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その8 言葉の氷が溶けない

落ち込んでいる暇はない。時間が勝負だ。

「あのさ、古川さん、ちょっといいかな」

「なあに、立村今度は何をやらかしたわけ」

 後ろの席で美里が怪訝な顔をしているけれども、この辺はあとで考えることにする。すでに教室で朝自習プリントを広げているこずえに一声かけ、廊下に連れ出した。だいぶ教室の面子は揃っている。美里以外の連中も、

「古川さんに乗り換えたのかなあ」

 とか噂する声ひとつあり。ばかばかしい。

 ポケットに手をつっこんで温めた後、上総は軽く廊下の壁を叩いた。

「時間ないんだ。単刀直入に言う」

 恋の告白と誤解されない相手だ。こずえも黙ってじっと上総を見つめている。

「これからしばらく、杉本を一年B組の教室から連れ出すようにしてもらえないかな」

 奇声を挙げられるものと覚悟していた。こずえは身動きせずに上総の口元へ視線を止めたままだ。もっとしゃべんないとまずいよ、ってことだろう。あせってしまう。

「もちろん古川さんだけじゃなくて、他の女子たちにもお願いできればとは思うんだけどさ、今のところ、古川さんが一番杉本と仲いいだろ。その辺、頼みたいんだ」

 拒否されないことを祈りつつ上総は、じっと見つめ返した。

 ロマンスの薫りひとつない、視線の交差。

 唇でぷっと噴き出すふりをするこずえ。笑みはなくただ、一言。

「いいけどあんた、そこまで杉本さんになんでこだわるわけ」

 今度は上総が無言でうつむく番だった。

 答えられたら、物事がもっと簡単に片付くはず。

「とにかく時間がないんだ。今日の昼休みから頼めないかな」

「美里と一緒にその辺は相談するよ。安心しなさいな。もちろん、あんまん」

「今回はカレーまんとピザまんもサービスするさ」

 食べ物ネタをかましたら大抵は受けるこずえなのに、妙に硬い。

「人間としてやるべきことだからやるよ。そんなのいらない。けど立村、あんた最近、自分が変なことしてると、思ったことないの」

「変なことって」

 口篭もる。また手をブレザーのポケットに入れた。

「理由はあとでいいよ。とにかく、杉本さんは私と美里が保護するから安心しな」

 めずらしく古川こずえはこれ以上つっこまなかった。そのまま教室に入ってゆき、やりかけの朝自習プリント……今日は数学の二次方程式だ……を解きはじめた。美里が慌ててこずえのもとに近寄ってなにか尋ねている。

 ──変なこと、言ってないだろうな。

 考えるのも時間が惜しい。上総はその足で生徒玄関へ向かった。菱本先生が朝の会のためにやってくるのには、まだ五分くらい猶予がある。朝自習なんてくそくらえだ。


 すでに生徒玄関は締められていて、遅刻者たちは裏の来客用玄関から入らなくてはならない。違反カードを一枚切られるのが定めなのだが、その辺はみな開き直っている人がほとんどだ。規律委員たちもみな教室に戻っている様子だが、ひとりだけ堂々とエナメルの黒い靴を脱いでいる女子がいる。 ──相変わらずだな、この人も。

 顔見知り、というよりもかなり付き合いあり。

 親も知っている一年女子だ。

「花森さん、ちょっといいかな」

 先生の切った違反カードを胸ポケットに納め、花森なつめは髪を書き上げた。細かいパーマを髪一杯に広げてかけている。外国のアンティークドールのような風合いだった。口紅はほのかに赤く、目もぱっちりしている。近づくとほのかに母とおんなじ香水の匂いがした。

「立村先輩じゃないですか、どうも」

「どうせ遅刻だろ、杉本のことでちょっといいか」

 杉本のこと、という言葉に花森は目を光らせた。爪を唇に当てた。当然マニキュアの色が派手である。

「いいですけど、先輩もずいぶんひどいですよねえ。杉本さんいじめすぎ」

「そんなこと言ってたか」

 先生の目も同じく二倍強で光っている。かまうもんか。上総は花森と一緒に生徒玄関ロビーに向かった。一分半で話を終わらせ、一分半で二年D組の教室に戻らなくてはならない。


