その6 隠し事を知られて
評議委員会が再開された。本条先輩は相変わらず一年にやさしく二年に厳しい態度を崩さなかった。厳密に言えば上総にのみ、と言うとこだろうか。
「ほれ、『奇岩城』の進行状況はどんなだ。立村、ちょっと来い」
上総は黙って、教壇の本条先輩のもとに向かった。
シナリオは一週間かけて仕上げた。どうせ去年の「忠臣蔵」もそうだったけれども、劇が進むにつれてどんどん内容が変わるものだから、がっちり作り上げなくてもいいと思っている。
「だいぶ進んだか。けどなんだ。まだ二年だけでぐちゃぐちゃやってるのかよ」
「一応、シナリオと配役だけでも固めてからにしようと」
間髪入れず、額を平手ではたかれた。みけんを切られるって奴だ。前髪の上から押さえた。教室にはまだ一年も、二年もうろついているのに。幸い新井林は去った後だった。
「なあにねぼけたこと言ってるんだ。いいか。衣装とか音響とか、そんなんは冬休みに集中してやっても間に合うだろ。機材だってどうせ結城先輩のとこでおねだりすればすむことだ。だが、それまでにやることがあるだろ。まずは、意思統一だ」
「でも、まだ形が固まってないし」
「いいかげんにしろ。ちょっと来い」
さすがに人前で声を荒げるのもまずいと思ってくれたのだろう。廊下に片腕取られて引っ張り出された。
「いいか立村。あいかわらず新井林とたらたらやっているようだがなあ、いったい進展あったのか。奴とは」
「進展って」
胃液が上がってくるような記憶。生徒相談室のこと。
先週の一年B組評議ふたりを取り囲んだ騒ぎのつれづれを。
「先輩、あの、桧山先生になにかお話し」
言いかけてまた、耳をはたかれた。ごわっと響く。
「黙れ、今は俺の質問に答えろ」
本条先輩は、唇の端をなめながら舌打ちした。
「さっきも見たけどな、杉本にもあっさり振られてるじゃねえか。ありゃま、どうした」
──余計なもの見るなよな。
舌打ちしたいのは自分の方だった。評議委員会終了後、、何も言わずに背を向けた杉本梨南に、
「杉本、ちょっと待ってくれないか。あのさ」
声をかけたもののあっさり無視された。戸口まで追いかけてもう一度同じ言葉をかけると、一言。
「先輩には説明する気ありませんから」
冷たくあしらわれた。周りの女子たちが顔をしかめていたのが印象的。みっともないったらない。彼女がいるのに後輩に手を出そうとして振られている情けない男と思われているのだろう。くさくさする。
詳しい事情を説明する気にはなれない。上総は振り切った。
「そんなの関係ありません。それより」
「なんでごまかそうとするんだ。新井林もあいつ、できた奴だから何にも言わなかったが。いったい何が好き好んで杉本なんかに手を出したがるんだ」
「『奇岩城』とは関係ないでしょう。俺はただ、今の段階でいきなり一年生に話を持ちかけるのは早いと思うだけです」
「ほおなるほどな」
あざとく流された。
「もう少し、お前がどういう手を打つか、見せてもらうとするか」
──どうすればいいかわかんないってさ。
いつもだったら本条先輩に甘えてすべて腹の中から相談するのが常だった。
八月末の、二年クラス宿泊研修の、あの時までは。
策略を練り上げ、大嘘ついてバスから飛び降り、明星美術館に駆け込んだ日。
決行前夜、上総はご意見頂戴したくて本条先輩へ電話を入れた。計画を実行すべきか、それとも別の方法を考えるべきか。あの時本条先輩は、「やめとけ」とやんわり制止してくれた。でも結果、上総が選んだのは本条先輩とは正反対の行動だった。
はたしてよかったのか悪かったのか、判断はまだ出ていない。菱本先生に張り倒されたり、貴史や美里と揉め事起こしたりと、後遺症はかなり残った。けど、上総自身はバス脱出以外のどんな方法も取れなかったと信じている。本条先輩の意見以外の方法でないと、どうしようもなかった。
