新しい香り
「MURU、あったのですか?」
遠慮がちなカウベルの音を追い越して、幸子の声が探しもの屋に響き渡る。穏やかな光が差し込む探しもの屋のカウンターでは薫とルナが穏やかに笑っており、店内にはコーヒーの柔らかな香りが漂っていた。
「ええ、少しだけですが、手に入りましたよ」
にっこりと笑った薫が指した場所には、小さな小さな、小瓶。
それは良心的なフレグランスショップでサンプルとして渡されるような、数回分の香水が入ったものだ。以前と同じように使ったのなら2日もたたずになくなってしまうだろう。それでも、もう一度あの香りをまとうことができると思うと胸が震えた。
これがあれば、これさえあれば、もう悩まずにすむ。幸子の震える手が小瓶にむかってのびていく。
手に入る。そう思った瞬間に、薫がすっと小瓶を手に取ってしまった。
「この香りを手に入れて、あなたはどうするつもりなのか、伺えますか?」
長い指でMURUの入った小瓶を隠すようにした薫に、幸子はただただ困惑した。願って願ったMURUが手に入る。願いを知っているはずの薫が、どうして?
「どう、とは?」
「あなたの望むままで良いのです。焦がれて望んだ香りは、あなたの味方です。味方を得て、あなたはどうしたいのでしょう?」
「味方?」
香りが、味方。ならば敵は?
幸子の頭には、薫の言葉が緩やかに広がっていく。白い霧のように、夜の闇のように、隙間なく広がり不安をあおる。手を伸ばせずにいる幸子に、薫が柔らかく笑った。
「味方を手に入れてあなたが何をするのか、楽しみにしています。必ず、結果を教えてくださいね」
その言葉は、不思議なほどに頭の中にゆったりゆったりと広がっていく。
どうやって帰ってきたのか、気がついた時には自宅のリビングにいた。お金を払ったのかも覚えていないが、小瓶は間違いなく幸子のバックで存在感を主張している。
ぼんやりとソファーに座って動かない幸子に代わり、母が夕食の支度をしてくれている。真奈美も夫も好きな唐揚げの山をテーブルに並べながら、こらえきれないように幾度となく溜息をつく母。母の意図はくみ取れるのに、幸子の身体は動かない。バックの中に忍ばせたMURUの小瓶が、幸子の動き全てを止めてしまったようだ。母親であることも、妻であることも。
自分がどうしたいのかなど、全く想像もつかない。動きたくない、母として妻としてこのままでいたいからこそ探していたMURUなのだ。
それでも、MURUの香りをまとったのなら、動き出してしまうのだろうか。
あの香りに包まれて笑っていた頃の自分なら、違う香りに気づかないふりを続けるなんて想像もしていなかっただろう。
あんなに欲しかったのは、どうしてなのだろう。
手に入れて、何がしたかったのだろう。
MURUが見つかった今になって、自分の気持ちが分からない。
「何かあったのか?」
お酒の匂いをさせて帰ってきた夫が、不満そうに呟いた。幸子がいるのに、子守と家事をしに母が来た事が気に入らないのだろう、夫が帰宅したのは日付が変わるころだった。
「ちょっと……。予定が狂ってしまって、間に合わなかったの」
「ふぅん」
不満気な声だが、それ以上の言葉は出てこない。いっそ言葉にすればいいのだ。仕事を持たない母親なのだから家にいるのは当然だと、何をしていたのだと、そうすれば……。
「俺はもう寝るよ。お前も早く休んだらいい」
気遣いを見せるような言葉と、これ以上話す気はないと言いたげな声。幸子の横を通るその瞬間、お酒の匂いに混じった甘い香りが鼻をくすぐった。
「この香り、誰の?」
思わず、夫の袖をつかんでいた。一瞬驚いた顔をした夫は、怒ったように幸子の手を振りほどこうとした。
「香りって、なんだよ。店でついたのかもしれないけど、お前が気にするようなもんじゃないよ」
「側にいるだけで、こんなに移らないでしょう? この間も、この香り。何度も、何度も、ずっとこの香りなの!」
「移ったんだろう? お前、おかしいぞ」
「おかしくなんて……」
それ以上、言葉が出てこない。涙すらも出てこない。
幸子がMURUを使い始めてから、彼に香りが移ったのはいつごろからだろう。恋人の距離だからこそ、彼にも香りが移ったのだ。側にいるだけでうつるはずなんてない。
次の言葉を探せずに手を離した幸子に、ホッとしたように夫は背を向けた。