「杉本さん可愛そうですよ。だって、さんざん桧山の馬鹿男に頭がおかしいとか病院に行けとか言われるし、女子たちにも影で悪口言われてるし。男子連中は開き直ってるし。ああ、ほんっとむかつく。一発殴ってやりたい」

 不良少女、のイメージそのものの花森がなぜ学年トップの杉本梨南と仲良しなのか、謎ではある。杉本曰く、

「花森さんは自分の魅力をきちんと知っていて、自分の求めることを堂々としているだけ。馬鹿男子たちに何を文句言われる筋合いはない。赤いマニキュアも化粧も、彼女は似合うから堂々としているだけ。自分のある人は魅力的です」

 とのことだ。見た目は言い逃れできない問題生徒だろうが、いろいろ花森の家庭事情などを母から聞かされている上総としては、別にいいじゃないかという気がしている。話をしてみて、確かにこの人はしっかりしていると思うところしきりだった。

「ごめん、かなり時間急ぐんだ。手短にいくな」

「あせってますねえ、立村先輩。やっぱりそう言うところが評議委員長っていうか」

 つっこみをしたいけれども口を急いで動かした。

「頼みたいんだけど、杉本をできるだけ、休み時間一Bの教室からひっぱりだして、二年の女子たちが溜まっているところに連れ出してほしいんだ」

「二年の女子たち? 先輩の彼女とか?」

 もう知られまくっている美里との交際。どうでもいい。

「とにかく、二年の女子、図書局の古川さんとあと、まあその、あの人と。だいたいその辺りに話はつけてあるから、杉本をうまく機嫌とって連れ出してほしいんだ」

「いいですけど、どうしてですか。なんか立村先輩あせってますよ」

 花森は上目遣いでじいっと見つめた。大抵誤解してしまう誘惑したげな視線。でも上総は知っている。本当に花森が見つめている相手は、別の場所にちゃあんといて、一途な思いをぶつけているってことを。

「理由は少し落ち着いてからな。とにかく、今杉本がかなり、きつい状況にあるってことは俺も知っているから、少しでも苦痛のない場所に連れ出してほしいってだけなんだ」

「よくわかんないけど、今度、こっそり教えてくださいね。杉本さんには言わないけどね」

「ああわかった。今度、こっそりと、うちの母さんにはばれないように」

「時辻さん怖いですもんねえ」

 この辺の呼吸はぴったりだ。


 上総が慌てて教室に戻った時は遅かった。すでに菱本先生が細い目で上総をにらみつけていた。朝の会はすでに開始で、菱本先生のお説教第一弾だったらしい。

「すみませんでした」

「ったく、何やってるんだ。早く座れ」

 意外にも注意は簡単だった。隣りの南雲が指でちょいとつついてきて、

「遅刻が多いから気を付けろだってさ。ちょっとりっちゃん、あの時間帯に職員玄関をうろつくのはよくないと思うよ。どつぼじゃん」

「いろいろあるんだよ」

 反対側の隣り、こずえは静かに上総を無視していた。

 ──あとは、清坂氏に頼むか。

 こずえにつっこまれたからではない。話す場所の選定をしなくてはならないだろう。他の連中のように、ロビーで簡単にというわけにはいかない。

「ねえねえりっちゃん、目が死んでるよ」

 隣りの南雲はなんども袖口をひっぱりアピールしていた。


 二時間目前。すぐに立ち上がって美里の席まで行った。ふたりの付き合いは公認だから、さほどひゅうひゅう言う奴も少ないものの、一部の女子は目を三角にしている。


「清坂氏、ちょっといいかな」

「なあに」

 少しだけ唇を尖らせた。手を机の上で重ね合わせもぞもぞしている。怒ってはいないみたいだった。

「今からちょっとだけ、大学の方へエスケープしないか」

「あんた最近授業さぼりすぎじゃないの?」

 昨日の五時間目、新井林との対決で時間をつぶしたことを指しているらしい。

「私まで巻き込まないでよね」

「ごめん、けどどこか静かなとこできちんと話をしたいんだ」

「いいよ、立村くん無理しなくって」

 すうっと、波立たない目でもって美里は尋ねてきた。

「昨日は新井林くんと何かあったんでしょ。貴史が言ってたよ」

 ──どうして、知ってる?

