ささいなケンカ
あり合わせて作ったオムレツが出来上がったころ、テーブルに置いてあるスマホが震えた。
――遅くなるから、ご飯いらない――
「またぁ? 昨日もだったじゃない!」
苛立ちながらも『わかった』と短く返信をする。遅くなるのなら、せめて食事の支度を済ませる前に連絡が欲しいと何度言っても聞いてはくれない。最近では、伝えることすらすっかり諦めてしまった。
「ほんと、嫌なパパよねぇ。そのうち翔太の顔も忘れるんじゃない?」
わかっていないと思うから、結衣は翔太に遠慮なく雄大への愚痴をこぼす。悪い言葉は空気を重くすると言うが、言葉にすることで胸のうちが軽くなる事だってあるのだ。
翔太を片腕に抱きながら適当に食事を済ませて、翔太と一緒にお風呂に入る。ベビーチェアがあるとはいえ、まだお座りも危うい子供と入るのだから、当然自分の事なんてろくにできない。簡単に身体を洗えるのだって、翔太の機嫌次第だ。もちろん、一緒にお風呂からあがれば自分の身体を拭くよりも前に、翔太の身体を拭いて服を着せる。翔太の着替えが済むころには、自身の身体はすっかり冷えてしまう。
毎日のことだが、一日の中でお風呂上りが一番寒い。
「だからって、アンタ一人にしてゆっくりお風呂には入れないよねぇ」
すっかり諦めて、昨日も洗っていない髪をさわりながら呟いて、眠たそうにぐずる翔太をユラユラとゆすりながら部屋の中を歩き回る。『早く寝て』と思いながら寝かしつけると何故だか中々寝ないので、最近では部屋の電気も付けたまま、テレビを見ながら無心に部屋を歩き回る事にした。
あともう少し、そう思った瞬間、玄関のドアが開いて、翔太の目がぱっちりと開いた。
「ああ、もう! タイミング最悪!」
不機嫌な顔で『おかえり』と告げれば、すっかり酔っぱらっている雄大はヘラヘラとしながら、泣いている翔太の顔を覗き込んだ。
「ただいま、翔太! なんだ~、まだ寝ないのか? ママが大変だってよ」
『誰のせいだよ!』の言葉を必死で飲み込んだ結衣は、泣き出した翔太を雄大にと押し当てる。
「髪洗いたいの、ちょっとだけ見ててくれない?」
暖かい胸から乱暴に引き離された翔太は火がついたように泣き出し、雄大は困った顔で両手をあげる。
「無理だよ、ママじゃないと寝ないじゃん! それに俺今酔っているし、落としたらどうするんだよ」
「雄大がやらないから、私じゃないと寝なくなったんでしょう? 子供を抱くこともできないんなら、お酒なんて飲むな!」
「これでも早く帰ってきたし! 同期のヤツラ、次の店も言ったのに俺だけ金もないし、お前不機嫌になるからって早く切り上げてきたんだけど?」
「同期の人なんてどうだっていいでしょう? 私の旦那はアンタなんだから!」
導火線を勢いよく火花が走っていくのが、自分でもわかる。これ以上、ここに居ちゃいけない。
「もう、いい」
泣きじゃくる翔太を乱暴にベビーベッドに置いて、さっき脱いだばかりのショートパンツとビックTシャツに着替えた。翔太はバスタオルとおくるみで2重にくるみ、オムツの入ったバックをもって玄関に向かう。
背中から、ゴミ箱を蹴り飛ばす音が聞こえる。正面を向いていれば、怒鳴り返すことも出来るのに、背後から聞こえてくる雄大の苛立ちは怖くて仕方がない。
昼間は賑わっている公園も、夜になれば誰も居ない。古臭いオレンジ色の街灯に照らされた木々の緑が、眠れないと怒っているように見えるのは、私が眠りたいからだろう。街灯の光がなるべく届かないベンチに腰を下ろせば、濡れているのかと疑いたくなるほどに冷たい。でも、家に帰るよりはよっぽどいい。
うっすらと街灯に照らされたツツジを眺めながら、翔太の温もりを抱きしめる。こんなに寒いのに、雄大があんなに怒っていたのに、私がこんなに悲しいのに、ぐっすりと眠る翔太を憎いと思う。
だって、翔太のせいなのだ。翔太が出来なければ、雄大と別れて一人で生きることだってできた。翔太が居なければ、寝不足で苛立つ気持ちをそのままにぶつけることも、雄大が遅くなることにあんなに腹を立てることもない。
腹が立つのに、いなければいいとさえ思ってしまうのに、こうして家を出るときには抱いて出てしまう。おいてくれば良かったのだ。雄大が、父親がいるのだから。たまには翔太と2人で眠れない夜を過ごせばいい。
