その9 泥にまみれて泣きたい
自分で言い出した以上、決着をつけなくてはならない。
人を殴ったことのない自分のこぶしがか弱かった。授業中の窓辺から見える冬空は、なんどか雪を降らせて凍らせていた。まだ十二月だから土が若干こわばる程度。霜が残る程度。でも肩から腕は冷たくて、何度も咳をした。風邪を引きそうだった。
──やっぱり、一回頬を張り倒すだけでいいのかな。
殴られたことはあるけれども、反対のことはなかった。
いくら新井林が無抵抗を表明しても、上総には信じられない。
そりゃあ、確かにあの時自分は「一発殴らせろ」と口にした。どうしようもなく文句を言いたくて、でも自分が怖くって、頭の中がミキシング状態になって、それでこぼれた言葉だった。でも、最初から勝ち目なんてないとわかっていた。第一腕力勝負だったら、第一ラウンド一発目でノックアウトされて一巻の終りだろう。あの時見た新井林のこぶしは、骨ばっていて、凶器そのものの形だった。武器だった。
──相手に情けかけられるようじゃ、おしまいだな。
上総は隣りの南雲に話しかけた。
「なぐちゃん、ちょっといいか」
「なんですか、いきなり」
社会の授業は基本的にノートを取るだけにとどめている。担任菱本先生の「余談」なんて聞きたくもない。すでに期末試験も終わっているのだから、みな気分は冬休み一直線。それを盛り上げようとしているのか、菱本先生はいきなり年末時代劇に絡めた話題を持ち出している。もちろん、「忠臣蔵」「討ち入り」あのあたりである。上総は去年の評議委員会ビデオ演劇でいやというほどストーリーを頭に叩き込まれたので良く知っている。「お前、人殴ったことある?」
「へ?」
か細く、視線は細く。
「だから、殴り合いのけんかとか、したことある?」
南雲はあっさり頷いた。いぶかしげに上総へ、シャープの先をノートへ刺した。
「りっちゃんないのか」
「やられる一方」
決まり悪く笑ってごまかした。
「まあ、やるったって小学校くらいの時までだってさ。手を出すよりも頭を使えってことが最近は多いしさ。人殴っても、自分の指がつき指するだけだしさ」
この辺りでにかっと笑った。つられて上総も笑った。
「やっぱり、人殴ると痛いよなあ」
「自分が痛いと思ったことを、相手にやるのはよくねえよって感じだ」
南雲はそう言うところ、きちんとしている。
「一度、小学校の時にいろいろあって、一発ずつの勝負を教室の中でやったことあったんだ。そんなすごいことじゃないよ。すげえたわいないこと」「たわいないことってなにさ」
「まあまあ」
話をごまかすところみると、「すげえたわいないこと」ではないんじゃないかと思う。
「あまり話はつっこまかいけど、結局勝ったのか?」
「いいや、負けた、あっさりと」
南雲は優男と思われているところがある。意外ではない。さらに続けた。「やっぱり、空手やってる奴ってすごいよなあ。その子女子だったんだけど、一度どうしても人と戦ってみたくなったから、俺に相手して欲しいって頭下げて頼まれたんだ。そう、小学校四年のバレンタインデーで」
「バレンタインデーで? それと殴り合いとどう関係あるんだよ」
思わず口がほころぶ。南雲にとってのバレンタインデーはさぞや盛り上がり必至だったろう。
「今思えば、そこで俺がその子を負かせば、チョコレートをもらえるはずだったんでないかな。とにかく、空手やっててごっつい感じってことのぞけば、性格いい子だったしさ。だから、かるーくやろうと思って対決したら、目の前がいきなり天井一面になっちゃって、その子が心配そうに覗き込んで、泣いてたんだ。それでしばらく大騒ぎ」
──なんだよそれ。告白のつもりが殴りあいかよ。
南雲はにっこりと頷いた。
「最初から断るつもりだったからそれはそれでいいけど、でも、強いことって女子にはしんどいことなんだなって思った。その子、今では中学の空手大会でいいとこ行ってるらしいけどさ」
できれば上総もそういう子に告白されたくないとつくづく思った。
「で、りっちゃん、なんでそんなこと聞くの」
答えたくない時は、なぐちゃんお得意、「笑ってごまかす」だ。
「いや、なんとなく。身体を動かしてみたいなって」
「それだったらりっちゃん、今度一緒に卓球場行こうよ」
冬休み前の自由研究準備を言い訳に、上総は職員室へ向かった。もちろん、長らく借りっぱなしの卒論を桧山先生に返すためだ。何度か廊下や全校集会などで顔を見てはいたけれども、ゆっくりとお礼を言う暇はなかった。英語科準備室を覗いたが一度目は在室せず、二回目は電話中だった。
