告白
商店街の八百屋は閉店が早い。6時になったら片付け始めて、片付けが終わればシャッターを下ろす。
5時過ぎには商店街に現れた田中が、少し離れたベンチで珍しそうに店を閉める様子を眺めている。何が珍しいのかと、少しの苛立ちを覚えるのは、俺の心が狭いせいなのだろうか。
「友達が来ているんでしょう? あとはお義母さんとお義父さんとやっておくから、もういいわよ」
めったに呑みになど行かないせいか、女房はやたらに協力的だ。ニコニコしながら早く行けとせかしてくる。とてもじゃないが、気が乗らないとは言えない。
「行こうか?」
「いいのか? 店はまだやっているんだろう?」
「うちは夕食の材料を買いに来る主婦がメインだからな。仕事帰りのOLは、商店街で野菜なんて買わないだろう? あとは閉めるだけだ」
都会で働いているうちに、商店街が賑わう時間を忘れたのだろう。しきりに『早いなぁ』とか『健康的だなぁ』と感心している。高校生の時、部活帰りに総菜屋の閉店時間に間に合わなくてコロッケが食べられないとごねていたのは、もう遠い昔のことなのだろう。
「焼き鳥、お好み焼き、刺身、どれがいい?」
「何でも食べれる。ここらの呑み屋はよく知らないから、任せるよ」
駅の側にわずかに残った居酒屋は、どこもいい匂いがしており、中はガヤガヤと賑わっている。田舎の居酒屋は、終わりも早いが始まりも早い。
「いらっしゃい! おや、珍しいねぇ、友達かい?」
「ああ、幼なじみなんだ。奥、いいかい?」
焼き鳥屋のカウンターは人好きな常連客で賑わっている。静かすぎるよりはいいが、やはり幼なじみとの会話に入って来られるのは遠慮したい。奥にある小上がりは、3畳程度の和室で襖をしめることも出来るので店内は賑やかだが、会話を邪魔されることはない。座ると同時に出てきたビールに小鉢、商店街とはちょっと外れるがここも同士なのだ。
なんでも食べられるといった田中に甘えて、あれもこれもと適当に注文をして改めてジョッキを合わせた。
「久しぶりだなぁ。成人式以来じゃないのか?」
「そうだなぁ」
大学にはいった田中は、地元に帰ってくることはほとんどなかった。地元には友達もたくさんいて、親と仲が悪かったなんて話も聞いたことがない。帰りたくない事情があったわけではなく、都会の水があって、楽しく過ごしていたのだろう。現にこうして、成功して帰ってきた。
子供の頃には隣にいたが、いつまでも一緒ではないことぐらいは、わかっている。
「どうしてたんだ?大学、ちゃんと卒業したのか?」
「当然だろう? ちゃんと卒業して、ちゃんと就職したさ」
田中は、大学を卒業してからイベント会社に就職、紆余曲折あっても楽しく働いてきたようだ。10年を節目として、ふとこれからのことを考えて一度実家に戻りたいと有休休暇をとって帰ってきたのだという。これまでも、これからも、八百屋にしがみつくしかない暮らしとはずいぶん違う。羨望と妬みと嫉妬を、冷たいビールで流し込みことも情けない。
「お前は? どうしていた?」
「どうって、変わらないよ。商店街の八百屋のオヤジだ。仕入して、配達して、店で大声だして」
そう。毎日毎日同じことの繰り返し。都会でもそうなのだと聞くが、通勤時間もあるし、帰ってしまえば自分の時間も空間もあるが、商店街の小さな店ではそうはいかない。呑みに行くなら付き合いも考えて店を選ぶし、自宅だって店からそう離れていないから近所付き合いも大切にしている。主婦頼みの店なのだから、悪評が立てばあっという間に広がってしまう。
「八百屋のオヤジなんて、窮屈なもんだよ」
笑って見せるが、ちゃんと笑えているかは自信がない。
田中は少し考え込むようなしぐさを見せるが、それ以上は触れてこなかった。これが、大人になったという事なのだろうか。
「ああ、旨かったなぁ」
「それなら良かった」
連れて行った焼き鳥屋は、いつも賑わっていて旨いと評判だ。ただし、それはこの近所での事で、都会で通じるレベルではないのは承知している。正直、舌が肥えているだろう都会の住民を満足させられるか自信がなかったが、昔のように『旨かった』と言ってくれた田中にホッとする。
「お前、なんで帰ってきたんだ?」
昨日見た時から、何か違和感があった。
「なんだよ、帰ってきたらいけないのか? 俺の地元だろう?」
茶化すような口調だが、その目は落ち着かない。ああ、こんな所で変わっていない事を見つけてしまった。
「悪くなんてないさ。仲間が増えるんだ、帰ってくるのならむしろ歓迎するよ。でも、良いのか?」