 頭の回転が一瞬止まった。

「体育館でものすごく険悪なムードだったって聞いたもん。あんたと新井林くん、うまくいってないこと知ってるから、なにかあったのかなあとは思ったんだ。それと」

「清坂氏、あの、もしかして」

「そのあと、こずえからも聞いたよ。杉本さんのことでしょう」

 ──お見通しかよ。羽飛、お前って奴は。

 別の奴らとトランプのスピード勝負をしている貴史に目を向けた。

 美里はたんたんと述べた。

「いいよ。立村くん、私も手伝うから」

「え、あの、だから」

 口篭もるが美里に断ち切られた。

「いいって。私にだけは、無理なことしないでいいよ」

 いつもならず静かな美里がそこにいた。しゃがみこみ、美里の顔を見上げた。

「みんな片が着いてから教えてくれればそれでいいから」

「わかった、約束する」

 こくんと頷き、美里はじっと上総に目を留めた。

 ──やっぱり、もっかいなぐちゃんに、クリスマスの時どういうことをするもんか、教えてもらわないとまずいよな。

 ちらっと考えたけれども、時間がない。もう一度しっかと頭を下げ、上総は廊下に出た。


 同じことを今度は二年の女子評議三人に……もちろん各クラスを訪問して……頼み込み、一段落。

 反応はさまざまだったけれども、とりあえずは理由を聞かずに賛成してくれた。

 やはり女子たちから杉本梨南の評価は、想像以上に高いらしい。

 「可愛くて面白くて純粋でいい子」なのだそうだから。

 でも最後に、こずえと同じ質問を投げかけられたのには参った。

「けどなんで、そこまで立村くん、杉本さんをかばおうとするわけ? 別にいいけど」

 照れ隠しとでも思われているんだろうが、上総からしたら単に言葉が見つからないだけだ。

「やはり、一年B組のやり方はまずいだろう? 人間としてさ」

 意味不明の言い訳をして、上総はすぐに教室へもどった。なんでみんな納得してくれたのかよくわからないけれども、考えている暇はない。要はよけいなこと言わずに協力してくれるかどうかが問題だ。

  ──杉本梨南を一年B組の教室からできるだけ遠ざけること。

 新井林が出した条件に見合うやり方はこれだけしか思いつかなかった。

 ──新井林たち多数派の連中にとって杉本はとにかく目障り。存在するだけで不愉快なんだから、それなら本人が居なくなってくれれば一番丸く収まるんじゃないかな。

 ひとり体育器具室で腰掛けて、手に息を吹きかけて考えていたらすぐにみつかった案だ。

 よく、「いじめられて転校させる」という話を聞く。学校をそう軽々代えられるというのも信じがたい話だが、環境を思いっきり変えて過去を消すというのもひとつの手だと思う。上総自身も青大附中に入学した時は同じことを考えていたのだから。 

 杉本の場合は小学校時代の天敵たちと、よりによって同じクラスに回されてしまっている。女子たちは好意的らしいと聞く。いつまで続くかどうかはわからないだろう。桧山先生によって女子がだんだん崩されていくのも時間の問題だ。このままでは杉本がいじめの首謀者として女子を利用しているということにされてしまうだろう。自分に火の粉がかかってくるとなったら、女子たちも杉本から一線をひこうとするかもしれない。そうなったら一気に一人ぼっちになるだろう。

 現二年D組の場合と比較してみる。上総がさんざん一時期物笑いの種にされていたけれども、貴史や美里、ついでにこずえの力もあってうまく守られたように。いわば、佐賀はるみの位置は、現在上総が置かれている立場とおんなじだ。

 菱本先生が、一応は上総を否定しないで受け入れるよう……うざったいという方が先に来るが……クラスの連中に言い聞かせているから、表面上はいじめのないクラスが存在している。いじめることは悪、とはっきり断言することにより、不満分子を押さえつけている。この点に関してのみ悔しいが、上総は頭を下げなくてはならないと思っている。

 桧山先生のしようとしていることもも同じといえば同じだ。

 佐賀はるみが杉本梨南にいじめられているということが事実ならば。

 おそらく上総から見ても、佐賀はるみの立場は非常に居心地悪いものだったに違いない。

 どんなに杉本が友情を持って接してきたとはいえ、六年間好きな男子とも話を禁じられ、自分の好みの文房具も使わせてもらえない状況で腹に据えかねたのも無理はない。

 その点、杉本に逃げ場はない。

 反省を求める桧山先生の行為は決して責められるものではない。

 