今思えば、二学期に入ってから自分の中で、本条先輩との間に一線を引いてしまったような気がする。もちろん、ひまな時には三年A組の教室でだべったり、卓球場でこてんぱんにやっつけたり、同級生たちには言えないことを相談したり、いろいろやっている。でも、口を開こうとすると、何かが押しとどめるようになったのも、二学期からだった。
──先輩は、公立へ行くんだ。
七月に、上総にだけ打ち明けてくれた、公立高校進学。
なにかあれば「俺ばかりに甘ったれてるんじゃねえよ」と突き放すような言い方をされ始めたのも、夏休みに入ってからだ。同期の二年たちともっと猥談に燃えろとか、もっと一年とうまくやれとか……そうだ、新井林との折り合いについて文句言われ始めたのも同じ時期だった。
──本条先輩から離れなくちゃいけないってわかってるさ。だから距離置くようにしてるじゃないかよ。
でもできない。置けない。
特に評議委員長への指名を公認でされてからは。
できるだけ本条先輩にべったりしないように、距離を置いたつもりだった。厳しく接してくるのは望むところだたはずだ。
望んだものが麻酔なしの手術みたいな痛みを持つことを、上総は気づいていなかった。
玄関ロビーで待っていたのは、杉本梨南ではなく、美里だった。試験が終わってからなかなか一緒にいる時間が取れなかった。貴史にも「美里、めちゃくちゃこええぞ。立村、もう少しなだめてやってくれよ」とつつかれていた。
「立村くん、今日は一緒に帰れるよね」
本条先輩に小突かれていたのを見られていたのではないだろうか。上総はまじまじと美里の口元に知ったかぶりのあとがないかどうか確認した。幸い、なんでもなさそうだった。美里はコートの襟を直し、ほっとした表情を見せた。
「なあんかね、先輩たちって、自分たちのできないことを私たちにさせようとしてるじゃない? それってずるいよね」
──聞いてたか、やっぱり。
「だからさ、立村くん、気にすることないよ。なんか本条先輩も、公立高校の入試関係でぴりぴりしてるだけじゃないの」
「あの人、合格間違いなしだろ。それはないよ」
「なら、いいけど」
小さく口を尖らせ、美里はすぐに話を変えてくれた。
同じ二年D組のねただったら、馬鹿話やらいろいろな問題やら、先生への悪口やら、話すことはたくさんあったから。
──付き合う、って、こういうことだけなんだろうか。
ここ数日、食欲のない日が続いている。
はっきり杉本に言われた言葉がまだ、耳に残っている。
──立村先輩も、ばか男子の一人だったのですね。
堪えた。
新井林を代表とする男子連中のひとりだったら、たぶん「あの馬鹿女が、けっ」とつばを吐きかけるだけですんだのだろう。誰に相談しても、みな同じく「じゃあ無視しちまえよ。馬鹿は馬鹿なんだから」で終わるだろう。
そうできないから、上総は迷う。
どんなに杉本の言葉がつめを立てるものであっても、決して憎しみや怒りにつながるものではない。杉本に対してだけだった。無理やり「この人は善意で言っているんだ」と、心の変換装置を使用しなくても伝わってくるなにかがある。
──やはり、俺がこうするしかないのかな。
美里の、だいぶ伸びた肩の髪を眺めた。いつもながらつややかだ。上総には過ぎた彼女だと、みなが言う。もっともだと思う。もっとふさわしい相手がたくさんいるはずだと、上総も思う。それなら、やはり。
──なに考えてるんだ、俺ていったい。
慌てて肩をすくめた。今回の実力試験トップ争いを話題にしているはずなのに、頭からひとつの考えが離れない。
──当たり前だろ、杉本は最初から俺のことなんて、付き合いの対象外なんだから。最初からわかってるはずだろ。問題解決のためにいきなり、付き合ってくれなんて言ったって、完全に軽蔑されるだけだろ。いったい俺、何考えてるんだかな。
土日かけて「奇岩城」シナリオに没頭していた間、ちらっと思い浮かんだ案だった。
美里には申し訳ないけれども、一度「つきあい」を清算してしまうことを。
そして一度、杉本梨南の「付き合い相手」として、新井林と同じ立場を取り、話し合いを持つというのはどうだろう?