──まあ、急ぎじゃないし、いいか。
どうせ話すのだったら、ある程度時間が欲しかった。
新井林健吾との対決は一刻一刻と迫っている。新井林曰く、「殴らせてやるよ」とのことだが、裏には上総が殴れるわけないというしたたかな読みがあるのも否定できない。
──できないと思ってるのかよ。ばかにするなよな。
一度もこぶしを振り上げたことはない。でも、ネクタイを引っ張り挙げて、あごを上げさせて、ストレート一発かますくらいだったらできそうだ。
肉体的には可能だろう。あとは自分の割り切りだ。
暴力なんかでうまく片がつくなんて甘いことを考えてはいない。自分のことを思い出してもそうだ。殴り合って感動して抱き合うなんて、いかにも菱本先生の好みそうなパターンだ。ぞっとする。頬に張られた手、熱、痛み。憎しみしか得られないし返されない。仮に上総が新井林の挑発に乗って、一発二発張り倒したとする。もちろん約束したことだからなんとも言われないだろうが、新井林からはおそらく、
「けっ、あんたも所詮、俺が手出ししないという保証の元でしか、殴れないんだな、ばーか」
と軽蔑されるだろう。評議委員会が開かれるたびに、あいつから軽蔑の混じった視線を向けられる羽目になる。教壇の上から一年間、新井林の勝ち誇った顔を見下ろすのはごめんだ。
──結局、自分が一番大切な奴なんだよな。俺は。
こずえと美里が、相変わらず杉本の面倒を見てくれていた。いろいろ情報が入り交じっているけれども、杉本がどうしようもなく追い詰められ、撃墜されるのは時間の問題ではという気がした。桧山先生の真意はわかるようでわからない。とにかく杉本を孤立させて、「いじめ」問題をあっさりと片付けたい。そのためには手段を選ばない。それこそ逆のいじめ状態になったとしても、それは制裁として当然のことと思っているきらいありだ。
それを止める気はなかった。
突き落とそうとする相手を止めることはもうできない。
自分にできるのは、崖から突き落とされた相手を受け止めるためのクッションを、出来る限りたくさん集めておくことだけだろう。桧山先生、新井林、そして佐賀はるみの立場を考えれば、恨みは募って当然だ。上総にその気持ちを押えさせることは、たぶんできない。ただ、もうひとつ、クッションを集めておきたかった。
──佐賀さんって、あの子かな。
帰りの鐘が鳴った。廊下から外を眺めると、中庭にひとり、髪を両耳の上に丸めて載せた、すらりとした女子が立っていた。ひとりだった。見かける時はいつも新井林と一緒だった。本当にいじめの犠牲者なのか、と言わんばかりに気品ありげに微笑んでいた記憶が残っている。今は表情が見えないけれども、誰かが来るのを待っているようにも見えた。
決闘相手は少し待たせてもいい。十分の一秒で決断し、上総は中庭に下りた。空気が下にいけばいくほど冷えていく。息が切れた。
「佐賀さん、ですか」
なんとなく佐賀はるみには敬語を使わねばならない気持ちにさせられた。ゆっくりと首を回し、身体を向けた。明るい紺色のダッフルコートだった。学校では目立つだろう。ほのかに唇へ赤いものが見えた。
「はい」
「今、少しだけいいですか」
一メートル以内に近づいて声をかけた。遠くで眺めた時と同じく水飴のねばりに似たものを感じた。
「はい」
従順に、素直。杉本とは大違いだった。杉本だったらおそらく「名乗ってください。失礼ではないですか」と噛み付くだろう。慌てて上総は付け加えた。
「二年の立村といいます」
「知ってます」
短く答え、笑みともいえないわずかなやわらかさをたたえて、佐賀はるみは頷いた。
──こういうタイプって苦手なんだよな。
調子が狂いそうだった。隣り合った。
「佐賀さんが杉本に迷惑をかけられていることは聞いています」
うまく切り出せなかった。佐賀がきょとんとしながらも、首をかしげてじいっと見つめた。黒目勝ちのまなざしが留まった。
「俺もその点については、いろいろな人から話を聞いています。だから、佐賀さんがこの事態をなんとかしたいと思っているのはわかっているつもりです。だからできるだけ、杉本にそういうことをやめさせるように努力します。ただ、ひとつだけ聞きたかったのですが」
なんで敬語使ってるんだろう。自分でもおかしかった。
「杉本のことを、正直なところ、どうしたいと思ってますか」
「どうしたいって言われても」