 明らかに杉本が不利という立場を前提に考えた。

 でも、どんなに口をすっぱくして説得しても今の杉本は聞く耳を持たないだろう。自分の方がはるかに傷つけられていると思い込んでいるし、自分がそうされるのには当然の理由があるのだと認めるなんて簡単にはできない。上総自身もそうだからよくわかる。自分が痛い思いをしたことの記憶はリアルに残るけれども、人にとってはそれが普通の感覚なのだから、それに甘んじるしかない。自意識過剰すぎた自分が悪かったと反省し、改めるしか、普通になじむ方法は見つからない。

 新井林の言い分は、「とにかく普通の連中に迷惑かけるな」という点ひとつだろう。

 普通の感覚を持つ人々と、違う感覚を持つ人々の住み分けを進めてくれってことだろう。

 杉本に新井林に頭を下げてなじもうとする努力が求められない現状。それならば、出来る限りそれぞれの居場所を引き離し、互いが目に入らないようにするのはどうだろう。「いじめはしない」と新井林が宣言しているのが救いである。互いの接触を減らせば、それだけ摩擦も減るだろう。全くきっかけをなくすることはできないかもしれない。でも、目に入ることが少なくなれば、「普通の感覚」を持つ人たちも「違う感覚」を持つ人たちのことを忘れていられるだろう。

 

 もちろんこれが一時凌ぎだということは自分でもわかっている。

 第一、自分ら二年たちがいつも張り付いているわけにはいかない。

 それまでになんとか別の方法を考えるなりしなくてはならないだろう。杉本にもう一度、さしで話をして、なんとかせねばならないのだと言い聞かせるか、もしくは新井林に頼み込んで交渉するか。

 頭の中はぐちゃぐちゃ状態だ。とにかく時間が足りない。

 ──ああ、もうひとつやることあったんだ。

 悪いけど、「奇岩城」のことなんて考えている暇なんてない。

 

 そろそろ期末試験の準備が始まる頃だった。そちらもいろいろ面倒なことが多く、上総は何度も職員室へ足を運んでいた。まだ英語科の桧山先生はお休みのままだ。情報で得た「自宅謹慎」というのも、噂ではないらしい。一応読んだ「テス」の卒論も返したいところだ。

 昼休み、上総はすぐに職員室へ向かった。

 こずえがおぼんを下げてすぐに教室から出て行ったところまでは見届けた。美里がどうしていたかどうかはわからない。すれ違いに二年女子たちが図書館に向かったのは知っている。でも、ちゃんと図書館に杉本を連れ込んでくれたかどうかまでは確認できなかった。時間がない。


「菱本先生、少しだけいいですか」

 息を整えた。社会科の菱本先生のところへ向かうにはかなり緊張する。

 一年時からにらみ合いが続いている関係である。一度爆発したのが、八月末の宿泊研修だった。

 あの時以来、菱本先生は上総に対して、微妙な距離を置いてくれている。苦労して、恥をかかされて、ようやく得たちょうどいい距離感。こちらからそれを縮めるのはなんか抵抗があるが、いたしかたあるまい。心臓がかなり鳴り響いている。

 机の上には、細かい表組みの書類が一枚だけ。ちらっとのぞいたところ、どうも実力試験の順位一覧らしい。自分のうちにも届いているはずだが、父が直接受け取っているので見たことはない。どうせトップに載っているわけもないのだから、上総は無視して話し掛けることにした。

「立村か?」

 疑問のアクセントあり。わりとさっぱりした顔で上総に向き直った。作り笑顔に見えるが気にしない。

「はい、お願いがあって参りました」

 あらたまった口調を使った。少しでも菱本先生の放出するエネルギーから距離を置きたい。チャンスとあらば、心の中に滑り込もうとして手を伸ばす菱本先生のやり方には腹が立っていた。だからふだんは美里や貴史に任せていたけれど、今回はそうもいかない。

 上総の顔に何を読み取ったのかはわからない。菱本先生は一呼吸おいた後、膝に両手を置いて隣りの先生の椅子に座るよう指差した。

「まあ、座れ」

「ありがとうございます」

 唇をかみ締めまずは腰をおろした。じっくりと菱本先生の手を見つめた。

「どうだ、元気か」

 毎日顔を合わせているのになにが「元気か」なんだろうか。うっとおしい。さっさと本題に入ろうと決めた。

「あの、実は先日清坂さんと古川さんが、僕のことについていろいろ、話をしてくれたことなんですが」

「ああ、あれな。みんなクラスの連中は大して気にしてなかっただろ。俺も一度はきちんと、特別な配慮の授業については説明しておいたほういいと思ったからな。お前だけじゃない、金沢とか、あと何人かそういう風に個人的配慮をお願いしている奴がかなりいるから。助けを求めるのは悪いことじゃないんだからな」

