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その7 雪虫に追われてる

 ──お前さあ、そんな恥ずかしいことだとまだ思ってるわけ? 普通の計算ができない奴って決め付けられたことがさ。

 

 山積みになった机の書類。

 大学の講義でもらった資料がかなり多い。それほど難しくない英文のエッセイや論文、その他ハーディ関係の伝記。その間をサンドイッチの具らしく、小学校レベルの分数問題プリントが挟まっていた。

 何度解いても答えが同じにならない。

 一年の頃、何度も怒鳴られ、小突かれた。二年から上総の答案には一切点数がつかなくなった。かわりに赤字で、解き方がわかりやすく、文字大きくつづられるようになった。理解しなくていい、解き方をそのまま丸暗記すればいい。狩野先生に教えてもらったやり方だった。


 ──本当に、お前よく受かったよなあ。青大附中にさ。いんちきとか裏金工作とかいろいろ言われてるっけ。否定できねえよな。情けねえ。


 自分専用に編集されたプリントを取り出した。いわゆる「算数レベル」の問題一式だ。クラスの連中と同じ問題では、上総が寝るだけだと見て取っての判断だろう。

 ──そうだよ、俺は救いようがないんだ。

 心だけじゃなく、口で、壁にぶつけてみた。

 響いて、静まり、みじめになる。


 ──そうだな、学校でも言われてるだろ。青大附中の入試制度が、杉本たちの代から変わったって。お前の頃は面接が最優先だったけど、一年後それが改正されてペーパーテストオンリーになったって。もし一年ずれてたら、確実にお前、落ちてたな。面接でカバーされてなかったら、どうなってた?


 青大附中に受かっていなかったら。

 見たくない現実が映りそう。

 聞こえよがしにささやかれる言葉には、もう慣れていたはずだった。忘れていた頃にいつも刺さってくる。

 あの春休みのように、ひとりで壊れてしまいそうになる。


 ──ちゃんと医学的にも証明されていてこうなんだもんなあ。お前が単なる怠け者だったらあっさり納得したんだろうが、なにせお前ってどうしようもなく、あきらめ悪いだろ。努力したらいつかまともになれるって信じてるとこ、あっただろ。見事にくつがえされちまったもんなあ。


 もう、杉本も、美里も知っていることなのだ。

 クラスはおろか、二年全員、へたしたら学校中に知れ渡っているかもしれない。それでもかばってくれる友達がいる。ありがたいと、頭では感謝している。

 普通の人にはできることが上総にはできない。

 走ることも、読むことも、変わらずできるのに。

 どうしても、同じ枚数に紙をそろえることとか、挙手した人の手を確実に数えることができない。わからない。努力しても無駄だと、言われたあの日。


 ──言われただろ。生まれつきの脳のしくみの問題であって、決して親のせいでも、ましてやお前が努力してないせいでもないって。生まれ持った頭の問題だって。まあ、その代わり外国語なんでもわかる能力をもらってるんだから、とんとんってとこだって言われてるだろ。しかたないって。あきらめろ。

 だからしかたない。

 努力したって、だめなんだ。

 同じことはできない。

 ──本条先輩には、なれないんだ。


 赤ペンの入った実力試験・数学の答案を手に取り眺めていた。狩野先生はこまやかだ。読みやすい。わかりやすい。こんなに丁寧に教えてくれるのに、上総はプラスとマイナスを掛け算して、どうしてマイナスになるのかがわからなくて悩んでいるというわけだ。


 桧山先生が次の日から学校を休んだという話は、地獄耳のこずえから伝わってきた。火のないところに煙を立てたい菱本先生とのごたごたが、職員会議で繰り広げられたらしいとのことだった。

「あんたも当事者だけど、ま、がんばんなよ」

 やっぱり好奇の視線はびしびしと感じつつ教室に入ると、すぐに一声かかった。クラスの男子連中は、上総を見るなりにんまりと笑い、

「立村、いやあたいへんだよなあ。菱本先生もやるじゃねえか」

 あいかわらず、味方であることをアピールしてくれる。そうでないのは、一部の女子から流れる空気のみ。やはり、前から上総の扱いや立場に不満を持っている人が居るということだろう。ひそやかにささめく声。

「やっぱりよねえ、病院に……」

知らないふりをするのが一番だ。

 美里が耳元で手を、かえで風にかざした。

 ──味方だって、言ってるんだろうな。

 無理して笑ってみせた。


「おい、立村、すげえことになったなあ」

 クリームソーダめいた空気が漂う中、貴史がつんつん上総の背中をつついてきた。廊下に出てほしいみたいだった。上層が白くあわ立ち、下の層が透明。ひっぱり出された。廊下を通る他組の連中にも笑ってみせ、上総は壁際に持たれた。