「すみません。このままだとたぶん、杉本はクラスで嫌われることが決まっています。たぶん、佐賀さんはこれ以上被害を受けないですむと思います。桧山先生も、それと、あの」
新井林も、とは言えずに口篭もった。
「わかってます。ありがとうございます」
背を伸ばすと上総と若干背の高さが同じだった。
「おそらく、佐賀さんの意志でこれからの杉本の扱いは変わると思います。許してやってくれとはいいません。当然のことをされたと俺も思っています。でも、逃げ場をなくしたら杉本はたぶん、青大附中の中では生きていけなくなるんじゃないかって、それだけ心配しています」
「よくご存知なんですね」
上総は頷いた。佐賀はるみは軽く、耳の上のお団子髪を抑え、またうるんだ瞳で上総を見た。
「私は今でも梨南ちゃんのことを友だちだと思っています。だから、そんなことになってしまったら大変だと思ってます。立村先輩、大丈夫です。私もそんなことしません。桧山先生や健吾が何か言い出したら、私が抑えます。安心してください」
──なんだ、この人いい人じゃないか。
無意識の気持ち悪さは気のせいだったんだろうか。直感が間違っていたのかもしれない。少し力が抜けた。安心したのか自分でもかなり軽い言葉が出てきた。
「ありがとう。杉本は決して悪意でやったわけじゃないけれども、佐賀さんが迷惑をかけられているのは紛れもない事実だから、なんとかしたいと思っていたし」
「私、梨南ちゃんがどうしてそんなことするのか、理由わかってます。友だちだから当然なんです」
「その理由って、もしよかったら聞かせてもらえませんか」
やはり敬語が消えない。瞳を逸らさずに続けた。
「梨南ちゃん、好きな人と仲良くなるとかならず意地悪するんです。好きになればなるほど、そうなんです。赤ちゃんみたいに」
もう一度、今度は頬に片手をやった。色は白いが、ほんのりと赤らんでいる。唇に指を触れるようなしぐさをした。手の形がしなやかだ。上総が観察しているのを気付いているのかもしれない。
「新井林くんや、小学校の時の先生とか、他の人たちにもいつもそうでした。みんな梨南ちゃんがどうしてそういうことをするのか、わかってたんです。でもみんなそんなことされればされるほど、梨南ちゃんを嫌いになっちゃうんです。梨南ちゃんが大好きだって子もたくさんいたけど、あの子すぐに気付いて、いやなこと言ったりするから、すぐに嫌われちゃうんです。好きになられるのがいやなみたいなんです」
まばたきして、またきゅうっと瞳を凝らした。杉本にはないほのかな大人っぽさだった。
「自分でわざと嫌われるようにしているって?」
「そうなんです。今までそれで仲良くしていられたの、私と、立村先輩くらいです」
──なんで俺に話を振るんだ。いきなり。
動揺したのを隠して、静かに上総は尋ねた。
「あれだけ嫌がらせされて、どうして佐賀さんは杉本をまだかばおうとする?」
「だから、梨南ちゃんは、私に嫌われたら誰も味方がいなくなっちゃいます。今は二年の先輩たちが梨南ちゃんをかまってるけど、でも」
また言葉を切って、顎のあたりに人差し指を当てた。
「きっと、梨南ちゃんまた嫌われようとします。私、小学校から一緒だったのでいつも見てたんですけど」
首を傾げた。過剰な動きにだんだん見るのが疲れてきた。早く話してほしかった。
「梨南ちゃん、小学校の頃、ちょっとふつうとは違う感じの子たちからすっごく人気があったんです。本当は特殊学級に行かなくちゃいけないって言われてるのに、普通のクラスに入っているような人いますよね」
ニュアンスは通じた。頷いた。
「いつも梨南ちゃんにそういう男子たちがまとわりついてきてたんです。他の人にはいつも馬鹿にされていたけど、梨南ちゃんだけはふつうに話をするからなんだと思います。でも、大声で叫ばれて抱きついてこられたり、手を握られたりされて、みんなから笑われてました」
「なんで笑われる?」
「だって、私たちに対するのと同じように話をしてるんです。他の子はみな、ちゃんとそういう子たちにするような言い方で、赤ちゃん言葉使ったり面倒みたりしてたけど、梨南ちゃんだけは、ふつうの子と同じ言い方してたんです。梨南ちゃんがそういう子と一緒にいると、なんか、なじんでいてて、普通に見えるってみんな言ってました」
──杉本なら考えられるな。
たぶんはるみとは別の部分で納得し、頷いた。
「だから、よく言ってたんです。梨南ちゃんはああいう男子のことを好きになれば、嫌われないですむのに、って」