「あの、それでなんですが」

 明らかに菱本先生は勘違いの極地である。お礼を述べにきたとでも思っているに違いない。いいかげんにしろ、である。

「先日のことについては、本当にありがとうございました。あのそれで、なんか桧山先生が僕のことについて何かおっしゃられたとかいうことですが」

「いやあれは大人の問題だ。立村は気にするな」

「いえ、あの、それで」

 話しているとあやうく切れそうになるがこらえる。自分のためじゃない。時間がない。

「実はこの前、桧山先生に呼ばれて、一年B組のいじめ問題について意見を聞かれたんです」

 かなり内容を変えて、上総は一通り説明した。桧山先生がいじめ問題についてかなり深刻に悩んでいたこと、一回当事者同士で話し合いを持っていたこと。その時に、桧山先生に……ここらへんはかなり事実と異なるが……上総が自分の学習障害のことについて説明をしたことなどを話した。 「こちらが善意だと思っても、相手にとっては悪意としか取れない場合が多いんだから、その辺をうまく調節しなくちゃいけないんでは、と話して、その時に僕の、その、数学のことについて話をしました。どんなに理解したくたってできない場合もあるのだからということで、説明しました。たぶん、桧山先生はそのことをあらためて、話したに過ぎないのだと思います。だから、決して桧山先生は悪意があって話したわけではないと思うんです」

 ──嘘八百もいいとこだよな。

 卒論のお礼にしては大げさすぎると自分でも思う。でも仕方あるまい。

「立村、お前な」

 一通り説明を聞いてくれた。菱本先生は口を結んでじっと上総の周りの空気の色を見ている。嘘をついているんじゃないかと疑うような感じもあり。前科があるから仕方あるまい。

「数学のことについては恥じゃない、と思えるようになったんだな」

「しかたないと思ってます」

 心にない言葉を吐くのは慣れている。

「悪意がないかもしれないが、お前、辛くなかったのか」

「いつものことなので慣れています」

 これは本当だ。

「だが、自分のプライドを傷つけられたら戦うのも男として同然の行為だぞ」

 ──だからあんたといつも戦ってるじゃないか!

「大丈夫です」

 これ以上話しているとまた、熱血男のお説教を五時間目ぎりぎりまでかまされるはめになるだろう。冗談じゃない。切り上げ時だ。素早く結論を言い切った。

「だからもし、桧山先生が僕のことをうっかり口すべらせたことで誤解されているんでしたら、そんなことはないと、それだけ言いたかったんです。桧山先生は精一杯、クラスをよくしようとしているんです。もし誤解されてらっしゃるんでしたら、菱本先生、どうかその点だけわかっていただけますか」

 ああ、丁寧語ばりばりである。でまかせもいいとこだ。

 でもこの先生には一番いいやり方でもあるのだ。二年近く菱本先生のやり方を見てきて、隙を見つけられないほど上総は馬鹿ではないつもりだ。

「立村、そうか」

 頭に手を載せられ、軽くぐりぐりやられた。片足で急所を思いっきり蹴り上げてやりたい。

「お前も大人になったな」

 ──あんたに言われたかないってさ!

 以上、十五分たっぷり菱本先生は愛のお言葉を注いでくれた。耳半分にしか聞いていなかったがおよそ「よくぞ心を開いてくれたぞありがとう」ってとこだろうか。評議委員会が隠れ演劇部であることの証明を、今回させていただいたわけである。


 時間が一分でも余れば、様子見で図書館に立ち寄りたかったのだが、例の菱本先生対談により五時間目までぎりぎりの到着だった。こずえと南雲が無言で顔を見上げている。相当険しかったに違いない。

