大好きな香り
古い商店街の外れにある小さな扉。『探しものみつけます』の看板の前を一人の女性が行ったり来たりしている。
今は中々見ることの無い、視線の位置にスモークの張られた窓ガラスが気軽には入れない雰囲気を醸し出し、商店街の外れという立地がさらに不安をあおっているのだ。
「ルナ、気が付いていますか?」
黒い窓から、こそこそと中をうかがいながら何度も行き来する女性。その姿をずっとカウンターから眺めていた薫は、ソファーで丸まってくつろぐ黒猫に声をかける。丸まったままの黒猫の耳はピクピクと動き、長い尻尾は不機嫌そうにユラユラと揺れる。どうやら、気が付いても動く気は無いらしい。
「ルナ、お客様ですよ?」
薫に手を叩かれれば、仕方がないと言わんばかりに立ち上がるとノソノソと窓枠に座った。もう何度目になるのか窓から店内を覗いた女性を黄金色の瞳が捕らえる。
愛くるしい招き猫に導かれるように、ようやく探しもの屋のカウベルがなった。
「いらっしゃいませ」
「なんでも、探してくださるって聞いたのですが…」
「はい。心からの探しものでしたら何でも」
「まだ、お願いするかわからないんですけど…」
「かまいませんよ」
カウンターにティーポットを置き、座るように促せば新しい客は低くて重いカウンターチェアに恐る恐る腰をかけた。
「素敵な香りですね」
「アッサムティーです。ミルクと一緒にどうぞ」
ミルクポットには暖められたミルクが入っている。長時間外にいて冷えた身体を労わってくれているのを知って、少し居心地の悪い思いをしながらアッサムティーから立ち上る香りを身体の奥深くまでしみこませる。
「アッサムの香りは、気に入りましたか?」
「とても、強い香りですね」
両手でティーカップを包み、アッサムティーから立ち上る香りに頬を緩ませる。
ルナは客の隣の席に丸くなり、黄金色の瞳を閉じた。薫はカウンターの端で何やら書き物を始め、特に話しを促すことはない。カウンターに座った女性は薫に話しかけようとしては口をつぐみ、紅茶に口をつける動作を何度も何度も繰り返していた。不安そうな、縋るような瞳があちこちにさまよっている。
ついに紅茶が無くなり、客は持て余したようにルナにそっと手を伸ばした。恐る恐る触れた手に反応するようにゆっくりと黄金色の瞳が開かれる。
「猫は、お好きですか?」
「ええ、とても。でも、最近はどこの猫ちゃんも外に出ないでしょう? 見かける事も無くなって寂しいなって思っていたんです」
「そういえば、今は猫を外に出さないから自分の家に猫がいないと見ることもないですね。昔は、猫といえば気ままに外出するもでしたのにねぇ」
「このコも外には出さないのですか?」
「ルナは、自分で出ていきたいときに出ていきます。でも外があまり好きではないようで、私と一緒でないとあまり外には行きませんねぇ」
出不精なんですよね、の言葉に反応したようにルナの長い尾がカウンターを下から叩く。
「このお店、いい香りがしますね」
「そうですね。紅茶やコーヒーの香りが混ざって、調度よくなっているんです。長く喫茶店をしているお店ですからねぇ」
なるほど、と客は長年の香りを閉じ込めた店内を改めて見まわした。
「香りが、お好きなんですね。何かこだわりでも?」
「こだわりというほどではないのですが、香りは好きです。いい香りに包まれているとホッとできるでしょう?」
「人にも、香りにもよるでしょうねぇ」
まるで否定するかのような薫の言葉に、客はしょんぼりとうつむいた。
「探しているのは、香りなんです」
消え入りそうな小さな声に、ルナの耳がピクリと動く。
「香り、ですか?」
「はい。MURUという香水を」
「MURU……。どんな香りだったのでしょう?」
「もう十年以上前、当時恋人だった主人が海外出張のお土産にとくれたのがMURUという香水です。甘すぎず爽やかで、大好きな香りでした。あんまりいつもつけているから私の服も部屋もその香りが沁みついていたぐらい気に入っていたんです。当時は日本では販売もしていなかったので輸入品を扱っているお店を見つけて取り寄せてもらって、何年もMURUを使っていました。もちろん、結婚式のときも、結婚してからも、毎日。主人も、MURUの香りが落ち着くと言ってくれて、香りに包まれていつも笑っていました」
「それが、子供が産まれた時に義母に香水を捨てられたんです。退院して来たらMURUが無くて……。小さな子供を抱くのに、香水をつけるなんてよくない、と」
カウンターで組まれた手に力が入ったのが見てわかる。
「主人も私の母も、同じことを言いました。子供を抱くのなんて数年間なんだからと。私もその時はそんなものかと思ってしまったんです」
義母がいうとおりだ。確かに、赤ん坊と肌を合わせる時期に香水は良くないだろう。子供を大事に思うなら、母親になって数年はメイクもファッションも、香水すらも自由につけられないのは当然なのだろう。赤ん坊も可愛かったし、家族みんなに『母親になること』を求められ、女性としての自分はちょっと休もう。休むだけだと、そう思った。お気に入りの香水を黙って捨てられたことは悔しかったが、使わないのであれば香りも変わってしまう。取っておいても仕方がない。別に、大したことではない。
そう思っていた。本心だった。
事実、生活は何も変わらなかったし、赤ん坊の香りの方がMURUよりも癒されると思っていたのだ。
あの日までは。
赤ん坊はあっという間に小学生の女の子になり、少しずつ、母親の出番は減っていった。それでも、娘が帰ってきたときには迎えてやりたいと思えば、働きだすことも自分の時間を作ることができず、なかなか女性であることを取り戻せない。香水よりもお醤油と洗濯洗剤の香りが身体に染みついている気がするし、メイクだって日焼け止めを塗るのが精一杯。綺麗なワンピースよりも、ゆったりとした肌触りのいいシャツに太めのジーンズを合わせる方が好きになっている。
もう、女性としての自分を取り戻したいのかどうかもわからなくなっていた。
「もう『お母さん』なんだからいいかなって」
そういって笑う彼女は満足そうで、寂しそうだった。
「『お母さん』ですか」
「ええ。でも、そんなの甘えで怠慢なんです。娘の授業参観に行けば、同じ年の子供がいても綺麗にしている人も生き生きと働いている人もいる。女性であることを休んだのは、私の怠慢……」
「そうですか」
「だから、夫とももうずっと、無かったんです」
「なかった?」
「ええ、夫婦なのに。隣で眠っているのに、ね」
「セックスレス、ですか?」
初対面にも関わらずはっきりと口にした薫に、困ったように視線をそらしせわしなく指を組み替えている。
「あなたみたいな、若くて綺麗な女性には考えられないでしょう?」
「どうですかねぇ」
「気にしないように気にしないようにって、思っていました。夫は優しいし、小学生の娘がいて、専業主婦ですが毎月必死にやりくりをするほどでもない。充分幸せじゃないかって。それが……」
「幸せでは、無かった?」
「……わかりません」
きつく組まれた指先はささむけが出来ており、短く整えられた爪は縦線が入っている。