「その、ふつうとは違う男子って、そんなに杉本のことが気に入ってたのか?」
「そうです。先輩、今の一年だって梨南ちゃんのことをみんながみんな、大嫌いってわけじゃないんです。あまり口には出さないけど、梨南ちゃんのことを目で追っている男子もふたりくらいいます。新井林くんとかとは大違いって感じで」
やたらとこの子、「感じ」という言葉を使う。上総はコートのポケットに手を突っ込んでなんどか「むすんでひらいて」を繰り返した。
「そうなんだ。みんながみんな、杉本のことを蛇蠍のように嫌っているってわけじゃないんだ」
「そうなんです。だから私」 佐賀はるみが唇をゆっくり開き、息をふうっと吹いた後、言い切った。
「梨南ちゃんはそういうぴったり合ったタイプの人を好きになればいいんです。新井林くんのようなタイプよりも、そういう男子の方が梨南ちゃんには合ってますから。小学校の先生も、他の友だちもみんな、言ってます」 しゃあっと背中に寒気が走った。
杉本がいわゆる、「ふつうとは違った感じ」の子たちに好かれるのはわかるような気がする。上総自身が診断書つきの障害を抱えているからなおさらそう感じる。言葉はきつくても全く刺さらない、何かがあるのだ。他の友だちが同情めいた見下す態度を示すのとは、また違ったものが。
杉本の場合、相手に対しては「男」と「女」以外の先入観を持っていないようすだ。もしくは「私をいじめる人」「いじめない人」の二者択一で人と接している。
あくまでも想像だが、杉本は周りから浮いている子たちに対して、自分の物差しでもって話をしたのだろう。保母さんのようなまなざしを向けずに、ごくごく普通の相手として。正しいことは正しい、間違っていることは間違っている、とげたを履かせることなしに接したに違いない。そういう子だ。杉本の持つ「友だち」「いい人」の概念にはまれば、周りから浮いている子も当然仲良しになるだろう。これこそ「ふつう」の友だち作りとおんなじだ。
しかし周りの連中……佐賀はるみや新井林健吾を含む……は、自分の同級生たちと同じように接することはできなかったのだろう。変わった言葉や行動をたしなめたり、面倒を見たり、世話を焼いたり。いわば「先生」のような振る舞いをしていたのだろう。自分らよりは格下の存在として、「思いやってあげる」存在として。杉本梨南の接し方とは微妙に違っていたのだろう。
あまり人が近寄りたがらない一年B組の不良娘花森なつめを大の仲良しにしているところからして明白だ。
佐賀はるみの言葉を辿るに、どうも「杉本も同じ穴のむじな」と思われてしまったらしい。同じ、いわゆる「普通でない」子ども、と重なるものとして捕らえられたのだろう。ちょっと特別な対応を必要とする子どもたちと同類扱いされたのだろう。間違ってはいない。共通するものは確かにあったに違いない。
でも、もし佐賀はるみや新井林が、違った目で自分のことを見ていると気付いたら杉本はどうするだろう。自分の友だち、ひそかなるローエングリン、彼ら、彼女らが、自分のことを思いっきり「格下」扱いしていると知ったら。人一倍敏感な杉本のことだ。気付かないわけがない。
──この人、すごいこと言ってるよ。
「つまり、杉本には、ちょっとずれた感じの奴がいいということか」
「そういう人なら梨南ちゃんのことを本当に好きになってくれると思うんです。でも、梨南ちゃん、そういうこと言うとものすごく怒りました。馬鹿にしてるのかって、言いました。みんな思ってます。梨南ちゃんはふつうの人を好きになっても、嫌われるだけだから、そういう人の方がいいんです。いくら意地悪してもそういう人だったら嫌いにならないから」
──そんなこと言われたら、そりゃあ怒るよ。
──それって見下し、って奴じゃないか。
これ以上会話を続けたくなかった。どうしてかわからない。いくらお団子髪に片手をあげ、あどけないまなざしを投げられても、唇のほのかな赤さに見とれたくても、がっちりと張り巡らされている自分の中の壁。壊せなかった。アイドル鈴蘭優に良く似た愛らしさなのだろうが、上総には受け入れられないものの集大成だった。
「わかりました、これ以上佐賀さんには迷惑をかけないようにします。安心してください」
あらためて敬語に戻し、上総は背を向けた。言い忘れた言葉は振り返って告げた。
「佐賀さんに比べたら、杉本はどうしようもなく弱いんです。その点だけ、わかってやってください」