たぶん新井林は上総を、「頭の悪い次期評議委員長」としか受け止めていない。「こんな奴」と軽蔑しきった表情でもってつばを吐きかけるだけだろう。しかし、「問題かかえた女子とのつきあい相手同士」ということだったら、上下関係なくすんなり話し合いに持っていけるのではないだろうか。
新井林を基準にして話を進めないと、どうしようもない。
しかし、肝心の杉本本人が上総のことを「つきあい相手」としては絶対に認めないだろうことも予想していた。なにせ、「ローエングリン」とは正反対で「不細工・頭が悪い」の評価を下している上総なのだ。先輩で、杉本のことをかわいがっているから敬語を使ってもらえるけれども、そうでなかったら徹底して軽蔑されていることだろう。
それに上総も、恋愛という感情がよくわからない。
杉本を、今まで美里と同じ感覚で接することはできるだろう。一緒に学校の行き帰りを歩いたり、今まで通りに「おちうど」へ連れていったりくらいはできるだろう。でも、美里だってかなり上総に対して不満を持っているはすだ。美里の求める「つきあい」ができているとは思えない。それを、ただ「クラス問題のため」にだけ「つきあい」という方法を利用するのは、それぞれの女子に対して失礼なのではないだろうか。
──恋愛感情なんて、わかんないよ。そんなの。
すぐに破棄した案だった。
「久しぶりだし、ね、ソフトクリーム食べていこうよ」
この冷え込む中、何が楽しくて、と言いたいのを我慢して上総はついていった。大型スーパー「リーズン」にてソフトクリームを注文し、テーブルについた。
「なんか立村くん、追試続きで疲れ切ってるって感じだよね。大丈夫?」
「おかげさまで」
店の中は暑いくらいで、ソフトクリームの丸まった先が落ちそうだった。急いでかぶりついた。美里は食べるのが早い。ミックスソフトをあっという間に食べ尽くしている。
「早いなあ。清坂氏、アイス関係を食べるのに限っては」
「立村くんが遅いのよ。早く食べないと溶けちゃうよ」
「食欲ないんだ。余裕あるなら食べるか」
「もーらい!」
スプーンを持ってきてもらい、美里は電光石火の早業であっという間に平らげた。
「でね、立村くん、テスト終わってからめちゃくちゃ暗いんだけど、別に言いたくないんならいいよ。ただ、私にできることあったら言ってね。ほら、最近だと杉本さんのこととかあるでしょ」
わざわざ切り出してくれるとはありがたい。上総はため息を遠慮せずついた。
「鋭いな」
最後はコーンも、「食べていい?」と確認した後、かりりと食べきった。すごい食欲である。
「この前もね、こずえが言ってたよ。立村くんが杉本さんのことでいろいろ悩んでるって」
──あの人、口、軽すぎ。
美里には内緒にしようと言ってくれたのを丸のみした自分が馬鹿だった。唇をかんでガラス張りの外を眺めた。
特に何かを感じたわけでもなさそうで、美里は続けた。
「まあね、みんなが言う通りだとは思うんだけどね。でも、立村くんが真剣に悩んでいるってことは、相当大変なんじゃないかなって、思うんだ」
「いやそんなことないよ」
テーブルに、使い終わったスプーンを垂直に立て、片手は拳固で上総に向かった美里。
「あのね、立村君。もし、杉本さん関連のことで困っているんだったら、二年女子が味方に立つから安心してね。みんな、あの子のこと大好きだし、守ってあげたいって思ってるんだから。でも、勘違いしたらだめだよ」
「勘違い?」
言われている意味がわからず問い返した。
「立村くんって、女子たちの立場わからなくて変なことしそうで怖いな。つまりね、もし杉本さんのことで、新井林くん敵なやり方で守ろうなんてしたら、もう、えらいことになるからね」
「新井林的やり方って?」
「やっぱり鈍感だなあ。ほら、佐賀さんがなんで、女子たちから顰蹙買っているかってこと。新井林くん、一生懸命なのはわかるけど、あれじゃあ、逆効果。言ってあげたほういいよ」
「いや、あれは、つまり」
美里の手はまだ握り締められたままだ。
「わかるでしょ、ね。だからよ。一年B組の女子ってたぶん、新井林くんみたいな彼氏がいないと思うんだ。あんな風に一途に守ってくれる人なんていないよきっと」
「俺はその点、失格だな」