「お前、桧山先生にそうとうひでえことされたみたいだなあ」

 貴史の表情はくったくなげだ。一応あらたまってはみたけれど、別に悪いことじゃないしという感じだった。

「立村のことを菱本先生がすっげえかばって、だああっと文句言ったんだと」

「文句?」

 状況が把握できなかった。

「ほら、昨日のことだぜ。ま、その辺は美里の方が詳しいだろうけどなあ。職員会議の時にいきなり、菱本先生が『生徒のプライバシーを関係のない生徒に暴露するのはいかがなものでしょうか』って、らしくねえ言い方で抗議したんだと」

 ──俺のことをかばってって、いったい今度はなんだよ。

 混乱してきた。どう言えばいいかわからなかった。

「桧山先生も往生際悪いよなあ。別に変なこと言わなくたって、素直にあやまっちまえばいいのになあ。開き直ったんだと」

「どんな風に」

 なんで貴史がそこまで詳しいのかわからなくてさらに首をかしげた。自分でも間の抜けた返事だと思った。

「だから、わかってねえなあ」

 今度は軽く肘鉄を食らわす感じで、

「桧山先生、お前が精神科に通っているとかなんとか言ったらしいんだぜ。失礼だよなあ」

 きっと、本当のことを貴史はまだ、知らないのだろう。

 さらりとあっさりと、学校をサボったことを怒られた程度の話題だと思っているに違いない。たぶん美里からも聞いていないのだろう。

 上総は低く、襟のネクタイの結び目に向かってつぶやいた。

「本当だよ、みんな」

「はあ?」

「病院じゃないけれど、いわゆる、そういうところには行ってた」

「はあ?」

 今度は貴史の方が口を尖らせた。

「だから、俺は数学が生まれつきできないから、そういうとこに小学校の頃から行ってた。本当のことを桧山先生は言っただけなんだ」

 やっと納得したらしく、貴史はふんふんとうなづきを繰り返した。

「なあんだ、みんなご存知ってことばっかりじゃねえか。そんなの」

 からっと返されると、自分の方が困る。上総は貴史のネクタイから襟元、口、最後に目まで一直線で見上げた。

「けど、立村は知られたくねかったんだろ」

 声が出ない。両手を後ろに組んで下を向いた。

「だから隠してたんだろ。単純じゃねえか」

 震えるだけ。唇が乾いた。

「ならいいじゃねえか。言われたくねえことをばらされたら、頭にくるのが当然だ。じゃ、教室もどろうぜ」

 貴史は上総の腕を無理やり取って、教室に押し込んだ。ちょうど鐘の鳴るのと同時だった。


 もっと詳しい状況については、図書局員かつ地獄耳の古川こずえに肉付けを頼んだ。こずえが言うには、たまたま一年の図書局員が職員会議中の状況を、廊下でしっかり聴いていたとのこと。かなり詳しい内容が明らかとなった。

 近所であんまん肉まんを各一個ずつおごるということで、情報料については話がついている。廊下、図書館、授業中、少しずつ分けてそのときの事情を聞き出した。

 

 菱本先生は激しく興奮していたという。

「『生徒が懸命に授業についていこう、努力しようとしているのに、それを逆撫でしたようなものです。これはプライバシーの侵害です。許されることではありません』って叫んでたらしいよ。かなりでかい声でね。もちろん桧山先生も応戦していたけど、やっぱり立場悪いよね。口すべらしたのは桧山先生なんだからさ」

 ──プライバシー侵害たって、あの人がそんなこと言えるのか。

 上総としてはつっこみたいけれども、当事者の立場は弱いのでがまんする。

「桧山先生が言うにはね、『一年B組の問題をなんとかしようとしているところで、たまたま出てきてしまっただけです』って。要するに、桧山先生は杉本さんのことを職員会議で問題にしたかっただけみたいなのよ。ひどいんだよ、杉本さんのお母さんに、『お宅の娘さんは病院で頭見てもらったほうがいいですよ』見たいなこと言ったらしいもん。それを、他の先生にも言いふらそうとしてたみたいよ。やだねえ」

 ──杉本にか。けど、いくらなんでもそこまでひどいことするわけないよな。

 信じがたいことを聴かされると、最初はうそだと思いたくなる。

「でもやっぱり、伊達に菱本先生、桧山先生より年食ってないってとこ見せたよね。結局、だあっとせめてせめてせめて終わり。生徒のプライバシーはきちんと守りましょう。守らなかった桧山先生はしばらく学校を休んでくださいってね。知らなかったよ。先生も謹慎ってのが、あるんだねえ」


 おおまかにいうと以上のことらしい。

「でもねえ、杉本さんに言ったことも、私、どうかと思うな。いきなり親呼び出して、『病院行け!』って言ったんだもん。杉本さんをいじめてるって奴よ。クラスのいじめをなくそうとするんだったら生徒いじめやめろって言いたい。男って顔の良し悪しで判断するもんじゃないよって言ってやりたいよ。ほんと気持ち悪い顔してるくせにさ」