唇を形良く整えて、佐賀はるみは微笑んだ。たぶん、新井林あたり即、気絶しそうなあどけない笑みだった。
時間がかなり迫っていたこともあり、尋ね損ねたこともあったが、それはまた後にしよう。新井林との決着をつけないと話にならない。上総は急ぎ早、茶室に向かった。時計はちょうど三時半を回ったところ。佐賀はるみとは十分くらい立ち話をしたことになる。
いったいどうして、佐賀はるみは杉本に対してこうも余裕のある態度を取るのか、理解できなかった。上総が佐賀の立場だとしたら、きっと耐え切れなくなって教室で泣きじゃくっていただろう。それを、相手が「赤ちゃんだから」という一言で許し、「梨南ちゃんはもっと好きになってくれる人がいる」と観察している始末だ。六年以上の付き合いゆえ、それは正しいのだろう。途中、なんどか頷いたところもあった。あれだけの容貌を持っている杉本のことだ、男子たちが百パーセント嫌うこともないだろうとは思っていた。
──そういう男子たちがいるってわかったら、何気なく笑顔を見せてやったり、挨拶したりするだけでも、だいぶクラスの雰囲気変わるだろうに。
でも、杉本はそういう男子が苦手だという。
そりゃそうだろう。理想の相手はローエングリン新井林なのだから。
佐賀はるみはすでに新井林と熱いお付きあいをしている。それゆえの余裕だろうか。いくら杉本が意味不明のやり方でばたばたしても、新井林の想いは自分のもの、動かない。だからこそ情けをかけてやっている。
──情け、か。
唇に乗せてみる「情け」という言葉。
杉本にとっては屈辱的だろうが、上総から見れば幸いと映る。
新井林がこれ以上「いじめ」というやり方で杉本を締めないと断言しているのだ。報復処置を佐賀がしようとしないならば、杉本を叩くのは桧山先生ひとりだけだ。それでもしんどいだろうが、三つ巴で技をかけられるよりはましだ。
茶室前の門をくぐる前に大きく深呼吸をした。だいぶ石畳の上は濃くぬれていて、足下の土もどろどろだった。飛び石の陰に所々雪が残っていた。
──好きな奴に嫌われない方法が分かれば、楽になれるんだ。杉本は。
決まった。こぶしは作らない。上総はゆっくりと石畳を踏みしめた。
「待ってたぜ」
新井林はすでに、首を洗って待っていると言いたげだった。上総の姿をじろじろ眺め、鼻を膨らませた。
「すまない」
「今なら誰もいねえぜ。さ、好きなように料理しろ」
「新井林、そういうんじゃないんだ。少し話そう」
咽が冷えて咳がひっかかった。肺の方から息が出てくる。下準備の終わったローストビーフってこう言う顔しているんだろう。新井林に向かって上総は左手を差し出した。和解を求めた。
「俺も、あの時感情で口走ったことは悪かったと思っている。でも納まったっていうんだったら、もう遺恨なんてない。これから先は長いんだ。だからもう一度あらためて話をしたいんだ」
「けっ、何いきなり尻尾巻いて逃げる気でいるんだ? あんた、男だろ。男としての約束を守れないでなあにが」
つばを足下にぺっと吐いた新井林。そのまま真っ正面から上総を見据えた。腹をくくっている。こいつのことだ、逃げはしないだろう。上総は首を振り、もう一歩近づいた。
「殴ったっていやな思いするだけだ。それより、これから、新井林と佐賀さんがどうすればいやな思いをしないですむか、それを話し合いたいんだ」 穏やかに、興奮させないように。全く新井林には効果がない。べらんべえ調で言いかえされた。
「しつこいぜ。俺たちがすっきりできるのは、あの女が青大附属を出て行くことだ。そうしない限り、どんなことがあったってすっきりさわやかって気持ちになんてなれねえって、何度も言っただろうが」
「それはできない、けど」
「ははん、あの女を退学させることができなければ、俺はあの女を許すことなんて永遠にねえだろうし、あんたを認めることだってたぶんできねえだろうな。けどな、あんたは俺のできなかったことをあっさりやってくれたんだ。クラスの平和があの女のいないってことだけで保たれるってことを教えてくれたんだ。悪いがあんたと違って俺は、間違っていることは堂々と認めるし頭も下げる。恨みだってあっさり捨てる。評議委員長としてのあんたを認めるぜ。その誠意を見せたくて、今こうして、ほっぺた差し出してやるってんだ。さ、三発くらいさっさとやっとくれ」
地べたに勢い良く座り込み、新井林はあぐらをかいた。両腕を組んだまま、ぎろっと眼を見開いた。