「りっちゃん、かなりきてるね」

「いや、まあ、ちょっとな」

 言葉を濁す。つっこみをいつもなら入れるこずえがおとなしく三角定規を引っ張り出している。コンパスでぐるぐると、円を書いて遊んでいる。

「あのさ、古川さん、例のことなんだけど」

「大丈夫、ちゃんとやっといたよ。てか、毎日やるよ。私たち」

 元気なさげ。お姉さんらしくない。南雲も異変を感じてか、上総の背から手を伸ばし、椅子の背もたれを叩いた。

「古川さんにしてはめずらしいっすねえ。風邪でもひいたっすか」

「まっさか。風邪引いてたら、あんたの彼女から薬もらいに行ってるって」

 返す言葉もやはり切なげだ。明らかに何かがあったらしい。杉本梨南に手ひどいしっぺ返しを受けた可能性がないとは言えない。急いで座り、小声で話し掛けた。

「もしかして杉本がなんか、文句言ったのか」

「ううん、そんなことないって。杉本さんいい子だもん。茶髪のおっしゃれな子と一緒に図書館来たよ。話したよ。ちゃんと隔離したよ」

「そうか、ごめん。やっぱりピザまんおごるよ」

 それでも消せない憂いの表情。後ろ側の美里に目で合図すると、小さく首を振った。親友の美里にも理由が解せないらしい。

「いいよ。食べ物めあてでやったわけじゃないって。あんた大人になってほっといてよ」

「ならいいけどさ」

 やたらとため息をつきながら、こずえは指先を見つめてまたうなだれている。たぶんこの辺で下ネタ漫才かますとしたら

「やーだねえ、立村ってば、私が日の丸の日だとか思ってるでしょー! そういうことに男子って好奇心旺盛だから困るよねえ」

とか言って交わすだろうが。 ──どうしたのかな、やっぱりなんかあったのかな。

 ついでにもうひとり、顔色確認をした。

 全く変化なく騒いでいる羽飛貴史の姿が見える。三角定規を絡めてヨットをこしらえて遊んでいる。上総からすれば、こういうことこそ「ガキ」と呼んで欲しいもんだ。

「ほら、羽飛がなんか騒いでるって」

「なにむかつくこと言うの、あんたも」

 上総はそっと教科書を開いて、目を落とした。数学の教科書はきれい過ぎる。文章題の難しい問題が並んでいた。解けるわけないので、すでに他の連中から答えをいただいている。不景気な面のこずえを無視して南雲に、「菱本先生の説教はいいかげんにしてほしいよな」的話題を振った。もちろん、内容は一切明かさずに、ため息をついた。同時に隣りから、同じくため息の声が聞こえた。息だけではない、もろに「はあ」と聞こえるようにだった。

「やっぱり落ち込んでますね、姉さんは」

 じいっと上総を見据えた。こずえにしては珍しい視線だった。

「あんた、やっぱり杉本さんのこと好きなんじゃないの」

 真剣に言われると困る。何度も同じ否定の答えを出す。

「そういうんじゃないよ。先輩としてはひいきしてるかもしれないけど」

「いいよ、本当にそうしたいんだったらそうすればいいんだ」

「そんな話になったのかよ、まったくたまらないなあ」

「どうせ、美里には相手いるんだからさ、後釜が」

 ──後釜?

 一瞬にして、どんより気分のこずえが生まれた理由を理解した。

 ──そういうことか。

 もう一度美里に目を向けた。やはり心配なのだろう、上総に向かって頷いたり、首をかしげたりしている。

「古川さん、ちょっと耳貸せよ」

 南雲には聞かれたくないだろう。そっと上総は無理やり口を近づけた。

「やだねえ、給食あと歯磨きしてないでしょが」

「だから黙って聞けよ」

 片目で相変わらずはしゃいでいる羽飛を見やり、つぶやいた。形のいいこずえの耳は、きれいに掃除がしてあった。みかけによらず、細かいところきちんとしている人だった。

「俺は清坂氏と付き合いやめる気ないよ。ということで当然」

 口を離し、もう一度近づけた。凍り付いているこずえの瞳。潤み加減だ。

「古川さんの相手が清坂氏とくっつくなんてこともないってさ」

 真剣であることの証明として、真横を向いてじっと見つめた。視線を逸らさなかった。

「何言ってるってさ、立村、あんた、なんか」

 言葉がばらばらとほぐれているのが動揺している印。満足して上総は自分のコンパスと三角定規を取り出した。


 桧山先生が学校復帰したと聞いたのは、それから二週間くらいしてからのことだった。上総の嘆願がきいたのかどうかはわからない。一年B組を揺るがし、上総のプライバシーをもずたずたにした事件も、とりあえずは丸く収まったようだった。みな人のことは無関心なのはいいことだ。