 ──この前まで、美形だとかりりしいとか噂してたくせに。

「もともと杉本さんはおかしいから、そういう子を直してくれる病院に連れてけとか、行かないなら学校やめさせるとか言うんだもんねえ。杉本さんのお母さんさあ」

 ここで声を潜めた。

「誰にも言うんじゃないよ。美里にも」

「わかってる」

 カウンタごしのこずえににぎりぎりまで耳を近づけた。たぶん隣の図書局員にも聞こえないはずだ。

「杉本さんのお母さん、パニックになっちゃたみたい。だから杉本さんのうち、いま大変みたいだよ。杉本さん本人は冷静に、たんたんと話してるけど、帰ると大騒ぎみたい。うちの母さんみたいに『ざっけるんじゃないわよ、うちの娘にふざけたこと言うんじゃないよ!』ってたんか切る性格ではなさそうだもんね」

 この辺、さすがこずえも気を遣ったのか、言葉を濁した。

 ──桧山先生の手は、強烈すぎる。

 こずえを見据えて、小さく首を振った。

「清坂氏には内緒で、杉本のこと、頼みます」

「当たり前。友だちをかばってやんなくて、どうすんのさ!」


 予想できない返り討ちだった。

 桧山先生が杉本を痛めつけて土下座させるために、ありとあらゆる手段をかましてくるとは思っていたが、とうとう実力行使に出るとは。

 只者ではない。大人を甘く見ては行けないってことだ。

 今回はたまたま、上総の学習障害問題が絡んで大ごとになったけれども、本来だったらこのまま杉本だけが泣くはめになってもおかしくはなかっただろう。先生としては当然のことをしただけと、きっと開き直るだろう。菱本先生だって、怒ったのは上総のプライバシー侵害についてだけだ。杉本のことについてはたぶん、納得してしまうんではないだろうか。

 誰もかばいようがない。もう、生徒の自分は何もできない。

 ──杉本、大丈夫だろうか。

 騒ぎの前の昼休み、上総のもとに現れてじっと見上げた時。

 あの時からすでに修羅場が自分の家で繰り広げられていたら。

 ──帰りたくないよな。

 

 桧山先生が杉本の親に何を話したかはわからない。たぶん桧山先生は、上総の時と同じように……もっとも上総の場合はそれぞれの親と以前から連絡を取ってはいたらしいが……一度検査をしてみたらどうでしょうか、程度のことだと認識していたのではないだろうか。耳鼻科検診の時に問題のあった生徒へ、後から「病院へ行ってください」というプリントが渡されるのと同じように。

 桧山先生はそれと同じなのだから、と思ったのだろうか。

 でも、言われた当人にとってそれがどんな意味を持つのか、きっとわかってくれてないのだろう。わかるわけないし、無理に理解してもらおうとも思わない。

 ただ、どうすれば、傷つかないですむのかを教えてほしかった。これからどんなに努力しても手の届かない「ふつう」という言葉。自分が普通になれないという現実を、どうすれば素直に受け入れることができるのか、それを自分と、杉本に見せてほしかった。納得できる答えが欲しかった。


 事件から一週間が経過した。二年D組には特段変わったこともなかった。爆弾娘の美里については、あえて上総も触れないようにしていたので関係は良好だ。こずえに全部暴露されてからは、妙におとなしい。うっかりあてこするとさらに暴発しそうなので、はれもの触るように接している。

「なぐちゃん、ちょっといいかな」

 時たま、ほとんど人のいない時を狙い、南雲に話しかけた。貴史でもいいのだが、美里と関係が近すぎる。相談したことがばれてしまう。これはまずい。

「どうした、りっちゃん」

「そろそろ、十二月だよなあ」

 わざととぼけた声でつぶやいてみた。

「うん、十二月。期末も近いよなあ」

「でも期末が終わったら冬休みだ」

「冬休み、お年玉、雑煮、いや、クリスマス!」

 相変わらず脳天気な南雲である。キーワードが出てきたので話が進めやすい。上総はもう一度つぶやいた。

「そうだよな、クリスマス」

「りっちゃんは今年どうするんか」

 今年、と言われても困る。立村家においてクリスマスとは、ほとんどあってないようなものだった。母がいた頃はお正月中心だったので、ほとんどが大掃除にかまけていた。一応は父がケーキを買ってきてくれるのだが、プレゼントは一切なし。日本にすんでいる以上は、日本の行事を優先すべし、というのが母の言い分。クリスマスプレゼントなんてものは、もらったことがない。当然、サンタさんへの夢なんて、物心ついたときから持ったことがない。