上総は自分の腕から力が抜けてしまったような気がした。和解交渉失敗。頭の中に浮かんだ言葉をひとつひとつひとつ拾い上げていった。
新井林の言葉通りならば、杉本への嫌悪感というのはどうしてもぬぐえないものなのだろう。小学校時代の杉本が佐賀や新井林にしてきたことは、どんなに土下座して謝っても許しがたいものなのだろう。佐賀はるみが杉本を見下すことにより気持ちを処理しているのとは違う。杉本の存在そのものが不快であり、教室で同じ空気を吸うことだけでも耐えられない。杉本が二酸化炭素の代わりに毒ガスを排出しているようなもんなのだろう。
だが、上総のやり方により、杉本との接触を最低限に押えることができた。それを新井林は認めてくれている。評議委員長としての上総を認めようとしてくれている。そのための落とし前ってとこだろう。
──本条先輩だったらどうするだろう。
ほとんど口を利いてもらえない本条先輩のことを思った。
──男同士の落とし前だ、殴れっていうんだろうな。
──けど、そんなんじゃ、杉本の立場は一層惨めになるだけだ。
──俺も一緒に見下してると同じことになる。
上総は新井林に近づいた。立ったまま、思ったまま続けた。
「新井林、俺はお前がどうして杉本を嫌うのか、そこまでは想像がつかない。けれど佐賀さんに杉本がしたことを許せないというのだけは共感できる。どんなに杉本がお前たちと友だちになりたくてしたとしても、許せないことは絶対に許せないだろうし、責められないことだと思うんだ」
「つべこべ言うな。繰り返しだぜ」
相手にしてくれない。でも言うしかない。
「頼む聞いてくれ。でも、杉本はどうしてもその気持ちが理解できないんだ。本当はお前や佐賀さんとうまくやりたいと思っているのに、どうすれば喜んでもらえるかが想像つかないんだ。言い訳だと思われるかもしれないけれど、かなりの確率で俺はそうだと踏んでいる」
聞く耳持たず、微動だにせず新井林は、斜に上総をねめつけている。一呼吸置き、まずひとつめの誤解を解こうと決めた。
「桧山先生が俺のことを引き合いに出して病院に行けって言ったのは、新井林や佐賀さんが杉本のしていることでどれだけ傷ついているか、少しでもいいから理解してくれってことを言いたい、それだけじゃないかって」
「はあ? なに女々しいこと言ってるんだ?」
もう一歩踏み出した。近づいた。少しかがんで新井林に語りかけた。
「杉本だってしたくてしてるんじゃないんだ。どうしてもそう思えないから自分のしたいことをするしかないんだ。どうして男子連中がこんなに自分を嫌うのかわからないし、どうすれば嫌がられないですむか想像つかないんだ」 佐賀はるみと話をしたことを言うべきか迷い、やめた。「好きな人には必ず意地悪するんです」と、こいつの愛しい相手は断言している。でも、いくら口にしても新井林を意固地にさせるだけだろう。
「俺が今杉本にできるのは、どうすれば周りの人が嫌がらないですむか、そういう言い方を教えたり、佐賀さんが辛い思いをしないで杉本も傷つかないですむにはどうすればいいか、それを考えることくらいだ。俺だって頭が悪いしたぶん、新井林よりはうまくできないかもしれない。でも、せめてお前たちがむかつかないようにするために、杉本をクラスから引き離すことくらいはできる。俺ができるのはそのくらいなんだ。だから」
かばんを持ち替えた。右手を差し出した。
「頼む、杉本に情けをかけてやってくれ」
手を取ってはくれなかった。鼻息をふっとかけるようにして返事が返って来た。
「情け、かよ。御託並べてるんでねえよ。なあにが『杉本だってしたくてしてるんじゃない』んだ? 『友だちになりたくて』だ?」
新井林の瞳は一層凍り付いていた。石の下に残る雪のように、堅く、ぱさついていた。
「あのな、ずっと聞いてればあんた、あの女のことを隠れ蓑にして、好き勝手に言いたいことわめきちらしてるだけじゃねえか?」
思わずひいてしまったのを見られてしまった。新井林の口元にかすかな侮蔑の表情が浮かんでいた。
「『杉本』をあんたの名前に置き換えてみろよ。要するにあんたがどうして清坂先輩や羽飛先輩におべっか使っているかを言い訳してるだけだろ。たまたまあの女がいたから、正義の味方面して俺を開いてにべらべら言いまくってるだけでな。けっ、やり方汚ねえな」
割り込めず、言葉が出なかった。
「せめてやるなら、精一杯あの女をかばえばいいじゃねえか。本当は惚れまくってるから、守ってやりたい、守ってやりたいから俺につっかかる。それだけのことじゃねえか」
