ピアス
母が、結衣を引き取ったからと言って、結衣は翔太を引き取る気はない。施設に預けられた結衣と違って、翔太は雄大の実家で暮らしているのだ。雄大の両親もまだ若く、専業主婦で穏やかなお義母さんに、自営で定年のないお義父さんの元でなんの心配もなく暮らしていけるのだ。
愛情も、お金も、結衣と一緒にいるよりもずっとたくさん与えられるだろう。結衣が育てるよりも、きっと幸せになる。
何よりも、翔太のいない生活を、今でもこんなに欲している。
翔太を引き取りたいなんて言えるはずもない。
「結衣の人生は結衣のものよ。どうするかは、誰かに決められる物じゃない。間違ったなら、謝りたいならお母さんも一緒に謝ってあげる。でも、今の道が正しいと思うのなら、胸を張って生きなさい」
母の力強い言葉が、さらに結衣の心を重くした。こんな、強い母親になんてなれない。やはり、自分は母親には向いていないのだ。もう、一生子供なんていらない。
でも、胸を張って、生きたい。
これまで、自分が胸を張っていたことが、どれだけあっただろう。
「あとは、雄大クンと決めなさい。今日は泊って行ったら?」
「ううん、雅美のところに帰る……」
―今日、帰らないので気にしないで―
雅美に連絡を入れてから、覚悟を決めるかのように大きく息を吸い込んで、雄大と暮らした町への切符を買った。
今からだと、つくのは夜中になるだろう。こんな時間に突然、いるだろうか。いや、きっといる。
不思議と、結衣に不安はなかった。
―カラン、カラン
探しもの屋のカウベルが、静かな商店街に響く。やはり、開いていた。
「いらっしゃいませ」
いつもと同じ、薫の声が響き、ルナがカウンターの隅で香箱を組み月色の瞳でこちらを見つめている。
「薫さん、来ちゃった。今度こそ、探しものをお願いしたいの」
「かしこまりました」
薫が無言でコーヒーメーカーをセットする。コーヒーのいい香りが、探しもの屋に広がっていく。
「探しものは、ね。ピアスなの」
一緒にこの町に来ることが決まった時、お気に入りのストーンショップで雄大が買ってくれた。雫型のムーンストーンを長めのゴールドチェーンでとらえたピアス。まだ指輪は買えないからと照れくさそうに渡してくれたのが嬉しかった。
求められている、愛されていると信じて疑う事なんてなかった。この人に愛される自分でいよう、求められるのにふさわしい自分でいたいと、ピアスをつけているときはいつも少し背伸びして、胸を張っていた。
「翔太が掴もうとするから、外して、そのまま失くしちゃったの。でも、でもね、あれは、雄大が私にくれたもの。こんな私と一緒に暮らそうと思ってくれた、こんな私を母親にしてくれた証。私、あのピアスがあれば、これから先も胸を張れると思う」
最後の時まで、欲しいと思うのは自分に与えられたもの。でんでん太鼓で母であることを思いだしたママとは、違う。
情けないが、今の結衣が探したいと思うのはあのピアスなのだ。
でんでん太鼓が母であることを思いださせてくれたのなら、結衣はピアスで愛されていたことを思いだしたい。自分は、望まれてここに居たのだと信じたい。
望まれてここに居て、自分の意志で出ていく。胸を張るのに必要なのは、あのピアスだ。
「ピアスは、すぐにお渡しできますよ」
薫が、小さな布の袋をカウンターに置いた。忘れるわけがない。雄大からもらった時の、そのままだ。
「なんで?」
自分が頼んだのに、すぐに出てきたのが信じられない。だって、家の中で失くしたはずなのだ。
「結衣さんがこの町を出た翌日、ご主人がここに届けに来たんです。いつか、結衣さんが取りに来ることがあったら渡してほしいと。取りに来る事があって欲しいと」
「雄大が……」
ピアスを失くしたと言った時、『ふうん』としか言っていなかったのに。雄大が探してくれていたんだろうか。いつ見つかったのだろう。
見つかったのに、結衣には言わなかった?