「……かなわねぇなぁ、なんで、わかった?」
「……お前が俺一人を呼び出したから、かな?」
昔から、田中は考え込んでる時には俺だけを呼び出した。特に相談をされることも愚痴を聞くことも無かったが、俺の隣で勝手に頭の整理をしている。子供の頃の俺は、何度も何度も、田中の頭の整理に付き合っていた。
「そう、かぁ。俺もかわらねぇんだなぁ。今回も、なんだか無性にお前の顔が見たくなってな」
さっきまで上機嫌に話していたのが嘘のように、申し訳なさそうに下を向く。
「わざわざこんな田舎に帰ってきたんだ。全部聞いてやるから、話していけよ」
誰も居ない商店街のアーケードを進み、店のシャッターを少しだけ開けて、休憩室に招きいれた。焼き鳥屋の小上がりよりも少しだけ広い部屋に、トイレと小さなキッチンがあるだけの簡素な部屋。田中に誘われたと知った母が、黙って冷蔵庫にビールを大量に押し込んでいた。
「なつかしいなぁ」
そうだろう? と笑ってビールを手渡せば、喉を鳴らして飲み始める。勢いの必要な話なのだろう。
「仕事、もう辞めるんだ。今は有休消化中だから、まだ籍はあるけど、それだけ。もう手続きも終わったし、来月いっぱいで、本当にいなくなる」
「そうか」
「10年、ずっと頑張ってきたんだ。怒鳴られたことも、会社に損害を出したこともある。でも、その分成果もあげてきた。俺を名指しで来る仕事だって少なくないし、ここ数年は成績だって常に上位に入っていたんだ」
「ああ」
「社内に、彼女がいたんだ。その子が新入社員で入ってきてからずっと、好きだった。俺からアプローチして、付き合い始めて、もう6年になる。何度か結婚の話もでたけど、彼女が、まだ自信がないというから、俺はずっと待っていたんだ」
「ああ」
「彼女が昇進していくのも本当に喜ばしかった。頑張っているのを知っていたから、嬉しかった。俺とは別の部署になった時も、俺よりも役職が上になった時も、彼女の努力が実ったことを一緒に喜んだんだ」
「……」
「先月、長期の契約の話があったんだ。昔から親しくしてくれているクライアントで、俺を指名してくれていた。それが、いつの間にか上司も契約に同席することになっていて、気がついたら上司の成績になっていた。よくあることだ。クライアントには影響はないし、俺が窓口になることも変わらない。飲み込んださ。でも、なぁ」
「彼女、その上司と付き合っていたんだ」
「そう、か」
「俺が入社したときには上司はすでに既婚者だったし、子供もいる。それなのに、彼女は俺と付き合ってすぐに、上司とも付き合っていたんだ。俺の情報は、彼女を通してアイツに知られていたし、彼女の昇進だって、彼女だけの力ではなかったんだ。なんだか、バカバカしくなっちまってなぁ」
思うままに言葉を吐き出し、乾いた笑い声をあげる田中が、昔の姿と重なった。自分が決めたことには、真直ぐに努力ができる男だった。仕事も、恋愛も、真直ぐに努力したんだろう。
でも、その努力は報われなかった。
「10年、ずっとガツガツやってきたのに、何言われても平気だったのに、なんだか急に糸が切れたみたいになってな。俺の努力は、少しずつ少しづつ、彼女にも上司にもかすめ取られていたんだなって、な」
「大人になれば、努力が報われない事も、ある」
「そうだな」
もう、乾いた笑い声すらも聞こえない。ビールを流し込む喉の音だけが、静かな部屋の中で妙に大きく響いている。
「今日は、帰るよ」
「そうか」
静まり返った商店街に、シャッターを下ろす音が怖いぐらいに響いている。まるで何かを壊すように、守るように。
「ありがとうな。しばらく暇だから、また呑もうぜ。休みはいつだ?」
「日曜」
「客商売なのに、日曜?」
「ああ、商店街なんて日曜は客が少ないから親父とおふくろで足りるんだ。俺達は日曜、親父達は火曜に休んでいる」
「そうか。いいなぁ、自営業は」
「……そう見えるか?」
「ああ、敵と味方がはっきりしている。それだけで、充分だ」
敵と、味方。確かに、一緒に働く親も女房も味方だ。出し抜かれる事も裏切られる事も無いだろう。敵は、大型スーパーか? 商店街の連中は仲間って所か。
「そんな風に考えたことは無かったが、そうか、敵と味方が……」
「ああ、いいなぁ」
アルコールのせいで赤くなった目と震えた声で羨む田中に、なにも答えられなかった。味方だからこそ、辛い事もあると今の田中にはとても言えない。空の見えない商店街をトボトボと歩く田中の背中を黙って見送った。