「今、それで迷ってる」

「迷うって、やっぱり」

 声を潜ませて南雲も耳元にささやいた。

「清坂さんとのことか」

 照れてると思われたくないけれど、めんどうで頷いた。

「経験豊富ななぐちゃん、ひとつ聞きたいんだけど」

「ほいほい」

 手もみして寄ってくる。

「いわゆるクリスマスって、どういう風にすれば女子は喜ぶもんなのかな。食べるものが豪華だとか、どこか連れていくとか、何かプレゼントするとか」

「でかしたりっちゃん、そういうことだったらいくらでもお手伝いしますぜ。なあにまだ一ヶ月あるんだからなあ」

「いや、必ずそうするってわけじゃないけどさ、ただ、なぐちゃんだったら、クリスマスに奈良岡さんとそれなりになにかするだろ」

「できればなあ、いいんだけど」 

 言葉をにごらせる南雲。青菜に塩。

「どうしたんだよ」

 小突きつつ顔を覗いてみる。ちょっと悔しそうだが怒ってはいない。

「うち、行事の時って基本として、うちのばあちゃん中心なんだ。ばあちゃんを囲んでケーキを食うって感じでさ。だからクリスマスとか、そういう行事の日はうちにいるんだ」

 南雲はおばあさんと同居している。とにかくおばあさん思いの南雲のことだ。それは当然のことだろう。

「けど、一日中うちにいるってわけでもないし、せっかくだから彰子さんを招いてもいいかなって思ったりもしたんだけど」

「けど」

 言葉に詰まっている。いろいろありそうだ。面白くてつい突っ込んだ。ひじでつつき返した。

「彰子さんの家でも、派手なホームパーティーやるんだと。しかも、来る連中がほとんど野郎ばかりだってさ! みんな、今から彰子さんのためにプレゼント用意してるんだってさ! さらにいうなら、それって彰子さんのご両親の公認だってさ!」

「じゃあ、そこに行けばいいじゃないか。混ぜてもらえば」

 素直に上総はそう思う。だって、彼氏だ。

「行けるかよ!」

 頭を抱えはじめた南雲。髪をなでてやった。子犬みたいにうんうん首を振った。

「ここじゃ言えないけど、小学校時代の有志が集って彰子さんファンクラブが結成されているんだ。俺がうっかり足を踏み入れようもんなら、袋に合うんだぜ。青大附中および彰子さんの家近くまでは俺の管轄だけど、彰子さんが家に帰ったらもうアウト。ファンクラブ会長・副会長がしっかりお守りするって形なんだ。詳しいこと聞いてないけど、きっとクリスマスパーティーはあの二人が仕切ってるんだと思うんだ。俺だって先月からいろいろ計画立ててきたのにさあ、しっかとくぎ刺されたんだ」

「奈良岡さんに?」

 答えは意外だった。

「いや、ファンクラブ会長じきじき連絡が入って、一切、俺に手出しするなって。十月の終わりにだぞ。ひでえよなあ」

 本来相談すべき内容は今回、いったん後回し。ずっと上総は、南雲の置かれた複雑な環境および、奈良岡彰子の持つカリスマ性についての説明を受けていた。世の中、自分より大変な人がほんとたくさんいるのだとつくづく思った。


 南雲と話している時は脳天気でいられるけれども、いったん教室を出てひとりになると、息が詰まった。

 窓から見える空がだんだんこわばり、細かく砕かれて落ちてきそうな日が続いた。闇になったり、雨になったり。コートだけでは我慢できなくて手袋はめたり。桧山先生の自宅謹慎はまだ解かれない様子だった。廊下や委員会で見かける杉本も、きついまなざしは変わらないけれども、どこか視線が斜めに刺さっていた。時折指先を見つめている。

 家でどういう修羅場が繰り広げられているのかわからない。日ごとに流れる噂によれば、杉本の母親が近所に土下座して娘の罪を許すように頭を下げているとか。クッキーを配っているとか。近所の人は塩をかけておっぱらったとか。

 杉本梨南が石の心ではなく、火をつけたとたんに溶け出してしまう蝋人形だと気づいたら、他の奴ら、特に新井林はどう思うことだろう。まだ、冷たい空気の方がましかもしれない。

「杉本、気をつけて帰れよ、また明日」

「お疲れさまでした」

 交わす言葉といえばこれだけだ。それでもじっと見据えるまなざしに、ろうそくから流れる蝋のしたたりを感じる。上総だけらしい。


 雪かと思って窓べを見た。今日明日には初雪が降るだろう、とはテレビの天気予報。給食室に食器を運んだ後、上総は白いものが浮かんでいるのを目ざとく見つけた。

「初雪かなあ」

 別の組の女子がはしゃいでいる。

「違うかもしれないな」

 答えてしまい、けげんな目で見られた。

 ──あれは、雪虫だ。

 落ちてこないで、飛んでいる。よく見ると紫色の点がぽつんとついている。原点はアブラムシ。見た目はきれいだけどつぶすと気持ち悪い。本当の雪が降る前にやってくる虫の一種だった。

