裏切りの香り
「あの日、会社の送別会があるから食事はいらないと言われました。そんなことはよくありますし、いつもなら夫の帰りなんて待たずに先に眠ってしまうのですが、どうしてかあの日は気になってしまって。せめてベッドに入ってしまえばよかったのに、娘が眠ってからも雑誌をいくつも読みながら待っていたんです」
息を飲み、落ち着かずに何度も両手を組み替えて言葉を探している。赤くなりかけた目は、まっすぐにティーカップを見つめていた。
「紅茶のお代わりをどうぞ。レディ・グレイです。こちらはストレートがお勧めですが、大丈夫ですか?」
何度も組み替えた手の少し先に置かれた紅茶からは穏やかな香りが立ち上り、きつく組まれた指先が少しづつ緩んでいくのを感じる。暖かい紅茶を飲んで少し落ちついたのか、震えていた声は平静を取り戻し、再度、淡々と語り始めた。
「おかえりなさい。何か呑む?」
読んでいた雑誌を閉じて立ち上がった妻を見て夫は明らかに動揺している。寝ていなかったのか、と小さく呟いたのは聞こえなかったことにした妻は、黙って冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。
「ありがとう。まだ、寝ていなかったのか?」
「夕方にコーヒーを飲んじゃって、眠れなかったの」
『眠っていた方が都合がよかったの?』喉まで出かかった言葉を必死で飲み込み、何でもないように微笑んだ、つもりだった。
上手く笑えていただろうか。目の前にいる夫が、知らない人のような気がする。どうして、こんな風に思うのかわからない。ただ、いつもと違う。何かが、違う。その思いがトゲのように胸に刺さって抜けない。『おかしい、確かめたい』と思う心と『知りたくない、このまま眠ってしまいたい』と思う心が戦っている。
「明日も仕事でしょう? 早くシャワーを浴びて眠ったら? 私はもう少しこれを読んでから眠るから」
自分の本心が分からず、その場を取り繕うためだけに夫から目をそらすことを選んだのは、母としての強さだったのか妻としての弱さだったのか。夫がホッとしたように息を吐いた、気がした。
シャワーを浴びた夫が寝室に行ってからも、たっぷり1時間は雑誌を広げていた。もう何度も同じページを開いていたし、どれだけ読んだところで、何も頭になんて入ってこないのに。
もう夫は眠っただろうか、このぐらい時間を空ければもういいだろうかと思いながら脱衣カゴのある洗面所へと向かった。カゴの中に無造作に入れられた夫の服からは、匂いだけでも酔ってしまうほどのお酒の香りと、ほんのわずかな、バニラのような甘い香り。
自分でも香水を使っていた頃ならば気が付かなかったようなわずかな香りだ。皮肉にも、もう何年も香水の香りから離れていたせいで気が付いてしまった。
夫のシャツに残った香りがたまらなく悔しかった。
女性であることよりも母である事を選んだ結果がこれか。
家事をこなし、子を育てる女性よりも、美しく香る女性の方が、夫にとってはずっと価値があるというのか。
悔しくて、情けなくて、羨ましかった。
羨ましい事が、悲しかった。
「ご主人には、そのことは?」
哀れみも慰めもない薫の声は、ただ事実だけを確認したがっている。
「言えるわけありません。夫だって、なにも家庭を壊すつもりなんてないのでしょう。それなら、言葉にすることは得策ではありませんから」
「得策ではない……。ならば、どういったものが得策だったのでしょう?」
「何も気づかなかったことにして、夫が飽きるのを待ちます。誰も気づかなければいいのです」
「気づかなければ?」
「ええ。私も香水をつけていれば、きっとあんな香り気がつかない」
翌日、娘を学校に行かせてからフレグランスショップに向った。最後にMURUを買ったのは、妊娠するよりも前だからもう10年近く前のこと。ボトルも色も変わっているかもしれないと思いショップに入ってすぐに店員に声をかける。
「MURU、ですか? あれは数年前に廃盤になったんです。少し前までは在庫を持っているお店もあったみたいですけど、うちはないですねぇ」
廃盤……。
考えたことも無かった。
女性として一番輝いていたときの香水が無くなってしまった?
もう、女性としての自分には価値がないと言われたような気がして、鼻の奥に昨夜のバニラの香りが蘇ってきた。
「似た香りの物がいくつかあるので試してみますか?」
ショックで茫然としていると店員がにこやかにいくつかのサンプルを持ってきた。でも、どれも違う。甘く爽やかなMURUの香りとは似ても似つかない。
その日、4件のフレグランスショップを回ったがどこも同じ回答、代わりにと提案される香水すら同じものだった。
「ネットでも探したのですが、見つからなくて」
「ご主人には伝えました? ご主人も気に入っていた香りなのでしょう?」
「いいえ。主人には、今更香水が欲しいだなんて、言えません。こんな年齢なのに」
「そんなものでしょうか?」
真直ぐに放たれた薫の言葉に、カウンターに組まれた指がピクリと跳ね、ルナの黄金色の瞳が興味深げに大きく開かれた。
「MURUの香りを、探していただけませんか?」
絞り出すような声を追って、ルナの尻尾がゆらりと揺れる。
「かしこまりました。必ず探しましょう」
にっこりとほほ笑んだ薫に、客人は安心したように深く深く息を吐いた。
「『松本 幸子』さん」
カウンターに残されたメモ用紙には先ほどまで溜息をついていた客人の名前と連絡先、香水の名前が書かれている。薫はゆっくりと一つ一つの文字をなぞり、ルナがその指先にじゃれつくように手を出していた。