翔太さえいなければ、私はこのままどこかに行くことだってできるのに。
腕の中には、心配事など何一つないという顔で眠る翔太がいる。
我が子の温もりが、こんなに苦しくなるなんて産む前には考えもしなかった。
――にゃぁん――
ツツジの根元から大きな猫の鳴き声と共に、小さな月が二つ現れた。夜の闇を切り取ったような黒い被毛は、探しもの屋の猫。
「ええ、と、ルナ? 薫さんも、近くにいるの?」
「はい。ここに」
いつから居たのか、すぐ側に薫が立っていた。
「薫さん? いつ、来たの?」
驚きについ腕に力が入ったのだろう。翔太がむずがって鼻声を出し始めた。
「ああ、驚かせてしまいましたね。ごめんなさい。ルナが歩きたがったもので、ちょっと散歩をしていました」
「猫の、散歩? こんな時間に?」
「もう遅いですよね。でも、先ほどまでお客様がいらしたので、今帰りなんです」
「ああ、探しもののお客様? そう、なんだ」
探したい物がある。こんなところまで、依頼に来るほどに取り戻したり物がある。こんなところまで、こんな時間まで、依頼に来る事ができる。それだけでも、今は羨ましくて仕方がない。
「結衣さんは、どうしたのですか? 夜泣きですか?」
「……」
「寒くないですか? いくら若いと言っても、その恰好では……」
「大丈夫、翔太がいるし」
肩は冷えるが、翔太を抱いている胸は暖かい。
「そうですか」
言葉と一緒に、ため息が聞こえた。それは、そうだろう。こんな時間に、こんな人気のない場所にいる女性を置いていくのは気が引けるのだろう。踏み込めば、面倒なことになることはわかるはず。いま、ここに結衣が居るだけで、薫には迷惑な事だろう。
「やっぱり、冷えるかも? 翔太も落ち着いたし、そろそろ帰るね」
探しもの屋を勝手に喫茶店にさせたことも図々しかった自覚はある。でも、知らない土地で過ごす結衣にとって、あの喫茶店は癒しの場所だった。雄大と上手くいかない苛立ちも、子供ができた不安も、自分の人生が終わってしまうかのような嘆きも、全て受け止めてくれたのに、いきなり居なくなってしまうなんてあんまりだ。店を引き継いだのなら、癒しも一緒に引き継いでもらいたいなんて、我儘だったことはわかっている。それでも、必要だったのだ。でも、今は薫のプライベートだ。そこまで求めることが出来ないのは、わかっている。
「遅いですから、送りますよ」
ベンチから立ち上がると当然のように薫が横にたった。ルナも、結衣の足元に身体を摺り寄せてくる。心配がうっとおしいと、子供のように苛立った。
「大丈夫、うちすぐそこだから」
「でも、女性と赤ちゃんだけでは危ないですよ。結衣さんは、若くて魅力的なのですから」
「子供を産んだんだから、若くてもオバサンです! 大丈夫!」
勢いよく吐き捨てると、薫に背中を向けて歩き出した。ついてくる気配はない。心配なんて言ってもその程度なのだ。
歩けば誰もが振り返る、モデルのような薫に、何が分かると言うのか。
まだ21なのに、子供の世話に追われてすっぴんで過ごす日も少なくない。服だって、結婚前に買った物ばかりだし、出産前の服を着れるようになったとはいえ身体のラインは大きく崩れた。肌にハリは無くなり、顔からはクマが消えない。自分でも、女を捨てていると思っている。そんな自分が『若くて魅力的』ではないのが分からないほど馬鹿ではない。口数が少なく、嘘も噂話も、おべっかも使わない薫を信頼していたのに、勝手に裏切られた気分になった。
「最低! もう、いや! 最低……」
誰に対しての言葉なのかもわからずに呟いているうちに、苛立ちは増していく。このまま雄大の所にかえれば、間違いなく大喧嘩だ。
だからと言って、行く場所も無ければお金もない。子供のオムツも服ももってきたのに、携帯と財布は持ってこなかった。コンビニすら行くことが出来ない。
「雄大が寝ていれば、こっそりお財布取ってこれるのになぁ」
アパートの部屋には、しっかり明かりがついている。さすがに、喧嘩をして妻と子供が出ていったのにすぐに爆睡できる神経ではないようだ。
「どうせ、心配だって愛なんかじゃないのに……」
明かりがついているのなら、きっとまだ起きている。そう思うとどうしても部屋に入れない。自宅に背を向けて、歩き出したのはいつもの道だ。




