探しもの
最後に訪れてから、もう何年がたっただろう。清潔だった小鳥の餌場はすっかりくたびれて、庭には雑草が生い茂っている。手入れのされていない庭が、この家の主が居なくなったことを物語っていた。
ここに、田中がいるのか?
「ウチに、何か?」
後ろから、不機嫌を隠さない声が響いた。いつかよりもだいぶんしゃがれた声だが、間違えるはずなどない。最後に聞いた絞り出すような声は、今でも耳の奥に残っているのだ。
「いや、懐かしくて」
ゆっくりと振り返れば、不機嫌そうな顔を隠す事もなく田中が立っていた。初老と言われるような年齢になってもまだ、子供の頃の面影が残っている。
ああ、元気そうだ。仕事はどうなったのだろう。あれから、どうしていたのだろう。
聞きたいことは山ほどあるのに、申し訳なさと気まずさで声が出ない。
「古澤、か?」
恐る恐る、といった声。わかってくれたこと、名を呼んでくれたことが嬉しくて、大きくうなずいた。
「元気だったか?」
少し気まずそうな顔に胸が冷えるが、ここで逃げ出すわけにはいかない。
「ああ、お前が帰ってきているって聞いて、思わず。あれから、一度も会っていないだろう。ずっと、ちゃんと謝りたかったんだ」
「……上がれよ。散らかっているけどな」
玄関先にも雑草が生えているが、人が踏みつけて歩いた跡もある。少なくとも数日は、ここで暮らしていたのだろう。
「散らかっているけど、適当に座ってくれ」
通されたリビングには、ところせましと段ボールが置かれている。差し出されたビールをまだ仕事に戻るからと断われば、すぐにペットボトルに入ったお茶を渡された。二人とも、冷えたお茶を飲みながら言葉をさがしていた。
「引越し、するのか?」
「ああ、この家もう売るんだ。誰も住まないのにあってもなぁ」
「……そうか」
数年前にご両親が亡くなったことは知っていた。この年齢になれば珍しい事ではないが、家を処分してしまえばこの先田中に会う事は無いだろう。そう思うと、ホッとするような苛立つような気持になって、何度か誰も居ないこの家を見に来ていたのだ。会う勇気なんて、無かったくせに。
「仕事、どうなったんだ?」
「気になるか?」
ふっと顔をそらされた瞬間、目の前が真っ白になった感覚に襲われた。罪悪感で胸が押しつぶされそうだ。気になる、なんて言っても良い事なんだろうか。
「ああ、悪い! ちょっとからかっただけだよ。悪かった」
「は?」
「あれからな、お前の抜けた穴を埋めるのに必死でさ。以前一緒に働いていたヤツ何人かに連絡を取って、一人見つかったんだよ。ここだけの話、俺より5つも下で、頼りねぇなぁ、仕方ねぇなぁって思いながらもそいつに頼んだんだ。一時しのぎのつもりだった。それが、ソイツなんだか色々な所で上手く可愛がられるんだよ。経験も、人脈もあって、そこそこ仕事もできる。今でも大事なパートナーだ」
「って、ことは?」
「ああ、起業してからこっち、色々あったけど何とかうまく回っている」
「そう、か。そうか。良かった、良かったなぁ」
重苦しかった灰色の霧が晴れていく。田中の人生を台無しにしたのではないかと思っていたが、そうではないのだ。俺が、俺なんぞが心配して罪悪感を持たなくても良かったのだ。
「お前には、悪い事をしたと思っている」
『お前が』ではなく『お前には』の意味が分からない。悪い事をしたのは、こちらだ。勝手に夢を見て、踏み出す事に怯えて、直前に断ったのだ。困らせるのが分かっていて、やったのだ。
「お前が、迷っているのを知っていた。背負うものが山ほどあったお前が動けない事なんて、本当はわかっていたんだ。それなのに、俺は俺の意志を通したかった。お前の立場なんて、露ほども考えていなかったんだ」
「……」
「お前が来ない事、本当はわかっていたんだ。もし来ても、きっとお前は後悔する、俺も後悔する。それでも、どうしてかお前が良かったんだろうなぁ」
「どうして、だったんだ? 本当はあの頃からわからなかったんだ。俺には知識も経験もない、会社勤めなんて一度だってしたことがないんだ。どうして、俺だったんだ?」
「怒らないか?」
「ああ」
「お前、昔から約束は必ず守る律儀な奴だった。面倒な事でも、誰がサボっていてもお前はサボらなかった。お前なら、俺を裏切らないと思ったんだ。そんな奴が、俺にもいるって思いたかったんだろうな」
「……そうか」
俺は、新しい世界に踏み出す自信がなく、田中は誰かに頼る自信がなかったんだ。そんなオッサン二人でヨタヨタと踏み出そうなんて、甘い考えだった。
「でも、なぁ」
「ああ」
「お前が来てくれたなら、俺はきっと楽しく仕事ができたと、今でも思うよ」
「……俺は、商店街の八百屋のオヤジが性にあっているんだ」
そう。あの時迷ったのは、自信の無さよりも、家族の心配よりも、本当は八百屋のオヤジをやめたくないと思っていたんだ。新しい世界でスーツを着て働くことも、興味があった。魅力があった。それでも、今の生活を続けて年齢を重ねていくことにも魅力があったんだ。新しい世界にいく勇気が無かったのではなくて、今いる場所を捨てる勇気が無かったのだ。
「お前が上手く行っているのなら、良かったよ」
