忙しさの程度も繁忙期も、休みの取り方すらも想像がつかない美菜は拓海の言葉を信じる以外にないのだ。
なんとなく、歯切れの悪さを感じてしまい『来月もどこかに出かけたい』とは言えなかった。
帰り道、高速に乗る頃には拓海は夢の中にいた。話相手にもなってくれないことを悲しいとは思えない。疲れているのに朝早くから付き合ってくれた、安心してくれているのだと嬉しく思えることに何の不安も無かった。これまでの美菜ならありえないことなのに、そこに気が付くこともしたくはなかった。
「本当に、この駅で良いの?遠くない?」
朝に拓海を乗せた同じ場所で、美菜はもう一度聞いたが拓海は笑ってシートベルトを外した。
「子供じゃないんだから電車で帰れるよ。大丈夫だって。美菜、ずっと運転してて疲れただろう?」
ありがとう、と言って車から離れていく拓海を名残惜しい気持ちで見送っていると後ろからクラクションを鳴らされた。駅のロータリーは送迎の車で賑わっており、運転しているのは女性ばかり。妻や母の迎えの車に乗りこむ人達が、皆ホッとしたような表情を見せている。
自分もあんな風に子供や夫を迎えに来る現在もあったのかもしれない。そうなるだろうと漠然と思っていたのに、そうはなれなかった。
何故、なれなかったのだろう。
どうしたら、なれたのだろう。
今の自分は、どこに向かっているのだろう。




