香りの重さ
探しもの屋を出た松本幸子は、足早に駅に向かっていた。店に入るのを随分ためらったせいで予定よりもだいぶん遅くなってしまった。早くしないと、娘が小学校から帰ってきてしまう。娘は学校帰りに母親がいなければ、どこに行っていたのかとしつこく聞くだろうし、夫にもそれを伝えるだろう。娘を溺愛している夫のことだ。母親である自分が香水を探して家を留守にし、娘が家に入れなかったなんてしったら眉を顰めるに決まっている。だからと言って、上手にごまかす事など不器用な自分には出来そうにない。できる事と言えば、ただひたすらに家へ急ぐことだけ。
「ただいまぁ」
息を切らせて自宅に帰り、いつもと同じようにコーヒーを入れた瞬間、玄関に娘の間延びした声が響いた。ギリギリとはいえ、間に合った。後は、いつもと同じように。
「おかえりなさい。今日は誰か遊びに来るの?」
「うん、今日は結衣ちゃんと咲良ちゃん」
赤ん坊だった娘は、小学生になった途端に世界が広がり、自分で友達と約束をしてくることが増えてきた。専業主婦の少ない時代、母親が家にいる我が家は格好の遊び場だ。負担に思うこともあるが、それぞれの母親たちから感謝もされるし、何よりも娘の交友関係を把握できるので喜んで引き受けている。
「そう。お母さん今日ちょっと頭が痛くて。おやつを食べたら真奈美の部屋で遊んでくれる?」
一人娘の真奈美はめったにない幸子の不調に一瞬不安そうな顔をしたが「少し休めば治るから」の言葉に安心したように元気に頷いた。幸子は、すぐに来るだろう娘の友達の為にお茶とお菓子を用意して、娘には少しの間でも宿題をするようにと伝えた。
「こんにちはぁ」
「こんにちは、結衣ちゃん、咲良ちゃん。おやつがあるから先に手を洗ってね」
「はぁい」
何度も遊びに来ている子供達は勝手知った物で、すぐに洗面所へと向かう。子供の靴をそろえようとしたとたん、甘い香りが鼻をくすぐった。
「ねぇ、誰か、香水つけている?」
震えそうな声を何とか抑えて、おやつのドーナツをほおばる子供達に声をかけると、咲良ちゃんの手が元気一杯に上がった。
「ママの香水なの。今日咲良にもつけてもらったんだ」
「ママの……。そう、本当、いい香りね」
同じ年の子供がいる母親なのに、香水をつけている女性もいるのか。咲良は保育園出身なので、幼い時から母親は外で働いていたと聞く。授業参観で何度か顔を合わせたことがある咲良の母は、年齢は幸子よりも少し上に見えだが、品のあるメイクとファッションをした『綺麗なお母さん』だった。
ほとんどしていないメイクに、着心地の良さを優先したファッション。女性であることから一歩引いた自分が情けなかったが、彼女は外に出る女性、自分は子供の側にいる女性なのだからと自分に言い訳をして情けなさから目を背けた。それを、いま後悔しているのだろうか。
飲み込みがたい感情が後悔なのか、嫉妬なのかもわからず、曖昧に笑う事しかできない。甘い香りから逃れるようにリビングを離れ、寝室で横になると涙が滲んできた。
今日はもうこのまま眠ってしまいたいと思うのに、夕食は何を作ろうかと考えてしまう自分もいる。こんな時でも母親というのは自分だけの為には動けない。
初めて、この家から、母であることから逃げだしたいと思った。
「どうかしたのか?」
夫はいつものように晩酌をしながら訪ねてきた。夕食に用意したのは
オムライスにコーンスープ。真奈美は大好物だが、ケチャップ味を嫌う夫が渋い顔をするのはわかっていた。いつもなら、夫の為には白いご飯に簡単なおかずを作るのだが、今日は夫の分は総菜を買ってしまった。ささやかな嫌がらせなどではなく、どうしても夫の為に料理をすることができなかったのだ。
「ごめんなさい。頭が痛くて2種類の食事は作れなくて……」
「それなら親子丼にでもしてくれればいいのに」
不満そうに出来合いの焼き魚をつつきながらわざとらしく溜息をつく夫に、重い感情が沸きあがる。それが悲しみなのか悔しさなのか、惨めさなのか、幸子にもわからない。