「ああ、ありがとう。実はな、この家を処分する前にお前に渡したいものがあったんだ。それで、さっき店に行ったんだけど、お前いなかったから……」
「それは、悪かったな」
田中が隣の部屋から持ってきたのは、捨てたはずのスーツにビジネスバックだ。間違えるはずがない。女房があれだけ時間をかけて選んでくれたのだ。でも、どうして。
「これ、な。お前が仕事を断りに来た次の日、お前の奥さんが持ってきたんだ。もらってほしいって」
「女房が?」
「ああ、お前が仕事をしたかった気持ちに嘘はなかった。仕事をしたいと思って買った物なのに、一度も使われる事なく捨てられるのではあまりに不憫だから、使ってくれないかってな」
思い出しているのだろう、カラカラと笑いながらくたびれたスーツとバックを俺に差し出した。
「一緒にやろうと言って、やらないと言って、迷惑かけた自覚がないのかと、腹がたったよ。でも、断っても断っても、お前の奥さん引かねぇんだ。玄関先から動かなくてさ、それで、仕方なく受け取ったんだ。使うつもりなんてなかった。捨ててやろうと思っていたんだ。でも、考えてみれば会社を立ち上げたばかりで金が無いし、商談はしなくちゃならないしでスーツもバッグもいくらあってもいい時期だった。迷惑料だと思って、ありがたく使わせてもらったよ」
「……」
「だいぶくたびれたけどな、お前に返したかったんだ。お前が選んだスーツとバックは、ちゃんと働いたぞってな」
ほら、と見せられたスーツは、言われた通り随分とくたびれているが、疲れ切ったその姿がなんだか誇らしげに見えてくる。
「そう、か。お前の仕事の役に立てたのなら、何よりだ」
色々なものが、ゆるゆると溶けだしていくのが分かる。滞っていた血液が、やっと身体中をめぐり始めたような気分だ。もう、いいのだ。間違ってなど、いなかったのだ。
『ありがとう』は言葉にならず、二人で黙って荒れ放題の庭を眺めていた。
「今日は、急に悪かったな」
「いや、来てくれて嬉しかったよ。ありがとうな」
さび付いた門がギィギィと音を立てて閉まるのを背中に聞きながら、軽くなった足は探しもの屋に向かっていく。『見つけて、手元に置きたいと思うのなら、それはまだ見つかっていないのと同じこと』薫の言っていた意味が、分かった気がする。このスーツもバックも、家に帰ることをなんて望んでいない。探しもの屋に置いてもらうのがいいだろう。
古くて重いドアを開ければ、カウベルが店主を呼びつけるように鳴り響く。ソファーに丸まっていたルナは、迷惑そうに耳を伏せた。
「おかえりなさい、会えましたか?」
カウンターの中では、薫がドリップケトルでコーヒーをいれていた。インスタントではない、コーヒーのいい香りが店に広がっている。
「ああ、おかげさまでな」
誰も居ないのをいいことにドッカとカウンターに座れば、コーヒーの香りは更に豊かに濃くなった。
「探しものも、な、あったんだ。でも、アンタが言うように、俺の手元に置きたくはならない。ここに、置いてもらぇねぇか?」
「ええ、もちろん。そこに、置いて置いていただけますか? 後で、ゆっくりウチの子として手入れをしますから」
言葉と同時くらいに、古澤の前にコーヒーが置かれた。懐かしい、いい香りがする。
「あなたが10年たって、後悔が無ければコーヒーを入れてあげる約束をしたのでしょう?」
「え?」
「少し、違いましたか? ああ、10年よりはずっと立ってしまっていますか?」
穏やかに笑う薫が、はなママに重なる。似てなどいない。似てなどいないのに、何故重なるのだ。
「アンタ、はなママとは……」
「ちょっとした、知り合いなんです。ここを引き継ぐときに、いくつか言伝を頼まれましてね、今のは、その一つです」
「……知りあい? どんな?」
「探しものが見つかって、良かったです」
にっこりと笑った薫に、古澤はそれ以上何も言えなかった。
「アンタ、なんかいいことあったの?」
「いや、別に?」
「そう? 嬉しそうにしているから」
「ああ、そうか……」
たまには楽をしようと、店が終わったら女房を連れて駅の側の焼き鳥屋に顔をだした。泡の立つビールを流し込んでいれば、女房が不思議そうな顔をしている。俺は普段、それだけ機嫌が悪いと言う事なのだろうか。
「田中に、あったんだ」
「……そう、元気だった?」
「ああ、元気だった。昔よりずっと、元気だった」
「そう」
「スーツもバックも、俺の代わりにしっかり働いていた。ありがとうな」
「……田中さん、喋ったのねぇ」
「ああ、ありがとう」
「捨てていいって言われてもねぇ。高かったしさぁ」
「ああ、良かったよ。田中の役に立てて、良かった」
「……」
「俺は、さぁ。親父みたいに、死ぬまで商店街のオヤジでいたい」
「そう」
「ああ」
『良かったね』と笑う女房はずいぶん年を取り、いつの間にか八百屋の若奥さんから女将さんに変わった。
商店街の八百屋だからこそ、二人で歩けた。子供が学校から店に来て宿題をし、仕事を抜けて学校行事に行き、社会に出ていくのを二人ゆっくりと見送ってやれた。冷暖房なんてない店先で季節を感じながら、人の家の毎日の献立に頭を悩ませ、美味しかったと笑って感謝してくれる人がいる。
俺の歩んだ毎日は、スーツを着て働く以上の価値があったし、俺はこの仕事が好きなのだ。