 期末試験が終り、またも順位発表で騒ぎとなり、一年は相変わらず杉本梨南のぶっちぎり一位らしいと噂にきいた。いろいろあるにせよ、少しは上総の配慮も役立っているのだろうか。そう思いたかった。

 こずえ、美里、その他の女子有志たちが、

「男尊女卑の桧山先生に反抗声明よ!」

 とばかりに杉本をねこ可愛がりしている。ほとんど顔を見ると一礼するだけ。話しかけても無視される。 でも、他の評議委員女子連中には素直に応じているところをみると、クラスから引き離す作戦も成功しているのかもしれない。たまに図書室で、女子たちがきゃあきゃあ杉本たちと一緒に、ビーズ細工で遊んでいる声を耳にした。覗き込んだ杉本の表情は、うつろだが尖らす口から飛び出す言葉は、女子たちからすると可愛いものらしい。周りから笑顔は絶えていなかった。

 「青大附中スポーツ新聞」では、青大附中バスケ部が水鳥中学バスケ部からまたもぼろ負けを食らった記事が打ち出されていた。

 

 ──あとで、桧山先生に卒論返してこよう。

 読み終えて一通りの感慨はあるけれども、まだ上総は心に秘めておくことにした。純情可憐で、純粋に信仰深い女性テスが、まっすぐに生き様とするあまり身の破滅を呼んでしまう悲劇。何度か救われるチャンスはあったのに、運命というか、ストーリー上の都合というか、手に入れることができないまま人をあやめ、絞首刑に処せられる。

 ──桧山先生たぶん、書きたくてこの卒論書いたんじゃないと思うな。教授がたまたま「テス」を専門にしてたから、適当に仕上げただけなんだと思うんだけどな。だってさ、先生の書いてる内容って、俺がこの前大学講義でもらった参考資料の丸写しだよ。大学って、こういうことで卒業できるのかよ。あ、そうか、英語で要約書かねばなんないのか。とにかくこれ、俺が言えた義理じゃないけど、なんか卒業論文ってものから夢を奪う以外の何ものでもないと思うな。

 まさか、そんな恐ろしいことを言うことはできない。上総は茶封筒に黒表紙の卒論をしまいこんだ。指先だけ出る手袋をはめ自転車を漕いだ。

 

 いつものように職員室に寄り、社会の副読本を菱本先生から預かり、扉を閉めた時だった。

「おい、ちょっと逃げんなよ」

 ブレザーを完璧に着くずしたまま、一瞥する奴を見た。

 コートをすぐに着たくなった。身体が固まった。

 じっと射すくめられると同時に目をそらした。

「新井林、いったいなんだ」

 まずは言葉を返す。一切動かずに新井林は声を低めた。

「俺が用あるって言ってるだろ」

「今じゃなくてもいいだろう」

「あんたが言ったんだぜ、『一発殴らせろ』ってな。ちょっと来いよ」

 廊下では規律委員の連中がずらっと並んで、遅刻者をチェックしていた。南雲の姿は見かけなかった。新井林が顎でしゃくって生徒玄関の方へすたすた歩き出したのを追いかけた。

 ──いったいなんだよ、今度は。

 できればこのままとんずらしたい。でも動けない。

 いつも新井林と対するとこうなってしまう。こんなんじゃだめだと、自分を殴りつけても、おなかの中の虫が上総を思いっきり引っ張っている。

 ──どっちが先輩なんだよ、まったく。

 黙ってついていくしかない自分が情けない。


「いったい、何を言いたいんだ」

 生徒玄関には鍵がかかっている。そこから入ってくる生徒はいない。通り過ぎる先生の姿も見当たらなかった。ロビーでふたたび向かい合った。新井林はまず、ズボンのポケットに手を突っ込み、少し猫背になり斜に上総の顔を覗き込んだ。立ち止まった上総の周りをぐるぐると回り続けた。目が回って身体が溶けてしまいそうだった。