香水をつけて帰った夜は、誰と何を食べたのか。聞きたいことが、重しとなって胸に沈んでいく。
真奈美が幼い頃は、夫が一人で寝室を使い幸子は娘と眠っていた。赤ん坊の夜泣きに付き合わされて仕事に支障がでないようにとの幸子からの提案だった。それが、娘が小学生になった途端、夫が娘を一人で寝かせたらどうかと言い出した。娘も、小学校でできた友達も、一人で眠っているから大丈夫だとすんなり受け入れ、幸子は夫のいる寝室で昔のように夫と眠るようになった。数年ぶりに戻った夫婦の寝室はすっかり夫の自室となっており、どことなく肩身が狭く、数年ぶりの夫の横は中々眠れない。
最近、やっと慣れてきたところだったのに。
眠れずに何度か寝がえりをうつ幸子に夫が静かに溜息をもらす。互いの不満を言葉にすることのできない夜は、長い。それでも、そんな夜を何度も何度も越えて、夫婦になっていくのだろうと幸子は信じている。
「MURU、ですか? もうないですねぇ」
もう何度目かわからない同じ会話。勧められる香水も、代わり映えの無い甘い香り。探しもの屋に依頼をしてもなお、幸子は毎日フレグランスショップを回っていた。古くからあるお店なら、いっそ大型スーパーのフレグランスコーナーならまだ残っているのでは? そんな期待を持っては落胆して帰って来ることを繰り返している。
「ううん、印象の強い香水ですから、同じ印象を求めるのは難しいかもしれませんねぇ」
歓楽街の側にある小さなフレグランスショップで年配の女性店主に言われたのは、諦めろという事なのだろう。返事も出来ずにうつむいた幸子に、女性は続ける。
「年代によって似合うメイクやファッションが変わるように、似合う香りも求める香りも変わります。MURUは確かに素敵な香りでしたけど、今のお客様ならもっと落ち着いた香りも似合うと思いますよ」
店主がすすめてくれた香水は、これまでのものとは違っていた。甘さは控えめだが、穏やかで、落ち着いている。上品な、大人の香り。
「香りも人を選びますから、これ、若い女性にはおススメできないんです」
にっこりと笑った店主に悪気なんて欠片も見当たらない。だが、もう若くないのだと言われたようでムッとした。
「私が欲しいのは、MURUなんです」
思わず口をついて出たのは、指すほどの強い言葉。わかっている。もう無いのだとわかっている。それでも、彼があの時嬉しそうに渡してくれたMURUを、幸せな時間を閉じ込めたような香りを、諦める事などできない。
「……もう、廃盤ですから」
困ったような店主の声が、情けない。
逃げるように店を出て、気が付けばリビングだった。もうすぐ、真奈美が帰ってくる。
また、咲良ちゃんも遊びに来るのだろうか。あの子の家は、甘い香りがするのだろうか。どうしてもどうしても、あの香りが嫌なのに逃げる事などできない。どうして苦しいのか、何を求めているのか、わからない。私はどうしてここに居るの?
「MURUの香りが、見つかりました。いつ頃来れますか?」
探しもの屋を訪れて数週間。望んで望んで、待ち焦がれた回答に足が震えた。
「すぐに行きます。今日、これから」
探しもの屋へは、どんなに急いでも1時間はかかる。これから向かえば、真奈美が帰るまでに家に帰れない事はわかっているのに、幸子は迷いなく返事をしてしまった。
真奈美が学校から帰るまで、あと2時間。どうしたって間に合わない。真奈美が帰るまでに幸子が家にいなかったことはまだないので、真奈美は鍵を持っていない。
迷った幸子は、近くに住む母に電話をした。実家までは車で30分もかからないから、運転の出来る母にとっては大した距離ではないだろう。何かあったのかと不思議そうにする母に苛立ちながらも友人と話し込んでしまったので間に合わないと嘘をついた。
「まぁ、母親にも息抜きは必要よねぇ」
呆れたような母の声。そんな意図はないのだろうが、『母としての自覚がない』と言われた気がした。MURUを捨てられた時に聞こえてきた、無意識の声。あれは誰の声だったのだろう。