「疲れているんだよ」
すぐ前を歩く夫の背中が、ドアの閉まる音が、遠い。
あの日と同じようにソファーに座ったまま、ぼんやりと時計を眺めている。これまで彼と過ごした時間は何だったんだろう。
守ってきたものは、話し合う事すらしない関係なのか。
何を、何から守ってきたというのか、それすらわからない。わからないままで、ここまで来てしまった。
規則正しく動き続ける時計を見つめながら、バッグの中の小瓶に手を伸ばした。
甘く幸福な香りが幸子を包む。『味方を手に入れて』『何をするのか』自分でもわからないのに、足は止まることなく寝室へと向かってしまう。
「起きて、いるんでしょう?」
眠っているはずがない。あんな言葉を聞いて、眠る事などできない人だというのは幸子がよく知っている。そんなところまでは、変わってはいないのだ。
だが、寝息は聞こえないが返事も聞こえない。幸子が諦めるのを待つように息を殺しているのが伝わる。
「返事くらい、したらどうなの?」
苛立った幸子は『味方』である小瓶を夫の顔に投げつけた。甘く幸福な香りが立ち上るのと同時に、夫の苛立ちが部屋の中に満ちていくのが分かる。
でも、もう止まらない。物わかりのいい妻でなどいられない。
目の前が滲む。声がかすれる。真奈美が起きてしまうと思うのに、声を抑える事ができない。
「あなたは、私の夫でしょう? 私の夫がどうして他のオンナの香水をつけてくるの?」
夫の自分を守るための苛立ちが、戸惑いに変わっていくのが分かる。息を飲んだ夫がMURUの香りに包まれている。
やっとわかった。MURUの香りを追い求めたのは、彼に愛されていた時の香りだからだ。もう一度MURUの香りをまとって、あの頃のように彼に愛されているという自信を持ちたかった。生涯一緒にいようと思ったあの時の自分を、間違ってなどいないと思い続けたかった。
「夫婦でいられないのに、家族ではいられない……」
幸子が静かに寝室のドアを閉めるのを、夫は引き留める事もなかった。
寝室をでたところで、この家からは出られない。明日も真奈美の学校があるのだからいつも通りに朝食を作って学校へ送り出して、掃除をして洗濯をして。いつもの毎日がまた始まる。他のオンナの香りをつけてきた夫。家族として夫婦としてやっていける自信などないのに、幸子の行く場所なんて他にない。
情けなかった。たまらなく情けなく、悔しかった。
変わらない日々。変わらない生活。
どんな想いを抱いていても、何も変わらない事がやりきれない。
「いらっしゃませ」
探しもの屋では、いつものように薫とルナが笑っており、カウンターには今日も誰一人座っていない。
「あの、結果を……」
幸子自身も、おかしなことをしていると思っている。香りを手に入れて幸子がすることなど、薫には関わりのない事。教える義理も、聞いてやる義理もない。そもそも結果を聞きたがったのだって、本心だったわけではないだろう。それでも、幸子は薫に聞いて欲しかった。
「お待ちしていました。どうぞ」
本心から待っていてくれたのではないかと思える穏やかな笑顔でカウンターをすすめられ、初めて来た日と同じ、アッサムティーの香りがゆったりと幸子の胸をほぐしてくれる。
「香りは、あなたの味方になってくれましたか?」
「味方……」
味方だったのだろうか。夫に感情をぶつける事は出来たが、それが正しかったのかはわからない。飲み込むよりは、良かったのだろうか。
ポツリ、ポツリとあの日の出来事を話し始めた。
「『夫婦でいられない』のは、夫も思っている事かもしれません」
「そうですかねぇ」
「それでも、夫婦でいないといけないものなのでしょうか」
「夫婦でなくなる方も、多いと聞きますよ」
穏やかな声が、幸子の胸に刺さる。わかっている。幸子が決断をすればこの苦しさは消える。
ごまかすように、すがるように、カウンターで香箱を組んでいる艶やかな黒い被毛に手を滑らした。満月のように黄金色に輝く瞳が、真直ぐに幸子を見据えている。
「帰ります。もうすぐ娘が帰ってくる時間なので」
「ああ、あの後すぐにまたMURUが手に入りましてね、こちらもどうぞお持ちください」
もう、MURUなど欲しくはない。そう思うのに、目の前に出された小瓶から目が離せない。欲しがっていた理由も、本当に欲しい物はもう手に入らないことも、わかっているのに。
