探せない探しもの
「彼を知らなかった私を、探してください」
日暮に探しもの屋を訪れた女性は、カウンターに座ると同時に溜息をつくように小さく呟いた。ルナの尻尾がゆらりと揺れ、薫は紅茶を入れるためのお湯を沸かした。
「アッサムティーです。ミルクはお好みで」
ガラスのティーカップに半分程度のアッサムティーとミルクポットをカウンターに並べた薫に、すがるような瞳を向ける女性。薫は穏やかに笑って、話しかけた。
「お名前を、伺っても?」
「あ、はい。川口 美菜と言います。ここに来れば、なんでも探してもらえると聞いて、つい。でも、無理ですよね?すみません、忘れてください」
先ほどの言葉を恥じているのか、ごまかすようにティーカップに溢れんばかりのミルクを入れて、うつむいてしまった。ティースプーンをかき混ぜる指先は、ピンク色のネイルがはがれかけている。
「そうですねぇ。ウチは探しもの屋ですから、彼を知っている貴女を無くすことは出来ません」
困ったように笑う薫に、美菜はますますうつむいてしまった。いつの間にか、隣のカウンターチェアにはルナが座り、黄金色の瞳で揺れるミルクティーを興味深げに見つめている。
「どうして、彼を知らなかった貴女を探したいのですか?」
薫の質問に、美菜の肩がビクリと揺れた。
川口 美菜は、24歳の時に一度結婚をしている。高校を卒業して、なんとなく就職をして数年。仕事にも大人の生活にも慣れてきた頃、合コンで知り合った同じ歳の男性と1年付き合ったうえでの授かり婚だ。
だが、式を挙げたのちに流産をした。
『子供ができた』その事実、責任がなくなった事で、夫だった男性は自由を欲しがるようになり、美菜もまた独身の友人と遊び歩くようになった。お互い、家庭を持って生きていくにはまだ子供過ぎたのだ。
その後、2度の妊娠を経験したが、2度とも流産をしてしまった。医者は何も言わなかったが、美菜の身体は赤ん坊を育てるのに向いていないのだろう。
命を授かって失うことは、美菜に言いようのない悲しみと罪悪感を植え付けた。自分の身体は女性として欠陥品だと、自分のようなものに母親になる資格などないのだと言われているような気持になる。
美菜は、夫に内緒でピルを飲み始めた。
それでも、なんとなく続いていたはずの結婚生活は5年を過ぎる頃には破局を迎え、美菜は独身に戻ることとなった。
夫だった男性には、いつの間にか年上の恋人ができており、彼女が妊娠したと言うのだ。
看護師をしているというその女性は、36歳という年齢のせいかどうしてもお腹の子供を産むと言った。夫と結婚できなくてもいい、それでもこの子は産ませて欲しいと、まだ妻であった美菜に頭を下げた。
夫の子供。
産む事の出来なかった子が、どうしても夫の子供として産まれたくて彼女のお腹に宿ったのだろうか。産むのは私ではないけれど、夫の子が、あの子たちが無事に産まれる事ができるのなら。
私では、産んであげられなかった。
私では、守れなかった。
彼女と夫から提示された慰謝料が、高いのか安いのかはわからない。でも、美菜はそれ以上ごねる気は無かった。一緒に重ねてきた年月はあるが、かけがえのないパートナーだったのかと言われるとよく分からない。寂しさや悲しさよりも、自由になれた喜びと妻である責任から逃れられた解放感の方が大きかった。
幸運な破局だったのかもしれない。
女一人で生きる事ぐらい何でもない。これからは扶養内でなんて縛りもないし、職場での「子供ができるかもしれない」という視線に肩身の狭い思いをする必要もない。自分で働いて、自分で生活をする。ギリギリとは言え、まだ20代なのだから仕事なんていくらでもあるだろう。
その時の美菜は、離婚をしたことで未来は明るくなったのだと信じていた。
だが、一番仕事を覚える時期に社会から離れていた痛手は大きかった。同じ年齢の女性がキャリアを積み仕事に責任を負っていく中、美菜がやっていたのは責任を負う事の無い、子供が出来たらすぐに退職のできる、短時間勤務のパートだった。
それなりに一生懸命にやっていたし、パート仲間では唯一の子無しだったので急なシフト変更にも対応しており、任されていることも多かった。一人前に働いていたつもりでいたが、履歴書に書いてしまえばただの『パート勤務』だ。
面接で必ず聞かれるパート勤務だった理由、正社員で仕事を探している理由。
仕事の面接に来ているのに、どうして毎回『結婚して、妊活をしていたのでパート勤務でした。今は離婚したので正社員で仕事を探しています』と申告しなければいけないのかと、何度も何度も悔しい思いをした。
実家に身を寄せていたものの、子供を産んだ姉が頻繁に遊びに来るので肩身は狭かった。自立できるだけの収入を得なければ、早く社会に戻らなくては、と変に焦った結果、正社員ではなく契約社員としての仕事を見つけた。