ぽそりとつぶやいてしまい、慌てて飲み込んだ。
「いいよ、立村くんは一生懸命だから。でもね、佐賀さんだから、みんながやっかんでいるのを無視して、しゃんとしてられるけれども、杉本さんはそういうのに耐えられないと思うんだ。難しいよ」
「難しいって」
「だから、私が言いたいのは」
とんと、スプーンを握った手を、テーブルに打ち付けた。
「立村くんがたったひとりで、杉本さんを守ろうとして、たとえば彼氏っぽくなったりとか、そういうことをしてもだめってことよ。いい? 女子のことはね、女子が一番よく知ってるんだから。なんでも相談してよ。新井林くんもねえ、佐賀さんが無視されてしまっているのは、本人が目立っているからなんだって、どうして気づかないのかなあ。ね、そう思うでしょ」
上総は、コーヒーを一杯おごることにした。
──女子のことは、女子が一番知ってるか。
「それはありえないよ。清坂氏」
無理に上総は笑いかけた。
「だってさ、杉本は俺のことを不細工かつ頭が悪いってことを断言してるんだ。もっといい奴一杯いるって」
心なしか、美里の手は緩み、開いていた。
「そうか、杉本さんの好みがあるかあ」
次の日は茶道の稽古などでばたついた。茶室の掃除をはじめ、花器、茶碗の洗い物など、評議委員らしくない仕事で忙しい。
本条先輩にあてつけるわけではないけれど、上総なりの解釈でシナリオはほぼ完成した。あとは二年連中にまわして、感想をまとめて最後に一年へ見せる、という方向で行こうと決めた。コピー室に行かなくてはならない。
──表紙、清坂氏あたりにイラスト書いてもらおうか。
深い意味はない。別に表紙に凝って、完成を延ばそうなんていう姑息なことは考えていないつもりだ。まかりまちがっても新井林に「高校生探偵イジドール」役を当てなくては行けないという問題と、向かい合いたくないからではない。
一年B組の廊下掲示板には、でかでかと「青大附中スポーツ壁新聞」が張り巡らされている。一枚だけではない。模造紙三枚使っている。ねたは相変わらず負け戦情報だけども、だんだんイラストとか、小さな写真とかが混じってきている。字は読みやすい丸文字だった。
二年の間でも話題となっている。休み時間、読みに行くためにわざわざ一年の廊下へ出かける奴も増えている。菱本先生も最近、朝の会などで褒め称えることが多くなった。無視決め込んでいない。ちゃんと上総も定期的に見るよう心がけている。
──俺だったらもっと、小さく、コピー誌の形式で配るかなにかするだろうな。せっかく評議委員の特権でコピー室ただで使えるんだ。そうすれば玄関なんかにおいて勝手に持っていったりできるだろうしさ。
このくらいの助言ができるなら、うまくいくんだろうが。ぼんやり思った。
一通り片付けがすみ、給食が終わり南雲と「全独ヒットチャート100」についての意見交換をしていた。貴史はすでに体育館でバスケットボールに興じているのだろう。間に合うようだったら混ぜてもらうつもりだった。この辺、南雲とは別行動になる。難しい人間関係である。
「あれ、りっちゃんの後輩ちゃんが来たぞ」
言い方が妙にひっかかる。扉に首を覗かせているのは、黒髪をひとつにまとめ白いショールを肩にかけている女子一人。そういうのは一人しかいない。杉本梨南だ。
「あ、杉本、来たんだ」
言葉がひっかかりつつも、柔らかく立ちあがるようだった。上総は手招きしようとした。杉本はじっと上総を見据え、すぐに扉を閉めた。
「ちょっと追っかけてくるよ」
「ほんと、評議も大変だよなあ」
同情のムードたっぷりの南雲を置いて、上総は廊下に出た。
まだ杉本は廊下で立ち尽くしていた。
「いやな言い方でごめん、あの、この前のことだけど」
「立村先輩にはお話しすることはありません」
くいっと唇をかみ締めたまま答えた杉本。でも委員会の時よりはまだ、甘い感じが残っている。ちょっとくらいなら話しても大丈夫というサイン。すぐに背を向けないで上総の顔を見ているところから明らかだ。
「用があるのは清坂先輩にです」
「あ、そうか。清坂氏は今いないかな」
「お会いしてお話ししました。立村先輩とはもうお話ししません」