「あなたが好きなMURUの香りは、きっとあなたの事も好きなのですよ。最後にあなたにまとってほしいのではないでしょうか」
「……」
「香りは、あなたの味方です」
「ありがとうございます。いただいていきます」
幸子は軽く頭を下げて、小瓶をバックにしまった。味方がいる。それだけですごくすごく安心できる。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
あの日から、幸子は寝室で眠ることはなかった。夫も真奈美が眠ってから帰ってくるので夜は顔を合わせる事も無い。でも、最後の話し合いにと幸子が選んだのは、夫婦になったその日から使っていた寝室だ。
何度窓を開け放しても、あの日投げつけて零れたMURUの香りが残っている。この香りすらも、味方になってくれるのだろうか。
気まずそうにスーツを脱いだ夫の背に、部屋に残ったMURUの香りが薄れていくのが分かる。それでも、探しもの屋からもらってきたMURUをまとった幸子は落ち着いていた。もう、以前のように感情だけをぶつける事はしないと、決めたのだから。
「私は、あなたが好きで夫婦になったの。 あなたが私を好きだから、夫婦になったの。その気持ちは、これまでずっと変わっていない」
とっくにスーツは脱いでいるのにこちらを向かない夫の背中に声をかける。MURUの甘い香りに包まれながら、愛されていた自分の誇りを思い出しながら、言葉を紡ぐ。
「私は、他の女性の香りをまとうあなたを、夫だとは思えない」
どれだけ待っても、夫からの言葉は帰って来ない。ここに居るのは本当に夫なのだろうか。あれだけ愛を語った夫は、娘の父親ではあるが、幸子の夫ではなくなってしまったのではないだろうか。
「仕事を、探そうと思っています」
一瞬、夫の肩が揺れたが振り返る事はない。これが答えなのだろう。最後に甘い香りを胸に吸い込んで、幸子は静かに寝室のドアを閉めた。
「おはよう! 早く顔を洗ってきなさい」
いつも通りの朝。寝ぼけ眼の真奈美を急き立てて朝食を食べさせ、夫を起こす。昨日の事など無かったように笑顔を作れる自分を情けなくも誇らしいと思えるのは、かすかに残るMURUの香りのおかげかもしれない。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ゴミを出すついでに、真奈美を送りだす。夫が家を出るまでの数十分をどう過ごそうかと考えながら玄関に戻れば、夫がそこに立ち尽くしていた。気まずいのは夫も同じだ。この家にいるよりも会社の方が落ち着くのだろう。
「もう出るのね。行ってらっしゃい」
道を譲るように、身体を玄関の端に寄せたが夫の動く気配はない。微動だにしない夫が何をしたいのかわからないが、気まずい事に変わりはない。夫の脇を通り過ぎて、家の中に入った幸子の背中を夫の声が追ってきた。
「すまなかった」
「……」
「謝って済む事ではないのかもしれない。でも、申し訳なかった」
振り向かなくても、夫が頭を下げているのが分かる。急に、MURUの香りが立ち上る。
「お前と、夫婦でいたい」
『夫婦でいたい』欲しかったのは、この言葉だったのかもしれない。あんなに眠れぬ夜を過ごしたのに、悔しくて情けなくて、もう消えてしまいたいとすら思えたのに、全てが甘い香りに溶けていく。
昨夜は一滴すら流れなかった涙が、今零れた。
「これを、いただけますか?」
歓楽街の側にある小さなフレグランスショップ。年配の女性店主は幸子が指した香水を不安そうに手に取った。
「こちらで、いいのですか?」
「以前は、大変に失礼をしました。この香りも、素敵だなと思いまして」
恥ずかしそうに笑った幸子に、店主も微笑む。
「ええ、大人の香りです。何もかも包み込める、大人のね」
穏やかに微笑む店主が、大切そうに香水を包んでくれる。自宅用だと言ったのに、香水は自分に送るモノだからと丁寧にラッピングをされた。
悔しく、情けなく、やりきれなかった思いはきっと忘れる事は無いだろう。それでも、新しい香りをまとiいながら胸を張って歩みたいと思えるのは、MURUに包まれた日々があるから。
MURUに包まれた日々は、生涯幸子の誇りだ。