時給制の契約社員とはいえ、月給にすればそれなりの金額になる。ボーナスはないが、とりあえず生きていくには充分だ。ここで経験を積んで、いずれしっかりした仕事につこう。スタートは遅れてしまったが、まだ充分巻き返せる。そう思った美菜は、働き始めて早々に実家をでて一人暮らしを始めた。
焦りは判断を曇らせる。その時の美菜は、両親や姉の心配になど耳を貸す余裕もなかったのだ。
「でも、やっぱり正社員でずっと働いてきた友達よりもずっとお給料は低いし、同じ契約社員で仕事をしている人達はみんな私よりも若い子や既婚者ばかり。私は私の人生に、自信がもてなかった……」
正社員になりたい、ちゃんと仕事がしたい。このままじゃ、イヤだ。
働き始めても気持ちは焦るばかり。別の会社で、正社員としてきちんと働きたい。そう思って日々転職サイトを見ながら仕事に向かう。そんな気持ちで働いているのだから、やりがいなんてあるはずもない。更新はしてくれるが、正社員登用の声がかかるのは、いつも美菜ではなかった。
「つまらない仕事、つまらない毎日、つまらない私、でした」
自分でも呆れてしまうといって笑う美菜に、ルナの尻尾がユラユラと揺れる。
正社員で働ける仕事が見つかればすぐに辞めようと思っていたのに、あっという間に3年がたった。3年もいれば、仕事にも人間関係にも慣れが出てくる。いつの間にか転職しようなんて気持ちも薄れて、別にこのままでもいいかと思い始めた。贅沢はできないけれど、そこまで切り詰めなくても何とか毎月暮らす事は出来る。新しく入ってきた契約社員の仲間には独身のアラサー、アラフォーも増えてきた。
美菜は、すっかり水に慣れてしまったのだ。
「その時はもう契約社員の独身女性って意外にたくさんいて、自分だけじゃないっていうのが居心地いいんです。でも、仕事はやっぱりつまらないし、収入にも自信なんて持てない。独身なのに、このままじゃまずいかな、と思って別の方向に頑張っちゃったんです」
結婚、離婚で人生が大きく変わった美菜は、もう一度結婚することで今の人生をリセットしようとした。すでに30歳を過ぎている上に、離婚経験がある事はマイナスだとは思ったが、子供はいない。まだ、大丈夫。
就職したときと同様に、次の恋愛、結婚も軽く考えていた。
「結婚相談所は高いし、年齢的に合コンの話もなかなかないし。で、婚活パーティーに何度も行って婚活していました」
しかし、婚活パーティーでカップルになってもそこから付き合いが進む事はなかった。相手からの連絡が来なくなることもあったし、美菜から連絡を絶つこともある。
婚活をいくらしても、一緒の未来を考えたいと思えるほど魅力のある男性には出会えなかったのだ。
「出会いが特別でしょう?『私この男性と付き合いたいのかな?』って目線で見てしまうと、どうしても、色々考えてしまって」
参加回数が両手に届くころ、忘れたい彼、拓海と出会った。婚活パーティーではいつも何を話そうかと緊張する美菜が、拓海が隣に座った瞬間どうしてかホッとした。慣れていないのだろう、困ったように話題を探して泳ぐ視線と、美菜が話しかけた時の嬉しそうな笑顔。穏やかで誠実な人柄が見えた気がしたのだ。『もう少し話がしたい』そう思える拓海と出会えた婚活パーティーは、大当たりだった。
印象シートには迷いなく拓海の番号のみを書いた。
カップリングして一緒に会場を出ることができたのは、拓海も同じ気持ちでいてくれたからなのだと舞い上がった。
隣を拓海が歩いている。それだけのことを嬉しく感じている自分を不思議であり、愛おしくもある。やっと、一目で好きになれる相手に巡り合えたのだ。
「それからは、彼に好きになってもらおうと必死でした。もともと連絡がマメな方ではないんですけど、忘れられてしまうのが怖くて、毎日一生懸命に話題を探して連絡をしました。彼が興味を持ちそうなことを探して、勉強して、彼と一緒にお喋りできること、笑える事が本当に嬉しかった。そんな風にしているうちに、どんどん好きになってしまったんです」
「恋は、そんな風に落ちることが多いみたいですね。思えば思うほど、好きになる。愛おしくなる」
薫は穏やかに笑いながら、ルナの漆黒の背を撫でている。
「恋って、思い込みなのかもしれないですよね。でも、たしかに好きだったんです。毎日毎日、彼から連絡が来ると本当に嬉しくて、返事を考えるのが楽しくて、でも不安で……。30歳を越えても、恋をする気持ちは若い頃と何も変わっていないんだなって、新鮮でした」
忘れたいと言っているのに、彼との恋を思いだすその表情は柔らかく、幸せそうだった。
「それが、どうして彼を知らなかった貴女を探したいのですか?」
「彼を知っていると、前に進めなくて……」
うつむくその姿には、後悔と迷いと、未練が立ち上っている。