 ──やっぱり、いくか。

 ポケットに手を突っ込んだ。冷たい金具をつかんでいたせいか、指先が痛い。時間は給食室奥の丸い時計でチェックした。まだまだ五時間目まで十五分余裕がある。


 体育館の入り口まで足早に歩き、背の高い影を見つけてからは、二歩小さく進んだ。スポーツ刈りの色黒いうなじが、ブレザーの後ろ襟から覗いていた相手だった。

 利き手をスラックスのポケットにつっこんだ。握り締めた。

「新井林、ちょっといいか」

 無視された。聞こえないのか。体育館にすたすた入っていこうとする。急ぎ足でもう一度近づいた。

「悪い、少しだけつきあってくれないか」

 新井林健吾が肩を肩をすくめながら振り返った。苦みばしった、つばをかけられそうな顔だった。


 貴史たちの絶叫が響きわたっている。

「おいこら、そんなとこにパス渡すんじゃねえよ」

 バスケ部からあいかわらずスカウトが来ているのもうなづける。すばしっこく敵味方ゴールを走りまくっている。

 新井林の背を追っかけた。見上げるかっこうになるのが悔しい。奴は立ち止まるといきなり、二年連中バスケ対決を真っ正面で観戦するかっこうで壁にもたれた。隣は空いている。上総も同じようにした。手に息を吐き掛けつつじろっとにらみつけられたが歯を食いしばり耐えた。ようやくお言葉いただいた。

「なんか用かよ」

「うん、少しだけ、時間もらえるか」

「話したいことあるならさっさとしゃべれよ。俺だって忙しいんだ」

 ──敬語なんて夢の夢だな。

 本条先輩の指令は果たせそうにない。自分をあざ笑いたかった。

「あの、この前のことなんだけどさ」

「あれそれこれどれなんて使うんじゃねえよ。女々しいぜ」

 風邪気味なのか、新井林は派手に鼻をすすりあげた。

「あの、桧山先生とのことなんだけど」

「なんでてめえなんぞが一年B組の問題にに顔出すんだよ。関係ねえだろ」

 片方の頬を思いっきりめくりあげ、吐き捨てた。挑発に乗るなかれ、と言い聞かせ、上総は続けた。

「俺もまずかったと思うんだ。あやまる。で、言い忘れてたんだけどさ」

 言おうとしたとたん、さえぎられた。

「あの女にあやまれってか」

 あわててかぶりをふろうとした。でも一応自分は先輩という意識のもと無言で待った。

「冗談じゃねえぜ。てめえもそのくらいのことはわかるだろ」

「あやまれなんて言わない。新井林、お前の言いたいことは、俺もよくわかるつもりなんだ。だから、その点については杉本が悪いと思うんだ」

 少しずつ距離を縮めていく。露骨に肩を上げて避けて行く新井林。よっぽどゴキブリっぽく見えるのだろう。足がもぞもぞする。指先が凍りそう。ドリブルの音につぶされそうだった。

 ようやく上総の方をかすかに向いた。

「ああ、俺は別にあんたが杉本をかばいたいのを止めやしねえよ。ただな、なんで俺にそうも無理やりかまってくるんだ?」

「かばうってわけじゃないんだ。頼む、聞いてくれ」

 パスをしくじったのか、頭上にボールが勢い良く飛んできた。思わず体をかがませると、新井林にちっと舌打ちされた。

「立村、入るか?」

 羽飛が出したロングパスらしい。首と手で断り、ボールを拾い上げて戻してやった。


「じゃあなんか俺に用あるのかよ」

「例の、そのことなんだ。ちょっと外出ないか」

 指が手足ともに凍っている。上総はブレザーのポケットにそれぞれ両手を突っ込みなおした。顔を見るまでの度胸がない。一直線で新井林の前を横切り、グラウンドへつながる出入り口まで進んだ。

 ──まあいいか。中靴だけど。

 一瞬だけ躊躇したが、すぐに扉の掛け金をはずした。振り返り、新井林がついてきているかどうかを確かめた。

 

 体育館真向かい青銅色の扉の向こう。

 白く重たい空の下、雪虫たちがグラウンド一面に舞い踊っていた。

「寒いから早くしろよな」

「ああ、わかってる」

 コンクリートの踏み台を見下ろした。頷くのは時間稼ぎ。息を整え上総は、目を伏せたままでいた。

「この前は邪魔して悪かった」

 少し深く頭を下げた。目を合わせたくない。

「だからなんであんた謝るんだよ。あんたには関係ねえだろ」

 だいぶ声変わりの進んだのど。数度のどをえへんえへんさせている。うつむいたまま上総は続けた。勢いだ。

「桧山先生のこととは別として、新井林、佐賀さんと、杉本との間に何が起こったのかはだいたい調べてわかっている。お前を責める気はない。頼みたいことがあるだけなんだ」

「頼みたい? やっぱりあの女を許せってか」

 鼻をふくらませ、語尾をゆっくり。

「違う。お前が杉本を許せないのは当然だ」

 上総は覚悟を決めた。息を深く吸いこみながら新井林の視線を捕らえた。じっと目が合う。しっかりとにらみ返された。杉本を見つめるときとは違った、針のようなまなざし。いつか見た、満天の星たち。他の人たちは美しいというけれど、上総にはとてつもなく恐ろしかった、針山のような空。思い出した。 