いつものように冷たい瞳。でも逃げない。じっと上総の目を見つめて、五つ数えるようにつま先でとんとんと突いた。話せば、聞いてもらえるってことだ。
「俺は杉本に用があるから、何度でも行くよ」
言い残し、上総は自分から背を向けた。ちょっとだけ冷たく見せたつもりだった。
用があったはずの美里はどこに行ったのかわからない。女子たちにはそれぞれ溜まり場があるのだろう。前の日ソフトクリームと一緒にいただいたお言葉によれば、「女子のことは女子が一番知っている」のだそうだ。反対もしかり。上総も男子連中が女子のいない技術室とか、更衣室などでどんなスケベねたをかましているか、まず話すことはできないだろう。男性不信になること請け合いだ。
「それにしても静かだな」
カセットテープの裏にいろいろ書き込んでいる南雲に声をかけた。めずらしく今日は一人だ。奈良岡さんにちょっかいかけるでもなく、他の連中とだべるでもなく。 「りっちゃん、悪いけど英語の訳貸してくれないかなあ」
「いいよ」
ついでに宿題の答えが書き込まれたプリントも渡した。次期規律委員長様は決して、「ノートの貸し借り禁止」などという野暮なお達しをする予定ないとのことだ。
「それはそうと、最近りっちゃん、本条さんとあまりしゃべってないと違う?」
「いろいろお互い忙しいんだ」
「ふうん」
──あれだけべったりしてたくせにって言いたいのかよ。
珍しく南雲にむっとする。かちんと来た。
「いいだろ。どうせ変な噂を打ち消すことになるだろうしさ」
言葉にぴりりとしたものが走った。
「いやさ、評議でやるビデオ演劇のことで、今回規律委員会が衣装関係協力することになってるだろ。遠慮なく言ってほしいなって思っただけだよ」
気づいていないんだろう。けろりと答える南雲。ほっとした。
「ずいぶん情報はやいな」
まだ南雲には、ビデオ演劇の内容が「奇岩城」に決まったことくらいしか話していなかった。規律委員会は裏を返せばファッション研究部のようなもの。おしゃれにこだわりのある連中の集まりだ。もう少し落ち着いてから話すつもりではいたのだが。 「いろいろ噂きくんだけど、りっちゃん」
目を向けずに南雲はつぶやいた。
「気、つかっちゃうとこあるだろ。いろいろと。けど、事務的なことはどんどん先取りして俺の方が言っちゃうから、りっちゃんも遠慮しないでほしいなあ。あ、いざとなったら元気の出る薬を彰子さんに頼んで、保健室から密輸入してもらうってこともできるしさ」
「元気の出る薬を密輸入かよ、怖すぎる」
英語訳を書き連ねたページの隅に、南雲は三本さらりと縦線を引いた。
「一年の男女で、家庭科および縫い物関係パーフェクトって奴が二人いるんだ。最近の規律委員会、いわば手芸部化してるんだ。もし小物関係も頼まれたらどんどんやりまっせ」
「じゃあ、シナリオが完成しだい渡すよ」
答えず南雲は、あくのない笑顔でうなづいた。思わず上総もつぶやいた。
「なぐちゃん、しっぽ振ってるって感じだよな」
結局、昼休みは南雲との語り合いで終わり、チャイムと同時に他の連中が戻ってきた。社会の授業だった。菱本先生の担当だった。面白くないとは言わないが、顔を見るだけでうんざり、しばし居眠りしまくる授業でもある。
貴史が机の前で上総のカンペンケースをつかみ、肩をたたいた。
「立村、わりい、ちょっとこいや」
いつぞやの修羅場を思い出してぞっとするものの、すぐに安心した。怒っていない証拠に貴史はむりやりウインクしている。はっきり言って、無理するなと言いたい。席の後ろにぷらぷら行った。
「お前さ、なんで言わねえの」
軽く切り出された。正真正銘怒っていない。にやっと笑っている。
「なんかあったのか」
「ま、いいけどな。言いたくねえならいいけど、さっきな、美里たちが菱本先生のとこへ行って、お前のことをすっげえ剣幕で話してたんだ。いわゆる、青年の主張ってやつみたいなのりなんだけどな」
美里が戻ってきていないかを見渡す。まだ来てない。
「俺のことをか。なんだろ。そんな話、してたのか」
「お前、知ってると思ってたけどな」
思いっきり首を振った。見当がつかない。
「俺に関係することで清坂氏がかよ」