「悪いけど、あんたすげえなってまずは、けじめをつけたかったってことだ」

 一発目、新井林が発した言葉を繰り返した。誉められているのだろうか。

「けじめ?」

「そうだよ、けじめって奴だ。俺は男として最低の人間になんぞなりたくないからなあんたがどういう手をつかったかわからねえが」

 ──男として、最低の人間って。

  責められる、痛い。上総は必死に唇を噛んだ。

 新井林は立ち止まった。上総の目の前だった。視線を逸らすことを許さないまなざしだった。

「一週間前の公約通り、一年B組は見事に静かになったってわけだ」

 言われている意味が、耳の中で溶けてこない。鸚鵡返しのみしかできない。

「杉本の、ことか」

「そうだ。お見事、さすが本条先輩の命で評議委員長に推薦されるだけのことはあるって、俺も認めてやるさ。あの桧山先生だって、いきなり教室の状況を見てな、『ずいぶん変わったなあ。静かになったなあ』って言ってたぜ。要は、あの女が教室にいることが少ないと、丸く収まるんだってことが証明されたってことだな」

 上総は持っていた副読本とプリント若干を持ち直した。

 自然とため息が洩れた。図書室の杉本の姿が思い浮かんだ。

「そうか、だいぶ落ち着いたか」

「清坂先輩とか、二年の女子の先輩を利用して、よくもまあやるよなあ。思いっきりむかつくが、けどあんたのやり方がお見事だったことも認めてやるさ。俺が七年間苦労してきたことを、あんたは一週間で片をつけてしまったんだ。ま、本当はあの女の口を封じてくれれば一番いいんだが、それ以上のことを俺は望まねえよ。まあ、桧山先生も復活したことだしな」

 じろんと目を一瞬だけうつろにし、すぐに堅く戻した。新井林がよく使う、にらみの技だった。

「今日の放課後、茶室で落とし前つけさせてやるよ」

「落とし前?」

「あんた、おうむ返ししかできねえのか。ほんっと馬鹿じゃねえか。まあいいさ、あんたは俺を一発殴りたいって言ってたしな。この件に関しては俺が全面的に悪うございましたってことで、一発とは言わず、三発くらい殴ってよしだ」

 ──こいついったい何言ってるんだよ!

 即座に浮かんだ言葉を、すぐに打ち消して思い出した。

 ──そうだ、俺が言ったんだよ。

 ──杉本をおとなしくさせたら、一発殴らせろって。

 花崗岩のような自分の握りこぶし。人を殴りつけたことのない、折れそうな指。武者震いでない、ただのおびえた震えが走る。

 ──殴れって、そんなことできるかよ。

「新井林、あれは言葉の綾だ」

 表向きだけでも落ち着いた風に見せたい。言葉が走ってしまう。見抜いた風に新井林は、にやっと笑った。

「殴らせろって言ってるんじゃねえぜ。俺は殴らせてやるって言ってるんだ。一騎打ちであんたの腕力じゃあ俺とは話にならねえだろ」

 上総があせればあせるほど、新井林の声は落ち着いてくる。場を踏んでいる。またいつものように「勝ち目のない戦い」という声が聞こえてくる。足を踏ん張らねば。言葉のメトロノームが激しく触れていた。「落ち着け、よく聞け。新井林。確かにあの時俺は、そう言ったよ。けど、今の一年B組が丸く納まっているんだったら、無理にそんな、殴りつけようだなんてことはしない。暴力で物事がうまくいくなんて、ガキっぽいことを考えてはいないんだ」

 ──何白々しいこと言ってるんだ、俺は。

 ──ただ、怖いだけのくせしてさ。

 言葉に裏切られていく自分がいる。逃げ出したくて足を震わせている自分がいる。見たくない大嫌いな自分がいる。本条先輩のように落ち着いて交わせない自分がいる。きっと新井林の眼に映っているのはそんな奴だろう。

「ほお、前言撤回かよ。ったく、やっぱりあんた、度胸ねえんだな。それともなにか? 俺が騙そうとしてると疑ってるのか? 悪いが世の中、あんたみてえなびくびくした馬鹿男だけじゃないんだ。よっく目の玉おっぴろげて見てみろよ。じゃあな、放課後、茶室の裏で待ってるぜ」

 新井林はもう一度にやっと口元をほころばせ、駆け足で一年の廊下へ消えた。

 教室に早く戻らないといけないとはわかっているけれど、足がだんだんじんわりと痺れている。菱本先生が近づいてきて、

「おい、立村どうした、早く戻らないと授業始まるぞ」

 と肩を叩いてくれるまでは、氷柱の身体ののままだった。


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