似た者親子
―結衣、具合悪いんだって? 大丈夫なの?―
母からメールが来たのは、家を出て1週間が立とうとした頃だ。履歴書を何枚も書いて投函した帰り道。電話を避けたのは、体調を気遣ったの事なのだろう。
「そうか、体調が悪い、事になっているのか」
そこは、雄大の気遣いなのか、弱さなのか、まだ離婚の話はしていないのだろう。まぁ、あんな小さい子を連れて離婚だなんて、言いにくいだろう。でも、いつまでも言わずにいられるわけもない。
「とりあえず、一度帰ればぁ? なんにも決まってないんでしょ?」
部屋を提供してくれている雅美が、隣で呆れたように呟いた。
「帰るって、どこに?」
「旦那の所。離婚するにしたって、決めることはあるでしょう? 子供の面会とか、養育費とか」
「面会は、無理だと思っている。養育費は、そうか、いるよねぇ」
「面会は子供の権利! アンタが決める事じゃないの! 養育費もね! 離れて暮らす方が払うもんでしょう? 父親でも母親でも」
「そう、だね」
「それから、お互いの実家じゃない? めんどくさそう」
「……嫌な事、言わないでよ」
「仕方ないでしょう?結衣が決めたんだから。私が面倒見るのは1カ月だけだからね。あの部屋、来月更新なんだから」
雅美は一緒に暮らしていた彼氏と半年前に別れた。引越しを面倒がってちょっとお高めの広い部屋にそのまま暮らしていたが、更新するかとなると話は別だ。更新を機に、家賃の安いワンルームに引越しを予定している。
「このまま一緒に住もうよぉ」
無理を承知で何度目かのおねだりをするが、雅美は全く取り合おうとしない。早く新しい彼氏を作るから、一緒に暮らす友人はいらないのだと言う。歯に衣着せぬ物言いが、薄情にも感じるが、信頼もできる。 長く付き合うには、こんなふうに遠慮のいらない関係がいいのだとつくづく思う。
「仕事始めるより、そっちが先だと思うよ。あんまり逃げ回っていたら、雄大可哀そうだよ」
「そうだよね。ちゃんと、しなくちゃね」
離婚届は書いておいてきた。親権者も雄大にした。
でも、それで終われるわけではない。新しいスタートを切るには、ちゃんと終わらせる必要がある。夫婦だったのだから、それぐらいのことは、しなくてはいけない。
―身体は、大丈夫。会って話したい―
まずは、母への報告だ。
雅美のマンションから、母の住む町は電車を使えば1時間もかからない。母の仕事が終わる頃に家を訪ねると言えば、何かを察したのだろう母が夫に、今日はどこかに泊まってきて欲しいと頼んでくれた。
「元気そうね、まずは良かったわ」
仕事帰りに買ってきてくれた総菜を並べた夕食は、母と娘の話し合いの合図だ。学校でのトラブル、進学、就職、再婚、結衣の結婚、大切な話をするときには必ず、それぞれが好きな総菜がバラバラにテーブルに並んだのを、懐かしく思い出す。
「実は、ね。離婚しようと思うんだ。翔太を、置いて」
「……そう」
母親になる自信なんて持てない事、翔太を手放したい衝動を抑えきれないこと、雄大とこのまま暮らすことが考えられない事をゆっくりゆっくりと母に伝えた。
母は、一言も口をはさむことなく最後まで静かに聞いてくれた。
「そんなところも、親子ねぇ」
結衣が落ち着いた頃、総菜のコロッケをかじりながら母が笑った。
「そんなところ?」
母はクスクスと笑いだした。
「今だから言うけどね、ママも結衣が赤ちゃんの頃、一回逃げ出しているのよ」
「え?」
「ママなんて、もっとひどいわよ。アンタのパパは、子供を託せるような人じゃなかったから、施設にお願いしたんだから」
「施設? え? 何、それ?」
親の心配に耳も貸さずに一緒になった男性は、優しい男性だった。側にいれば、なんでも手伝ってくれて、心からの労りの言葉をかけてくれる。毎日きちんと仕事にも行くし、働いて得たお金は全て家計に入れてくれて、自分は少ないお小遣いでやりくりをする、まさに理想的な男性だった。でも、彼の優しさを受けることができるのは、妻だけではなかったのだ。気が付けば、夫の優しさを得られるのは、妻である自分だけではなくなっていた。
「お小遣いを渡していないから大丈夫、なんて思っていたんだけどねぇ」
お金なんて、女性が出せばそれで終わりだ。優しい夫から、甘い香水の香りが立ち上るのが辛くて苦しくて、女性として魅力のなくなった自分を責め、子供を責めた。
「その結果が、離婚。離婚届を書いてすぐ、まだ歩き始めたばかりの結衣を連れて養護施設に相談に行ったの」
施設長は、泣き続ける母を見て、すぐに一時預かりの手続きをしてくれた。書類に書かれた『病気による育児困難』の文字に心底ホッとした。自分は病気なのだ。だから、仕方が無いのだと、自分に必死に言い訳を並べた。
「でも、私そんなこと覚えていない」
「1カ月も離れていなかったから」
「1カ月?」
「今でも、不思議」
結衣を施設に預けてからも、結衣の泣き声が頭を離れない。自分を捨てた男の子供だと思うと憎らしいし、自分が愛された証なのだと思うと愛おしい。それでも、これからを生きるためには一緒ではいられない。働かなくてはならないのだ。夜はゆっくり眠りたいし、食事だって落ち着いて取りたい。たくさんの言い訳を胸に、捨てたのだ。
それなのに、柔らかな温もりが腕にない事が、寂しくて仕方がない。
眠れず、回らない頭を叱咤するように仕事を探したが、顔色が悪くぼうっとした女に仕事を任せようなんて思うはずもない。毎日、意味の無い面接を何度も何度も繰り返した。
今日もダメだった。肩を落としての帰り道、不意に後ろから声をかけられた。
「これ、貴女の物ですよね?」
ふりかえると、黒猫を抱いた女性が立っている。こちらへと差し出しているのは、スーパーのお菓子コーナーで夫が買ってきた、でんでん太鼓だ。でんでん太鼓を振り回して喜ぶ結衣を見て、二人で笑った。
幸せな時間を何度も何度も一緒に過ごしたでんでん太鼓。目にした途端に、涙が止まらなかった。
「ちがいます。私のじゃ、ありません」
嗚咽を堪えながら、そういうのが精一杯だった。終わったのだ。幸せだった日から、誰よりも愛していた夫から、誰よりも愛してくれていた娘から、逃げた自分にそれを持つ資格なんてない。
「そうですか。あなたの元に行きたがっているように見えたのですが。失礼しました」
彼女が頭を下げた瞬間、頭の中では結衣の声が大音量で響き渡っていた。
会いたい、会いたい、会いたい。
幸せだった時間を共有した、愛おしさを共有した。何より、この世に産まれるよりもずっと前から一緒にいた、半身のような存在。
愛おしさも憎さも、本当は全てを越えていたのに。
「そのまま、施設に迎えに行ったの。すぐには引き取れなかったけど、仕事を決めて、暮らせる目途が立ったら、迎えに行ったわ」
「……その、でんでん太鼓は?」
「ああ、どうしたのかしらね。捨てられちゃったんじゃないかしら? 結衣の歯型なんかもついて、汚かったし」
「良いの?」
「ええ、思い出すきっかけではあったけど、それだけ」
「そう。そんな、もの?」
「そんなものよ」