「杉本は決して悪意があったわけじゃないと思う。でも受け取る側としてはむかついて当然のことをされたんだから、嫌って当然だと俺は思う。許せだなんてことは、絶対に言わないよ。新井林、いったい杉本がどうすればお前たちの迷惑にならないかそれを教えてほしいんだ」

「はあ? 迷惑にならないか、だと?」

 もう一呼吸、右手を親指がつぶれるくらい握り締めた。

「杉本をできるだけお前たちの迷惑にならないようにするよう説得してみるつもりなんだ。必ずしも頷いてくれるとは思わないけれど。けど、お前や佐賀さんや、一年B組の連中をこれ以上傷つけない方法を、なんとか探したいって思ってる。一番公正な目で見られる新井林、お前の意見を聞きたいんだ。許せないのにあえて、杉本をいじめさせないように命令している、お前ならきっとわかってくれると思ったんだ」

 手が汗ばむ。外に出して、意識してこぶしを緩めた。


 新井林は片足を軸にして、上総へ斜に向かい合った。横顔が剣の鋭さを持つ。ちろりと見据えるまなざしが怖い。

「俺の方からも聞きたいんだが、なんで菱本先生があんたの頭のどうたらこうたらで、うちの担任を怒鳴り散らしたんだ? その日な、清坂先輩が俺にその話を聞きに来たんだけど、それっててめえの魂胆か?」

 ──やっぱり清坂氏がか。

 たぶん美里が上総のことを心配してうごいてくれたのだとはわかっているつもりだ。でも、新井林からしたら、当然の解釈だろう。上総のもともとの罪状から推測したら当然だ。

「杉本と桧山先生のバトル中、たまたま出てきたぜ。確かにな。杉本の大好きな先輩も精神病院かどっかに通ってるとかなんとかな。話を聞いてりゃあ、そりゃあ誰のことかは想像つくだろうな。うちのクラスのアホどもがどこまで気がついたか知らねえが。けどな、桧山先生こうも言ってたんだぞ。精神科とか神経科とか、そういうところに通うことで人を馬鹿にすることはいけないってな。悪いがあんたが想像しているほど人を馬鹿にしたネタなんかじゃない。あの女のことは別として、何もあんたがびくびくして秘密ばらされたって焦ることねえじゃねえか」

 新井林の怒鳴り声がびんびんと響く。

 目をそらしたい。じっと、新井林の肩に止まった雪虫を見た。雪じゃないから、溶けない。張りついている。

「しつこいようだが、あんたがそういう病院に通っているかどうかなんて関係ねえよ。俺の友だちだってたくさん、頭の悪い奴とか、ちょっとねじが緩んでるとか、そういう奴一杯いる。人間性をそんなことで貶すような、くそな人間じゃねえ。ただ、本当のことをばらされてあせって、彼女を利用して桧山先生をぶっつぶそうとした、その魂胆が許せねえんだ。ほおら、嘘だったら言い返してみろ。けっ、てめえなんぞ、所詮杉本とおんなじ人間なんだな」

 つばを上総とは反対側にむけてぺっと吐いた。

「よその先生や二年、三年連中は騙せたかもしれねえな。けど、俺は騙されねえからな」

 ぐいと一歩、顔と顔すれすれまで近づかれた。鼻をこすりすぎたのか、真っ赤なトナカイ状態だ。

「嘘じゃねえんだろ。本当のことだろ、嘘だったらここではっきり言えるはずなのにな」

 ──なんでそこまで知ってるんだよ、お前は。

 一年前の上総だったらもうがまんできず泣き崩れていただろう。グラウンドにひれ伏して許しを請うていただろう。そうしなくてもいいだけの時間が経っていたのが救いだった。

 ──本当のことなんだ、仕方ない。

 静かに聞こえるよう、答えた。

「ああ、本当のことだ。微妙な違いはあるけれど、桧山先生が言ったことは本当だ」


 想像していたよりも新井林は冷静だった。ふんふんとあごで頷いた。

「じゃあ、なんとかしろよな。桧山先生は今、てめえと杉本の汚いやり方によって、学校追い出されそうになってるんだ。本当のことをたまたま口滑らせただけでだ。あの先生くらいだ。男としてふつうのことしてるのは。それを、あんたが自分の身を守ろうとして、自分にみっともないことをばらされたくないからって言って、自分の担任を使ってつぶそうとするんだもんな。やり方、こういうのを最低っていうんだぜ。俺より一年早く生まれてるくせにな、分かってねえのかよ」

 ──たった一年差か。背はまったく足りないのに。

 見上げられない。足元の上靴を見つめたまま同じ口調を保とうとした。

「そのことについては、俺は言い返すつもりはない」

「ふうん、認めるんだ。本当のことって認めるんだ」

「だけど、それは俺のことだけであって、杉本とは関係ないだろ」

 杉本、と名前を出したとたん、なにかが吹っ切れた。首筋に溜まっていた血が流れ良くなったみたいだった。

 ──今、なんのために俺は来てるんだ? 杉本のためだろ?