息継ぎをしている。また言葉を挟もうとしてみた。でもだめだ。咽に硬いものがつまったようで声が出ない。勝手に身体が震えるだけだ。
「俺だって惚れた女がいる。あんたが杉本をたまらないほど惚れぬいているっていうんだったら勝手にしろってんだ。俺とは関係ねえよ。だがな、俺と佐賀はあの女のせいで六年間、ひどい目にあわせられてきた。それも事実だ。だから戦うそれだけだ。あの女のせいで町を追い出された奴だっている、悪口言われて学校辞めさせられそうになった先生だっている。これ以上俺の大切な奴をあの女の餌食になんてされたくないだけだ」
「わかってるだから」
余裕があるのは明らかに新井林の方だった。杉本をかばおうとしたいのに、自己防衛本能の方がうごめき、言い訳したくなってしまう。そんなんじゃない、違うんだ、そう叫びたい。心臓の音も破裂寸前だった。一気に血が昇って死にそうだ。
「わかってねえよ。あんたなあ、自分でどんな顔して言ってるのかわかってるのかよ」
──わかってるさ。だから。
せせら笑う新井林の口元がゆがみ、攻撃のミサイルを放った。
「あんたは自分を清坂先輩の彼氏でいるってことで安全地帯作って、その上でのそのそあの女を守ろうとしてるってわけだ。たとえ俺がここで、あの女を許すって言えば、ほっとして清坂先輩といちゃつくんだろうな。今あんたが言ったみたいなことを清坂先輩たちに言って、『情けをかけてやってくれ』って訴えて、仲間に納まろうとするってわけだ」
どうして言い返せないのか。
自分がしてきたことに自信がないからか。
逃げ場がないからか。
自分は曲がりなりにも新井林の先輩なのだ。いくらでも言い返して、それこそぼこぼこにしてやる権利がある。うまい言葉が見つからなくても、「先輩に対してなんだその態度は!」と罵るだけの権利はある。
でも、それができない。
──清坂先輩の彼氏でいるってことで安全地帯つくって。か。
いまだにつきあいを続けている、一番の理由はそこにあると、気付かない振りをしてきている。
いや、恋愛感情に疎いからごめんなさい、とごまかしてきていた。
でも、すでに新井林の眼に上総の戦略は見抜かれている。
自分の身を守るために、美里にも杉本にもいい顔をして、自分だけのハッピーエンドに持っていこうとしている。
──そうだ、その通りだ。新井林、お前は鋭いよ。
「けっ、汚ねえな。あんたの顔、今にも泣きそうだぜ。こういう顔してたぶん小学校時代もすごしてきたんだろうな。本品山の浜野さんにも同じ顔して訴えてきたんだろうな。俺だったらあんたを息の根止めるほど殴りつけてやっただろうけど、あえて許してくれた浜野さんの恩も忘れてか。最低だなああんた。けどそれとこれとは関係ねえよ。俺はただ、あんたがあの女を迷惑にならないようにしてくれたから殴ってもいいぜ、って言っただけだ。あんたが男だったらそのくらいの仁義は持ってるだろ。そっか、あんたは殴ることすら怖いのか」
目が合った。逸らさずに力をこめてにらみつけられた。
──こうなったら、破れかぶれだ。
すべてをつぶしてやりたかった。目の前に並んでいる軽蔑の瞳を泥にまみれさせてやりたかった。
冷静沈着なんてくそくらえだった。自分の知っている外国語のスラング……いわゆる「ファックユー」の類が何ヶ国語もの形で浮かんだ。
座っている奴の襟に覗くグレイのネクタイ。すっかりたるんでいる。上総は片手で新井林の襟を握りこみ、ネクタイを引っ張り出した。少し顔の角度が持ち上がって、たこっぽく見えた。その顔にもう一度語りかけた。
「本当に殴られるつもりでいるのか」
返って来た息は熱かった。
「あんた日本語わからねえのか」
握りこぶしを見えないほうの手でこしらえた。
「殴られたら痛いんだ、そんなことされたいのか」
完全に新井林の眼は軽蔑一色だった。
「気持ちいいんだったらマゾだろ」
「新井林、お前」
──本当にこいつ、怖くないのか。俺は殴るかもしれないんだぞ。
にやっと笑いとどめの一言。刺さった。
「そうこなきゃうそだな。あんた、いいかげん大人になれよな」
対峙。しばらく静かな時が流れた。お互いの息で水蒸気が顔にかかった。
──大人になりたい。最低だ。
大人になれと何度も言われつづけてきた。本条先輩も、菱本先生も、両親もみな。
精一杯その形に合わせようとしたけれども、相変わらず自分は「あんたガキなんだから」のままだ。