「翔太君が落ち着いて、また結衣さんがお洒落をできるくらいの余裕ができたら、改めて渡そうと思っていたようです。失くしたことで、結衣さんが自分を責めているのが辛かったのですって」
ピアスを失くした時の、労わるような雄大の顔が浮かぶ。失くしてしまったと言った結衣に怒ることも呆れることも、悲しむ事も無かったのはフェイクだったのだろう。
二人で暮らしはじめたその時に、雄大の出来た精一杯の愛情表現を失くされた。悲しくないはずがないのだ。
求めてばかりで、何もしない、何もわかっていないのは結衣も同じだったのかもしれない。
「あなたは確かに愛されていました。わかりにくいかもしれませんが、彼はあなたを愛していました。翔太君も、ママであるあなたを愛していました。あなたは、愛されたことに胸を張っていいのです」
薫の静かな声が胸に響き、自然と頬を暖かい物が伝ってくる。
「今なら翔太君はいません。愛されたのですから、けじめをつけるのも必要ではないでしょうか」
カウンターに置かれたカフェオレの甘さが、痛い。
アパートから漏れる電気。飛び出した日は、あんなに憎々しいと見つめた明かりが、今は悲しい。一人で、いるんだろうか。賑やかだった部屋に、たった一人で。
恐る恐るチャイムを鳴らせば、中で動く音がする。ああ、ドア越しでもこんなに音が響くんだ、翔太の泣き声、そうとう響いていただろうに誰も何にも言わなかったなぁ、なんて今更ながらに理解のあるご近所をありがたく思う。
「結衣?」
驚いた顔の雄大は、少し痩せている。玄関をくぐるときに、『お邪魔します』という言葉がどうしても出てこなかったのは、まだ自分がここの住人であると思っているからなのだろうか。
「ピアス、探してくれてありがとう」
「いや。探しもの屋、わかりにくかったけど、届けてよかったよ」
雄大は探しもの屋には行った事がない。翔太が産まれてからは一緒に商店街に行くことさえなかった。聞いていないと思っていたのに、ちゃんと結衣の話を聞いて、覚えていたのだ。
「お義母さんに、本当の事言っていないの?」
「ああ、まだ結衣と話をしていないから。ちゃんと決まったら、ちゃんとする」
ちゃんと、とはどういったことだろう。結衣の望み通りの離婚が成立すれば、雄大では翔太を育てられない。翔太はそのまま実家に行くのだろうか。
「もし、結衣が本当に離婚して翔太と離れたいのなら、俺は今の仕事辞めて実家に帰る。そうでないと、翔太は育てられない」
「……そう、だよね」
「でも、結衣が戻ってきてくれるのなら、結衣のして欲しい事を書き出してほしい」
「書き出す?」
「結衣が出て行って、一人で翔太を実家に連れて行く途中、翔太はよく泣くってこと、子供を連れているのは大変だって、本当の意味でわかった。どこの母親でもやっている、なんて思っていたけど、どこの父親でもやっている事、俺は出来なかった」
「……」
「本当は、結衣をちゃんと自分で考えてサポートしたいと思っている。でも、育児をしながら家事をした事も無いし、仕事もある。正直、結衣に満足してもらえるようなことを自分からできる気はしない。結衣のほうが、なんでも上手に早くできるから」
「だから、結衣が俺にして欲しい事を書いてほしい。なるべく、詳しく。そうしたら、どうやったら俺にそれができるか考える。考えたら、俺のやり方、やる時間を紙に書く。結衣には満足できない位時間がかかるかもしれないし、イライラするかもしれないけど、朝になってもちゃんとやる。やりたい」
聞いてくれない、わかってくれない。
ずっとそう思ってきたのに、本当にわかっていなかったのは、向き合おうとすらしなかったのは、自分だったのかもしれない。
翔太の泣き声が頭に響き、笑う翔太が瞼に浮かぶ。
もう一度、もう一度向き合いたい。もう一度、翔太の夜泣きに頭を悩ませて、雄大に愚痴を言って、つまらない日常を過ごしたい。
「薫さん、翔太がルナをさわりたいんだって、触らせてあげてもいい?」
ヨチヨチと歩き始めた翔太は、カウンターチェアを伝って歩きルナの尻尾を掴もうと必死だ。そんな翔太をあやすように、ルナは長い尻尾をユラユラと動かしているが、つかめそうでつかめない尻尾に翔太が泣き出してしまったのだ。
「ええ、どうぞ」
「ありがとう。ほら、良かったね、翔太。触っていいって」
翔太を抱き上げてルナに近づけると、ルナは観念したかのように耳を伏せ、尻尾を丸めて縮こまった。
「そんなに警戒しなくても、大丈夫よルナ。もう、翔太だってお兄ちゃんなんだから。ねぇ、翔太。そぉっと、そぉっと、優しくナデナデ、ねぇ」
「そういえば、結衣さんピアスは良いのですか?ここに置いたままで」
「うん、いいの。翔太が大きくなって無事に反抗期を迎えたら、また買ってくれるって。今度はとびきり豪華なのをねだるんだぁ。早く大きくなって子育て終わらないかなぁ」
笑って翔太を抱き上げる結衣のお腹はもう隠せないほどに膨らんでいる。まとめて産んで、早く働きはじめて、年を取ったら楽をするのだと笑う結衣は、たくましくも美しい、若い母親だった。