「当たり前だろ。あんなでけえ声でさ、『立村くんのプライバシーを先生たちが侵害していいんですか!』って叫んでたぜ。あ、美里だけじゃない。古川も一緒だ。お前、別に隠しごとしなくたって、俺とかなあんも思わねえのにな……立村、お前本当に、知らねえのか」
──わからないって。そんなこと言われても。
じいっと射すくめる貴史。
うそついていないので、がまんして見返した。
「もしかして、美里の奴、ひとりで突っ走っちまったのかよ。まあいいっさ。別に悪いことしてるわけじゃねえもんな」
もう一度、今度は平手で腕を弾み良く叩き、貴史は自分の席に戻って行った。
美里とこずえが戻ってきたのはすぐあとだった。
こずえの方が話しわかるだろう。口も軽いし。
「あのさ、古川さん」
一声かけた。なにか言いたそうな顔で指さししようとしたこずえだが、
「こずえ! 変なこと言わないで!」
美里から止めが入った。
「おいおい何だよ。さっき羽飛から聞いたけど、俺のことでまたなにかまずいことあったのか」
「あんたは黙ってな。前科あるんだからね」
わざと美里にも聞こえるように返事するのは止めてほしかった。
「当事者の俺に話せないことなのかよ」
「ばかだねえ。立村、だからあんたはガキだって言うのよ。美里にあとで感謝のプレゼントかなにかしてやんなよ。まったくねえ美里も」
におわせる言い方で好奇心一杯、おなかがすいた。
上総は美里の方を肩越しに眺め、念を送ってみた。伝わっているかどうかは、わからない。
──いったい、俺のプライバシーってなんなんだよ。清坂氏。
かなり顔が赤らんでいる菱本先生の歴史授業は終わった。別に内容でエキサイトしたわけではなさそうだった。美里と一戦交わしたのだろうか。自分が挟まっていると考えると、かなり落ち込みそうだ。
「清坂氏、ちょっといいか」
「知らない」
厳しくつっぱねる。引こうとは思わない。逃げようとする美里の後を追った。 「知らないって何だよ。さっき羽飛が言ってたけど、俺のことで菱もと先生となにかあったのか。怒ってるんじゃなくてさ、もし、また俺が馬鹿なことしてたら、わるいと思って」
十分のささやかな休み時間。美里は廊下に逃げ出そうとする。しつこく追う。
「どうせ、立村くんは知っても知らなくてもいいことなんだもん」
「隠しごとしたがるのはめずらしいな。俺にはさんざん、隠しごとするなって言うくせにさ」
「別に私、悪いことしたわけじゃないもん」
「いや、そんなことしてるって思うわけないだろ。清坂氏のこと、これでも信用」
「どうだか。どうでもいいよそんなの」
押し問答が続いたが、とうとうトイレに逃げられてしまった。さすがに追えない。
しかたなくポケットに両手を突っ込んだまま教室に戻る。
──なんか、わけわからないな、みんな。
隣のこずえにも、もう一度頼んでみたが無駄だった。
「あんた、そういうのは美里から聞きなさいよ。それにしてもねえ」
もやもやしたまま帰りの会を迎えた。こんな気分だと、とてもだが美里と帰る気にはなれない。言い訳してコピー室にこもろうかと決めた。
菱本先生が手ぶらで教室に戻ってきた。相変わらず顔だけゆで蛸状態。
──酒でも飲んでるのかよ。
上総が思っただけではない。他の連中が直接、「先生、ほろ酔い?」と、脳天気な言葉を投げかけていた。無視したのは珍しい。おちゃらけてない。
じっと、上総にひとつうなづいた。いやな予感がする。
視線をそらして美里と貴史、最後にこずえの顔色をチェックした。
「なにじろじろ見てるのよ。ほら、あんた号令でしょ」
あわてて「起立」と一声かけた。
「みんな、今、俺はひとつだけ言っておきたいことがある」
──また、青春ドラマの真似事かよ。
菱本先生が背を伸ばし、目を輝かせてお説教をした時、早く帰ることのできたためしはない。長丁場を覚悟した。
「一度、このことについては話すべきだったと思うが」
上総をもう一度見下ろした。この視線経験がある。夏の宿泊研修後、上総のやらかした事件を総括した時の、あれと一緒だ。
「青大附中において、一部の生徒が、規定の試験を受けて大学の講義に参加したり、芸術関係の科目を受講したりしているのはみな知っていると思う。D組だと、美術の選択授業を金沢が、あと英語関連の授業を立村が、それぞれきちんと試験に通って毎週みんなとは違う授業ととっている」