 ──俺が馬鹿だとかなんだってのは、どうでもいいって。いいかげん甘ったれるんじゃない。

 最後の言葉は、自分ではなく、影の声に似ていた。すっくと顔を上げて新井林と対峙した。


「噂された通り俺は生まれつきの馬鹿だから、他の人たちと違って指使わないと計算できないとか、九九を言うのがやっととか、そういうところがあるのもわかっている。それは認める。そういう関係で、専門の施設に通ったことがあるのも本当のことだ。だけど、それは俺自身のことであって、杉本とは関係ないはずだ。俺についていろいろ言われるのはもう慣れているからかまわないけれど、それと杉本を重ねるのだけはやめてくれ。杉本をこれ以上、関係ないことに巻き込むのだけはやめてくれ」

 言いたいことをまず言い切ること。杉本と重なりそうな自分を振りきった。

「じゃあ自分でかたを付けろよ。桧山先生の言ったことが本当のことだから、意味不明の自宅謹慎処分を解いてやってくれって、あんたの担任使って頼み込めよ」

「それは、もちろんする。それは俺が悪いから」

 ──負けるな、目をそらすな。

 言い聞かせれば言い聞かせるほど、全身が震える。おなかのそこから熱くなっているのに、寒い。新井林はまったく動じない様子。片手を大きく回し、ぶつかる寸前まで持ってきた。気弱になりそうで視線が自分でも定まらないとわかる。

「過去も同じような汚いやり方で、本品山中学の浜野さんをつぶしてきたそうじゃねえかよ。女を追いかけまわしたり、清坂先輩と羽飛先輩に取り入ったり、本条先輩にごますったりってな。あんたの噂、青大附中内に鳴り響いてるんだけど嘘と言い切れるのか、てめえは。そんな裏で手を回すようなやり方をするのは、人間として最低じゃねえか」

 ──いったいどこでそんなこと、聞きつけてるんだよ。

 のどにたんのでかいものが詰まってきそうだ。

 思い当たるふしは、ある。

 誤解されたままでもいいと、そのままにしてきた噂もある。

 悪意はなかったけど、たぶん本音はそうだったのだと思う自分の行動も否定できない。

 ──そうだよ、俺は人間として、最低だ。

 ──見捨てられたくなくて、人の顔色ばかり見て生きている、最低人間だ。

 顔を上げたら今度こそ泣いてしまう。それだけは避けたい。下を向いたまま、それでもいわなくてはならないことを言わなくては。上総は必死にこらえた。新井林にむかってではなく、そばでふらついている雪虫にむかって訴えた。


「新井林、俺のやらかしたことについては言い訳しない。けど、これだけは言わせてくれ。なんでお前、杉本の気持ちを知っててあんなこと、言ったんだ? あれは反則だろ。杉本は必死なんだ。信じられないかもしれないけど、杉本はお前とふつうに必死に話をしたかっただけなんだと思うんだ。ただ、それがどうしてもうまくいかないというか、言葉が通じなかっただけなんだ。許してやれとは言わない。杉本をこれ以上追い詰めないでくれ。お前や佐賀さんに迷惑をかけないですむどんな方法でも考えるから」

「追い詰めてなんていねえよ。あの女が勝手にちょっかいかけてくるだけだ」

 ──うそつけ! いやってほど杉本の思いがどんなものか、わかってるくせにだろ!ローエングリンだってわかってるんだろ!

 唇を引き絞って新井林を凝視していた杉本梨南の瞳を、上総は知っている。

 知らない不利しているなんて、許せなかった。でも耐えた。勝ち目はない。想いを振りきれない杉本の負けだ。

「わかってる。その話はよくわかる。でもあのままだと杉本は自分を追い詰めてしまうかもしれない。自分ではどうしようもないって気付いてないんだ。けど、きっとあとで後悔する。どうして自分でそうできなかったのか気付いて泣くしかないんだ。そういうもんなんだ。だから」

 ──俺がそうやって、ずっと泣いてきたから、そうなんだって。

 ひとつ、またひとつと記憶がよみがえる。雪虫の数より多いかもしれない涙の過去。

杉本梨南もきっと同じだと、上総は確信している。


 新井林はまったく動じなかった。足をしっかと地面につけて、身動きせずに聞いていた。

「じゃあ、聞くけどな。あんた、小学校の頃にいじめられてきた奴らに同じこと言われて、許してやってくれって言われたら、許せるのか?」

「許せるって、なにを」

 力の抜けた顔のまま、新井林の鼻を見つめた。赤い。

「あんたが言ってるのはそういうことさ。情け、かけられるのかよ」

「新井林、どういうことだ」

「勝手に自分がいじめられたと思い込んで、犠牲者ずらして、結局努力もしねえでかわいそうがっているなんて最低だな。男としてまずみとめられねえよ。いったいあんたのどこが良くて、本条先輩は評議委員長になんか指名したのか、俺には理解できねえよ」

