後編
俺はシャングリラで一番高級なホテルの豪勢なペントハウスに住み、最高級の贅沢をほしいままにできる。レースに勝ち始めた頃は、どうにかして俺に取り入り、少しでも甘い汁を吸おうとギラギラした欲望丸出しの奴らが近寄ってきた。どれも似たような、男、女。媚び諂った醜い笑顔で自分を売り込もうとする──。だが、今では俺を訪ねてくる者など誰ひとりとしていない。
冥府に君臨する、不吉な死の天使。俺にかかわった人間には、必ず不幸が訪れる。──そんな噂がつきまとうようになってから、もう何年が経つだろう……。
ああ、そんなことはどうでもいい。俺はようやく笑いの発作を抑えて、シャングリラの姉妹星、エリシウムを見た。
惑星エリシウム。銀河系最高の医療設備と看護態勢を誇る、現代版サナトリウムだ。治る見込みのない病を抱えた金持ちたちが、銀河系じゅうからこの星に集まってくる。ラベンダー色の空と海、あらゆる緑のバリエーションに包まれた大地。この星を覆うのは、静寂だ。凪いだ海に似た、穏やかな静寂。まるで猶予された死のような──。
そんな静寂の中に、俺の妹がいる。
俺の妹は、何億人に一人、という珍しい病気に侵されている。もはや、話すこともできない。ただ、昏々と眠り続ける。
機械で補えば、と病名がわかった時に医者は言った。少なくとも立って歩けるようにはなりますよ。──だが、それは脳をのぞいた妹の身体のすべてが機械になることを意味した。
俺はそれでも良かった。妹が生きていてくれるなら。
けれど、それを聞いた妹は言った。悲鳴のように。
機械になるくらいなら、死んだほうがいい。わたしをこのまま死なせてと。
妹は、機械の身体を拒否した。本人の承諾の得られないサイボーグ手術は、認められない。しかし、そのままでは、妹は死んでしまう。そんなことは、俺には耐えられなかった。両親は早く死に、妹はたったひとりの肉親だった。俺の、血を分けたきょうだい。妹は、俺の生きる支えだった。
故郷の惑星の医療技術では、妹を生き永らえさせることは無理だと言われた。だが、惑星エリシウムでなら、少なくとも死ぬことはない。しかし、このサナトリウム惑星の医療施設に入れるためには、莫大な金がかかる。しかも、妹の身体を生かせておく医療装置のためには、気が遠くなるほどのクレジットが必要だった。──大金持ちすら、破産するほどの。
だから、俺は天国と地獄レースのレーサーになった。元から高速艇の操縦免許は持っていたし、カンの鋭い俺にとって、冥府のような危険な宙域を飛ぶのは、普通の人間ほど難しくはない。もちろん、少しでも気を抜けば<事象の地平>の向こう側に行くのはほんの一瞬だ。一方通行の黒い<膜>──。
俺は、無限赤方偏移境界、つまり、<事象の地平>のことを頭から追い出した。今回も、なんとか無事に帰ることができたのだ。そうとも、俺は生還したんだ。
ヨットを自動操縦モードにし、眼を閉じた。ゆっくりと深い呼吸を繰り返す。二度、三度。
眠っている妹の夢が見えてきた。故郷の惑星の草原で、楽しそうに走っている。まぶしい笑顔だ。俺もいっしょにそこにいる。妹の夢の中で、俺も幸せそうに笑っている。手をつないで、走る。青い空と明るい太陽の下、風のように、どこまでも──。
突然、別の夢が見えてきた。いや、夢ではない。現実の声、悲鳴。
俺は、恐怖の叫び声を上げた。
俺のカンがいいのは、俺が普通ではないからだ。俺は、テレパスだ。弟にも少しはその力があるが、俺のほうがずっと強い。自分の身に迫る危険にも、聡い。冥府でレースをするようになって、よけいこの力が強まった。
また、悲鳴が聞こえる。ひとつではない。何人もの断末魔の悲鳴。それが砂漠の谷底を吹き抜ける風の咆哮のように、俺の頭の中に響き渡る。
俺は慌てて眼を見開き、感応力のレベルを下げた。呼吸が、苦しいほど激しくなっている。無意識に握っていた心臓あたりのジャケットの布地を、強張った指から外す。
今日もまたひとつ、新しい悲鳴が加わった。俺の後方で、重力赤方偏移を起こして<事象の地平>の向こう側に落ちていった、ヨットのパイロット。
何故そんなものが聞こえるのか。少し考えればわかるはずだ。ブラックホールに、落ちて死ぬ者にとって時間は一瞬だ。だが、こちら側にいて観察する者には、落ちていく船は永遠に落ちていくように見える。これは有名な重力のパラドックスだ。
空間を呑み込み、時間も呑み込む、ブラックホール。その<事象の地平>の手前で、重力に捉えられた光は無限に進むのが遅くなり、その結果、時間は歩みを止めたように見える。こちら側と向こう側では、時間の進み方が異なるのだ。
ブラックホールに向かって永遠に落ちてゆく船の中で、パイロットが無限の悲鳴を上げ続ける。その悲鳴が、俺の頭に響いてくる。一瞬で理性を食い破り、剥き出しになった恐怖の思念が。それは、俺が生きているかぎり聞こえ続けるだろう。
この宙域を離れれば──、だが、それはできない。俺が冥府で行われるもっとも危険なレース、それゆえに高額の優勝賞金が得られるこのレースで稼ぎ続けなければ、妹の命をこの世に繋ぎ止めておくことはできない。それに──、
妹のいる惑星エリシウムは、冥府と同じ宙域だ。
俺は、いつものように乾いた笑みを唇の端にこびりつかせる。今夜は、あの豪華なペントハウスの巨大なバスタブに、シャンパンを満たして勝利を祝うとしよう。
自動操縦を切って、専用ドックに向かう。そこでは、華やかな優勝セレモニーが待っているはずだ。歓喜と興奮の渦。本物の花の絨毯に、紙吹雪。いつもと同じ、空虚な式典。
いつか、気が狂うかもしれない。俺は思う。そのときは、どうなるのだろう。<事象の地平>の彼方へと独り消えてゆくのだろうか。光さえも脱出できない、暗黒の壁。そして永遠に落ちてゆきながら、永遠に恐怖の叫びを上げ続けるのだろうか。
俺は頭を振った。そんなことを考えている余裕はない。俺は生きて、稼がなければならないんだ。俺のすべてである妹、エウリディーチェを冥府の闇の彼方から連れ戻すために。
この話には元ネタがあります。「ブラックホールに落ちる人間の恐怖のテレパシーを、生涯聞き続けなければならない男の悲劇」という、あるSF小説の紹介です。その作品を読んだことはなく、作者が誰で、何というタイトルかも知らないのですが、それがずっと頭に残っていて、その部分だけ使わせていただきました。