──そのことでなんかまずいことしたかなあ。
先週なんとか受け取った桧山先生の卒論を思い出した。
「いいか、人の能力というのは、それぞれでこぼこがある。悪いが立村の例が一番わかりやすいと思うのでちょっとだけ我慢してくれよ。立村」
──俺をまたつるしにかけるのかよ。
言い返すのも面倒で、小さくうなづいた。菱本先生はめずらしく無表情のまま上総を見返した。
「立村の場合、一年の頃から英語の成績がずば抜けていた。まあな、一年最初のうちは成績がいい奴も多いんだが、だんだん落ちてきてあらあらってことがほとんどだ。だが立村は語学に関して中学生以上の授業を受けても大丈夫だということが判明したわけだった。だから、二年にあがるまえに試験を受けてもらったってわけだ」
──思い出させるのかよ。たぶん、俺の数学のことで今度は落とすんだな。
聞き流した。言葉を切ってまた、菱本先生は上総を覗き込んだ。他の連中はまだがやがやと関係ない話をしている。
「ちょっとだけだ。まじめに聞いてくれ。だが、立村の場合もうひとつ、大きな問題があった。数学のことだ」
──さぼっている上にどうしようもないって言いたいんだろ。どうせ俺は努力しがいのない数学能力なしだよ。
ののしるのは自分だけで十分だ。うつむいた。
「たぶん、一部の人は、ひとりだけ立村がやさしい数学の問題を渡されていることとかに腹を立てているかも知れない。これは狩野先生とも相談したことなんだが、この点だけは理解してほしいんだ。立村の場合は、さぼって数学の成績が良くないわけではない。努力しても挽回できないいくつかの理由があるんだ。それは立村本人もよくわかっていると思うし、先生たちも理解している」
──それがなんだってんだよ。
足をひっぱられる。中学一年春の、悪夢に引っ張られる。耳をふさぎたい。
「いいか。人間の能力は人それぞれ、でこぼこがあるんだ。金沢はすばらしい絵を書くことができるという才能を持っている。数学が得意な奴、音楽が得意な奴。文章を書くのがうまい奴。いっぱいいる。でもその反面、苦手なところもたくさんもっているはずだ。努力すればクリアできる問題もあるし、単なるさぼりってのもあるだろうな。それこそ、やればできるくせにって奴だ。でも、どうしても苦手なもの、どうしてもわからないもの。たくさんあるはずだ。青大附属では、できるだけみんなの得意分野を伸ばしてやりたいし、苦手分野は少しでも標準に持っていってやりたい。でも、できないことを自覚するのも、必要なことなんだ」
大きく息を吸い、菱本先生は上総に向き直った。説教ラストスパート。体がこわばる。
「立村、たまたまお前は数学という弱点があるよな。でも決してそれは恥ずかしいことではないんだ。人間、卒業すればサインコサインタンジェントなんて、めったに使うことなんてない。だから勉強する必要はないとは言わない。だが、自分に欠けているものが何かわかれば、それだけでも人生、楽になるぞ。立村の場合は、これから先数学と取っ組み合う時誰に助けを借りればいいか、それを勉強することができるからな。自分の得意分野と苦手分野を見極めて、困った時はみんなの助けを借りることが大切なんだ。今のことは、立村だけではない。二年D組のみんな、全員に対してそうだ。でこぼこは、友達、先生、家族の手を借りて、どんどん埋める方法を考えて行こう。そうすれば少しでも、道は開けるはずだ」
両手をぱんと打って、菱本先生はもう一度、「よし」と怒鳴った。
「じゃあ、お疲れさん。帰っていいぞ」
悪いがクラスのほとんど、だあれも聞いていない。
熱血説教は、食らうほどにさめるっていい例だ。
痛いのは当事者だけだ。今回は上総が張本人だった。
──なんだよ、いったい、意味不明だ。
教室がすかすかになるまで上総は席についていた。菱本先生に聞かないとわからないことだらけだった。美里もこずえも、男子連中も廊下に出てしまった。
「あの、すみません。なんか、僕のことでなにかあったのでしょうか」
こういうことでもなければ、質問することもない。天敵なのだ。
菱本先生はしばらくおもしろげに上総の顔を眺めていたが、
「清坂はいい彼女だな。お前、すっかり尻に敷かれてるな」
──こう言うからこの先生嫌いなんだよ!