 ──お前に敬語遣わせられない俺なんか、指名されるべきじゃなかったんだ。

 本条先輩の冷たい態度がひしひしと染み渡る。

「そうだな、俺も自分でそう思う」

「ふうん、認めるのかよ。俺はな、杉本の頭が生まれつきおかしかったとしても、それはそれで人の個性だと思う。勝手にしてろってんだ。ただ、まともに生きている俺たちに向かって、よけいなことをしたりするのだけはやめろって言ってるだけだ。俺や佐賀のように普通のことをして普通に話をしている奴に対して、異常なやり方でかみついてくるのだけはやめろってだけだ。それぞれてめえみたいな汚い同類同士でたむろってろってんだ」

 繰り返した。それしかできない。

「だから杉本も必死なんだって」

「必死ならせめて俺たちとかかわらないようにしてもらえればいいだけのことだ。だから俺はいじめもしない、他の男子たちにも手出しさせないように命令させてるってんだ。普通の世界ではそれが常識だ。当然のことだ。本当だったらとことんリンチされても仕方ないことをあの女はしているが、それでも俺たちが手を出さないのは『紳士』でありたいからだ。文句あるか。あの女がいじめている事実を桧山先生は認めてくれたしな」

「ああ、わかるよ新井林。だから佐賀さんに対することについては、俺も納得する」

 もう最終通告を待つしかない。言葉があがあがとひっかかる。新井林は唇を一度、真一文字にした後、一声怒鳴った。

「あんた、そこまで認めるならな。あの女を黙らせて見ろ」

 ──黙らせるって、いったいなんだよ。

 無駄だとわかっていても、上総は尋ね返すしかなかった。

「黙らせるって、どういうことだ」

 口元にかすかな笑みが浮かんでいる。残酷な表情だ。新井林は上総の言葉を一切受け付けてはいなかった。精一杯訴えれば心が変わるかもと、かすかな期待を持ってはいた。杉本をもしかしたら、大目に見てくれるかもと思っていた。でも、上総がかつて、品山小学校時代にやろうとしてできなかったことを新井林に求めることは無理だった。

 ──俺も、まだ浜野を許していないんだ。

 もう過ぎ去ったことなのに、棘が抜けない。雪虫のように、忘れた頃に飛んでくる。


 一方的に新井林はまくし立てている。

「色仕掛けであろうが、殴ろうがそんなの勝手にしろ。それができたら俺はお前のことを先輩として認めてやるぜ。必死にかばおうとして、相手に振られて、それでいて自分の相手におべっかつかうなんていい根性だよな。へこへこ頭下げている暇があったら、あの女を黙らせろ。どうせそんなことできるわけねえのにな」


 しばらく上総は口を閉ざしていた。目の前で罵倒してきた奴は、一年B組・新井林健吾だ。上総にとっては評議委員会の後輩だ。完全な「男」としての理想体。運動抜群、頭脳明晰、バスケ部の次期キャプテンかつ、もしかしたら次期評議委員長。

 ──あいつにそっくりだ。

 品山のサイクリングロードから、小学校卒業式後に、決闘でけりをつけた相手に。

 ──もう、あいつに締められるなんて、もういやだ。

 あやうく叫び出しそうだった。


「わかった。新井林。もし、杉本が一年B組の迷惑にならないようになったら、のことだが」

 もう正面から顔を見据えられない。横目で新井林の様子をうかがいながら。

「放課後、茶室の陰でお前を一発殴らせろ」

 口が勝手に動いていた。叫ばないかわり、泣かないかわりの言葉だった。


「ふうん、一発でいいのかよ。もしも条件みたしたんだったら」  

 上総の鼻先にゆっくりと、右の拳骨を、親指出した格好で突き出した。予想通りといわんばかりの態度。精一杯の虚勢すら、この一年男子評議委員にはお見通しなのだろうか。眼の奥が痛くてならなかった。

 強めの握りこぶしが、岩石模型のきりたったものに見えた。とんがっていて、握ると痛そうだった。

「腕力の差もあるし、俺がぶっ倒れるまで殴ってよしだ。できればな」

「その言葉、忘れるな。もう、五時間目が始まって二十分経っている。さぼるなり教室に戻るなり、勝手にしろ」

 あわてて自分の時計を確かめる新井林。

「やべえ、もう五時間目かよ!」

 振り帰りもせず、ばたばたと体育館の扉を開き、姿を消した。新井林が明らかに動揺したのは、今の一言だけだった。


 上総は背を向けた。すでに腕時計を覗いた段階で、今日の五時間目国語の授業をさぼることは決めていた。教室には六時間目の休み時間に戻るつもりだった。

 ──勝ち目ないって、わかってるくせに、俺って何やってるんだよ。

 降り掛かる雪虫をそのままに、ひとりグラウンド奥の体育器具室で時間をつぶすことにした。火の気はなくとも外で突っ立っているよりは暖かいだろう。

 自分の右手でこしらえた握りこぶしは、赤らんでいる花崗岩のよう。華奢過ぎた。雪虫と同じく指先でつぶされるだろう。上総はもう一度真っ白い空を見上げた。

 

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