貴史も美里も南雲もこずえも、そして新井林も佐賀も。
みな、年齢相応の「大人」として歩いている。上総や杉本が激しく嫌悪するものを「そんなのあたりまえじゃない」とばかりに流している。
そんなものたいしたことじゃないじゃない。どうして立村くんそんなこと気にするの? 梨南ちゃん、好きになってくれる人いるんだったら別の人にすればいいじゃない。こんなこと気にするからあんたはガキだっていうのよ。まったく新井林を認めることできないんだから、お前はガキだっていうんだよ。あんた、いいかげん大人になれよな。
上総が身を守るために人の顔色ばかりうかがっているのと反対に、杉本は自分を守るための鎧を身に付けてぎりぎりのところで戦っている。本当は上総も同じことを言いたかった。本当は上総も杉本と同じように、自分を「ガキ」扱いする奴らに噛み付きたかった。でもそんなことをしたら、杉本と同じように敵だらけになることがわかっている。だから耐えていた。そうすれば大人になれると思っていた。
──けど、殴ったら痛いに決まってる。苦しいに決まってる。惨めに決まってる。
目の前の新井林が顔をゆがめる場面が目に浮かぶ。
──こんなこと考えないで殴れる奴が大人なのかよ。
「ほおら、やれねえのかよ」
ネクタイを握り締めたまま上総は片膝ずつ付いた。
王子にひざまづく、騎士のように。
「ああ、できないさ」
うつむいた。ネクタイから指を滑らせた。完全に指がこわばった。
「お前の勝ちだ。新井林。最初から勝負はついていたのにな」
新井林はちらっと上総の指先に目を留め、思いっきり鼻を鳴らした。やんちゃだが、凛々しく誇り高い王子の姿が上総の目には映っていた。
「よおし、わかったそこまでだ。立村、新井林」
条件反射で身体が浮いた。聞き覚えのある声だった。
新井林も一緒に上総の頭をじゃまっけにしながら顔を上げた。
「本条先輩……」
一礼しているのは新井林。上総はじっと、白いジャンバー姿の本条先輩を凝視した。
息が白い。走ってきたのだろう。裾に泥はねが残っていた。いつもかけているめがねがなかった。いつもに増して凄みが、顔の陰影によく出ていた。かっこいい、と思う表情だった。何を言いたいのかはわからない。つま先で足下の石を蹴飛ばした。上総の目を見て、一歩近づいた。
──なんで来るんだよ、先輩。
口を開きかけた瞬間、視界が黒く染まり、息が詰まった。片ひじをついて倒れそうになるのを必死にこらえた。手に泥がついて、しみた。初めて本条先輩に手をあげられた。
本条先輩が上総を無視して新井林に優しい笑みを浮かべたのをぼんやり見つめていた。
「新井林、大丈夫か。しんどかったなあ」
「何でもねえっすよ。たいしたことじゃねえ」
おだやかに本条先輩はねぎらっている。こんな風に柔らかく上総を見つめてくれたことが、十一月以降一度もなかった。冷たく罵るか、嫌味を言うか、新井林と比較するかのどちらかだった。
──どうせ、そういうことか。そうだよな。何俺も期待してたんだか。
突然こみ上げそうになった。まずい。壊れる。立ち上がった。
本条先輩は上総を厳しい声で呼び止めた。
「いいか立村。お前がこれから何をすべきかは、わかってるんだろうな」
答えたらまた醜態をさらすはめになる。唇をかんだ。答えられなかった。
「全く、だからお前はガキだっていうんだ。いつまでも甘ったれるんじゃねえ。悔しかったら新井林が納得するように完璧に片をつけてみろ。それができるまで、俺はお前と一切縁を切る。聞いてるのか」
──最初からそうしてくれればよかったんだ。何を俺は期待してたんだろう。
風がさっき叩かれた頬に染みた。片頬だけが腫れた感じだった。膿がたまっているようだ。本条先輩と、次に新井林を見下ろした。目が合った。動揺など消えたままの、堂々たる男のままで座っていた。
──ふたりとも、完璧な男なんだ。俺なんかとは違う。
「わかりました、失礼します」
背を向けたとたん、背中に氷のシャッターが下りたような気がした。茶室の門を走り抜けた。
「おい、りっちゃん」 すれ違う男子女子の中に、たぶん南雲が混じっていたのだろう。軽やかな声が聞こえた。
──なぐちゃん、悪い。今日だけは気付かなかったふりさせてくれ。
なにかが緩んだ。自転車置き場にたどり着いた時にはもう、押えられずにうつむくしかなかった。曇る視界の中で上総は、しゃがみこんでいた本条先輩と新井林の姿を肖像として見つめていた。
──完璧すぎるってわかってるだろ。勝ち目ないって。