口をゆがませてるところにぞっとした。
「いいか立村。何度も言っていることだが、数学の授業で狩野先生がいろいろ配慮してくださっていることを恥じる必要はないんだ。クラスの連中に、お前だけえこひいきされているみたいなことを言われても、堂々としていろ。自分ではどうしようもない弱点がある、でもそれは立村上総という人間を否定するものではまったくないものだ。もしなにか言われたり、失礼なことをされたら、ひとりで落ち込むな。そのために俺たちのような教師ってのはいるもんだからな。何度も言うが、忘れてくれるな」
一礼して教室を出た。なにかがにおうが、まだかちりと合わさらない。
一言も話した事はなかった。
狩野先生が特別に、上総に対してやさしい問題を用意してくれていることとか、テストの時は教えてもらった問題の答えだけ丸暗記して書くように言われていることとかを。
一部気づいている奴もいるらしい。
「立村くんって、ひとりずるいよね。やさしい問題もらってるし」
とささやく子がいる。あまり目立ちたくないから隠していた。もちろん美里にも、貴史にも話してはいない。
でも、そうせざるを得ない、自分の能力の問題も、他者から証明されてしまっている。
自分ではどうしようもないことなのだと、一年の春休みに。
──まさか、清坂氏、そのことを。
上総は玄関に向かった。美里を探した。すぐに見つかった。玄関のロビーでふたり、ひそやかな話をしている様子だった。上総を見つけてすぐに立ちあがった。
「清坂氏、もう一度聞きたいんだ」
改まった声でたずねた。
「あーら、なあにあせってるのよ、立村」
こずえのからんとした声が邪魔っ気だ。悪いがどいていてほしかった。
無言で見返している美里に歩み寄った。
「菱本先生と、俺のことで話したって、俺が数学できないことでなのか」
「話、されたんでしょ。それだよ」
美里は短く答えた。まじめな顔だった。口を尖らせていた。
「けど、聞いたならいいじゃない。立村くんだって話したくないことなんだから」
ぴりりと切れている言い方。途切れがち。何度か瞬きしている。早く切り上げたいらしい。
「なんで隠す?」
「あんたがいっつも隠しごとしてるからよ!」
靴箱前のすのこに駆け出そうとするのを、こずえに止められる。
「ほらほら、美里ってば。話がとおってないでしょってば。まったくやだねえ。ほら、立村も冷静になりなよ。私が説明してあげるからさ」
美里の肩を両手でぎゅうっと押した。ロビーのいすに座らせた。上総も隣に座るよう視線で命令された。こずえ姉さんの言葉には逆らえない。座った。ひとりでにやつくのだけはやめてほしい。
こずえはリコーダーをかばんから取り出し、剣道の竹刀を持つようにして上総に向かった。
「ちょいと、立村、あんたなんもわかってないねえ。聞いてないんでしょ」
「なんどもさっきから俺が聞いていただろ。まったく何がなんだかわからないってさ」
「つまりね」
腰に手を当て、リコーダーをマイク代わりにこずえはポーズを取った。
「けさ、たまたま杉本さんに会ったのよ。昨日の一年B組帰りの会でまた桧山先生と一戦交わしたらしいけどね。なんとそのときに、杉本さんに『精神科に行け』みたいなこと言われたらしいのよ。むかつくよねえ。詳しいこと聞いてないけどさ。その時に、『君の大好きな先輩もそういうところに通っている』みたいなことまで言われたらしいのよ。杉本さんの大好きな先輩といえば、私とか美里とか、あとあんただよね。杉本さん、かなり頭に来たらしいんだ。自分のこともそうだけど、立村、あんたのことが一番心配だったみたいだよ。『立村先輩を侮辱しています。お付き合いされている清坂先輩にこれは報告すべきだと思いました』って。それで、すぐに新井林あたりから裏を取って確認してさ」
「新井林から裏ってなんだよ」
こずえはにやにやしてさらにリコーダーを上総ののどもとに突き刺そうとした。両手で受けた。
「美里が心配してるから、教室に行こうとしてた新井林を捕まえて、いろいろ聞いたのよ。やっぱりそういう会話があって、桧山先生がかなりエキサイトしていたのは確かだってね。まあ立村も、いろいろ事情があったんだなあと私らは思うけど、そうそうべらべらしゃべっていいもんでもないと思うんだよね。2D正義の味方たる私たちは、即、昼休み、菱本先生のところにいって抗議してきたわけよ。『立村くんの隠しておきたいプライベートなことを一年生に話すなんてよくないと思いまーす!』ってね。菱本先生熱血だから、かなり怒ってたよ。やっぱりお説教で燃えるかなあとは思ってたけどね。やっぱりねえ」
こずえが一方的にしゃべりまくっている間、隣の美里を横目でそっと眺めやった。目が合った。
「私、悪いこと、してないんだから」
すぐにうつむき手を握り締めた。美里の横顔が、ほんの少し、ほてっていた。